07
「ツェツィーリアさま! ツェツィーリアさまッ!」
叫び声にも似た呼び声とともに執務室に走り込んできた部下を、なにごとですか、騒々しい、と王太子妃付第一侍女ツェツィーリア・コウトナーはなかば反射的に叱りつけた。
神ツ国の有力な神官を父に持つツェツィーリアは氷の女と
とはいえ本来の彼女はごく穏やかな人間である。日ごろから同僚に見せつけているような厳しさ――感情に走った愚かな振る舞いを、自己にも他者にも許さないそれ――は、女ばかりの縺れがちな人間関係を取りまとめていくのに必要とされるがゆえ、仕方なく身につけたものである。ただしその事実を知るのは、家族を含めたほんのわずかな者たちだけだった。
いまも執務室に走り込んできた侍女は、ツェツィーリアの厳しい声に立ち竦んでいる。ツェツィーリアは、彼女の顔がひどく青褪めていることに気づくと、どうしたのです、とすぐに声を和らげて尋ねた。
「ツェツィーリアさま、大変です! 大変なことが……」
「落ち着きなさい、ベルタ」
ベルタと呼ばれたまだ若い侍女は浅い呼吸を幾度か繰り返し、やがてわずかばかりの落ち着きを取り戻すと、もう一度、大変です、と云った。
「王太子殿下が姫さまをお召しになられました」
「なんですって?」
「王太子殿下が、姫さまをご寝所へとお召しになられました」
驚愕を言葉に変えることでさらに落ち着いたのか、あるいは動揺の過半をツェツィーリアに渡してしまいでもしたのか、ベルタは弾む呼吸を整えながらも平静を取り戻した声で驚くべき事実を淡々と述べた。
「先ほど、王太子殿下の遣いの方が控えの間にお見えになりました。今宵、姫さまにおかれましては殿下のご寝所へお越しあそばされますように、とのことでございます」
なんということ、とツェツィーリアは頭を振った。
彼女が第一侍女として仕えるシュテファーニア・ヴラーシュコヴァーと東国王太子ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュの婚姻は、シュテファーニアの故国、神ツ国からの申し入れにより白い婚姻とされていたはずだった。東国はこの申し入れに合意しており、事実、輿入れから一年半のあいだ、ヴァレリーがシュテファーニアを求めたことは一度もなかった。
「なにかの間違いでは?」
いいえ、とベルタは首を振った。
「間違いなどではありません」
「このことは姫さまには?」
まだお知らせしておりません、とベルタはまた首を振った。
十五名いるシュテファーニア付侍女のなかでも、このベルタはまだ格別に若く、シュテファーニアの私室に足を踏み入れる許しを与えられていない。おそらくは取次の間に控えていたところで、王太子の使者から伝言を受け取ったのであろう。そう推察したツェツィーリアは、わかりました、と短く答えた。
「姫さまには私からお話しいたしましょう」
ツェツィーリアは自身の動揺を隠し通すべく、いつもかけている小さな眼鏡の位置を直した。この仕種は、ツェツィーリアが他の侍女たちに耳の痛いお説教をする前に見せるもので、侍女たちのなかには、彼女が眼鏡をつと押し上げる仕種を見せただけで震え上がる者もいるほどである。
「あなたは持ち場へ戻りなさい」
「かしこまりました」
ベルタは落ち着き払った態度で頭を下げてツェツィーリアの前を辞して行った。
困ったことになった、とツェツィーリアは軽いため息をついた。
政略結婚の結果としてこの国へ輿入れしたはずのシュテファーニアがヴァレリーに対して申し出た白い婚姻は、じつは神ツ国教主の意志によるものではない。ほかでもないシュテファーニア自身の意志によるものである。
政治と宗教が一体化している神ツ国の元首であるところの教主、すなわちシュテファーニアの父マティアーシュ・ヴラーシュコヴァーは、国と国との間で交わされている
だが、シュテファーニアはこの婚姻を必死になって拒もうとした。
神ツ国は男子一系を旨としている。家督、すなわち教主の座は当代教主の男子の血筋によって受け継がれていく。娘として生まれた者は他国あるいは有力な神官の元へ降嫁するか、そうでなければ神殿に住まう巫女となって一生を過ごすかのいずれかである。
シュテファーニアは、幼少のころより格別に信心深いこどもであった。それゆえにいずれは誰かの元へ嫁ぐのではなく巫女になるのだ、と誰に云われるまでもなく早々と信じ込んでいた節がある。
