15
エリシュカは気づいていないのだろうが、いまのこの部屋は昨夜ヴァレリーと彼女が睦みあったヴァレリーの寝所ではない。ヴァレリーがエリシュカのために、と昨日の日中のうちに用意させておいた部屋である。
王太子付筆頭侍女として、ヴァレリーが幼少のころより長く彼のそばに仕えているデジレには、昨日の命令が微笑ましくてならなかった。いついかなるときにも己の立場を忘れたことなどないヴァレリーが、己の寝所の隣に妃ではない女の部屋を用意させたのだ。なりふり構わず手に入れたい相手であるに違いない、とデジレは思っていた。
今朝の早い時間、ヴァレリーは自身で簡単に身支度を整えると、寝台の上で疲れ果てて眠り込むエリシュカを自らの手で抱き上げてこの部屋まで運んできた。デジレはヴァレリーに呼ばれてふたりに付き添いはしたものの、エリシュカの身には一度も触れていない。
自分が汚したエリシュカの身体を簡単に拭き清めたのも、寝台へと横たえて上掛けをかけてやったのも、寝台横の小さなテーブルに柑橘を漬けた水を用意したのも、すべてヴァレリー自身である。
こんなに甲斐甲斐しく誰かに尽くす殿下は見たことがない、とデジレは内心でおおいに呆れ返り、同時に微笑ましく思ったものだ。よほど彼女が愛しいとみえる。
日中はよく休ませるように、とヴァレリーはデジレに命じた。時間が取れればおれも様子を見にくる。食事は消化のよいものをきちんと食べさせてやってくれ、夜の支度はあまり仰々しくしなくてよいからな。
次々に言葉を並べながらも、寝台の縁に腰を下ろしたヴァレリーの眼差しは眠るエリシュカをじっと見つめており、指先は銀色の髪を愛しげに梳っていた。
彼女の身体の様子をすでに目にしていたデジレは、どう考えても昨日の今日でまた求めるのは酷なのではないか、と思ったが口には出さなかった。エリシュカの感触を愉しんでいるらしいヴァレリーの顔が、あまりにも幸福そうだったからだ。
日中はせいぜいゆったりと贅沢に過ごさせてやり、夜はあのやんちゃな王子さまのお相手をしてもらうしかあるまい、とデジレは心に決めていたのだ。それだのに、いったいなんだって王子さまの想い人はこんなふうに身を震わせて怯え、許しなど乞うているのだ。わけがわからない。
「お嬢さま、おやめください」
デジレが声をかけるとエリシュカは一度大きくびくりと震え、すぐに口を噤んだ。胸の前で指を組み、深く俯いて、見ようによってはじっと沙汰を待っているかのようだ。
「戻られるとは、どちらにでしょうか」
デジレは努めて穏やかな口調でこう尋ねた。自分のものの云い方が、歳若い侍女たちに、冷たいだの、怖いだのと陰口を叩かれていることは知っている。理由はよくわからないが、どうやらすっかり怯えきっているらしいエリシュカをさらに震え上がらせるような真似はしたくなかった。
「自分の、部屋に……」
「お部屋に?」
エリシュカが王太子妃付侍女であったことはデジレも知っている。なにしろ彼女を迎えに行ったのは自分自身である。
だが、王太子とひと夜をともにしたいま、彼女が元の立場に戻ることはない。ヴァレリーから部屋を与えられた彼女は、いまや彼の寵姫である。王太子とその妃との婚姻が事実上成立していない現状を考えれば、エリシュカはヴァレリーの唯一にして最愛の恋人であり、彼とシュテファーニアとの離婚が成立した暁には、あるいは妃となるかもしれない存在なのだ。
「なにかお忘れ物でも?」
「忘れ物……?」
エリシュカは咄嗟にデジレの顔を見上げた。もしやわたしは仕事に戻らぬまま罰を与えられるのだろうか。忘れ物、とはつまり、牢に放り込む前に家族の形見くらいは取りに帰らせてやる、という温情なのだろうか。ならば、とエリシュカはデジレに縋りつくような眼差しを向ける。
「お願いいたします、ひとつだけ、どうしても傍に持っておきたいものが……!」
「どのようなものでしょうか」
デジレの答えに、部屋に戻ることは許されないのかもしれない、とエリシュカは思った。
「お教えいただければ、このモルガーヌを取りにまいらせます。どのようなお品ですか」
「自分で……」
「いけません。そのようなお身体で歩きまわられてはなりません」
一晩中王太子殿下のお相手をさせられてさぞかし草臥れているだろう、どうせ今宵も離してはもらえぬのだろうから、いまのうちにゆっくり休むといい、という意味で云ったデジレの言葉は、しかしエリシュカには、そのふしだらなみっともない身体で王城内をうろうろするな、という叱咤に聞こえてしまう。
