09

 東国王城におけるエリシュカの仕事は多岐にわたっている。

 彼女がいまどこでどうしているか、すぐに思い起こすことができなかったベルタは、ひとまず洗濯部屋へと向かった。もうもうと湯気がこもり、盥をひっくり返してでもいるのか、ときおり激しく水音が響く地下室には、女たちの元気いっぱいの大声もまた響き渡っている。

「失礼します」

 入口のあたりからどれだけの声を張り上げても、ベルタに気づく者などひとりもいない。ベルタはずかずかと室内に入り込み、一番近くにいた女に背後から話しかけた。

「エリシュカを知りませんか?」

 たったそれだけのことを尋ねる短い時間に、ベルタの全身は、湯気と跳ね散らかされた石鹸水とでしっとりとした湿気を帯びてしまった。

「なんだい、あんた?」

 自分たちとは明らかに異なる濃茶色の侍女の仕着せを着たベルタを、胡散臭いものでも眺めるような目つきで見て、洗濯婦のソフィは大声を張り上げた。

「あの子になんの用だい?」

 口調に棘が混じっているように感じるのは気のせいではあるまい。労働の厳しさや彼女自身の気質のせいにはとどまらない敵意がその声に潜んでいることを、ベルタの敏い耳はきちんと感じ取っている。

 ベルタはやわらかな口調を保とうとした。自分はエリシュカに害をなす存在ではないのだ、と洗濯婦に思ってもらえるよう、意識して努めたのである。――いまの私になど会わないほうが、エリシュカにとって幸いだということを、彼女たちに気取られてはならない。

「大事な伝言があるんです。仕事のことで」

 ソフィは不躾を承知のうえで、じろじろとベルタの全身を見回した。見たことのない顔だね、と彼女は思案していた。たびたびここへやってきてはエリシュカの仕事にあれやこれやと難癖をつけたり、ときには仕上がったばかりの洗濯物を汚したり、破いたりという悪質な厭がらせをしていく連中とは違うようだ。

 あたしらが目を光らせるようにしてからは、そんなことも減ってきてはいたけれど、油断はできないね、とソフィは思う。あの可愛らしい頑張り屋が、同郷の連中からどういう扱いを受けてきたか、あたしらはこの目で見て知ってんだ。

「仕事?」

「はい。王太子妃殿下付第一侍女ツェツィーリアさまのお仕事で」

 洗濯婦たちを敵にまわすことはできないけれど、彼女たちを相手にしてぐずぐずしていることもできないベルタは、虎の威を借りてにっこりと微笑んだ。

 ソフィは言葉に詰まって、それでも、そうかい、とどこか悔しげに呟いた。

「あの子なら、この時間は王太子妃の庭の手入れをしているはずだよ」

 わかりました、とベルタは答えた。

「ありがとうございました」

 軽く膝を折って礼を云う。そして彼女は洗濯婦たちに対し、心のなかでは別のことにも感謝をしていた。――エリシュカに親切にしてくれて、ありがとう。

 ベルタはそのまま王太子妃の庭へと向かう。

 通用口から外へ出ると、彼女の頬を嬲るように、ひどく冷たい風が狭い通路を吹き抜けていった。思わず首を竦めながら急ぎ足で進んでいく。東国の晩秋は神ツ国のそれに比べればまるで春のようにぬるいけれど、それでも寒いことには変わりない。とくに今日の寒さは身に沁みるようだ、とベルタは思った。

 王太子妃の庭は、異国から嫁いできたシュテファーニアの目を少しでも楽しませようと、さまざまな工夫が凝らされている。わざわざ故国から運ばれてきたと思しき樹々や草花、いきものの姿を模った刈込トピアリーに至るまで。

 ベルタは鹿の形を模した刈込の陰からエリシュカの姿を見つけ、足早に歩み寄った。彼女のすぐ傍にいた庭師とその弟子の存在は眼中になかった。

「エリシュカ」

 声を上げて呼べば、すぐにベルタの姿を認めたエリシュカが驚いたように目を見張った。

「ベルタさま」

 どうなさったのです、とばかりに首を傾げるエリシュカの前に立ったベルタは、見れば見るほど美しく思えてならない銀髪と薄紫色の瞳をじっと見つめた。

「エリシュカ。ツェツィーリアさまがお呼びよ。すぐに来て」

 はい、とエリシュカは頷いた。賤民である彼女は、誰かからなされる命令に疑問を挟んだり、異を唱えたりすることはない。どんな言葉もすべて受け止め、黙って従うものだと思い込んでいる。

