08

 王太子妃付侍女がさまざまな執務を行い、あるいは主からの呼出しがあるまで控えているための部屋は二間にわかれている。奥の間は、第一侍女であるツェツィーリア専用の執務室となっており、廊下から扉一枚隔てただけの取次の間は、そのほかの侍女たちがみなで使用することになっている。

 シュテファーニアの私室は、侍女控室からそれこそ数十歩で到着できる距離にあり、そこには常にふたりの侍女が控えていることになっている。主が望めば主の傍らで、そうでないときはやはり廊下から扉一枚で仕切られた控えの間で主の命令を待ち続けるのである。

 シュテファーニアは傍らに人の気配があることを望むことが多く、妃殿下の私室に控える侍女は、たいていが彼女の傍に侍ることになる。他者に対する要望が多く、人の好悪も激しいシュテファーニアのお気に入りは、ツェツィーリアをはじめとする数名しかおらず、したがって彼女の部屋に控えることができる者の人数もごく限られていた。

 十五名いる王太子妃付侍女のうち二番目に若いベルタ・ジェズニークは、残念ながらシュテファーニアの傍に侍ることを許されていない。したがって彼女は、勤めの多くの時間を侍女控室の取次の間で過ごすことが多かった。

 シュテファーニアのそばに侍ることが許されずとも、侍女たちがこなさねばならない仕事はじつに多種多様である。手紙を届けるなどのちょっとした使いに出たり、読みたいと云われた書物を手配することもあれば、宴のための衣裳を指示どおりに揃えたり、洗い物や繕い物の指示を出したりすることもある。シュテファーニアの茶や食事の支度をすることもあれば、寝所を調えることもあるし、外出を望めばその下見に出掛け、馬や護衛の手配もする。主の目に触れない場所で、侍女たちはいつも彼女のためにさまざまな雑務をこなしている。

 そのときのベルタは、いまからちょうどひと月後に開かれる予定となっている、エヴェリーナ王妃の誕生祝の宴に出席するシュテファーニアのために、新しい衣裳の手配をしているところだった。

 王妃エヴェリーナ・ヴラーシュコヴァーは、その姓が表すように、神ツ国の教主の血筋に連なる者である。教主マティアーシュの従姉であり、シュテファーニアにとっては遠縁の伯母にあたる人物である。

 だから、というわけでもないが、シュテファーニアは王妃が催す茶会や晩餐会にはこれまで欠かさず招待されており、今度の誕生祝の宴にも、必ず顔を見せるように、と強く云われていた。

 下手なものを用意するわけにはいかない、とベルタは自分に気合を入れた。

 ひと口に、衣裳の用意、と云っても、するべきことは山ほどある。

 シュテファーニアの衣裳を管理させている下女に新しく誂えたものの出来栄えを確認し、それに合わせた宝飾品や靴や手袋の用意をさせ、髪に飾る季節の花を選ばなくてはならない。用意した衣裳がシュテファーニアの気分に合わなかったときのために複数の組み合わせを考えておく必要もあるし、あるいはほかの出席者の方々、とくに王妃陛下のお召し物と色味や雰囲気が重なってしまうことがないように、侍女同士の根回しも欠かすことはできない。

 王妃陛下付の侍女の方々はみな気位が高くて、些細なことをお尋ねするのにもやたらに疲れるのよね、などと嘆息しながら下女と打ち合わせをしているベルタの耳に、奥の間から呼び鈴の音が届いた。

 たったいま、この取次の間にいる侍女はベルタだけである。あれは自分を呼ぶ音だ、と気づいたベルタは、下女に向かって凄まじい早口で用意すべき靴の数種類について指示したあと、すぐに奥の間へと飛んで行った。

