11
エリシュカの支度は、ツェツィーリアとベルタの手によって完璧に仕上げられていった。
湯殿を預かる下女の手によって身体の隅々まで洗い清められたエリシュカは、人ひとりがようやく寝そべることができるほどの幅しかない、狭い寝台の上に俯せにさせられた。下履きひとつ纏わせてもらえぬいまの状況に、内心では羞恥に悶える思いでいたが、ベルタや、ましてやツェツィーリアを相手に否やが云えるはずもなかった。
エリシュカの肌が、乳香とベルタの手によってやわらかく解されていく。ふんわりと温かいベルタの指先は、緊張のあまりに湯につかってさえ強張ったままだったエリシュカの身体を、ほんのわずかだが癒やしてくれた。
云われるままに身体を委ねているうちに、肌触りがよく、身体を締めつけることもないまるで夜着のような衣類を渡された。それを頭からすとんとかぶって胸元のリボンを緩く結べば、なにも着ていないよりはまだしも人間らしい心地にもなることができた。
ベルタにうながされるまま、次に布張りの椅子に腰掛けたエリシュカは、鏡のなかで自分をじっと見つめてくるツェツィーリアと目を合わせてしまった。慌てて顔を伏せると、顔を上げなさい、と厳しい声が降ってくる。
彼女の傍らではベルタが白粉を水に溶いたり、紅を混ぜあわせたりと化粧の準備に余念がなかった。ベルタの優雅でこなれた手の動きに見惚れていたエリシュカは、静かな声で呼びかけてくる第一侍女の眼差しに背筋を伸ばした。
「夜伽の作法は知っていますか」
エリシュカは、なにを云われたのかわからない、という顔でツェツィーリアを見上げた。
鏡越しの薄紫色の瞳に屈託のない疑問が浮かんでいるのを見て、ツェツィーリアは胸を痛めた。――このようになにも知らぬ娘に、私はなんということを強いようとしているのだ。
「では、いまから憶えるのです」
エリシュカは、はい、と小さな声で返事をした。
王太子を寝所で迎えるための細かな礼儀について、ツェツィーリアが詳細な講義をしているあいだ、ベルタは刷毛に含ませた水白粉を肌理細やかなエリシュカの首元から鎖骨のあたり、夜着から覗く背中まで延ばしていくことに集中していた。
顔にはごく薄い化粧を施し、頬と唇に自然な明るさの紅をさす。やわらかな長い銀髪は丁寧に梳り、ほのかに甘い香りを漂わせる油を揉み込む。ただでさえ美しいエリシュカは、そうすることでベルタでさえもうっかり見惚れるほどに、健やかで艶やかな色香を纏った。肌も髪も吸いつくような極上の手触りである。
唯一、日に何度も馬たちや土に触れ、汚れた水に晒される働きづめの指先だけが、どれほど丁寧に爪を磨き、乳香を塗り込んでもがさがさと荒れたまま、エリシュカの苦境を雄弁に物語っていた。
こんなに綺麗なのに、とベルタは不意に猛烈な怒りを覚えた。エリシュカの髪を編み込み結い上げていく手が震えるほどの激しい憤り。
これまで淡々と白い婚姻に甘んじてきたくせに、この期に及んでシュテファーニアを召し出そうとするヴァレリーにも、どんな事情があろうとも嫁いできた以上は自身の務めであるはずの夜伽をエリシュカに押しつけて平然としているシュテファーニアにも、不条理に憤りながら己ではなにひとつ変えられぬ自分自身にも、そして静かに自身の運命を受け入れようとしている友人にでさえ、ベルタは腹を立てていた。
なんで誰も、おかしい、と云い出さないのだろう。
白い婚姻が気に食わないのなら、王太子殿下は我儘を云う妃などさっさと国へ帰してしまえばよかったのだ。純潔を守りたいのなら、姫さまは自らお髪を剃り落としてでも輿入れに肯うべきではなかったのだ。
すべてはあのふたりの自分勝手な我儘ではないか。誰かが諌めて当然ではないか。
そこまで考えてベルタは気づく。云い出さないのではない、云い出せないのだ。
だって私がそうだから。姫さまの身と引き換えに命を差し出すことを強いられるエリシュカを哀れと思い、彼女の運命の不条理を呪っても、実際の私にはなにも云えないではないか。