 仕方がないことだとはわかっていても、そんなエリシュカの姿を見るたびに、ベルタはやりきれないような気持ちになる。ひと言でいい、たったひと言、厭だ、と云ってくれないだろうか。もしもその言葉を聞けたなら、私はどうにかしてあんたを助けるべく動くことができるのに。

 実際のところを云えば、王太子妃であるシュテファーニアからの命令を、彼女付きの侍女にすぎないベルタにどうこうできるはずはないのであり、そんな思いはベルタの自己満足でしかない。

 友を想う気持ちの尊さとベルタ自身の現実とは、じつに遠く遠くかけ離れているのだ。

 庭師のジスランと彼の弟子クレマンは、突然現れたベルタと彼女の言葉を訝しみ、顔を見合わせて首を傾げた。朝早くから夜遅くまで日がな一日、なにくれとなく仕事を云いつけられ王城内を駆けまわっているエリシュカだが、ひとつの仕事の途中でこんなふうに呼びつけられるようなことは滅多にない。否、ジスランとクレマンが知る限りでははじめてだ。

「いったいなにごとだね?」

 侍女同士の事情などなにも知らぬふりで、ジスランは尋ねた。ベルタはびっくりしたように庭師を見て、それからエリシュカを見た。エリシュカは困ったような顔をしてジスランを見る。視線がぐるりと一巡し、口を開いたのはクレマンだった。

「親方はいま、エリシュカに、除虫剤に使う薬草を訊いてたところだったんだ。それが終わってからでも遅くないだろ」

 いいえ、とベルタはきっぱりと首を横に振った。

「とても急ぎの用事なの。虫除けのことはまた後日にしてちょうだい」

 後日があればね、とベルタは内心で苦々しく付け加える。

 どうかエリシュカが、この人のよさそうな庭師たちに、除虫剤だかなんだかについて教えることのできる日が来るといい、とベルタは思う。どんなささやかなものであってもいい、その約束がエリシュカの命を救うよすがになるよう、私は願う。

 困るんだがなあ、とジスランは食い下がった。彼は王城内の事情にさほど通じているわけではなく、いまもベルタの声音や表情から、なにやらただごとではない気配を感じてエリシュカのことを案じているだけである。ベルタにはそのことがよくわかった。

 この庭師はきっとエリシュカによくしてくれていたのに違いない、とベルタは思った。神ツ国の教主の宮にいたころには滅多に見ることのできなかった、エリシュカの素直な表情は、きっと彼らや先ほどの洗濯婦のような者たちが引き出してくれたものなのだろう。ほら、いまだって、エリシュカは、大丈夫ですよ、と私でさえそうそう目にすることのなかったやわらかな笑みを彼らに向けているではないか。

「きっとツェツィーリアさまに急ぎのお仕事ができたのです。すぐに承って、終わったらまた戻ってきます。早いうちに虫除けをしておかないと、春先に大変ですものね」

 そしてベルタに向き直り、お待たせいたしました、と頭を下げた。

 もしかしたら私も、このふたりの庭師のように強張った顔をしているのだろうか、とベルタは思った。エリシュカが向けてくる微笑みが、誰かを安堵させるためのものであると気がついてしまったからだ。

 ベルタは自嘲せずにはいられない。誰かを、ではない。その誰かとは、私をおいてほかにいないではないか。

 お願いだから、エリシュカ、とベルタは思った。あんたに災いをもたらそうとする私に、そんなふうに笑いかけたりしないでちょうだい。


 エリシュカを伴ったベルタは、ツェツィーリアの私室の扉をごく控えめに叩いた。

 第一侍女としての執務室ではなく、彼女の私室へ通されようとしていることに気づいたエリシュカは、どことなく緊張して声がかかるときを待った。

 シュテファーニア付きの侍女たちからは、ときに過酷な苛めと紛うほどにきつくあたられることも多いエリシュカだが、歳の近いベルタと、主である王太子妃シュテファーニアにもっとも立場の近いツェツィーリアのふたりからは、これまでただの一度も理不尽な目に遭わされたことがない。

 それにもかかわらず、わたしはさっきからひどく緊張している、とエリシュカはきちんと自覚していた。

 原因のわからない緊張は、いつも明るく口数の多いベルタが、今日に限って王太子妃の庭からここまでひと言も口をきかないせいだったのかもしれないし、そのときの仕事を中断してまで呼び出されることに対する警戒心のせいだったのかもしれない。

