13

「ツェツィーリアさまッ!」

 まったく今日はよくこの名を叫ばれることだ、とツェツィーリアは指先でこめかみと額を押さえた。頭痛を堪える彼女の目の前では、ベルタが頬を真っ赤に染め、身体の脇で両の拳を震わせている。

「いったいどうなってるんですかッ!」

 そんなこと私が知るものですか、とツェツィーリアは思った。指示された時間までにエリシュカの支度を調え、彼女に最後の晩餐をとらせ、いざ王太子の部屋へ出向こうとしたそのとき、なんと先方から迎えがやってきたのである。

 それだけのことであれば、ベルタだってこんなふうに興奮したりはしない。王太子妃は結婚後はじめて夫の寝所をおとなうのだ。道に迷わぬよう、夫が気を利かせたのだと考えればなにもおかしなことはない。

 白い婚姻の名のもとに、公の場にあってさえ視線も交わさぬほどに冷えきった夫婦のあいだに、そうした細やかな気遣いがなされるかどうかという根本的な問題はさておき、いまのツェツィーリアの困惑の原因はほかにある。その使者があやまたず彼女の私室を訪れた、という事実だ。

 王太子殿下は妃殿下をお召しになったのだ。使者は当然、姫さまのお部屋へ行かなくてはおかしい。

 だのになぜ使者――王太子付筆頭侍女デジレさま――は姫さまの第一侍女たるこの私の私室を訪れたのだろう。姫さまの傍らに侍っていた者にそれとなく確かめたが、姫さまの私室をデジレさまが訪れた様子はない。

 第一、もしもデジレさまが姫さまの私室を訪れていたのなら、彼女が私たちの企みに気づかぬはずがない。王太子殿下がお召しになった妃殿下の代わりに、卑しい身の上の侍女を差し向けるなど、言語道断の極みであると騒ぎ立ててもおかしくはないところだ。

 そもそもツェツィーリアは、せめて王太子の寝所までは自分たちがエリシュカに付き添うべきである――同時に、そのときが来るまでこちらの企みが暴かれることのないように――と考え、デジレに宛てて、出迎えは不要、との伝言を発していたのだ。

「おかしいですよッ」

 わかっています、とツェツィーリアはベルタを制した。

「わかっているから考えているのです」

 ベルタがツェツィーリアと同じ疑問を抱くのは当然のことである。ましてや彼女はエリシュカに対し、深い思い入れがある。喚きたくなる気持ちもおおいに理解できるが、いまのままではこちらの思考がまとまらない。

「ここでいくらあなたと顔を突き合わせていたところで、真相などわかるはずがありません」

 ツェツィーリアはごくもっともなことを云い放つと、不意に立ち上がった。ベルタが驚いて口を噤む。彼女は、静かになさい、と何度ツェツィーリアに叱られてもめげることなく、これはどういうことか、と騒ぎ続けていたのだ。

「いまから確かめてきます」

「いまからですか」

 ええ、とツェツィーリアは頷いた。王城に住み込む者たちは、不寝番や夜警などの勤めに必要である場合を除き、夜間に私室あるいは寝室を出ることを禁じられている。とくに妃や寵姫、侍女たちには厳しい監視の目が向けられており、ツェツィーリアとて例外ではなかった。

「私には危急の折にのみ許されている特権がありますからね」

 王太子妃付第一侍女であるツェツィーリアには、緊急時にのみ夜間外出の禁を破る特権が与えられていることは事実だった。たしかに騒いだのは私だけど、とベルタは驚いた。そこまでするほどのことなのだろうか。

