16

 失礼します、というベルタの硬い声に、ツェツィーリアは、どうぞ、と返事をして彼女が姿を現すのを待った。

 オリヴィエを伴って王太子の寝所まで駆けつけたはいいが、控えの間で不寝番を務めていた侍女から事情を聞かされ、ふたりはなんの手を打つこともできぬまま退散するしかできなかった。言葉少なにオリヴィエと礼を交わしたのちに部屋へ戻り、そこで落ち着かぬ気持ちで時を過ごしていたのであろうベルタに、すべては遅すぎた、と告げるのには相当の勇気が必要だった。

 なにもかも手遅れだったという事実を前にして膝から崩れ落ちそうになった自分と同様に、ベルタもまたツェツィーリアの前で泣き崩れた。いったいなんだってこんなことに、とベルタは云った。ツェツィーリアもまったく同感だった。

 そしていま、とツェツィーリアは思う。目の前に立っているこの歳若い王太子付侍女も同じことを思っているのだろう、否、思っていてくれなくては困る。

 彼女がここへ姿を見せた理由はまだ聞かされていないが、昨日の今日だ、決して友好的なものではあるまい。妃を求めた王太子殿下に対して、われわれは、これで我慢してはくれないか、とばかりに代わりの女を宛がったのだから。

 たしかに王太子殿下は、代わりの女として差し出されたエリシュカをはじめから求めていたのかもしれない。昨夜、気づいてしまったとおりに。

 だが、そのことと姫さまの無礼とはまったく別の問題だ。

 王太子殿下はどのような罰を姫さまに与えるつもりなのだろう。エリシュカが昨夜のうちに殺されずにすんだことは不幸中の幸いだが、ベルタに様子を見に行かせたところ、彼女は自室にも仕事にも戻っていないという。いまごろは牢にでも放り込まれているか、斬首されたか。あるいは部屋に囚われているのか――。

 ツェツィーリアは深いため息とともに、ほとんど駆け込むようにして目の前までやって来たベルタを見遣った。彼女は、常にはない青白い顔をして、目の下に隈を浮かべている。私もきっと彼女と同じような顔色をしているに違いない、とツェツィーリアは思った。

 ツェツィーリアの私室で夜を明かしたベルタは、シュテファーニアの朝餉を調えるという務めを果たすべく、目を腫らし、顔を浮腫ませたまま退出し、さきほどツェツィーリアが呼び出すまで、本日の務めに邁進していたようである。ツェツィーリア自身も己が務めを果たすべく朝から座る間もなく働いていた。シュテファーニアの昼餐も終えた午後のひととき、ほんの短い休みに、いつもは自分に許していない午睡でもしようかと考えていたところに、王太子付侍女のひとりが姿を見せたのである。

 王太子付侍女は礼を失しない程度に浅くお辞儀をし、モルガーヌと名乗った。

「王太子殿下付侍女としては末席の私が、こうしてご報告に参りましたことをお詫び申し上げますわ」

 本来であれば筆頭侍女デジレさまのお仕事なのですが、とモルガーヌは前置きをする。ツェツィーリアやベルタと同じ仕着せを纏ってはいるが、東国の有力貴族の出であるという彼女の挙措は抜きんでて優雅である。彼女は、ツェツィーリアが逆立ちしてもかなわない上品さで微笑んだ。

「デジレさまは、昨夜、殿下の寵を賜られたエリシュカさまのお世話で大わらわなのです。すこしばかり舞い上がってもおられましてね。お許しくださいませ」

 なに、とツェツィーリアとベルタは目を剥いた。このモルガーヌと名乗った侍女は、いまはなんと云った。寵、だと。いったいなんの冗談だ。王太子殿下がエリシュカを気に入ったとしても、それはほんのいっときの戯れであるはずだ。