教主マティアーシュも末娘の心は十分に承知していたはずだったのだが、東国からの婚姻の申入れにあたり、迷うことなくシュテファーニアに白羽の矢を立てた。ほかに適当な者がいなかったためである。
マティアーシュには七人の子がある。男子が三人に女子が四人。このうち長男は教主の座を注ぐ跡取りであり、残るふたりもまた親王として兄を補佐する道を歩んでいる。シュテファーニアの姉三人は、神殿で巫女となっているひとりを除いてすでに有力な神官のもとへと嫁いでおり、東国からの求めに応じることができるのは、シュテファーニアただひとりであった。
宗教国家である神ツ国はあらゆる意味で、大陸の他の国々からの保護を受けている。気候の厳しい国土では農業も工業もほとんど営むことができず、農産物は西国に、工業品は東国に、それらの輸送は南国に依存している。宗教的な加護を得たい各国と現実的な益を得たい神ツ国とのあいだで繰り返されている政略結婚は、この大陸の安寧に欠かせぬ国家間の結びつきであり、政治そのものでもあった。
東国が申し込んできた婚姻を、神ツ国は拒むことができない。
マティアーシュは末娘の説得に長い時間をかけた。しかし結果として、彼の試みは失敗に終わったのである。
シュテファーニアは自らの主張――わたくしは巫女となって、この大陸の御柱の一部となるのです――を頑として譲らず、幼いころより信心深かった娘の願いを、父はとうとう退けることができなかった。
わかった、とマティアーシュは娘に向かってこう云った。そなたの思うがままにするがよい。ただし、東国の申し出は古き盟約に基づく正当なものである。これをいたずらに無碍にするわけにはいかぬ。そなたは、一度は東国へと輿入れせねばならぬ。そのうえで白い婚姻を貫き、二年のあいだ身を清らかに保つことができたならば、この地へと戻り、中央神殿の大巫女となるための修行をはじめるがよかろう。
教義を体現する教主の娘であると同時に、一国を司る政治家の娘でもあるシュテファーニアは、父の言葉に頷いて輿入れを承諾した。
シュテファーニアに従って東国へ赴く侍女の選定は、当時からシュテファーニア付第一侍女であったツェツィーリアが行うこととなったが、その人選は困難をきわめるものであった。
シュテファーニアの意志がどうあれ、ひとたび国を出てしまえば二年で戻れる保証はない。もし万が一にもシュテファーニアと王太子が真実夫婦となることがあれば、シュテファーニアに従って国を離れた侍女たちは、生涯を東国で過ごすこととなるのである。
一度として見えたことのない王太子とシュテファーニアの関係がどう転んでいくのか、ツェツィーリアに予測などできるはずもなかった。
当時のツェツィーリアは、ヴァレリーについて、見目麗しく文武に秀で、また人柄も卑しからぬと聞き及んでいた。少女のごとき潔癖さで己の意志と純潔を貫かんとするシュテファーニアだが、王太子に心を奪われる可能性もなくはない。いやむしろ、その可能性は高いのではないか、とツェツィーリアは思っていた。
シュテファーニアの巫女の座への拘泥は、自身の価値を父親や兄弟に認めてもらいたい心の表れである。東国王城において王太子妃として手厚く遇され、なおかつ王太子に大切に扱われれば、その心は容易く傾くことだろう。
もとより自身については、姫さまの身がどこにあろうと、その傍らに仕えると決めているツェツィーリアであったが、自分以外の侍女たちについては、自身のことのように簡単な決断はできなかった。その多くが神官の娘である侍女たちには、それぞれに家族もあるし許婚もある。そうした存在を捨てて姫さまに従え、とは簡単に云えることではない。
あれこれと迷い、なかなか決断できずにいるツェツィーリアに、さらに酷な命令が下ったのは、ある晩のことだった。ヴァレリーとシュテファーニアの婚儀が行われる半年ほど前、シュテファーニアが東国を目指して旅立つまで三か月足らずのころのことである。その夜に云い渡された教主直々の言葉を思い出し、ツェツィーリアは重苦しいため息をつく。
姫さまの帰国がもう目前に迫ったいまになって、あの命令を実行に移す日が来るとは思ってもみなかった、とツェツィーリアは仕着せの裾を調えながら、シュテファーニアの居室の扉を叩いた。
姫さま、と呼ばわれば、ツェツィーリアね、と華やかな声が応じる。
扉を開け、ツェツィーリアは陽光の満ちた明るい室内へと足を踏み入れる。厚みのある絨毯とよく効いた暖房とで、そこは少々暑苦しいほどだ。微笑みで出迎えるシュテファーニアも傍に控える侍女たちも冬が迫っている季節とは思えないほどの薄着で、ツェツィーリアは思わず顔をしかめてしまった。