「お呼びでしょうか、ツェツィーリアさま」

 執務机の向こう側に腰を下ろし、自分の額を覆うようにして項垂れているツエッィーリアの姿に、ベルタは一瞬どきりとした。お加減でもすぐれないのだろうか。

 ツェツィーリアさま、とふたたび呼びかけると、第一侍女はその有能さに似合わぬ、じつにのろのろとした仕草で顔を上げた。

「ああ、あなたでしたか」

 よかった、と呟いたように聞こえたのは気のせいだっただろうか。どうかなさいましたか、とベルタは低く潜めた声で尋ねた。大きな声を出せば、それだけでツェツィーリアが儚くなってしまいそうな、妙な気分にさせられたからだ。ツェツィーリアの顔色はそれほどに悪かった。

「いま、控えの間にはあなただけでしたか」

「はい。……えっと、誰か呼びましょうか?」

 いいえ、とツェツィーリアはベルタの言葉を鋭く遮った。あなたに頼みたい仕事があるのよ、ベルタ。

「私に、ですか?」

 ええ、とツェツィーリアはまたもやのろのろと頷いた。ベルタは首を傾げる。氷の女と渾名される、この鋼鉄の第一侍女にいったいなにがあったというのだろう。姫さまが王太子殿下に召されたこととなにか関係があるのだろうか。

 やがてツェツィーリアは深いため息をひとつつくと、なにかを思いきったかのように顔を上げた。小さな眼鏡の奥の瞳を幾度か瞬かせると、そこへかけて、と執務机の横にある椅子を示して頷いた。ベルタはおとなしく従う。

「エリシュカのことは知っていますね」

 え、とベルタは思わず問い返してしまった。この場で持ち出されるにはあまりにも意外な名前だったからだ。

「エリシュカ。わかりますね、もちろん」

「は、はい」

 ベルタは戸惑いながらも頷いた。知らぬわけがない。侍女たちのなかでもっとも若く、もっとも身分が低く、そしてもっとも美しいエリシュカ。いつも必死に働いているか、そうでなければ黙って俯き加減に控えているかだから目立たないけれど、あの子は私たちのうちの誰よりも可愛い、とベルタは思っている。

 賤民でありながら侍女としての待遇を受け、ともにシュテファーニアに従ってきた彼の少女は、ベルタにとってはただの同僚以上の存在でもある。

「今宵、王太子殿下のお部屋にはエリシュカが召されることになりました」

 ベルタはぽかんと口を開けてしまった。なんだって。ツェツィーリアさまは、いまなんと云った。エリシュカがどうするって?

「エリシュカをすぐに私の部屋へ通して必要な支度をなさい。姫さまにするのと同じお支度を調えるのです」

 待ってください、とベルタは立ち上がった。

「いったいどういうことですか?」

 なぜエリシュカが王太子殿下のご寝所なんかへ行くんですか、姫さまと同じお支度とはいったいどういう意味なんです、というか姫さまはいったいどうなされるんです。目を見開いて叫ぶベルタの顔を見上げながら、ああ、そうだ、これこそが正しい態度だ、とツェツィーリアは思った。