ツェツィーリアさまからの命令に対してさえ、反論することはできなかった。こんな私が姫さまや、ましてや王太子殿下に向かってなにが云える。
そしてそれは、みな同じなのだろう。
ツェツィーリアさまは見識深く、人品にも優れた素晴らしい女性だけれど、所詮は姫さまに仕える侍女のひとりにすぎない。姫さまの命令に逆らうことは、決してできないお立場なのだ。
姫さまは神ツ国の教主の娘であり、東国王太子妃であらせられるけれど、自らの父君のご命令や王太子殿下のお召しに背くことはできない。己の純潔をどれほど願おうとも、たったそれだけのものさえ、おひとりでは守ることができないのだ。
そしてこの件については絶対者であるように見える王太子殿下にもまた、国を統べる一族のひとりとして逆らうことのできぬ理があるのだろう。
誰もがみな自身の理を唱え、そしてエリシュカひとりが犠牲になる。
憂鬱そうな顔を隠そうともしないベルタの様子を苦々しく思いながら、ツェツィーリアはエリシュカに対し、必要な教えを諄々と説いていく。エリシュカは素直にすべてを聞き入れ、いちいち丁寧に、はい、と短い返事を繰り返していた。
「別の部屋でお支度を調えられた王太子殿下がお部屋にいらっしゃいましたら、あなたは跪いてお迎えし、そのあとのことは……」
そこでツェツィーリアは、ほんの一瞬言葉を途切れさせた。――そのあとのことは。
「なにも考える必要はありません。すべて殿下に委ねればよいのです」
床に跪き己を迎えた女が妃ではないと知って、烈火のごとき激しい気性の持ち主であるというヴァレリーがどのような振る舞いに出るかなど、考えるまでもないことだ、とツェツィーリアは思った。
腰に佩く剣を鞘から抜き払い、目の前で身を震わせる無力な少女に向かって叩きつけるのであろう。あるいは警護騎士に命じて牢に叩き込み、朝を待って斬首に処するか。
王太子殿下はそうせねばならないのだ、とツェツィーリアにはわかっている。エリシュカを殺めることは、自分を蔑ろにした妻を罰するということだからだ。しかしそうやって一度罰を与えた妻を、ヴァレリーは赦さなくてはならない。
エリシュカの犠牲とヴァレリーの寛容でもって罪を赦されたシュテファーニアは、以後身を慎み、やがては国へ帰ることとなろう。そうして巫女姫の身は永久に守られる。
「なにか質問はありますか」
ベルタの手によってすっかり支度を調えられたエリシュカが顔を上げた。美しい顔には一片の迷いも窺えない。
「なにもありません、ツェツィーリアさま」
「よろしい」
ベルタ、とツェツィーリアは、憂鬱を通り越した憤懣をその眼差しに込めて自分を睨み据えてくる部下の名を鋭く呼んだ。
「食事の支度を調えてきてください」
ベルタが唇を噛んだ。
「ベルタ」
はい、と答えたその声が震えていたことには気づかなかったふりをして、ツェツィーリアはエリシュカに腰を下ろすようにと促す。
「家族に書状を送るとよいでしょう。手伝いますか」
エリシュカは薄紫色の瞳でじっとツェツィーリアを見上げた。両親と兄妹にいったいなにを知らせろというのだろうか。わたしはこれから命がけで姫さまをお守りします、とでも云えばいいのだろうか。あるいは、わたしはいなくなるけれど、みんなはどうか無事でいてね、と健康と幸福を願えばいいのだろうか。
機嫌の悪い主に嬲り殺しにされることも珍しくない同胞のことを思えば、この身が貴なる姫さまの役に立ったと思って死ねるのは幸いなことだ。だが、もう一年半も消息を知らせることのできていない家族に、いまさらのように便りを出したところで、むしろわたしの身になにかがあったに違いないと不安に陥らせるだけだろう。
「いいえ、ツェツィーリアさま」
手紙は必要ありません、とエリシュカは云った。ツェツィーリアの眉間に皺が寄る。
「エリシュカ」
「家族に知らせるようなことはなにもありません」
「エリシュカ……」