彼女たちの故国である神ツ国に比べ、東国はとても豊かな国である。鉱石の採掘とその加工とによって発達した工業が支える暮らしは、神ツ国では想像もできないほどに快適で便利なものだ。
ツェツィーリアには理解のできない技術によって、直接炎を焚くよりもずっと効率的な方法で施される暖房や、夜の闇を照らす照明、平坦に整えられた道を行く、馬に曳かれずとも進む車。はじめて目にしたときは心底驚いた。
むろん、すべての民が享受できる技術ではないのであろう。王城のなかでさえもそうした照明や暖房が使える場所は限られていたが、王太子妃として他の王族に劣らぬ扱いを受けているシュテファーニアの居室は、一年を通して非常に快適に過ごせるように調えられていた。
教主の娘として、故国では非常に贅沢であるとされる暮らしをしていたシュテファーニアだが、それはこの国では一般的な商家の娘のそれにも及ばない程度のものだ。
いっそ部屋を変えてもらうほうがいいのかもしれない、とツェツィーリアは思う。ここでの暮らしに慣れてしまわれた姫さまが、故国の不便さをかつてのように忍ぶことができるものか、とツェツィーリアははなはだ疑問に感じている。――あるいはこの快適さのために、王太子殿下との婚姻を真実のものとするかどうか。
それはありえない、とツェツィーリアは顔には出さないままに両断した。
ツェツィーリアが生涯を捧げると誓ったシュテファーニアは、愚かでも卑しくもない。賢く美しく可憐で魅力的な彼女は、しかし恵まれた立場に生まれた者にありがちな傲慢さも備えていた。恵まれた自身の境遇を当然と心得て、それを支える者たちの苦悩に思いを馳せることはない。光だけを見つめるべく教育された瞳には、光のすぐ傍らに潜む影を見据える力はないのだ。ましてや自身がその影の裡に身を潜めるなど、考えたこともないに違いなかった。
そんなシュテファーニアが心底愛しくもあるが、ときに耐えがたいほどの苛立ちを禁じえぬツェツィーリアである。
「この部屋は少々暑苦しいようですね」
自らの仕着せの襟元を指先でわざとらしく寛げながら、ツェツィーリアは云った。途端にシュテファーニアの眉間に不機嫌な影が差した。
「今日は朝からとっても寒いんだもの。これくらいでちょうどいいわ」
「お国許では、ほんの春先ほどの暖かさですよ」
「ツェツィーリア。いったいなんの用なの?」
明らかに機嫌を損ねたようなシュテファーニアの声に、これは失礼いたしました、とツェツィーリアは慇懃に応じた。そうしながらもシュテファーニアのそばで笑い転げていた侍女ふたりを厳しい眼差しで睨み据え、軽く顎をしゃくって部屋の外へと追い出すことは忘れない。
「またお説教?」
もううんざりよ、と少女のような口調で云った王太子妃は、豪奢な衣裳の裾をばさりと持ち上げ、寝椅子の上に身体を倒す。
「この部屋はわたくしが好きに使っていいわけでしょう。冬を真夏のように暖めようと、夜を真昼のように明るく照らそうと、ツェツィーリアに文句を云われる筋合いなんかないのよ」
わたくしは王太子妃なんだから、とシュテファーニアは可憐な唇を尖らせた。
「ここにこうしているだけで、務めは果たしているつもりよ」
なにが不満、とシュテファーニアは上目遣いで口喧しい侍女を見上げた。
緩やかにうねる銀色の髪は艶やかで、部屋に溢れる陽光に照らされてきらきらと輝いている。いまは拗ねた色を湛える瞳は、春先に芽吹く菫のような濃い紫色。長い睫毛に縁どられ、潤んだように甘えた光を乗せている。
ひと言で云って可憐。愛らしくあどけなく清らかなその姿は、傍らに仕える誰しもの心を捕えて離さない。むろんツェツィーリアも心捕えられた者のひとりである。
こどもっぽい甘えと傲慢さを残す無邪気な性質のシュテファーニアは、しかし自らの使命を生涯かけて神に仕えることと心得ており、そのためであればどれほどに厳しい修練にも耐える芯の強さもきちんと備えている。
ツェツィーリアは、王太子妃とはかくあるべき、という説教をそのときは控えることにした。それよりもずっと大事な話をしなければならないからだ。
「妃殿下」
日ごろは主の希望に従って、姫さま、と己を呼ぶ第一侍女が、あらたまった口調で自身の正式な身分を呼ばわるのを聞いたシュテファーニアは、すぐになにか特別なことが起こったのだな、と察して身を正した。
