12

 王太子付筆頭侍女を名乗る年嵩の女に連れられたエリシュカは、これまでに目にしたこともないほどに豪奢な部屋を訪れることになった。

 たった一度だけ足を踏み入れたことのある王太子妃シュテファーニアの居室も、それまで生きてきた世界をひっくり返すほどに華やかで美しかったが、ここはまたそれとも違う、とたったひとり取り残された室内で、エリシュカはおっかなびっくりあたりを窺っていた。

 エリシュカは薄布を幾重にも重ねたヴェールで顔を隠している。おまけに、部屋に案内される際にもそのあとも、ただの一度も声を発していない。王太子妃ではないことが侍女たちに悟られぬよう、王太子殿下に見えるまでは決して声を上げてはなりません、とツェツィーリアに厳しく云われていたせいだ。

 お部屋の前まで私たちが従う、と強硬に主張したツェツィーリアとベルタだったが、分を弁えろ、と王太子付筆頭侍女デジレ・バラデュールに一喝され、すごすごと引き下がらざるをえなかった。

 ツェツィーリアさまはともかく、ベルタさまに一緒にいてもらえたら心強かったんだけど、とエリシュカは思う。

 温かくやわらかな白パンと湯気の立ち上る香り豊かな白身魚のグリル、野菜のスープの夕食を終えたエリシュカの化粧を直し、ヴェールをかぶせながらベルタはほとんど泣き出しそうに顔を歪めていた。

 大丈夫です、という意味を込めたつもりで微笑んでみせると、なぜか睨みつけられたので慌てて笑顔を引っ込めた。最後にきつく抱きしめてくれた腕が震えていて、心配はありません、という意味で軽く抱きしめ返すと、ますます強く抱きつかれた。わたしのことなら気遣いは無用です、と伝えたかったのだが、どうしてか声が震えそうだったので黙っていた。

 時間ですよ、とエリシュカからベルタを引き剥がしたツェツィーリアは、彼女自身もそっとエリシュカの手を握ってくれた。身分の高い神官の娘であるツェツィーリアは、滅多なことでは他人の身に触れたりしない。エリシュカの手を取ることは、彼女にとって深い哀しみの意を示すことと同義であるはずだった。それにヴェール越しだったからよく見えなかったけれど、一度深く頷いてくれたツェツィーリアさまの顎は、ベルタさまのそれと同じく小さく震えていたような気もする、とエリシュカは思い出す。

 侍女に伴われてツェツィーリアの部屋をあとにし、延々と長い廊下を歩んでいるうちに、エリシュカは自分が王城のどのあたりにいるのか、さっぱりわからなくなってしまった。角を曲がったり階段を上ったりするたびにだんだんと内装が豪奢になっていくから、いよいよ国王陛下に近い方々の居住するあたりに近づいてきたのだろう、とは思っても、それがいったいどこであるのかという見当はつかない。

 生地の薄い夜着に丈長の上着を羽織っているだけなのに肌寒さを感じないということは、このあたりは廊下にまで暖房が効いているのだろうな、と思いながら歩いていると、不意に足が止められた。

 そして、こちらでございます、と通された部屋に、エリシュカはいまひとりで立っているのだった。

 これまで目にしたこともないようなものばかりだけれど、それでも素晴らしい調度が揃えられた部屋だということは見て取れる。足許の絨毯もふかふかとしていて、足音などこそりとも響かない。

 少なくともここでいきなり斬り捨てられることはなさそうだ、とエリシュカは思った。意識のあるうちは倒れないでいられるかもしれないが、倒れ込んだそのあとは流れ出した血があたりを汚してしまうだろうし、わたしを斬る人だってこんな素敵な部屋を汚すのは好まないはずだ。となると、わたしはすぐに牢に放り込まれることになるのだろう。

 ならば死を賜るまでは少し時間があるはずだ、とエリシュカは考えた。わずかなりとも、そう夜明けまでなりとも生きていられるのならば、せめてそのあいだだけでも愛しい家族に想いを馳せよう。

 東国へやってきてからの日々、エリシュカは家族を想うことを自らに禁じていた。想えば恋しくなるからだ。文字を知らぬエリシュカは、たとえそれが許されていたとしても手紙を認めることはできない。声を聞くことも顔を見ることも、その消息を知ることさえできぬ愛しい家族のことを想えば、恋しさのあまりに取り乱し、仕事が手につかなくなってしまうに違いない。

 でも、もういいのだ、とエリシュカは、いまは閉じられている扉からすこしだけ離れた場所に膝をついた。もうなにも気にすることはない。どうせ明日には失われる命だ。好きなだけ父と母を慕い、兄と妹を想い、その幸せを願おう。彼らの笑顔を胸に抱き、わたしの死がみなにやさしく伝わるようにと祈ろう。