「エリシュカは、あるいは今夜を過ぎても命をながらえるかもしれません」

 ツェツィーリアの意外にすぎる言葉に、ベルタは目を見張った。

「どういうことですか……?」

「しかし急いで手を打たねば、国に帰れなくなってしまうことに変わりはない」

 ですから、とベルタは焦れた。

「どういうことかとお訊きしているのです」

「いまは説明している時間がありません」

「で、でも、どちらへ……」

 デジレさまのところですか、とベルタが問うも、いいえ、とツェツィーリアは首を振ってこれを否定した。

「あの方にお尋ねしてもなにもお答えいただけないでしょう」

 真相をなにもかも知っていたとしてもね、とツェツィーリアは心の裡で付け加えた。

「では、どなたのところへ?」

 そうして尋ねて返ってきた答えに、ベルタは仰天させられる。

「オリヴィエ・レミ・ルクリュさまのところです」

「王太子殿下のご側近ではありませんか!」

 そうです、とツェツィーリアは静かな眼差しをベルタに向けた。

「なぜ、彼に?」

 ベルタの問いにツェツィーリアはその場では答えようとしなかった。時間がないのです、と云う彼女に、ベルタがそれ以上食い下がるわけにもいかない。

「あなたはここに残り、おとなしくしていなさい。落ち着かない気持ちはわかりますが、あなたが出歩いてことをややこしくすれば、事態はますます混乱してしまいます。私が戻るまで部屋の灯りを絶やさずにおくのですよ」

 姫さまやほかの者たちには私がずっとここにいたように思わせねばなりません、というツェツィーリアの無言の命令にベルタは頷いた。

 ツェツィーリアはベルタに向かって、よろしい、と声をかけると、侍女の仕着せの上に黒いガウンを羽織り、燭台を手にすると部屋の扉をそっと開けた。廊下に控えている騎士が音もなく歩み寄ってくる。

「……侍女どの」

 咎めるような声に、ツェツィーリアはあえて厳しい声で応対した。

「急ぎの事態です。王太子殿下のご側近、オリヴィエ・レミ・ルクリュさまに至急お目にかかります。ご伝言と案内を頼みます」

「ルクリュさまに?」

 王城のなかでも王太子妃付侍女の部屋が連なるこのあたりは、王城警護騎士団の管轄下にあり、オリヴィエの属する近衛騎士団とは無関係である。それでも知恵者をもって名高いオリヴィエの名を知らぬ騎士はなく、そのときの夜警もまた同じであった。

「侍女どのがルクリュさまにいったいどんなご用件で?」

「それをあなたにお話しすると思いますか」

 氷の女の二つ名に相応しい声音でツェツィーリアは云い捨てた。

 侍女と騎士との地位に明確な上下関係はない。だが、ツェツィーリアは王太子妃付第一侍女である。その彼女が緊急事態だと云い張るものを、一騎士にすぎぬ夜警はそれ以上問い詰めることができない。

「お供いたします」

「頼みます」

 騎士に部屋内を覗き込まれないようにしながら扉を閉めたツェツィーリアは、しっかりとした足取りですぐに歩き出した。

 まさかとは思うが、と騎士を従えるようにして冷えた廊下を歩きながら、ツェツィーリアは素早く思考を呼び起こした。

 それは、王太子付筆頭侍女デジレと顔を合わせてからずっと、ツェツィーリアの脳裏に燻っていたものである。――まさかとは思うが、王太子殿下は最初からエリシュカを手に入れるつもりでいたのではないだろうか。

 姫さまとエリシュカが同じ場に立つ機会は、これまで皆無だったと云ってもいい。だがふたりの容姿をどちらも知る者ならば、彼女たちの共通項――この国の民には非常に印象深いものと映るはずの銀の髪と紫の瞳――に気づくことは容易い。多くの民が焦茶や鳶色や栗色の髪や瞳を持つこの国では、この私の冴えないくすんだ蜂蜜色の髪でさえよくよく羨ましがられるのだから、とツェツィーリアは思った。

 王太子殿下とても例外ではないはずだ、とツェツィーリアは考えた。

 姫さまと王太子殿下が心を通わせあっていないことは明白だ。姫さまの拒絶は本物だし、王太子殿下はその拒絶を受けて、礼儀以上の心配りを見せることもなく、いっさい歩み寄られていない。彼がいまさら妻を望むはずはない。