「ふ、服も部屋にありますので……」
見苦しくないよう、この肌は隠してしまうからどうか許してくれ、とエリシュカは願う。
「ご衣裳でございますか」
さて困った、とデジレは思った。エリシュカのための衣裳はいずれきちんと仕立てることになっている。だがヴァレリーには、それは追々でよいと云われていた。しばらくはエリシュカをどこにも出す気はないからな。
とはいえ、主とは異なり、一般的な常識というものを弁えているデジレは、自身の権限で急ぎ間に合わせのものを仕立てさせている。いくらなんでも服も着せずに一日を過ごさせるなど、エリシュカが気の毒でならない。
そうか、とデジレははたと思いついた。夜着を着ていただけばいいではないか。ゆったりとした夜着ならば身体を締めつけず、しかし足許までをも隠すことができる。王太子殿下の可愛らしい恋人は、どうやら彼に愛されすぎた自分の身体を恥ずかしがっているようだから、それならば人の目も気にならないだろう。昼間から夜着を纏うなど少々淫らがましいが、この室内にそれを咎める者などいない。
「すぐにご用意いたします」
「え、ご、ご用意?」
はい、とデジレはやわらかい――と、自分では思っている――笑みを浮かべてエリシュカを見下ろした。困惑したエリシュカはふたたび俯いてしまった。
どうもこのふたりは、自分たちの会話がまったく噛みあっていないことにまるで気づいていないらしい、と内心呆れているのは、エリシュカの傍らで彼女の身体を支えているモルガーヌである。
王太子付の侍女としてはまだ若い部類に入るモルガーヌ・カスタニエは、デジレの遠い親戚筋に当たる娘だった。艶やかな黒い髪に輝く黒い瞳を持つ彼女は、行儀見習いと称して王城に仕えていた。領地へ帰ればれっきとした貴族の姫であるモルガーヌは、しかし多くの人に囲まれて忙しく働くことが性に合っているのか、そろそろ適当な夫を見つけてやるから帰って来い、という両親の声を無視してすっかり王城に居座ってしまっている。
モルガーヌの両親はデジレに、娘を返せ、と矢の催促をしているらしいが、デジレ自身、高位の貴族であるバラデュール家から奉公に出てそのまま王城に居残ってしまった女である。モルガーヌの実家であるカスタニエ家の都合など省みるはずがなかった。
特別に美しくはないが、聡明でよく気のつくモルガーヌはとても有能な侍女である。彼女はその明るくざっくばらんな性格も手伝って、少々気難しいところのあるデジレとほかの侍女たちとの橋渡し役としても大変役立っていた。怯えきったエリシュカをひとりでは宥めきれないと感じたデジレがモルガーヌを部屋へ呼び入れたのは、ある意味では当然のことだったのである。
そのモルガーヌは、さて、いったいどうやったらこの奇妙な会話を終わらせられるだろうか、と考えていた。
このお嬢さまは湯上りにガウン一枚を纏ったきりで、食事もまだ召し上がっておられない。暖かい室内とはいえ季節はすでに初冬。このままではお風邪を召してしまう。おまけに夜明けまであの変態王太子の相手をさせられていたとあっては、もう体力も限界だろう。早いところお腹になにかを入れて差し上げ、眠らせてあげなくてはならない。
天使と見紛うほどに愛らしかった幼年時代から育て上げ、可愛い可愛い王子さま、と王太子殿下の正体をすっかり見失っているデジレさまと、絶倫の変態に一晩中蹂躙され続けて怯えきっている可愛らしい娘さんとでは会話になるはずがない。
ほら見てくださいよ、デジレさま、可哀相にぶるぶる震えているじゃありませんか、とモルガーヌは、すっかり俯いたままになってしまったエリシュカの身体をやさしくそっとさすってやった。あの変態め、こんな可愛い子をどんな目に遭わせたんだ。
第一王位継承者である王太子を変態変態とさんざんに罵るモルガーヌであるが、別に彼女自身がヴァレリーの餌食になったことがあるわけではない。ヴァレリーはそのあたりをたいそうよく弁えており、のちのち面倒になりそうな相手に手を出すことは絶対にしない男である。彼の相手はもっぱら高級娼婦たちで、王城に住まう侍女などもってのほかだった。にもかかわらずヴァレリーは、彼に仕える侍女たちのあいだで、綺麗なのは顔だけの変態野郎である、と非常に残念な認識をされていたのである。