困り果てたようなツェツィーリアの顔を見て、エリシュカは、そうか、と悟る。ここでわたしがなにか我儘を云わねば、ツェツィーリアさまはご自身を赦すことができないのかもしれない。
「それではひとつだけお願いをしてもよろしいでしょうか」
ええ、もちろん、とツェツィーリアは頷いた。
「もしも、わたしが戻らぬ理由を家族が気に病むようでしたら、事故に遭った、とそうおっしゃってくださいませんでしょうか」
賤民であるエリシュカたちは、主の都合でいつ何時命を落としてもおかしくない。気まぐれに殺されることもあれば、過酷な労働についてゆくことができなくなることもある。同胞が傍にいるときに亡くなれば、その骸を捨て置かれることも滅多にないが、そうでないときには事情が異なる。主の旅に同行した折に死んだような場合は、その地域に合わせたやり方で葬られるか、その場に捨て去られるかして、仮に家族のある者であったとしても死の理由が知らされることさえ滅多にない。
賤民とは主の所有物であるからだ。家族があり、同胞があり、心があり、尊厳のある者ではないからだ。壊れれば捨て去られるただの道具に、その理由は必要ない。死を弔う必要も、生を言祝ぐ必要もない。数が足りなくなれば買い足せばいい。
だからエリシュカが口にしたことは、賤民には分不相応な願いだった。愛する娘の、妹の、姉の帰らぬ理由を知ったところで、エリシュカが戻るはずもないのだが、それでも家族は心の安寧を得ることができるだろう。自分を納得させることができるだろう。それが救いとしては、たとえほんのわずかなものであったとしても、彼らにとっては僥倖であるはずだ。
エリシュカの想いに納得したツェツィーリアは深く頷いた。
「もちろんです。必ず、伝えましょう」
「ありがとうございます」
エリシュカは薄紫色の瞳を伏せ、銀色の頭を下げて礼を述べた。
長く厳しい冬に覆われた神ツ国は日照時間も短く、人々の身に宿る色は総じて薄い。とくに彼の地に先住していた民の末裔であるといわれる賤民たちには、鳶色の髪や瞳でさえ珍しい。金髪が多いが、どちらかといえば白金に近いような淡い色合いが主で、瞳の色も碧に青、琥珀に紫と多彩でありながら、どれもこれも総じて色素が薄く、見慣れぬ者の目には神々しく、どこか儚げな印象を与える。エリシュカの銀髪と薄紫色の瞳は、それぞれは決して特別なものではないのだった。
すべてはこの色のせいだ、とツェツィーリアはやり場のない苛立ちをぶつける場所を見つけたかのようにエリシュカの頭を睨み据えた。姫さまと同じ、この色のせいだ。
神ツ国は、神が己の代理人として遣わした教主一族と、彼らを慕う者たちが自然と集うことによって築かれた国であるとされている。少なくともこどもたちはそう教えられて育つ。
だが、それがまったくのまやかしであることをツェツィーリアは知っていた。
神ツ国を支配する教主一族は、理想の宗教国家を築かんとして、人の住む地ではないとされていた過酷な土地にやってきた者たちの末裔――主に西国あたりで宗教的迫害を受け、改宗を潔しとせずに追いやられてきた
彼らは生まれた土地を追われた者たちは新たな土地を支配するために、血をもって臨んだ。古くよりその地に先住していた民を、かつて自分たちがされたよりもさらにひどいやり方で迫害したのである。自分たちの宗教と文化と価値観を押しつけ、それにまつろわぬ者たちを、神の加護を拒む者たちとして虐げた。
厳しい自然と険しい土地に守られ、静かにひそやかに暮らしていたために他民族と交わることがなかった先住民たちは、新天地を求めてやって来た人々の気性の荒さに抗うことができなかった。先住民の多くは改宗し、新しい文化に染まって生きる道を選んだが、一部にはそうすることのできぬ者たちも存在した。
無理矢理押しつけられた神を崇めることのできなかった人々は、険しい山々の奥深くへと逃れるように移り住んでいった。彼らが明け渡したわずかな地には新たな街が築かれた。教主一族が住まう宮を中心とする、現在の神ツ国の都である。