 ベルタ、ベルタ、と幾度か名を呼んでやると、彼女はようやく口を噤んだ。だが、スカートを握りしめる手は震えているし、立ち上がったまま座ろうともしない。

 ツェツィーリアは深く頷いて、吐息とともに、お座りなさい、と命じた。

 ベルタは糸の切れた人形のようにすとんと椅子に腰を下ろす。

「ベルタ、あなたはエリシュカと親しいのですね」

 ベルタの唇が震え、幾度か開いては閉じられる。やさしく自分を見つめるツェツィーリアにでさえ、その事実を告げることを躊躇っているようだった。

「あなたを咎めたりはしませんよ、ベルタ」

「咎められるようなことはなにもしていません」

「ええ、そのとおりです」

「エリシュカは友だちです。……大事な」

 ええ、とツェツィーリアは深く頷いた。

「だからあなたに頼むのですよ、ベルタ」

 ベルタは頷くこともできないまま奥歯をきつく噛みしめた。これが現実なのだ、と彼女の頭のなかで大きな声が響く。これが私たちの故国の現実なのだ。

「よいですか、できるだけ人目につかないよう、エリシュカを私の部屋へ連れて来るのです。あの子の支度は私とあなたとで行います。このことは他言無用です」

 わかりますね、とツェツィーリアは念を押した。

 ベルタは深く頷いて、質問をしてもよろしいでしょうか、と尋ねた。

「いったいどなたがこんなひどい……」

「なりませんよ、ベルタ」

 その質問を口にしてはなりません、とツェツィーリアはベルタの言葉を遮るようにしてそう云った。

「質問は許しません。すぐに云われたとおりにするのです」

 ベルタはなおいっそう強くスカートを握りしめた。――悔しい。

「ツェツィーリアさま」

「急ぎなさい、ベルタ」

 強い口調で命じられ、ベルタはそれ以上抗議することはできなかった。エリシュカのためになんの役にも立てない自分が悔しい。悔しくてたまらない。だが、それがいまのベルタの限界なのだった。

 ベルタはツェツィーリアに頭を下げて踵を返し、急ぎ足で部屋を出て行った。

 背中に怒りを乗せて部屋を出ていく年若い侍女を見送ったツェツィーリアは、先ほどの彼女と同じくらい強く拳を握りしめる。綺麗に整えた爪が掌に食い込む痛みさえも、心の痛みに比べればないも同じだ。

 いったいいつまでこんなことを続けるつもりなのだろう、とツェツィーリアは思った。


 神ツ国は、大陸のほかの国にはない特殊な身分制度をとっている。教主や神官をはじめとする貴族階級、商家や教師などを生業とする平民階級、それから賤民と呼ばれる被差別階級から成るそれである。

 賤民と呼ばれる人々の職はさまざまであるが、そのすべては神が定め給うたとされる穢れに触れるものである、と考えられている。人の病や死に触れる医師、馬やそのほかの家畜の身体や汚物に触れる厩医。いきものの命を奪いその肉を加工する屠殺師、罪人の首を落とす処刑人、遺体を清め葬る死化粧師。いきものの死骸に触れてその皮革を扱う職人やさまざまな汚れに触れる洗濯婦や掃除婦などももちろん賤民の生業である。

 賤民たちの職は、どれもこれも人々の生活に欠かすことのできないものばかりである。にもかかわらず、彼らはひどい差別を受けている。主とされる者に仕え、ときに売買され、満足な給金をもらうこともできず、教育を受けることもできない。ただただ一生を働きづめで過ごし、住む場所を己で定めることも生涯の伴侶さえも自由に得ることはできない。

 すべては主となった者の意に従うしかないのだ。

 賤民同士の絆は固く、最低限の教育などは親から子、あるいは大人からこどもへとなされることもあるようだが、彼らの大半は生きることに必死で、それゆえに悲惨な境遇にある者も少なくない。

 こうした制度が、神ツ国に特有のものであることをツェツィーリアが知ったのは、教主の宮に侍女として仕える直前、西国へと留学した際のことだ。

 ごく短い期間のことではあったが、生まれ育った国を離れての暮らしは、ツェツィーリアの価値観を根底から覆すものとなった。

 農業で国を支える西国では、その身分にかかわらず誰もが等しく農作業を学ぶことが義務付けられている。皇帝の一族を教育する高等教育機関であっても、農業実習がその課程に組み込まれており、己の靴紐さえも己の手では結ばないような者たちも当然のように土に触れ、堆肥を汲む。

 高等神官の娘として真綿に包むようにして育てられ、それまでこえの臭いを嗅いだことさえなかったツェツィーリアは、農業実習の最中、施肥作業に励む級友たちを前に、こんなのは私のすることじゃないわ、賤民のすべきことよ、と云い捨てて、彼らから白い目で見られ、鼻で笑われた。

 そのときはじめて、彼女は自分の常識を疑うことになる。――自国の制度と、それを不思議にも思わなかった自分とを。

 そのときのツェツィーリアは、最後まで堆肥を撒くための柄杓に触れることはできなかった。級友たちが腰を屈めて作業を続けるなか、ただひとり呆然と畦道の真ん中に立ち尽くしていた。