 だが、エリシュカはどうだろう。王太子殿下はエリシュカを知る機会があったのではないだろうか。

 彼はたいそうな馬好きであると聞く。自らが騎乗する愛馬の世話は、時間が許す限り己の手で行うという話も聞いたことがある。――厩舎。

 そう、エリシュカは当然厩舎にも出入りしている。あの気難しい青毛だけではなく、国から連れてきた私たちの馬の世話はエリシュカがしているのだから。

 ツェツィーリアは思わず足を止めてしまった。――なんたることだ。

 すべては憶測だが、間違いはないように思う。王太子殿下は厩舎でエリシュカと出会っているのだ。そして見初めた。否、靡かぬ妻と同じ色を身に纏う娘に戯れを仕掛けたくなったのか。

 いや、いまはそんなことはどうだっていい。

 問題は王太子殿下がエリシュカを手に入れるために姫さまを召し出した、という事実だ。彼は知っていたのだ。自分が姫さまを寝所に呼べば、エリシュカがやって来るということを。

 我々の肚のうちはすべて見抜かれていた、とツェツィーリアは喉を鳴らした。

「侍女どの?」

 思わず歩みを止めてしまったツェツィーリアに、いかがなされた、と少し先行していた騎士が近づいてくる。いえ、と辛うじて残った理性で、ツェツィーリアは己を叱咤した。こんなところで動揺を見せるな。

「なんでもありません」

 数度大きな呼吸を繰り返したツェツィーリアは、ふたたび背を伸ばして歩きはじめたが、思考はどうしても同じところへ戻ってしまう。厭な汗がじわりと額に浮かぶことは止めようもなかった。

 王太子殿下はなにもかもを承知のうえで、姫さまに夜伽をお命じになったのだ。姫さまが自分を拒むことも、代わりの女を寄越すことも、その女がエリシュカであることも、すべてを知って、そのうえで。

 エリシュカが罰を受けることはまずないだろう。それだけは安心してもいいかもしれない、とツェツィーリアは騎士について階段を上がっていく。

 騎士は女を気遣うことを知らないのか、相当な早足で進んでいくが、それはいまのツェツィーリアにとって、かえって都合がよかった。余計なものを目にすることなく、思考に集中できる。

 罰を受けるどころか、エリシュカには王太子殿下のお手がつくだろう。おそらく彼の真の目的はそこにある。卑怯者、とツェツィーリアは自分たちの勝手をすっかり棚上げして、ヴァレリーを罵りたくなった。

 エリシュカを手に入れたいのなら、堂々とそう云えばいいではないか。妃がありながらその侍女に手を出すような軽い身を責められたくないのであれば、最後まで我慢をすればいい。そのどちらでもなく、妃自らに情人を差し出させるように仕向けるなんて。

 私たちはなにも知らないままに、まんまと殿下の策に嵌ったのだ。

 それに気づいてしまった以上、私は王太子殿下の企みを阻止しなくてはならない。否、少なくとも阻止するべく動いたという証拠を残さねばならない。

 このままエリシュカを彼に渡せば、いずれ必ず訪れる離縁の際、シュテファーニアばかりが不利となる――ただ夫を拒むだけでは足りず、身代わりの女を用意してまで身を守ろうとした妻として責められる――に違いないからだ。

 ここで私が王太子殿下の牽制に動いたことを、ひとりでも多くの者に知っておいてもらえれば、とツェツィーリアは思った。あるいはそうした譴責の声を多少なりとも抑えられるかもしれない。夫の求めに身代わりを差し出す妻に非はあろうが、はじめからその身代わりを目当てに妻を求めた夫も褒められたものではないだろう、と。

 つまり、姫さまと王太子殿下は同じ穴の貉なのだ、とツェツィーリアは苦く笑った。可哀相なのはエリシュカひとり。

 上手くいくかどうかは、せいぜい半々と云ったところだろう。そもそもルクリュさまに話をすること自体が賭けのようなものだ。もしもルクリュさままでもが王太子殿下の企みに加担していたとしたら、私の行動はまったくもって無意味なものになる。

