10

「殿下ッ!」

 無礼などというありきたりな言葉を吹っ飛ばすほどの勢いで、騒々しく私室に駆け込んできたオリヴィエに向かい、ヴァレリーはうんざりとした顔を向けた。折しも近衛騎士団での鍛錬を終え、いよいよ本格的な冬が到来しようというのに汗みずくになった衣裳を着替えようとしていたところである。

「今宵、妃殿下をお召しになられたというのは事実まことですかっ!」

 ああ、とヴァレリーはなんでもないことのように頷いた。襟元から順にシャツのボタンを外し、汗に濡れて不快になった衣類をまとめてばさりと脱ぎ捨てる。日ごろは装いの下に隠れて見えない逞しい身体が顕わになった。

 だが、たとえ王太子が目の前で女と励んでいても頬のひとつも赤らめることなく、彼に説教できるのがオリヴィエのオリヴィエたるゆえんである。たかが裸ひとつ、なにほどのこともないとばかりに、オリヴィエは浴室に向かうヴァレリーの後をついて歩きながら、じつにやかましく喚きたてていた。

「妃殿下とのお約束をお忘れになったのですか!」

 約束、とヴァレリーは身体に纏った衣の最後の一枚を脱ぎ捨てて浴槽に足を踏み入れた。王太子たる者、他者の助けなく入浴することなどありえない。王太子の身体を洗うために浴室に控えていた侍従は、浴槽の脇に仁王立ちするオリヴィエを、いかにも邪魔くさいものを見るような目つきで睨んでから、すぐに自身の仕事に取りかかった。

「白い婚姻のことです」

「ああ、あれか」

「あれか、ではございません」

 もちろん憶えている、と王太子は侍従の手に身を委ねながら、唇の片端を吊り上げて皮肉っぽく笑った。何日か前もその話をしたばかりではないか。

「半年後には国に帰られるお方でございます。いまさらなにを……」

「帰すつもりはない」

 はあ? とオリヴィエは素っ頓狂な声を上げた。

「なにをおっしゃってるんです?」

「帰すつもりはない、と云った。まあ、見ていろ、オリヴィエ」

 おまえは知ってるだろう、と王太子は不敵に続ける。

「このおれが欲しいと思ったものは必ず手に入れてきたことを」

 その言葉を聴いたオリヴィエの眉間に深い皺が刻まれた。――殿下は、いったい誰の話をしておられるのだろう。

「そんなことよりも、だ、オリヴィエ。叔父上は最近どうしておられる?」

「王弟殿下におかれましては、相も変わらず軍部の連中ときな臭いお話に興じられているようですよ」

 なんの前触れもなく話題を切り替えたにもかかわらず、オリヴィエは間髪入れずにそう答えた。

 一瞬にしてオリヴィエの顔が、幼馴染としてのそれから側近としてのそれへと切り替わるのを、どこかおもしろく眺めていたヴァレリーである。侍従から受け取った布で身体を拭いてしまうと、次々と手渡される衣類を身につけていく。

 騎士団の一員としての訓練も受けているヴァレリーは、王族でありながら自身の身のまわりのことはすべて自身でこなすことができる。王族としての体面を保つために周囲に人を侍らせることを嫌うわけではないが、必要以上に人の手を煩わせることをよしとしない性質の持ち主でもあった。

「相も変わらず、というと、トレイユ将軍か……」

 北方の守護将軍をもって鳴らすアドリアン・トレイユ閣下、と呼ばわるヴァレリーの声はじつに皮肉っぽい。


 ヴァレリーの父、現東国国王であるピエリック・ロラン・ラ・フォルジュには腹違いの弟ギヨーム・ジャン・ラ・フォルジュがいる。先王の正妃の子であるピエリックは幼いころより王位を継ぐべくして育てられ、側妃の子であるギヨームは兄を補佐するべくして育てられてきた。