 授業が終わり、寮へ戻ってから、ツェツィーリアは、それまでただの一度も打ち解けたことのなかった相部屋の級友たちと、夜遅くまで話し込むこととなった。

 ツェツィーリア以外の三人の級友たち――西国の富裕層の出身であるふたりと、南国からやって来た留学生――は、教えてほしいことがあるの、と青褪めた顔で尋ねたツェツィーリアをそっけなくあしらうようなことはしなかった。この常識知らずで高慢な神ツ国からの留学生が、その心根までが冷たく愚かではないことに気付いていたからだ。

 あんたは神の坐します国のお嬢さんだもんねえ、仕方ないよ、とまず云ったのはヨランダだった。

 南国からの留学生である彼女は、彼の国でも指折りの豪商の娘で、聞けば神ツ国の教主の宮よりもよほど豪奢な屋敷に住み、多くの使用人に傅かれて育ってきたのだという。だが、商売人の父をずっと見てきたせいか、奢ったところのない気持ちのよい少女だった。

 だけど、あんたの国の常識は大陸では非常識だよ、まずこれを覚えておかなきゃ、とヨランダは云った。もちろんあたしにだっておかしな習慣はある。なんでもまず金に換えたときの価値を考えちゃうところとかね。だけどあたしだって、金に換えちゃいけないものがあることは知ってるよ。――そのひとつが人だよ。

 もちろん労働力は金に換わる。だけど、人そのものは金に換えちゃいけない。これを売り買いするようになったら商売人としてお終いだと、あたしたちは叩き込まれて育ってきてる。南国の商人は、人は買わないし、売らない。

 ツェツィーリアは神妙に頷いた。ほかのふたりの級友たちも黙って彼女の話を聞いていた。

 身分制度そのものはともかくとして、賤民なんてものはこの大陸のどこにも存在しない、とヨランダは云った。人は平等だなんて綺麗ごとを云うつもりはないけれど、少なくとも誰かに所有され、虐げられるために生まれてくる人なんていない。自分以外の誰かを所有することは誰にもできない。それが大陸の常識だ。

 西国にだって身分制度はもちろんあるよ、と西国出身の級友のひとりであるヘレナは云った。あたしたちは誰がなんと云おうと貴族だし、ヨランダも含めて恵まれた立場にあることは百も承知してる。それでも、誰かを虐げていいなんて教えられたことはない。

 虐げていい、と教えられたことはない、とツェツィーリアはどうにかそれだけを口にした。そうだ、虐げてなどいない。ただ、厳しい労働に従事することを特定の人々にのみ強いて、その他の者たちが恩恵を吸い上げる。自分たちと賤民たちとはそうあることがあたりまえだった。――それを、搾取とか、虐待とかと呼ぶということさえ知らなかった。

 でも、実際そうしてきたわけでしょ、とあっさり云い放ったのは残るひとりの級友、カーラだった。昼間のあんた、あたしたちのことをすごい目で見てたんだから、と彼女は付け加える。

 すごい目って、とツェツィーリアはつられるようにして問い返した。

 カーラはどこか悪戯っぽい光を浮かべた視線を寄越した。まるであたしたちが牛や馬の糞になったみたいな気分にさせられたよ。

 ごめんなさい、とツェツィーリアは恥ずかしさのあまりに頬を真っ赤に染めた。

 カーラの云うのは悪い冗談だけどさ、と云ったヨランダの言葉は彼女のやさしさだ、とツェツィーリアにはよくわかった。きっと私は、カーラが云うような目で級友たちを眺めていたのだ。そしてきっと、――賤民たちをも。

 あんたは賢いからわかるだろうけど、とヨランダは続けた。あたしたちはなにも、あんたが間違ってるって云ってるんじゃない。ただ、あんたが知ってるのとは違う真実もあるってことを知ってほしいだけ。あたしたちはそうやって真実を交換しあうためにここに来てるんだから。そうでしょ。

 そうそう、とヘレナが相槌を打った。あんたの背中いっつも綺麗に伸びてて、すっごい綺麗。それってツェツィーリアが、自分で自分を律することの意味を知ってるからでしょ。この歳でそれができる人がいるって、けっこう驚きなんだけど。あんたの国じゃ、それが普通なんでしょ。見習わなきゃ、ってすっごく思う。