 そもそも間に合うかどうかもわからない。エリシュカが殿下の寝所に出向いてから相当な時間が経っている。

 彼が閨に手間取ってくれるといいのだけど、とツェツィーリアはごくあけすけなことを考えた。それとも、姫さまを妻に迎えるまで不埒な暮らしを愉しんでいたという王太子殿下に、それを期待するだけ無駄というものだろうか。

 いや、いまは余計なことを考えるな、とツェツィーリアは己を叱咤した。たとえすべてが無駄になるとしても、それでも私は動かなくてはならない。姫さまのために、国のために。――己のために。

 あるいはエリシュカのために、とツェツィーリアはふと思った。可哀相なエリシュカは、このままではこの国に置き去りにされることになる。どうにかしてそれを阻止できるだろうか。いや、阻止する必要は――。

 いけない、とツェツィーリアはきっと顔を上げた。いまはそんなことを考えている場合ではない。まずはどうにかして王太子の邪魔をするべく努めるのだ。そのために私は、王太子の側近、オリヴィエ・レミ・ルクリュのところへやって来たのだから。


 どうにも遠慮のない手つきで部屋の扉が叩かれたとき、オリヴィエはじつに盛大な欠伸の真っ最中だった。入室をうながす声がおかしな具合にふやけてしまったのはそのせいである。

 顎の下を掻きながら迎え入れた騎士は、オリヴィエにはあまり見覚えのない男だった。

「夜分に失礼いたします。王城警護騎士のバローと申します」

「なにごとだ」

 あれだけの大欠伸のあとでは威厳もなにもあったものではないが、物事には形というものがある。オリヴィエは、東国で最高の栄誉を誇る近衛騎士団のひとりにふさわしかろうと思われる重々しい声で応じた。

「王太子妃殿下付第一侍女ツェツィーリア・コウトナーどのが、大至急ルクリュさまにお目にかかりたいとおっしゃっておられますので、ここへお連れいたしました」

「王太子妃付第一侍女?」

 まるで身に覚えがない、とオリヴィエは撥ねつけようかと考えた。だがすぐに、待てよ、とピンとくるものを覚える。今宵の殿下は、たしか妃殿下を召されたのではなかったか。

「お通ししろ」

 鋭く命じ、適当に放り出してあった上着の袖に手を通しながら、オリヴィエは考えをめぐらせる。それなりの立場にある侍女が、夜間外出の禁を押してまで伝えに来るほどの緊急事態とはいったいなんだ。

「夜分に失礼いたします」

 バローに案内されて歩を進めてきたツェツィーリアは、なるほど氷の女との渾名に相応しい、張り詰めた雰囲気の持ち主だった。

 眼鏡越しの薄い水色の瞳にはきつい光が宿っており、オリヴィエは、見るからに烈女って感じだな、と内心で肩を竦めたくなった。夜半にさしかかろうというこの時刻だというのに、蜂蜜色の髪が綺麗に結われているところを見ると不寝番だったのだろうか。

「なにごとでしょうか、コウトナーどの」

 オリヴィエはあえてやわらかい口調を心掛け、ご丁寧にも微笑んでみせた。ツェツィーリアは警護騎士が退室していく後姿を、なんとも云えない冷めた瞳で見送ったあと、ようやく口を開いた。

「王太子殿下におかれましては、ずいぶんと無体なことをなされるものですね」

 ひと言の挨拶もなくいきなり本題に入ったツェツィーリアを咎めることもできず、オリヴィエはのっけから呆気にとられた。

「無体、とは?」

 常日ごろから王太子に頼みとされるほどに切れ者のオリヴィエは、その事実を知らなければ、歴史学の教師であると云っても通りそうなほどに穏やかで落ち着いた容貌の持ち主である。彼はおそらく本心から驚いたのであろう、深緑の双眸を大きく見開いて、そう問い返した。