 兄と弟とは云っても、ピエリックとギヨームは半年ほどしか歳が違わない。先王が計画性なく妃たちのところを渡り歩いたせいである。さりとて先王の妃たちの関係は――主に彼女たちの努力によって――決して険悪なものではなく、したがってピエリックとギヨームの仲も円満なものであった。

 ゆえに兄弟はそれぞれにそれぞれの役割を心得て育ち、ともに助けあうことをいささかも疑問に思ってはいなかった。――ピエリックが即位し、政治を行うようになるまでは。

 東国は、国王ひとりを司法、立法、行政および国軍の長に戴く、絶対王政国家である。それぞれに頭脳あるいは手足となる複数の大臣やら将軍やらを据えてはいるが、最終的な決定権はすべて国王にある。それは建国当時より変わらぬ東国の姿であった。

 ピエリックは王位に就いたのち、かねてよりの信念に基づき、ここに議会政治を取り入れたのである。これがギヨームにとってはおおいに不満のあることであった。

 ギヨームの誇りはピエリックの弟、国王の弟に生まれたことにあった。兄であるピエリックを支え、彼とともに国を治めていくことがギヨームの生きる価値だったとも云える。

 であればこそギヨームは、王位に就いた兄が議会を組織し、己以外の意見を求めることが悔しくてならなかったのだろう。彼は兄が招集した議会を軽んじ、敵視した。

 国王の諮問を受けてさまざまな議案を検討する議会には、大臣をはじめ数多の貴族や学者が名を連ねていた。ギヨームの振る舞いは彼らの怒りと軽蔑を買い、やがて彼は政治の場で孤立するようになっていった。

 いずれは力ある商人や教育者なども議会の場に加えるつもりでいたピエリックは、早いうちに弟と議会との和解をうながそうとあらゆる手を尽くしてきた。ギヨームの政治的孤立を公にしたくなかったためであるが、そのことごとくは無駄に終わることとなった。

 ヴァレリーは父の傍らでその一部始終を目にしてきた。父のやり方は間違っていない、とヴァレリーは考えている。絶対的な王を国の頂に据えるいまの制度は、遠からず破綻に向かうに違いない、というのが彼の考えであるからだ。

 少数の王族や貴族が既得権益を元手に多数を支配するやり方は、国の歴史が浅く貧しいときには非常に効果的かもしれない。国の一部に力と富を集中させる代わりに、それを握る者たちは、いざという場合の難事にあたることで国土と国民を守る盾となる。

 わが国はもうその段階にはないのだ、とヴァレリーは思う。多くの民の努力の甲斐あって、東国の科学技術と、それによって生み出される数多の製品の質は飛躍的に向上した。南国を通じた工業製品の輸出により、民のなかにも大きな富と力を蓄える者たちが多く現れるようにもなってきた。

 いまはまだいい。いかに力のある民が台頭してきたとはいえ、彼らはいまだに自らの暮らしを支えることに手一杯だ。国を支えているのは相変わらず王族と貴族たちである。

 だがいずれは、とヴァレリーには遠い将来が見えるような気がする。いずれ民はさらに力を蓄え、やがては自ら国を動かすことを望むようになるだろう。

 あたりまえだ。

 国とはつまり民であるからだ。民である彼らには、自らの国を動かす権利があり、義務がある。

 国王である父は、ヴァレリーと考えを等しくしていた。

 もし、政治制度をいまのままにその時がくれば、民にとってのわれらはひどく邪魔な存在となるに違いない、と父は云った。

 一方的に高い税を取り立て、なんの努力もせずに贅沢を貪る寄生虫。そう云われても仕方のないことであろうな。いまでこそ過去の武勲や功績にしがみついてもいられようが、やがてはすべてが忘れ去られる。目に見える利をもたらさぬ存在に、現世利益を第一に考える者たちは厳しい態度で臨むはずだ。――われらはいずれ駆逐されよう。