礼を尽くして迎えた正妃に白い婚姻を強要され、そのくせ激しかった女遊びをすっぱりとやめた男。それだけを聞くと、妻にすげなくされても貞操を守る義理堅い夫であるかのように聞こえるが、いかんせん結婚前のヴァレリーは節操がなさすぎた。
ことあるごとに近衛騎士団の連中とともに娼館へ繰り出し、浴びるほどに酒を飲んではどんちゃん騒ぎを繰り広げる。いざ寝台へ上れば、一度にふたりも三人もの娼婦を相手に朝まで励むのがあたりまえ。ひどいときにはそのままふた晩も戻らないこともあった。
課せられた政務や軍務に支障をきたすようなことはしなかったから黙認されてはいたものの、娼館から戻ってきたばかりのヴァレリーは、きちんと湯を使っているはずなのに淫靡な匂いを芬々とまき散らし、ついでに滴るような色香を振り撒いて女を惑わせた。
ついうっかりとその気にさせられてしまった侍女は、色恋に対し妙に嗅覚の鋭いヴァレリー自身の粛清――適当な支度金を積まれたうえで翌日には
それはそうだろう、とモルガーヌは思う。いくら仕事とはいえ、複数の女と絡みあったまま眠りこける主を迎えに娼館に赴く、あの任務の惨めさは筆舌に尽くしがたい。寝ぼけた変態が目の前で娼婦の身体を舐めまわしていたのを目撃したときには、モルガーヌは舌を噛んで死にたくなった。――あんな男に愛など望めるわけがない。
そんなヴァレリーも結婚が決まってからはすっかりおとなしくなった。やれやれめでたい、これでひと安心だ、と侍女たちが胸を撫で下ろしたのも束の間、嫁いできた新妻は、あんたとは寝ないわよ、と居並ぶ者たちの前で堂々と宣言なさってしまわれた。あの宣言に本気で肝を潰したのは殿下ではない、とモルガーヌは思う。私たち侍女だ。
だが、侍女たちの懸念――またぞろ、あのろくでもない無節操が戻るのではないか――に反して、ヴァレリーはきわめて健全な暮らしを送ると決意したようだった。国王の補佐や領地の監理などの政務を精力的にこなし、近衛騎士団を統括する者として日々の鍛練にも余念がない。酒も控えめになり、夜は早く
それでも侍女たちの警戒心が緩まなかったのは、結婚前の乱行があまりにもひどかったヴァレリーの自業自得である。
侍女たちは思っていた。あれはきっと宗旨替えをしたに違いない。自分で慰める倒錯に目覚めたのだ、男に鞍替えしたのだ、いや違う、相手は馬だ――。
そんな王太子が、昨日、蕩けきったような笑みを浮かべてデジレを呼んで命じた内容は、それを伝え聞いた侍女たちを仰天させた。
殿下のご寝所のお隣にお部屋を用意します、とデジレは云った。ただし、ごく内密に、ですよ。殿下は今宵、妃殿下ではない女性をお召しになられます。お迎えは私が参りますので、みなはこのことを決して誰にも漏らすことなくそれぞれの務めを果たすように。
王太子の寝所の控えの間では、不測の事態に備えるべく侍従と侍女がひとりずつ不寝番として控えている決まりとなっている。王太子が妃や寵姫とともに眠る場合でもそれは同じだった。日中の職務を補佐する必要のある侍従長や筆頭侍女はその役目を免除されることもあるが、基本的には交代制で、誰もがその役目を務めなくてはならない。
長らく、というよりも、そもそも王城内で誰かと共寝することのなかった王太子のはじめての夜である。当番に当たった者は嬉しいような悲しいような、ごく複雑な心持ちでいたに違いない。
彼らもつらかっただろうな、とモルガーヌは嘆息した。こんな可憐な少女があの鬼畜変態王太子にいたぶられている隣で、ただじっと控えているしかできなかったのだから。
隣に寄り添ってくれているモルガーヌが、やや遠い目つきをして自分に同情を寄せていることなど知る由もないエリシュカは、決死の覚悟でふたたび顔を上げた。
「形見も服も自分で取りに行きます。必ず戻りますので、あの……」
「形見?」
モルガーヌはエリシュカが口にした妙な言葉を聞き咎めたが、デジレの注意を引くことはなかったようだ。
「なりません」
ぴしゃりと、という表現がぴったりの素早さでデジレは云った。
「今日はこのお部屋から一歩たりともお出になってはなりません。必要なものがあればモルガーヌを遣わせますし、ご衣裳は私がご用意いたします」
「あの、でも……」
ぐずぐずしてはいられない、とデジレは思っていた。こうしているうちにもエリシュカの顔色はどんどん悪くなってきている。早くなにかを召し上がっていただき、寝んでいただかなくては。
「お願いです」
エリシュカはとうとうそう云って俯いた。牢に放り込まれてしまう前に、家族がわたしに預けてくれたあの螺鈿細工の小箱を、どうにかしてベルタさまに託させていただきたい。