「ルクリュさまはご存知ではいらっしゃらないのですか」

「コウトナーどの。その、私にはあなたのお話がさっぱり理解できないのですが、殿下がなにか?」

「なにか、ではございません」

 ツェツィーリアは、羽織っているガウンの襟元をわずかに寛げてから続けた。

「王太子殿下が、今宵、妃殿下を召されたことはご存知でいらっしゃいますね」

「……はい」

「では、たったいま王太子殿下のお部屋にいる者が妃殿下ではないとしたら、いかがなさいますか」

 なに、とオリヴィエは思わず一歩を踏み出した。立ったまま向かいあっていたふたりの距離はぐっと縮まった。

「どういう意味です?」

「そのままの意味です。シュテファーニア王太子妃殿下は、いまもご自身のお部屋でぐっすりおやすみになっておられます」

 私が申すのですから事実でございますよ、とツェツィーリアは瞳を眇めて嘯いた。

「では、殿下はいまおひとりで……?」

 オリヴィエは苦い声で問いかけた。王太子妃はいったいどこまでこの国を虚仮コケにするつもりなのだろう。だが、返ってきたツェツィーリアの言葉に、オリヴィエは怒りではなく焦りによって顔を青褪めさせることになる。

「いいえ、違います」

 オリヴィエの顔からさっと血の気が失せたことを見て取ったツェツィーリアは、自身が賭けに勝ったことを確信した。この男は王太子殿下の企みに気づいていなかったのだ。

「ご存知なかったようですので申し上げますが、今宵、王太子殿下の寝所におりますのは、私どもの侍女でございます」

 ツェツィーリアの声を聞いたオリヴィエがそのとき真っ先に思ったのは、あの莫迦、やりやがった、という身も蓋もないことであった。

 ツェツィーリアが思っているよりもずっとよくヴァレリーの心を知るオリヴィエは、今夜の彼が腕に抱く女が誰であるかはっきりと悟っていたし、また彼が弄した策についてもほぼ完璧に理解していた。

「侍女?」

 だからそのとき彼が発した言葉は、ただの時間稼ぎにほかならない。オリヴィエは、ほんのわずかでもかまわないから考える時間が欲しかったのだ。

「はい。エリシュカと申します、私どもの侍女でございます」

 さあ、どう出る、とツェツィーリアはオリヴィエをじっと見つめた。彼が政治家としてまともな思考を有した男であれば、この先はツェツィーリアの望む展開となるであろう。すなわち、なぜ侍女が殿下の寝床にいるのだと怒り、喚き、ツェツィーリアの口車に乗ってくれる。――事情はどうあれ、すぐに殿下をお止めしないと取り返しのつかぬことになりますよ。

 東国は絶対王政を敷く国家である。王座は長子が相続する。つまり、もしも今夜のことでエリシュカの胎に王太子の子が宿り、無事に生まれでもしたら、その子は将来の王位継承者となり、エリシュカはその母となることになるのだ。

 後宮制度こそないが、東国は国王に複数の妻帯を認めている。しかし王位継承者となる可能性の高い第一子は正妃に産ませることが望ましい、という暗黙の了解があることはツェツィーリアも知っている。そのために王位継承者は正妃を神ツ国の姫あるいは国内の有力貴族から娶ることとされているのだ。王座に就く者の血が、それに従う者たちの血よりも卑しいという不愉快な現象が起こらぬようにするためである。

 王太子ヴァレリーは国王の側妃から生まれた息子である。だが、彼が王太子として擁されることについて反対した者はそう多くなかったと聞く。それはヴァレリーの母が相当に高位の貴族の生まれであり、神ツ国から嫁いできた正妃と比べても、その身分になんらの遜色もなかったがゆえのことである。

 だがエリシュカは違う、とツェツィーリアは思った。彼女は生まれ故郷の神ツ国では賤民と蔑まれる立場にあり、この東国でも王城に仕える一侍女にすぎない。万が一にも王太子の子を孕めば、王室は蜂の巣でも突いたような騒ぎになるだろう。

 オリヴィエは青褪めた顔を強張らせたまま、今宵の殿下は避妊薬を飲んでいるのだろうか、と考えた。

 かつて女遊びの激しかったヴァレリーだが、それをさしてきつく咎められることがなかったのは、彼が自身の責務や身分、立場についてきちんと弁えており、迂闊に胤を落とすような真似をしなかったからである。娼館に繰り出して莫迦騒ぎをする前、あるいはその最中の高揚状態にあってさえ、ヴァレリーはじつに律儀に避妊薬を服用していた。