 冗談ではない、とヴァレリーは思う。いまのままでいられるなどと思い上がるつもりはないが、そう簡単に滅ぶつもりもない。必ず生き残ってみせる。

 そう云いきった息子に、ピエリックは、もちろんだ、と鷹揚に笑ってみせた。余はそのために議会を設けたのだから。

 民が国政を動かしたいと望むのなら、そうさせてやろう。だが、われらを追い出すことなどできぬよう、手は打っておくのだ。わかりやすい権益などくれてやればよい。その裏でわれらは真の支配を手に入れる。

 憎まれてはならぬ。軽んじられてもならぬ。しかし、愛されなければならぬ。王室を開かれたものへと変え、権威を失わぬままに国の礎として親愛の対象となるように仕向けねばならぬ。余とおまえとで。

 そのときの父はすでに悟っていたのだろう、とヴァレリーは思う。幼少のころより右腕として傍らにあった弟ギヨームが、いずれ己とは袂を分かつだろうことを。

 そして事実そのとおりになりそうだ、とヴァレリーは思う。

 現在の叔父にはさしたる権力が許されていない。議会を敵にまわし、国王のとりなしがあってなお政治の表舞台に立つことが難しくなってきた彼は、多くの公職には就いているものの、そのほとんどは形骸化したただのお飾りとしての座にすぎない。ギヨームの言葉は王弟のそれとしてどれもこれも恭しく取り上げられるが、それが形となって実行されることはない。

 王弟はいまやなんの権力も持たせてもらえぬ存在と成り果てている。それが彼自身に責のあることと捉える周囲とは裏腹に、ギヨームの不満は募る一方だ。

 そしてそのように軽んじられても、彼は生来の真面目な性格が幸い、あるいは災いして女にも酒にも遊興にも溺れることはなかった。

 代わりに彼が溺れたのは陰謀である。

 王弟ギヨームが王座の転覆を図っていることを、王城のなかで知らぬ者はいない。民草のあいだでさえ、すでに囁かれるようになっているその噂にはいくつかの説がある。

 だが、どれもこれも結局は同じことだ、とヴァレリーは夏空色の目を冷たく光らせた。

 軍部の一部と結託し、兄である国王ピエリックと第一王位継承者である王太子ヴァレリーを弑して、自らの子であるエヴラール・ジェルマン・ラ・フォルジュを王位につける。自身が王座に就かぬのは、現国王が崩御した時点で王位継承権が次世代へと移り、王弟である己の継承順位が大きく後退するためである。

 おれが死ねば、あの従弟が第一王位継承者になるのはたしかだからな、とヴァレリーは思い、しかし、彼にはただぼんやりとして殺されるのを待っている理由などない。もちろん国王である彼の父にもだ。

 ギヨームの謀は彼の意に反してさほど進展をみせていない。

 それにはちゃんと理由があった。

 王弟の子、つまりヴァレリーの従弟であるエヴラールは、王城の学問所で地質学を研究しているごく穏やかな気質の青年である。生き馬の目を抜くような政治の前線に打って出る気など毛頭なく、学問の世界に閉じこもったまま終生を過ごしたいと心の底から願っているような、繊細な神経の持ち主でもある。

 エヴラールが、彼の父ギヨームの企みに賛同したことは一度もない。

 父さまのなそうとしていることは国家の理に反することです、というのが物心ついて以来の彼の口癖であるというのは、王城内の者たちがあまねく知る噂のひとつである。真偽を確かめた者などいないが、当たらずとも遠からずと云ったところなのだろうな、とヴァレリーは思っている。

 あいつのことはそれほど気にせずともいい。王弟や軍部の人間に担がれることがあったとしても、自身でなにごとかを企むほどの野心を持ち合わせてはいない。まつりごとにかかわるひまがあるのなら、地層の年代を遡ることに情熱を傾けていたい男なのだ。