唯一神を奉り、共通の価値観で団結する人々は小なりとはいえ一国を築き、急速に発展させていった。一方で緩い絆と自由を尊ぶ先住民たちは、相変わらず奥まった土地で穏やかに暮らしていた。
だが彼らの平穏は、永久には続かなかった。長い時間が流れるうちに、神の坐す聖地として国家の地位を盤石にした侵略者たちは、そうして隠れ住むようにしていた民らを敵視するようになった。国の支配者となった自分たちに従わぬ者として迫害し、さらに手前勝手な身分制度に組み込み、賤民として貶め、支配したのである。
ツェツィーリアは西国に留学していたあいだに、そうした自国の歴史をあらためて学び直した。友人たちに云われて気づいた、神ツ国に独特の身分制度と価値観の源を知りたいと思ったからだ。
そうやって学んだ史実は、ツェツィーリアに大きな衝撃を与えた。私は本当になにひとつ知らなかったのだ、とそのときの彼女は自らを恥じた。国の未来に絶望さえ感じた。
自分たちは神に遣わされた聖なる民族であり、賤民たちは神の加護を受けることのできなかった穢れた血脈を継ぐ者たちである、という戯言めいた神話を頭から信じていたわけではないが、己の祖先たちこそが強奪者であるという自覚はなかった。
これこそがわが国の歴史である、と教師や神官たちに教え込まれてきた建国の歴史や神話は、恥を知らぬ与太話だったというわけだ。
そう、私たちは侵略者であり略奪者であるのだ。先住民が穏やかに暮らしていた地に踏み込み、彼らを蹂躙し、すべてを奪い取った。私たちの歴史とはすなわち、他の民を圧することによって自らに聖性を与えた恥ずべき歴史だ、とツェツィーリアは思っている。
とはいえ、ツェツィーリアには、知識を得る以上のことはなにひとつできなかった。許されていた留学期間が終わると同時に国に連れ戻され、教主の宮へ仕えることとなった。まだ学びたいことがある、と父にどれほど訴えても許されることはなかった。
この国は歪んでいる、と口に出すことは最後までできなかった。そんなことはきっと、教主はおろか、父もほかの神官たちもみなが知っていることだろうと気づいてしまったからだ。誰もがみな真実を知りながら口を噤み、賤民への迫害と搾取を続けている。――国としての貧しさゆえに。
神ツ国は貧しい。
それもまた留学中に知ったことのひとつだった。ごく限られた種類の農作物しかまともに育たないような厳しい環境で、ごくわずかな土地にしがみついて細々と生きているのだから仕方のないことではある。
その厳しく貧しい国の現状こそが、不合理な身分制度の根幹にあるのだとツェツィーリアは思う。貧しく厳しい暮らしを強いられても、民に大きな不満を抱かせぬようにするためには、自分たちよりさらに苦しい思いをしている存在がいる、と思わせることがもっとも効果的だ。それこそが生贄の羊たる賤民である。
賤民とは政治的に作り出された被差別階級であり、教主をはじめとする神官たちが国を支配するために必要な装置のひとつなのだ。
そして私は、そうやって国を支配する神官の娘なのだ、とツェツィーリアは自身のありようをはじめて知った。西国へ行って学んだことは数多くあるが、自国について、あるいは自らについて知ることがもっとも多かったというのは皮肉な話だ。
だが国を知ったからといって、己を知ったからといってそれがなにになるというのだ。私にはなにもできない。
国許へと連れ戻されたツェツィーリアの、それが正直な思いだった。
いまもまた、とツェツィーリアは厳しい眼差しを緩めて、長く憂鬱なため息をついた。私はなにもできないまま、こうしてひとりの少女の命を奪おうとしている。
「エリシュカ」
そろそろ食事の支度が調うでしょう、と続ければ、薄紫色の瞳が素直に揺れる。
私はしばらくこの色を忘れることはできないに違いない、とツェツィーリアは思った。姫さまのそれよりも薄く、それでいて静かに光るこの一対を。
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