 薬師が特別に調合するそれは、オリヴィエ自身も幾度か服用したことがあるが、思わず吐き気を催すほどに不味い代物である。あんなものをがぶ飲みしてまで女を抱きたいというのだから、絶倫王子の考えていることはさっぱり理解できん、とオリヴィエは思ったものだ。

 いや、いまはそんなくだらない思い出に浸っている場合ではない、とオリヴィエは我に返った。どこか挑戦的な眼差しを向けてくるツェツィーリアから視線を逸らさないまま、彼は卓上の呼び鈴を持ち上げた。

 鈴の音に応じて顔を覗かせた先ほどの警護騎士バローに、王太子殿下付筆頭侍女デジレ・バラデュールどのを呼べ、と短く命じたオリヴィエは、表面上は余裕の笑みを取り繕ってツェツィーリアの眼差しを受け止めた。

 しかし、よろしいのですか、とオリヴィエは云った。

「そのエリシュカという侍女が、なぜ殿下の寝所にいるのか、それをお尋ねすればあなた方は必ずや罪に問われることになる」

「罪?」

「わが国の王太子を欺いたという罪ですよ」

 オリヴィエの正しい指摘は、しかしツェツィーリアにはなんの痛痒ももたらさなかった。そんなことは百も承知だ、と云わんばかりの口調で氷の女は答えた。

「しかしそれは、王太子殿下もまた同じことでございますわね」

「同じこと?」

「殿下は、はじめからすべてをご承知のうえで、ご寝所に姫さまをお呼びになったのでございましょう」

 なんだと、とオリヴィエは色めき立った。

「姫さまを呼べばエリシュカが来ると、殿下はご存知でいらした。つまり、私どもの罪は殿下の罪。違いますか」

 違わないな、とオリヴィエは思った。先に謀ったのは女であっても、彼女の謀を利用した男が女の罪を咎めることはできない。オリヴィエは瞳を眇め、なるほど、と苦笑いした。そうするよりほかなかったからだ。

「コウトナーどののおっしゃられることももっともだ。しかし、まあ、心配されておられるようなことにはならないかと思いますよ」

「そうでしょうか」

 オリヴィエの取り繕った笑顔など、ツェツィーリアの眼力にかかれば容易く割れる硝子の仮面ほどの役にも立たない。ツェツィーリアが背負う第一侍女の肩書は伊達ではないし、ましてや彼女は冷たい渾名を冠せられるほどの烈女である。

「王太子殿下は腹心の部下であるルクリュさまにさえ、偽りをおっしゃってエリシュカを呼ばれたのですよ。ルクリュさまのお気持ちもわからなくはありませんが、デジレさまに確認されるまでもないでしょうね」

「どういう意味です?」

「王太子殿下が姫さまをお呼びになった事実が先にある以上、今宵共寝をなさるお相手は、事実はどうあれ、ご自身の正妃殿下。どこのどなたが避妊などなさいましょうか」

 オリヴィエの頬から笑みが消えた。勝利を確信したツェツィーリアは、今度は彼を急かしはじめた。

「あるいは王太子殿下が避妊薬を所望なさっても、まともな侍女ならばお止めいたしますよ。正妃を相手に避妊の必要はございませんから」

 それどころか一日も早いお子が望まれるお相手でございます、とツェツィーリアは声の調子を変えることなく淡々と続けた。

「バラデュールどのに確認してみなければわかるまい」

「おそれながら私も、デジレさまのことは同じく主に仕える者としてそれなりに存じております。たいそう優秀な方でいらして、王太子殿下の信頼も篤くていらっしゃる。そのような方が王座にかかわるような我儘をお許しになるとは、私には思えませんけれど」

 優秀な使用人とは、ただ主の云うがままを受け入れるのではなく、主の過ちを正すことのできる者を指すのだということくらい、オリヴィエにもわかっている。オリヴィエの喉が上下した。ツェツィーリアはなおも畳み掛けた。