 あら、厭ですわ、そんなふうに驚かれて、とモルガーヌはなおいっそう深く微笑んでみせる。

「殿下のお召しに快く応じてくださった妃殿下の懐の深さに、私どもは心から感謝をしているのです」

 ベルタは表情をきつく尖らせた。しかしそれをそのままモルガーヌに向けるわけにもいかない彼女は、なんともいえぬ複雑な表情でツェツィーリアを見遣る。

「お嬢さまはいま、殿下から賜ったお部屋でおやすみになっていらっしゃいます。私はご報告と、それからお嬢さまのお持物をお預かりに参ったのでございます」

「……報告?」

 モルガーヌの目に私たちはどう映っているのだろう、とツェツィーリアは考えた。救いようのない大莫迦者にでも見えているに違いない。

 昨夜の王太子が妃を求めたことは、王城内で知らぬ者はない話である。いずれは国を継ぐべき夫婦の不仲はつとに有名であったし、その原因が王太子妃にあることもあまねく知れわたっている。一年半の長きにわたって妃の我儘に耐えてきた王太子が、妃に自身の務めを思い出させるべくとうとう実力行使に出たのだという話は、それこそ地下で働く洗濯婦から頂点をきわめる国王陛下に至るまで、あらゆる者たちの溜飲を下げさせたのではないだろうか。

 王太子ヴァレリー・アラン殿下は、東国国民にたいそう人気のある世継ぎである。王城内で働く者たちにとどまらず、城の外でも、王太子はその聡明さと勇敢さで男たちの心を、その優美さと美貌で女たちの心をがっちりと掴んでいる。

 王太子付の侍女たちがさんざんに苦心していた下半身の無節操さも、城の外へはかなりの婉曲さをもって伝わっているらしく、悪評どころか多少の愛嬌として――彼に仕える侍女たちの意に反して――好意的に受け止められている。

 対して、彼の正妃であるシュテファーニアの評判はまったくもって芳しくない。嫁いできたくせに夫となる男に心を開かず、ましてや世継ぎを儲ける気もない氷の国の巫女姫。公式行事さえも体調不良や己の行う占いの結果を理由に頻繁に欠席し、他国の王室や元首を招いての晩餐会や夜会にさえまともに顔を見せたことがない。

 神秘的な容貌や優雅な振る舞いにはケチのつけようもないが、あの高慢さはどうにもこうにもいただけない。愛情もなにもない政略結婚ゆえ、顔も見たことのなかったであろう夫を愛せないのはまだ仕方ないにしても、公人たる王太子妃としての務めも満足に果たさないとは、いったいなんのためのお飾りか――。

 シュテファーニアに仕える侍女たちはみながみな、彼女の我儘に首肯していたわけではない。ことにツェツィーリアは、臥所ふしどをともにすることがないのであれば、せめて政治的な役割だけでも果たさなければならない、と公的な務めさえも蔑ろにするシュテファーニアを叱ったこともある。

 だが、シュテファーニアは頑として聞き入れなかった。だってすぐに離縁して挿げ替えられる仮初の王太子妃なのよ、と彼女は云った。王城にとどまるだけで十分役割は果たしているし、王太子だってわたくしなんかに下手にでしゃばってもらいたくないはずよ。

 事実、王太子が妃に向かって苦言を呈したことは一度もなかった。晩餐会や夜会への出席も、領地視察や異国への外遊もひとりででかけ、興味本位で夫婦仲を探ってくる輩がいないでもないような場でも、平然と矢面に立ち続けてきた。

 そんな王太子殿下に向かって、昨日の姫さまはなおも鞭打つような真似をなさったのだ、とツェツィーリアは暗い覚悟を決めた。幸いにしてエリシュカが殿下の心をひととき慰めたとはいえ、私たちの罪は罪なのだから。