 もうひとつの気がかりはテネブラエのことだ、とエリシュカは思った。別れを告げることもできないままにここまで来てしまった。誇り高い彼は、わたし以外の世話を受け付けない。もう会うこともないが、心配でたまらない。大丈夫だろうか。

 我儘を云ってもいいと云われたあのとき、ツェツィーリアさまに願うべきだっただろうか。テネブラエに会わせてほしい、と。わたしの口から云い聞かせておけば――明日からは、違う人のお世話になるのよ――、少しは違ったかもしれない。

 考えてもどうにもならないことだけれど、とエリシュカはヴェールの陰で目を伏せた。仔馬のころから世話をしてきた美しい青毛のことを思うと、家族を想うときのように心が揺れた。

 テネブラエ。綺麗好きな彼は寝床を汚すことを嫌い、外に連れ出してやらないと放尿さえ躊躇うことがある。寝藁はやわらかくしすぎず、ある程度踏み固めてやらなければ、どれほど疲れていようとも、あるいはどれほど寛いでいようとも決して横たわらない。噛み応えのある餌が好きで、飼料よりも生の果物や野菜を多く与えたほうが体調も好い。身体が大きく馬重があるので、蹄鉄の減りや癖がすぐに脚に響いてしまう。気難しい割に平和主義者だから、ほかの馬と競争させるようなことをするとひどく拗ねてしまう。できれば馬場や競技場などの整えられた場所ではなく、草原や山道など、彼自身の意志で好きなように駆けられるような場所を選んだほうが全力で駆ける喜びを味わえるらしい。

 速い脚と強靭な身体と賢い頭脳を持つテネブラエは、騎乗する者がいなくともここから神ツ国の教主の宮まで帰りつくことができる。エリシュカ以外を騎乗させることのない彼が東国まで連れてこられたのは、エリシュカのいない故郷に残しておいても無用の存在として持てあまされることがわかっていたからということだけが理由ではない。有事の際、人でもなくものでもなく情報――緊迫の局面を左右するもっとも重要な要素――を運ぶ伝令馬としての役割が期待されていたのだ。

 わたしがいなくなったあとも、誰かが気難しい彼を愛し、寄り添ってくれればいいのだけれど。エリシュカは無意識のうちに大きく息を吸い込んだ。泣いてはいけない。――いまは、まだ。


 エリシュカがヴェールの陰で唇を噛んだとき、不意に目の前の扉が開け放たれた。

 ここまででよい、とか、声をかけるまで誰も入れるな、とか、低い声で誰かが指示を出している。かすかな空気の流れにヴェールが揺れ、エリシュカの意識は急激に現実に引き戻された。

 重たい音を立てて扉が閉じる。すぐにまた開けられることになるはずの扉の錠を下ろす音が聞こえて、エリシュカは震えた。――王太子殿下。

 跪いて礼の姿勢をとるエリシュカの視界に、ゆったりとした夜着に包まれた男性の脚が現れた。やわらかそうな室内履きには王室の紋章が刺繍されている。

 彼は黙ったままエリシュカを見下ろしているようだった。エリシュカは姿勢を崩さずにじっとそのときを待った。

 男の手がそっと伸ばされ、ヴェールが持ち上げられる。エリシュカは思わずきつく目を瞑った。

 伸ばされた手がエリシュカの頭からヴェールを取り払い、そのまま俯くエリシュカの顎にそっと添えられた。頬から顎の線を包む掌がとても温かく感じられる。そこにひとひらの想いさえないのだとは到底信じがたいほどに、その手はやさしい。

 やがて、なにかやわらかなものがかすかに唇に触れる感触に驚いて、エリシュカは目を開けた。

 自分と同じように床に膝をついた王太子が目の前にいた。深く青い眼差しをさも愛しげに緩めて、自分を見下ろしている。エリシュカは目を瞬かせた。

 薄紫色の双眸を絡め取った青はやさしく揺れた。男が微笑んだのだと気づいて、エリシュカは身体を強張らせる。――なぜ。別人だと気づいているはずなのに、なぜ。

「エリシュカ」

 エリシュカの恐慌は頂点に達した。唇が震え、喉が震え、肩が震えて、身体を支えていることができなくなり、床の上に頽れそうになる。がたがたと震えはじめたエリシュカの華奢な身体を男の腕が力強く抱き上げた。

 エリシュカは震えたまま寝台まで運ばれ、そこに横たえられてもなお震えていた。寝台に腰を下ろした王太子は、エリシュカの顔を愛しげに撫でまわす。額に触れたと思えば、指先で目蓋や頬を擽るように撫で、顎の線を指の背で辿る。親指の腹で唇に触れ、頬から項を広い掌で覆ったりもした。