 ツェツィーリアは言葉もないままに頷いた。級友たちは楽しげに笑い、でもさ、土いじりって結構おもしろいんだよ、次はあんたも堆肥運ぶんだからね、とツェツィーリアの肩を次々に叩いた。

 彼女たちとの友誼はいまもなお続いている。互いに遠く離れてあるだけに、手紙を取り交わすことが精一杯ではあるけれど、それでも季節の折々に交わす率直な言葉の数々は、いつもツェツィーリアを励まし、助けてくれる。

 留学から帰国したのちのツェツィーリアは、かねてからの取り決めどおりに教主の宮へ侍女として仕え、やがてシュテファーニア付第一侍女となった。彼女が輿入れするにあたってもその立場は変わらなかった。

 ツェツィーリアは、教主とその一族に深い尊敬の念を抱いている。民を教え導く立場にある彼らが、日夜を問わずに修行を重ね、常に厳格な戒律の下に生きていることを知っているからだ。彼らは決して怠慢な者たちではない。

 それでもツェツィーリアは、級友たちから学んだ真実を片時たりとも忘れたことはなかった。――虐げられるために生まれてくる者などいない。

 ツェツィーリアが学んだ尊い真実は、しかし彼女が知る世界からはあまりにもかけ離れていた。理不尽な身分制度などなくなればいいと思う気持ちに偽りはなくとも、ツェツィーリアにできることはなにもない。それどころか、憎むべき理不尽に加担せざるをえないことさえあったのだ。

 いまもまた私は、とツェツィーリアは、今度こそ額を押さえるようにして完全に俯いてしまった。いまもまた私は、罪もない少女の命を奪おうとしている。


 エリシュカを呼んでくるように、と云われたベルタは急ぎ足で城内を進んで行った。侍女たる者、いついかなるときも慌ただしく走ったりしてはならないという躾が、こんなときばかりは少々煩わしい。

 歳若いベルタにとって、自分と同じくらいに若く、自分とは比べものにならぬほどに美しいエリシュカは、身分を越えた大切な友人だ。

 少なくともベルタはそう思っていた。無口で慎み深いエリシュカが心の裡を話すことはそう多くはないから、彼女がどう思っているのかはよくわからないけれど。

 ベルタがエリシュカと知り合ったのは、彼女がまだ神ツ国にいたころのことだ。

 ベルタは容姿にも知力にも特別に秀でたところのない己をよく知っている。目を背けたくなるような醜さもなければ、打てば響くような賢さもなく、そうかといって見る者の心を虜にするような美しさがあるわけでも、相対する誰かにため息をつかせるほどの愚かさがあるわけでもなかった。

 そんな自分が教主の宮へ侍女として仕えることができているのは、ひとえに父の官職――ジェズニークの家は下級ではあるが、代々続く神官の一族である――のおかげである、とベルタにはよくわかっている。己を過信せず、しかし軽んじたりもしないところが彼女の美点なのだ。

 教主の宮へ仕えはじめたばかりのころのベルタは、侍女とは名ばかりの下働きに近い仕事を任されることが多かった。数多いる教主一族の前に出すにはいささかそそっかしく、また考えていることを隠しておけない、少々あけっぴろげな性格でもあったからだ。いくら仕事だからって云われたって厭なものは厭よ、と正直に吐露してしまうような――。

 当時のベルタに与えられていた主な仕事は、シュテファーニアをはじめとする教主の娘たちの衣裳の管理だった。その日に着る衣裳を調え、洗濯する必要があれば洗濯部屋へ運び、繕い物があれば針子たちに指示をして、一式をまた主の部屋へと戻す。

 教主の娘たちは、他国の貴族と同じように、使用人たちに傅かれて暮らすことに慣れていたが、着替えや入浴など、最低限の身のまわりのことは自分自身でこなすように云い聞かせられている。そもそも神の御前で行う修行の場では、誰かに面倒をみてもらうことなんてできるはずがない。ただ、穢れていると考えられている地面に間違っても触れることのないよう、彼らは靴を履くことだけは決して自分ではしようとしない。