 ヴァレリーがオリヴィエに命じて探らせているのは、王弟と軍の一部、国の北方の守備についているアドリアン・トレイユ将軍とその配下の者たちであった。

 国の北部の守りとは、すなわち寒波を中心とする自然災害への備えと、急峻な神ノ峰を越えての神ツ国からの密入国者の取締りを主な目的としている。

 争いが絶えて久しいこの大陸では、どの国家においても軍部は縮小の一途を辿っている。東国のそれも、他国との争いを念頭に置いてはおらず、権威の象徴としての示威、あるいは災害や内乱への備えといった側面が大きくなっていた。

 トレイユはそれも気に入らぬのだろうな、とヴァレリーは思う。国王よりも年長であるトレイユ将軍は、大陸内での戦争を経験した最後の世代である。

 大陸内における最後の戦争は、いまから六十年以上も前に終結した。西国と東国が、現在は南国の領土となっている、ある地域についての権益を争い、武力衝突を起こしたのである。当時から突出した技術力を誇っていた東国と、太古の世より続く秘術をいまだに受け継ぐ者が存在すると云われている西国との争いは、互いに持てる戦力、そのあまりの質の違いゆえにひどく長引き、激しい消耗戦となった。

 結局、双方ともに国力を疲弊させるなか、神ツ国が仲裁を申し出、戦地となって土地を荒らされた南国が本来の領有を主張して、これが受け入れられることとなった。

 労多くして実りなし。威信と財力とを大きく損ない、民からの信望を失うだけに終わった戦の果てに、わが国が得たものはなにひとつなかった。

 それが、戦というものに対するヴァレリーの見方である。

 だがトレイユは違う。戦の当時、まだほんの幼児だった彼は、徹底した戦時教育を受けて育った。戦士であると同時に策士でもあるトレイユは、王弟が隠しもしない不満につけ込み、彼を煽って謀反を企てようとしている。

 もっとも彼らに賛同する者などほとんどいないだろうがな、とヴァレリーは思っている。

 この大陸は広い。広いが、無限ではない。この限られた場所に、それぞれに体制も主義も主張も異なる国々が共存していかねばならぬのだ。相争っていてそれが叶うとは、王太子にはとても考えられない。

 他国を踏み躙ればいつか必ず報復される。それは逆もまたしかりである。誇りを蹂躙されたままにそれを忘却できるような国家などありえない。自国を荒らされぬようにするためには、他国に対する警戒と防御を怠らず、しかし能う限りに相和して、ともに歩んでいくよりないのだ。

 トレイユにはそれが理解できぬらしい。なにかといえば好戦的な言動を繰り返す彼のことは、議会はおろか軍部さえもが持てあましていると聞く。

 自国の繁栄と他国の繁栄とが共存することを感情的に受け入れることができぬ将軍は、いまや軍部における老害だな、とはヴァレリーがオリヴィエに漏らした正直な思いだった。


「具体的な動きはないのだろう?」

「ございません。お年寄りの暇つぶしでございましょう」

 いまのところは、とオリヴィエは小さく付け加えた。ヴァレリーがちらりとオリヴィエに視線を投げた。

「エヴラール殿下を取り込まれると厄介ですが……」

「あの似非学者はどうしてる?」

 似非、とオリヴィエはぎょっとしたような顔をしたが、いまは南国との国境のほうへ採掘調査に出かけられているようですよ、と答えた。

 地質学の研究に熱心なエヴラールが、王城を留守にして地方へ調査に出かけることは珍しくない。そうか、とヴァレリーは頷いて、身につけたシャツの襟の歪みを直した。

「引き続き監視を怠らぬように」

「承知しております」

 なにかを誤魔化された気がしてならないが、ここは誤魔化されておくのも役割か、と複雑な顔をする忠実な部下の、ごく従順な返事を聞き届けたヴァレリーは執務机に向かうと、激しい鍛錬を終えたばかりの夕刻の気怠さなど片鱗も見せぬまま、書類の山を切り崩しにかかった。

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