 ジスランと彼の弟子のクレマンに向かって、大丈夫、と云ってみせはしたものの、エリシュカの小さな胸は不安ではちきれそうになっている。

 エリシュカにとっては、ツェツィーリアもベルタも、あのまま故郷にいたなら直接口をきくことなど決してありえない立場の女たちである。

 もっともベルタは、教主の宮にいたころから少々変わっていて、エリシュカとも、母マリカや妹ダヌシュカとも親しくしてくれていた。だがそれは、あくまでもベルタ個人の性質によるものであって、本来であれば、神官の娘である彼女たちと賤民であるエリシュカとは、視線を交わすことさえ許されていない。だいたいエリシュカがこうして異国のものとはいえ侍女の仕着せを纏うこと自体、異例中の異例なのだ。

「入りなさい」

 ベルタのノックに応えたツェツィーリアの声は硬く尖っていた。ベルタは素早く扉を開けて、エリシュカの身体をその内側へと押し込んだ。

「ベルタもですよ」

 あなたにも仕事があるのですから、と云うツェツィーリアの声には、あなただけ逃げるなんて許しませんよ、という彼女らしからぬ響きが含まれていた。

 いくらツェツィーリアさまと云えども、この重荷をひとりで背負うのはつらすぎるということなのだろう、とベルタは思った。ツェツィーリアさまとて鬼ではない。それに私だって、エリシュカに訪れる悲しみを遠くからただ見守るよりは、せめてそばにいて支えてやりたい。あるいは彼女のささやかな慰めになれるのなら、それに越したことはない。

 ツェツィーリアの前に歩み出たエリシュカは、なかば跪かんとするほどに深く腰を折った。そんなエリシュカの銀色の頭をしばらく見つめていたツェツィーリアは、やがて、顔をお上げなさい、と静かに云った。

「エリシュカ、姫さまからあなたにお達しがあります」

 ツェツィーリアは両手の指をきつく絡ませ、自らの臍のあたりに押しつけるようにして立っていた。まっすぐに伸びた背筋は平素の彼女となんら変わりのないようにも見えたが、強張った表情は隠しようもなかった。

「今宵、あなたには王太子殿下の寝所へ赴くようにと」

 いまわたしはなにを云われたのだろう、とエリシュカは思った。返事をすることも忘れ、彼女はなかば呆然として第一侍女の顔を見つめてしまう。

「私とベルタが支度を手伝います。ベルタ、湯殿の支度が整っているかどうか見てきてください」

 第一侍女であるツェツィーリアの私室には、専用の浴室が設えられている。贅沢を嫌うツェツィーリアは一度もそうしたことがなかったが、その気になれば下女をひとりかふたりつけて入浴できるだけの広さの浴槽と、身支度を整えるに十分な広さの化粧台とが用意されていた。

 ベルタは静かに一礼し、ツェツィーリアが示した扉へとするりと身を滑り込ませた。

 ツェツィーリアはエリシュカに向かって歩み寄った。

 冷たく荒れた、緊張に強張る哀れな指先をじっと見つめていたツェツィーリアは、やがて、エリシュカ、と短いあいだにすっかり青褪めてしまった少女の顔を覗き込んだ。視線の定まらない薄紫色の瞳がよりいっそうの哀れを誘う。

 銀色の髪に紫色の瞳。総じて王太子妃のほうがよりはっきりとした色合いではあるが、シュテファーニアとエリシュカがその身に纏う色彩はよく似ている。

 この事実こそが、賤民であるエリシュカが侍女の列に加えられた理由であった。

 幼いころよりいずれは大巫女になるものと思い定めて育ってきたシュテファーニアは、王太子ヴァレリーとの婚姻を望まなかった。国と国との盟約を守るため、己の意志に反して東国へ輿入れした彼女は、王太子に向かって白い婚姻を迫り、それを受け入れさせた。

 神に仕える一族の末娘であるシュテファーニアは、ひとつの国を治める政治家の娘でもある。周囲が思うよりもよほどよく世間を知る彼女は、自分の身を護るための策をいくつも用意していた。

 教主である父には王太子に宛てた時候の挨拶を欠かさずしたためるよう――そして、そのなかに必ず自分の身を案ずる一文を入れるよう――願い、神官長には折に触れての祈りの言葉を認めた書状を届けるよう指示してあった。むろん、己がやりとりするすべての書簡に東国の監視の目があることを承知のうえでのことである。

 いずれは神と契るべく信心深く育った姫巫女。盟約に従い王太子妃としての王城にとどまりはするが、夫婦としての契は交わさない。シュテファーニアはヴァレリーに対して、そう約束させ、一部の隙も見せないようにと努めた。