寝椅子の上に横たわるようだった姿勢をあらため、背筋をまっすぐに伸ばして、どうかして、ツェツィーリア、と云ったその声には、先ほどまでの甘えた調子はすでにない。自身の役割を忘れたことはない、という彼女の言葉に偽りはないのだ。
「王太子殿下が妃殿下をお召しでございます」
シュテファーニアは無言のまま、ほんのわずか首を傾げてみせた。云っていることの意味がわからないわ、ツェツィーリア。
「今宵、王太子殿下のご寝所へお越しあそばされますように、とのことでございます」
シュテファーニアの眉間に深い皺が寄せられた。嫌悪と懐疑、そして――激しい拒絶。
「なぜ?」
それは疑問ではなく否定からくる問いかけだった。
「夫が妻を求めることになにか理由が必要ですか」
「約束が違うわ」
わたくしたちの婚姻にそうしたことは無縁だったはず、とシュテファーニアは云った。
「そうしたこととは?」
「夜のことよ!」
白皙の頬に血の色を上らせ、シュテファーニアはなかば叫び声に近い声を上げた。
「姫さまは、猊下のお言葉をお忘れですか」
真っ赤に染まった頬を一瞬で青褪めさせ、シュテファーニアは寝椅子の背に凭れかかった。厭よ、と呟く声には先ほどまでの力はない。
これはこれで痛ましいことだ、とツェツィーリアは思う。
己の意志に反して嫁いでいく娘に向かい、父である教主が最後に与えた言葉は、聞きようによってはひどく残酷なものだった、とツェツィーリアは思い起こす。
そなたの望むとおりの書状は
シュテファーニアは父の手から書状を受け取り、それがまるで自身の命を守る護符ででもあるかのように大切に押し戴いた。そんな娘の姿をじっと見つめていたマティアーシュは、傍らに末娘を呼び寄せたうえでこう続けた。だが、もしもそなたが、あるいはそなたの夫となる王太子が望むのであれば、そなたは迷わず彼の者に身を捧げるがよい。
シュテファーニアは驚きに目を見開いた。
むろん父は、そなたがここへ戻り修行を続け、中央神殿の大巫女として立つ日を待ち望んでいる。だが同時に、そなたが女人としての幸せに目覚める日をもまた望んでいるのだ。ああ、そんな顔をせずともわかっておる。そのふたつが同時には成り立たぬということは、誰に云われるまでもなく、もちろんそなたに云われるまでもなく承知しておることだ。儂が云いたいことはひとつだけだ。娘よ、聞いてくれるな。
教主は穏やかな声でそんなふうに言葉を紡いだ。
シュテファーニアは顔を強張らせたまま、それでも気丈に頷いてみせた。
そなたが、幼き頃より大巫女の座を見つめて暮らしてきたことはよく知っている。そなたにそうあるよう願ったのはこの父なのだから。そなたが父の願いどおりに大巫女の地位を望むようになったことは、父の喜びだ。だが、思いもかけぬこの婚姻により、そなたに新たな道が開けたことにもまた、父は喜びを感じている。わかるか。
シュテファーニアが首を横に振るのを見て、マティアーシュはほんのわずか寂しげに笑ってみせた。
そなたをそんなふうに頑なにしてしまったのは、儂の責だ。神に仕えよ、と幼きころから育てておいて、なにを無責任な、と云われれば返す言葉もない。だが神は、神に仕える以外の生き方もまた平等に言祝がれるものだ。そなたが巫女ではなく、王太子の妻として生きることを決めたとしても、神はそなたを見捨てたりはしない。
つまり互いに望むのであれば、ヴァレリーとの婚姻を白きものとせず真実の夫婦となるがよい、と教主は云ったのである。
教主に次ぐとさえ云われる力を持つ大巫女となり、父と兄を支えることを目標として修行を重ねてきたシュテファーニアにとっては、まさに青天の霹靂だったに違いない、とツェツィーリアは思う。しかし彼女には、同時に教主の想いもまた理解できるような気がするのだ。父として娘の平凡な――と云うには、いささか相手が大袈裟な気もするが――幸せを願う心に偽りのあろうはずがない。
シュテファーニアは、父の心を最後まで理解することなく国許を離れた。そして夫となる王太子に父からの書状を突きつけて白い婚姻を迫り、以来純潔を保ったまま一年半の歳月を過ごしてきたのである。
「もしも姫さまが望まれるのであれば、王太子殿下と真実の夫婦となるがよい、とそう仰せでいらっしゃいました」
背もたれに身を預けたままのシュテファーニアが、鋭い眼差しをツェツィーリアに投げかけてきた。紫色の瞳は瞋恚を湛え、どこか彼女を酷薄に見せていた。
「わたくしがこの国へ嫁いでから一年半。その間、まともに言葉を交わしたこともない男とのあいだになにを望むというのです?」