 こうしていてはいけない、といまだに震え続ける身体を叱咤して、エリシュカは身を起こす。――この命を捧げる代わりにどうか、と姫さまの安寧をお願いしなくてはならない。それがわたしに与えられた最後の役目なのだから。

 だが、エリシュカからは彼に言葉をかけることはできない。身分の高い者の許しがなくては、身分の低い者は口を開くことができないのだ。

「エリシュカ」

 エリシュカがなにかを云いたそうにしていることを察したのか、男はやさしく彼女の名を呼んだ。――名を、呼んだ。

 エリシュカは大きく目を見開いた。そうだ、この方ははじめからわたしの名を呼んでいた。姫さまの名ではなく。

 どういうことなのでしょう、とエリシュカが問いを発するその前に、王太子が云った。

「おれが誰か、わからないか」

 深い黄金色の髪。精悍な容貌。くっきりと紅く薄い唇。そしてなによりも、この夏空色の瞳。――アランさま。

「なぜ……」

 エリシュカの唇からこぼれ落ちたのは、弱々しい呟きだった。

「嘘をついていてすまなかったな」

「嘘……?」

「厩番頭だと云った、あれだよ、エリシュカ」

 おれは東国王太子、ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュだ、とヴァレリーは云って、枕をいくつか重ねた上にエリシュカの身体を凭れかけさせるようにして上半身を起こしてやった。ついでに自分も寝台に上がり込んでエリシュカの前に座ると、彼女の手を取った。

「アラン、さま……」

「そうだ」

 頷くヴァレリーに、なぜ、とエリシュカはまた云った。

「身分を明かせば、そなたはおれを顧みることもなかっただろう。おれはそなたと親しくなりたかったのだ」

 答えるべき言葉も持たぬまま、エリシュカは茫然とヴァレリーを見上げる。

 馬を愛し、彼らの扱いについての知識が非常に豊富で、厩番たちにも慕われていたアラン。陽気でやさしく、厳しいなかにも温かい心を感じさせる言葉で、いつも自分を励ましてくれたアラン。ともに早駆けに出かけることを密かな楽しみに感じていた厩番頭のアラン。

 指先が触れるだけでも胸が高鳴ったのに、このあいだの朝は強く抱きしめられて心が破裂するかと思うほど嬉しかった。――アランさま。

 慕っていたのだ、とエリシュカの瞳が潤む。いまさら気がついた。わたしはアランさまを慕っていたのだ。

 なんでいまさら、とエリシュカは顔を歪めた。いまさらこんなことに気づいてしまったのだろう。早く気づいたからといってどうなるわけでもないけれど、せめて彼が王太子であると知る前に、自分の心くらい知っておきたかった。知って、さっさと諦めておきたかった。

「エリシュカ」

 黙ったまま泣き出しそうな顔で自分を見つめるエリシュカに、ヴァレリーはそっと唇を寄せた。驚きのあまりに自失しているところへくちづけるなど卑怯者のすることだろうが、そもそもからして卑怯だからな、おれは、とヴァレリーは思った。

 婚儀以来白い婚姻を貫いてきた王太子妃を、ヴァレリーがいまになって求めたのは、むろんその肚に策を呑んでのことである。――なんとしてもエリシュカを手に入れてやる。

 エリシュカの髪と瞳の色が、形ばかりの妻のそれと同じであることにヴァレリーはごく早い段階から気づいていた。そしてエリシュカの身が、彼女の故郷では人として扱われぬものであることを知ってからは、彼女がなぜシュテファーニアに従って東国へやって来たのか、その意味さえも見抜いていたのである。

 エリシュカは妻の身代わりとなるための形代なのだ。エリシュカに心を奪われたことをはっきりと自覚したとき、ヴァレリーはその事実をもまた悟っていた。そして、いつかそれを利用してやろうとも考えていた。

 ときに為政者とは、ひどく残虐な振る舞いをも自身に許すのだな、と今回の企みを思いついたとき、ヴァレリーは自らに怖気だったものだ。

 輿入れしてきた妻から突きつけられた白い婚姻に長いこと甘んじてきた腰抜け夫が、突如として自らの身を求めてきたとき、あの高慢なシュテファーニアはどう動くだろう、とヴァレリーは考えた。まず間違いなく己が身を守らんとするはずだ。だが、夫の求めに応じなかった妻という瑕疵を己に許したくない彼女は、用意しておいた形代をなんの躊躇いもなく使おうとするだろう。――代わりの女を用意するから、それで我慢してちょうだい。

 そしておれは、なんの苦労もなく身代わりとして差し出されたエリシュカを手に入れるのだ。

 なんというあさましさだ、とヴァレリーは自嘲する。それでもおれはエリシュカが欲しい。

 彼女の身体をはじめて抱きしめたあの朝、半年のちには国へ帰る、と静かに告げられ、ヴァレリーの心に思いがけぬ焦りが生まれた。一年半かけてこの距離まで近づくのがやっとだったというのに、あとたった半年でなにができる。燃える炎に心の臓を直に炙られているような心地がした。