「あるいはデジレさまはご存知でいらしたのでしょうか。王太子殿下の今宵のお相手が妃殿下ではないことを」

 まさかですよね、とツェツィーリアは駄目押しとばかりに微笑んでみせた。

「殿下の腹心でいらっしゃるルクリュさまがご存知なかったのです。デジレさまが真相を知るはずはありません」

「……なにが云いたい?」

 いまや完全に笑みを消したオリヴィエは、ほとんど獰猛とも云える――それは、オリヴィエが普段は眠らせている本質でもある――声音でツェツィーリアの饒舌を遮った。ツェツィーリアは己の勝利に酔うような真似はせずに、すぐに本題を切り出した。

「王太子殿下をすぐにお止めするのです。いまならまだ間に合うかもしれません」

「寝所に踏み込めとでも云うのか!」

 オリヴィエの声に悲鳴じみた色が混ざる。そんな気狂きちがいじみた真似ができるか。

「ルクリュさま」

 ツェツィーリアはここぞとばかりに力をこめた声で云った。

「事態は私どもにとっても非常に深刻なのです。もしもこのままことが成ってしまえば、エリシュカは王太子殿下のお手付きとなってしまいます。仮にも姫さまの侍女であるエリシュカがそんなことになれば、いかに白い婚姻のお約束があるとはいえ、姫さまの威信には大きな傷がつきましょう」

 姫さまは私ども神ツ国の民にとってはとても大切なお方であらせられます、とツェツィーリアは云った。いかにも主を慕う侍女らしく眼差しを伏せ、しかし全身でオリヴィエの気配を探るツェツィーリアは、彼が無言のうちに心を決めたことに気づいていた。

「どうかお力をお貸しいただけませんか」

 それが駄目押しのひと言となって、オリヴィエはとうとう頷いた。

「……わかった」

「デジレさまのお越しを待つゆとりはございませんが」

「わかっている」

「感謝いたします、ルクリュさま」

「……いまは間に合うことだけ祈りましょう」

 言葉遣いを元に戻したオリヴィエは、ツェツィーリアが持ってきた燭台を自ら掴むと、彼女を伴って廊下に進み出た。

 自身の歩みに伴ってゆらゆらと揺れる炎が、己の不安そのものであるような気がして、オリヴィエは無性に苛立ちを覚えた。――こんな無茶をする前にひと言でいいから相談してほしかった。

 いや、とオリヴィエはそこでふと気づく。ヴァレリーはきちんと口にしていたではないか。おれは、欲しいと思ったものは必ず手に入れる、と。

 このことだったのか、とオリヴィエは自らの尻を蹴り飛ばしてやりたいような気持ちになった。あんなあからさまな物云いを見逃すとは、鈍感にもほどがある。どうか間に合ってくれ。王太子のために、国のために、いや違う、俺自身のために。

 なかば駆けるような足取りで、オリヴィエとツェツィーリアは王太子の寝所の前へと辿り着いた。

 やや乱れていた呼吸が整うのを待ち、互いに視線を交わして譲りあったのち、意を決して拳を振り上げたのはツェツィーリアであった。いざというときは女のほうが度胸がある、と燭台を掲げたオリヴィエは息を詰める。

 廊下に通じる控えの間から侍女が顔を覗かせた。なにごとです、と問う声は潜められている。殿下にお目にかかりたい、とオリヴィエが云えば、侍女は眼差しを険しくし、まるで睨むように見据えてきた。

「火急の用なのだ」

 いまここでお伺いしましょう、と侍女は云った。その口調でツェツィーリアには悟るものがある。

 思わず言葉に詰まったオリヴィエが、殿下に直接、と云おうとしたとき、かすかになにかが軋むような物音と、悲鳴にも似た声が彼の耳にまで届いた。

 オリヴィエははっと目を見開き、ツェツィーリアを見下ろす。苦悩を滲ませた表情を浮かべるオリヴィエの顔を振り仰ぎ、彼の表情から事態を悟ったツェツィーリアは、すべてが手遅れだったことに耐えきれず、よろめいた身体を廊下の壁に凭れかけさせた。

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