ベルタさまなら、わたしの願いを聞き入れてくださるだろうから。――家族の唯一の宝であるあの小箱を、わたしの無事と安全を願って家族全員の髪を少しずつ納めたあの小箱を、家族の元へ戻してください。
「なりません」
デジレの声の調子がいっそう冷たくなった。なぜこのお嬢さまはこうも聞きわけが悪いのだ。
「お願いです」
俯いたままのエリシュカは頭を下げて懇願する。本当は床に這いつくばって頼み込むところなのだろうが、隣に座っている侍女がエリシュカにそれを許してくれない。
お願い、と幾度か口のなかで呟いていたデジレは、ややあってからこう尋ねた。
「それはご命令ですか」
「命令……?」
エリシュカはまた顔を上げた。薄紫の瞳を覆っていた涙の膜はそのままだったが、顔には驚きの色が広がっている。
「もしもお嬢さまが、ご自身で元のお部屋においでになりたいと仰せであるのがご命令であれば、私どもに否やはございません。もちろん私とモルガーヌがお供いたしますが」
「め、命令だなんて……」
「ではどういったおつもりで?」
「わたしは、ただお願いを……」
下女に等しい名ばかりの侍女にすぎないわたしが、誰になにを命令できるというのだろう、とエリシュカは思った。しかもこれから罰を受け、牢に入るかもしれない身だというのに。
「お願いであれば、私はそれをお聞きするわけにはまいりません」
デジレさまもまたずいぶんと酷なことをおっしゃる、とモルガーヌは思った。
このお嬢さまは王太子妃付侍女のひとりだったのだという。けれど私は彼女の顔を一度も目にしたことがない。王太子付侍女としてはほとんど末席に近いこの私でさえも、公式行事や日々の些細なやりとりのなかで王太子妃付侍女の数人と面識があるというのに、だ。
彼女はおそらくそういった場にさえも出たことがないのだろう。王太子妃付侍女とは云われていても、おそらくは下女に近い仕事をしていたに違いない。そんなお嬢さまに、命令やらお願いやらの違いを説いたところですぐに理解できるはずもない。
まったくお可哀相に、とモルガーヌは思った。
いったいぜんたいどうやって誑かしたのだか知らないが、変態王太子ももう少し穏やかにことを進めればよかったのだ。こんなふうにいきなり寝所に連れ込んで狼藉を働いたりせず、少しずつ王城のしきたりに慣れさせて差し上げればよかったのに。――いや、無理か。変態だから。
「お嬢さまが、お嬢さまご自身の責任と権限においてご命令なさるのであれば、私は黙って従います。ですが、お願いはなりません。お嬢さまにこのお部屋にいていただくことは、王太子殿下に命じられた私の任務ですので」
王太子という言葉を聞いたエリシュカの身体が固く強張った。ああ、とモルガーヌはため息をついた。これはちょっと助けて差し上げたほうがいいのかもしれない。
「おそれいります、デジレさま」
「なんです?」
主とのやりとりの最中に割り込むなんて、無礼にもほどがありますよ、とデジレの顔にはこれ以上ないほどはっきりと書いてある。モルガーヌはもちろんその叱責を正しく読み取ることができたが、ここはあえて無視しておくことにした。
「とりあえずその難しいお話は置いておきませんか。お嬢さまはお疲れでいらっしゃいます。お
ね、デジレさま、とモルガーヌはごく明るい口調で云った。
いくら王太子殿下の恋人とはいえ、王城の作法を仕込む際に甘えは許さない、とばかりについきつい物云いになってしまっていたことを自覚していたデジレは、ええ、そうですね、と思いのほかあっさりと退いた。
「お食事の手配をして、夜着を持ってまいりましょう。あなたはここでお嬢さまのお髪のお手入れをなさい。お部屋が寒いようならもう少し暖めて」
かしこまりました、とモルガーヌは部屋を出て行くデジレに向かって小さく頭を下げた。
いったいなにがどうなっているのやら、ただそれでも隣に座っている侍女が自分を助けてくれたことだけはわかるのか、すっかり項垂れたエリシュカは、どうにかこうにか、ありがとうございます、とかすかな声で礼だけを云った。
前途多難なことだ、という意味を込めたため息をつきかけていたモルガーヌは、慌ててそれを飲み込んで、おそれおおいことでございます、と微笑んでみせた。
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