「では……」
「わたくしの望みは大巫女として神に仕えること。それ以外にはありません」
取りつくしまもない厳しい声音で、シュテファーニアは云い捨てた。
国を離れる遥か以前からその傍に仕え、ときには厳しい言葉でシュテファーニアを諌めることもあるツェツィーリアだったが、このときの彼女には返すべき言葉が見つからなかった。こうしたとき、シュテファーニアの身体に流れる支配者としての血が紛れもない本物であることを思い知らされる。
「それでは王太子殿下にはそのように」
「待ちなさい、ツェツィーリア」
腰を折って自分の前を辞していこうとする第一侍女を呼び止めたシュテファーニアは、依然として厳しい表情のままである。
「王太子にはなんと伝えるつもり?」
「姫さまのお言葉のままに」
「つまり、彼の求めをわたくしが断る、とそういうことになるわね?」
はい、とツェツィーリアは頷いた。妻となった女にすげなく袖にされる王太子とはじつに情けないが、それが事実なのだから――そして、いまさらと云えばいまさらなのだから――仕方があるまい。
それは、とシュテファーニアはなにかを思案するように自らの顎に指先で触れた。
「あまりいいことではないわね」
ツェツィーリアは首を傾げる。シュテファーニアがなにをもってして、うまくない、と云ったのか、その心が理解できなかったせいだ。
なんの覚悟もなかったはずの王太子に、婚儀の直前になってから白い婚姻を強いたのはシュテファーニアのほうである。彼の矜持を踏み躙るという意味では、あの日よりも強烈なことはそうはあるまい、とツェツィーリアは思う。
シュテファーニアはしばらくのあいだ、黙ったままなにかを考え込んでいた。ゆっくりと繰り返されていた瞬きがやがてひたりと止まり、驚くほど苛烈な視線がツェツィーリアに据えられた。第一侍女は奥歯を噛みしめて主の言葉を待つ。
「あの娘を呼びなさい」
ツェツィーリアの目が大きく見開かれる。
「姫さま……!」
「呼ぶのよ。わかるわよね、云っている意味が」
姫さま、とツェツィーリアはもう一度繰り返して、激しく頭を振った。
「それはなりません。おやめください」
「あら、なぜ?」
なぜ、とツェツィーリアは絶句する。
「あの卑しい娘はこのために連れてきたのよ。知っているでしょう、ツェツィーリアだって」
そうだ、知っている、とツェツィーリアは喉を鳴らした。知っているとも、この耳でたしかに聞いたのだ。――あの残酷にすぎる命令を。
「なら問題はないわね。すぐに支度をさせて」
「姫さま。なぜ……」
「なぜ、とは?」
「なぜそのようなことを。王太子殿下にはお断りを申し上げます。白いご結婚をお約束されたおふたりなのです、理を尽くせばあちらだって……」
あら、とシュテファーニアは笑った。
「その約束を踏み躙ってなにやら妙なことを云い出したのはあちらよ。言葉を重ねたくらいで納得なんかするものですか。これまでなんの沙汰もなかったくせに、わたくしの帰国が間近に迫ったいまになってこんなことをして、いったいなにを企んでいるかわかったものじゃない」
隙を見せるわけにはいかないの、とシュテファーニアは続ける。
「夫の求めに応じなかった妻として、あとから云いがかりをつけられるのはごめんだわ。余計な騒動を防ぐためよ。わからないの?」
いまのいままで油断してたわ、とシュテファーニアは呟いた。もっと早く差し出しておけばよかったのかしら、と続けられた言葉に、ツェツィーリアの背中が寒くなる。
「早くして。間に合わなくなるわ」
誰かになにかを命じること、そしてその命令が聞き入れられることを当然と考えているシュテファーニアの声に、ツェツィーリアは逆らうことができない。そして、彼女の命令が彼女の意志のみによるものではないということを知っているからこそ余計に、ツェツィーリアは従順にならざるをえなかった。
「承知いたしました」
深く腰を折り、今度こそ主の前を辞する。そのまま自室へ戻ったツェツィーリアは深いため息とともに、なかば頽れるようにして椅子に腰を下ろした。
すぐにでもあの子を呼んで支度を整えなくてはならない。姫さまの言葉ではないが、急がなくては本当に間に合わなくなってしまう。
気は焦る。だが、ツェツィーリアの心は重たく澱んで、隣の間に控えているはずの誰かを呼ぶための鈴を持ち上げることが、ひどく躊躇われてならないのだった。
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