 そのうえでヴァレリーが白い婚姻を受け入れなかった場合、あるいは結婚生活のなかばにおいて意を翻した場合、すなわちシュテファーニアに夫婦関係を迫ってきた場合についても、きちんとその回避策を用意していたのである。

「エリシュカ」

 呼びかけてくる穏やかな声音が、エリシュカに厭でも現実を思い知らせてくる。さきほどの命令が、決して間違いなどではないという現実を。

「私の声が聞こえていますね」

 はい、という言葉さえ発することのできないエリシュカを、ツェツィーリアは悲しみのこもった瞳で見つめた。

「そのままで聞くのです、エリシュカ」

 エリシュカの指先にわずかに力がこもった。

「さきほど、王太子殿下が姫さまを今宵のご寝所へお召しになられました。姫さまは、あなたに殿下のお相手をするようにと仰せです」

 あえて言葉を選ばぬツェツィーリアの率直さは、しかしエリシュカを救いはしなかった。ぐらりと傾いだ華奢な身体をツェツィーリアは痛ましく見つめた。

「あなたにとって大変酷なことを云っているのはわかります。ですが、私にはどうしてあげることもできない」

 わかりますね、とツェツィーリアは云った。

 エリシュカがこの東国まで連れてこられたのは、はじめからこのためであったということを、ツェツィーリアはよく知っている。教主直々の命を受けたのは、ほかならぬ彼女であるからだ。

 あのときの教主の迷いのない声をツェツィーリアは忘れたことはない。もしも東国王太子が万が一にもわが娘を求め、しかし娘がそれを拒む場合には、あの賤民の娘を差し出し、シュテファーニアの身を守るのだ。

 シュテファーニアと同じ髪と眼の色をしたエリシュカは、国にとって――あるいは教主自身にとって――大切な巫女姫たらんとするシュテファーニアを守るために用意された形代なのだった。

 ツェツィーリアの表情に迷いはなかった。それを見たエリシュカは、わたしが姫さまの身代わりとなって王太子殿下のお部屋へ伺うことは、もう決められたことなのだろう、と悟った。

 夫に召された妻の代わりに、その夫の寝所へ赴く。そうすることが自身にどのような結末を招くか、ということくらいエリシュカにもわかっていた。

「私とベルタとであなたの支度を調えます。食事もここですませなさい。なにか食べたいものはありますか」

 いえ、とエリシュカは首を振った。特別なことは必要ない。

「支度を調えたあと、少しだけ時間を作ります。家族に書状を書くといいでしょう。わたしが代筆します」

 はい、とエリシュカは頷いた。心は静かに落ち着いていて、なにも感じられなかった。

 なぜわたしはこんなにも穏やかでいられるのだろう、とエリシュカは思う。――あと数時間もしないうちに殺されるというのに。

 王太子妃の代わりにその夫の寝所へ赴くとは、つまりそういうことである。寝所へ妻を呼んだはずが、見も知らぬ侍女がやってくれば王太子は怒り狂うはずだ。その場で斬り殺されてもおかしくはない。否、当然そうなるだろう。

 ただし、侍女の命を差し出してまで自分を拒む妻を、夫が二度も求めることはない。つまりエリシュカは、シュテファーニアの純潔と引換えに、今夜、命を落とすのだ。

 ツェツィーリアやベルタは当然のことながら、シュテファーニアもむろんそのことを承知したうえで、エリシュカに王太子の寝所へ行けと命じている。その身をもってわたくしを庇え、と。

 わたしは最初からそのためにここに連れてこられた、とエリシュカは自身の運命を静かに見つめた。わたしがすべきことは、ツェツィーリアさまとベルタさまの手を煩わせぬようおとなしく支度を調えてもらうこと。それから、王太子殿下の部屋へと赴き、この命と引換えに姫さまの無事を乞うこと。それですべてなのだ。

 エリシュカは静かに目蓋を閉じた。己の命よりも、シュテファーニアの純潔を守ることのほうが大事なことなのだと、彼女自身理解しているかのようだった。

 ツェツィーリアさま、と浴室の扉を開けてベルタが顔を覗かせた。

「湯の支度が整いました」

 わかりました、とツェツィーリアは答えた。

「いらっしゃい、エリシュカ。急いで支度をしなければ」

 わかりました、と答えたエリシュカはそれきり口を閉ざし、ツェツィーリアとベルタに静かに身を任せた。

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