 一刻も早く彼女を自分のものにしてしまわなければ安心できない、という焦慮のままにヴァレリーは、愚鈍な王太子の仮面をかぶったまま妃を求めた。

 今宵は妃と過ごしたい。

 そのひと言で、エリシュカが手に入ることはわかっていた。にもかかわらず、これまでこの手段を使わずに来たのは、どうにかして自分自身の力で彼女を引き寄せたかったからだ。だが結局こうするのなら、もっと早くてもよかったな、とヴァレリーはやわらかなエリシュカの唇に自分の唇を寄せながら考えた。

 これまで重ねてきた我慢のせいで、理性が限界に近い。これ以上エリシュカを怖がらせたくないのに、獣じみた慾望で彼女を引き裂いてしまいそうだ。

 エリシュカはひどく怯えている。親しくしていた――それが勤めに必要な限りのものであったとしても――厩番頭が、じつはこの国の王太子であると知らされ、おまけにシュテファーニアではなく自分を求めているというのだから混乱し、恐怖したとしても無理はない。

「殿下ッ」

 唇が重なる寸前、ヴァレリーに抱きすくめられていたエリシュカが小さく叫んだ。

 近づいた距離はそのままに、ヴァレリーはぴたりと動きを止めて、どうした、と甘く囁いた。片手で引き寄せたエリシュカの身体はまだ震えている。空いたほうの手ですべらかな頬に触れてみれば、恐怖からか緊張からか、彼女の体温はずいぶんと低くなっているようだった。

「どうした? エリシュカ」

 ヴァレリーの胸にひたりと添うように抱き寄せられているエリシュカは、その胸に掌を乗せ、せいいっぱいに距離をとろうともがいていた。

 おれを拒むのか、とヴァレリーの顔が険しくなった。

「エリシュカ」

「お許しください」

 細い声は泣き出しそうに震えている。

「厭なのか」

 苛立ちを滲ませたヴァレリーの声に、エリシュカはますます怯えた。厭か、と尋ねられれば、答えはそのとおりである。

 エリシュカはたしかにヴァレリーを慕っていたが、それは相手が厩番頭のアランであればこそである。

 東国王太子ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュは、エリシュカにとって、はるか雲上に住まう神にも等しい存在であり、慕うとか想うとかそういう感情の対象ではない。したがって、その腕に抱かれている自分自身の状況を許容することは到底できそうになかった。

 とはいえ、己の役目――自身の命と引き換えに姫さまの身を守ること――を心得ているエリシュカは、これ以上はっきりとヴァレリーを拒むこともできない。彼女にできるのは、いまのこの状況をなんとかして抜け出し、当初の予定どおりに罰を与えてもらうよう願うことだけだった。

 首を、とエリシュカは云った。

「首?」

 ヴァレリーがエリシュカを抱き寄せたまま器用に首を傾げる。

「首がどうかしたのか」

「首を刎ねるのではないのですか」

 首を刎ねる、とヴァレリーはさっきとは反対側に首を傾げた。

「なんのことだ?」

「殿下は妃殿下をお召しになったのではございませんか」

 焦ったような細い声音に、なんということか、とヴァレリーはつい眼差しをきつく尖らせた。高慢ちきなあの女は、自分の身代わりだということをエリシュカに知らせたうえで、彼女をここへ寄越したのか。

 ヴァレリーは胸の裡でシュテファーニアを罵った。いったいどれほど残酷な真似をすれば気がすむというのだ。

 そして同じだけの強さで、エリシュカを哀れに思った。妃を求めたはずが身代わりを寄越されたことを知ったおれが、怒りに任せて自分を厳しく罰するに違いないと、エリシュカはそう思って今日一日を過ごしたに違いない。

 ヴァレリーはエリシュカの両腕をそれぞれ自分の両手で捕え、彼女を正面からじっと見つめる。

「エリシュカ」

 骨が溶けるほど甘ったるい、と自分でも思えるような声音で愛しい少女の名を呼んで、ヴァレリーは微笑んでみせた。

「怖い思いをさせて悪かった。だが、おれが求めたのははじめからそなただけだ、エリシュカ」

 エリシュカの薄紫色の瞳が大きく見開かれた。驚いたというよりは、云われたことの意味がわからない、という顔だな、とヴァレリーは察する。

「おそろしいことはなにもない。おれはそなたを愛しく思っているし、そなたを抱けることをとても嬉しく思っている。だからそう怯えるな」

 そしてヴァレリーは堪えきれずに、エリシュカの唇をなかば強引に貪りはじめた。

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