 エリシュカの母であるマリカと妹であるダヌシュカは、教主の宮で働く針子だった。ベルタが最初に知り合ったのは、だからエリシュカではなく彼女たちだった。誰に対しても人懐こく振る舞うベルタが、年齢の近いダヌシュカを通してふたりと打ち解けるのにそう時間はかからず、ほどなくしてエリシュカとも顔見知りになった。

 シュテファーニアの輿入れに伴って彼女付の侍女へと昇格したベルタが、エリシュカもまた東国へ赴くことを知って喜んだのは云うまでもない。ふたりのあいだにはそのころすでに、身分を超えた友情が築かれていた。

 国としての制度のもとに差別を受けるような者たちとベルタが親しむのには、きちんとした理由があり、そこにはベルタ自身の苦い後悔を伴う古い記憶がかかわっていた。

 下級神官を父に持つベルタの家にも、賤民と呼ばれる者たちはいた。家のさまざまな下働きを休みもなくこなし、ときに料理人や侍女たちから口さがない罵りの言葉を浴びせられている彼らをベルタはずっと見て育ってきた。周囲がそのように扱う者たちに対し、自分もまたそうしてもよいのだと考えるのは、こどもであれば当然のことかもしれない。

 あるときベルタは、自分の部屋の掃除の仕方が気に入らないと、若い掃除婦に向かって暴言を浴びせた。本当のことを云えば、別に掃除の出来栄えが気に入らなかったのではなく、その日の朝食に自分の嫌いな玉蜀黍とうもろこしの粥が出されたことに対するやつあたりに近い癇癪だった。

 どれほど酷い言葉を浴びせかけても、俯いて震えるばかりでひと言も云い返さないばかりか、ただひたすら身を小さくして耐えている姿に、幼い子ならば誰もが持っている嗜虐心が煽られたのだろう。ベルタは、とうとう彼女が持っていた箒を手にして力任せの打擲をはじめた。

 ベルタは屋敷のたったひとりのお嬢さまである。言葉によって罵りを浴びせているうちは周囲も知らん顔をしていたが、箒を振りまわしはじめたあたりで空気が変わった。誰かが当主である両親と執事を呼んだのである。若い掃除婦の頬に小さなひっかき傷をいくつか作った時点で、ベルタは遠慮の欠片もない手つきで執事に取り押さえられた。

 ベルタの両親はベルタを自室へと放り込み、そこで娘に対し非常に厳しい説教を食らわせた。使用人たちの前でそうしなかったのは、屋敷の主人とその息女としての体裁を慮ってのことである。

 ベルタの父は、代々受け継がれた下級神官の職で満足しているような野心のない男だったが、その思想は神ツ国には珍しく中道的であった。現在に至るまで続く自国の身分制度、すなわち賤民に対する差別を不当と考える思想の持ち主だったのである。

 己の思想に誇りを持っている父は、母の目の前で、ベルタが掃除婦に与えたのと同じ暴力をベルタに与えた。すなわち箒を振りまわし、幾度も打擲したのである。泣いて逃げまわろうとする娘の身体を押さえつけたのはなんとその場にいた母であった。

 痛いか、と父は泣き喚く娘に尋ねた。それが、おまえがあの娘に与えた暴力だ。どうだ、痛いか。

 そのとき与えられた打擲の痛みを、ベルタは今日この日に至るまで一日たりとも忘れたことはない。――こんなの、人が人に与えていい痛みじゃない。

 ベルタは自身の振る舞いを深く恥じて悔やむとともに、自分だけはもう二度と賤民と呼ばれる彼らを虐げることはするまいと誓った。

 だけど、姫さまやツェツィーリアさまの命令を前に、あんな誓いなんかなんの役にも立たない、とベルタは唇を噛みしめる。私にできることなんかなにもない。

 ベルタにはそのことが悔しくてならなかった。

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