 お嬢さまは、とモルガーヌは云った。

「ああ、いえ、エリシュカさまは、昨日、王太子殿下からお部屋を賜りました。正式なお披露目はまだ先のことになりますが」

「それは、つまり……」

「王太子殿下の寵愛を賜る姫君となられたのですわ」

「寵愛?」

 ええ、とモルガーヌは頷いた。

「エリシュカが?」

 思わず呟いたツェツィーリアをモルガーヌが咎める。

「非公式なものとは云え、いまのエリシュカさまのお立場はあなたよりもずっと上ですよ。お言葉にはお気をつけくださいませ」

「お許しを」

 モルガーヌはまた上品に微笑んだ。次は許さない、とその瞳が云っている。穏やかな笑みに、悪戯な表情を付け加えてから彼女は続けた。

「経緯はどうあれ、王太子殿下はお嬢さまに夢中でいらっしゃいます。それはもう、片ときたりともお傍からお離しになりたくないと思われるほどに」

 ええ、とツェツィーリアは堅苦しく相槌を打った。

「お嬢さまのお部屋を自らのご寝所のお隣に設えられ、ご政務の合間にもご様子を見にお越しになるほどです」


 それは誇張のない事実だった。モルガーヌの手を借りて夜着を纏い、デジレが用意させた朝餉――やわらかなパンとクリームチーズ、根菜のポタージュと新鮮な果物をいずれも少量ずつ――を腹に収めると、急激な睡魔に襲われたらしいエリシュカは、そのままやわらかな寝台に倒れ込むようにして眠りについた。

 閉じあわされた瞳の縁を縁取る長い睫毛がときどき震えるのを見ながら、なんとまあ、お気の毒に、とモルガーヌは思った。ほっそりとした小柄な体躯からも知れるように、エリシュカの身体はまだ成熟しているとは云いがたい。すでに成人とされる年齢には達しているのだろうが、いつも潤んでいるかのような大きな瞳や怯えたような仕草のせいで、彼女の印象はひどく稚い。

 下女と同等か、あるいはそれよりも厳しい労働に毎日従事していたというから体力的には充実しているのだろうが、それでも、である。獣のような王太子に一晩中付きあわされたのだ。エリシュカに閨の経験があったとは思えない。まず間違いなくはじめてであったであろうに、変態王太子は遠慮も配慮もなく頭からバリバリと貪り食ったのだろう。

 今宵も遠慮する気など毛頭ないのだろうな、とは、時間が空いたから、と姿を見せたヴァレリーの慾を孕んだ顔を見てのモルガーヌの確信である。

 なにか食べたか、とか、具合はどうだ、とか、一応気遣いらしき言葉は並べてみせるし、銀色の髪やすべらかな頬や荒れたままの指先に愛しげに触れるだけで、それ以上のことは決してしないが、こいつは人の皮をかぶった獣だからな、とモルガーヌは警戒を解かずにヴァレリーを見守った。もしもいまエリシュカになにか悪さをしようとしたら、すかさずこの盆でぶん殴ってやろうではないか。

 モルガーヌと同じようにエリシュカの寝台の傍に立っていたデジレは、それはもう嬉しそうに微笑みながら、ヴァレリーの質問に答えていた。デジレさまはいつどんな場面においても王太子殿下の味方だから、とモルガーヌはそっとため息をついたものである。ヴァレリーがどんな野獣であれ鬼畜であれ、デジレにとっての彼は逆らうことを許されぬ絶対者であり、同時に可愛くてたまらない天使のような存在なのだ。

 仮にここでモルガーヌが、おそらく昨夜行われたであろう残虐な行為についてどれほど熱心にデジレに説いたところで、彼女は、殿下がそのような無体なことをなさるはずがありません、と端から否定し、決して信じようとはしないであろう。そして、もしヴァレリーが、いますぐに、と望むのであれば、疲れ切って眠りこけるエリシュカを叩き起こしてでも相手をさせるはずだ。この可哀相な女の子を守ってやれるのは私しかいない、とモルガーヌは銀の盆の縁を握る手に力をこめた。

 だが、ヴァレリーはデジレの夢を壊さなかった。エリシュカを起こすことなく彼女を愛でると、次の政務があると云って、そのまま部屋を出て行ってしまい、モルガーヌを拍子抜けさせた。力んだこの腕をいったいどうしてくれる。


「さようでございますか……」

 ツェツィーリアの静かな返事に、回想から現実に返ったモルガーヌは続けた。

「ゆえにお嬢さまは、もうこれまでのお部屋にはお戻りになられません。お身のまわりのものはすべてこちらで調えさせていただきますが、お持物のことを気にされておいででしたので、私が責任をもって預からせていただきますと申し上げました」

 こうして一夜のうちにエリシュカがはるか遠い存在になってしまったことを、ベルタはどうにも実感することができなかった。

 昨夜、静かな顔でツェツィーリアの言葉を受け入れていたエリシュカを思い出す。化粧を施すあいだも、着替えに袖を通すときも、最後の食事をしていたときも、彼女は穏やかな表情を崩すことなく、ただ云われることに従っていた。

 王太子付筆頭侍女デジレがいよいよ迎えにやって来て、ツェツィーリアとベルタに最後に深く一礼したそのときでさえ、エリシュカは動揺を見せなかった。

 ツェツィーリアが飲み込みきれぬ苦さに顔を歪め、ベルタが抑えきれぬ苛立ちに俯かずにはいられなかったなかで、エリシュカだけがまっすぐに顔を上げ、静かにふたりを見つめてきた。

 あれが最後の顔になってしまうのだろうか、とベルタは思う。私はもう二度とエリシュカに会うことは叶わないのだろうか。

 王太子の寵姫となってしまったエリシュカは、立場上、王太子妃付侍女との交流を持つことはできないはずだ。いかに元同僚とはいえ、否、元同僚だからこそ親しくすることは許されない。その肚に蟠りなどなくとも、王太子妃と対立する存在となってしまったのだから致し方のないことだ。

「ベルタ」

 苦い思考から呼び戻されたベルタは、はい、と低い声で返事をした。

「モルガーヌどのを、エリシュカ、さま、が使っていた部屋へご案内なさい。私は、姫さまにこのことをご報告申し上げねばなりませんから」

 ツェツィーリアのぎこちない物云いに、モルガーヌが薄く笑った。それを目にしたベルタの胸は、ますます苦い思いで満たされていく。

 エリシュカはおとなしくて心根のやさしい娘だ。誰にも逆らうことを許されぬ賤民の娘だったから、というだけではなく、彼女の従順さはもともとの性質によるところも大きかった。もしも彼女が私と同じように神官の家に生まれていても、強く自分を主張することのない穏やかな娘に育っていただろう、とベルタは思う。そんなエリシュカが、王太子の情人などという過酷な立場に耐えられるわけがない。

 王太子ヴァレリーの寵愛だけを頼りに王城の住人となったエリシュカに対しては、シュテファーニアからはもちろんのこと、ほかの王族からも貴族たちからも、侍女たちからも風当たりがきつくなるのが王城の理である。

 しかもそのきっかけが、王太子妃の身代わりであったというのだからなお悪い。正妃が得るはずだった王太子の寵を奪った――あるいは王太子を誑かした――悪女として、民からの反感さえ買うかもしれないのだ。

 エリシュカはいまどうしているのだろう、とベルタはツェツィーリアに云われたとおり、エリシュカが使っていた部屋へとモルガーヌを先導しながら考えた。このモルガーヌという侍女は、エリシュカのことをあまり悪く思っていないようだ。丁寧に頼めば、もしかしたらエリシュカに会わせてくれるかもしれない。

 こちらがエリシュカの部屋です、とモルガーヌが案内された場所は、下女の使う粗末な小部屋だった。仮にも侍女として遇されていたはずのお嬢さまをこんなところに、とモルガーヌは軽く眉をひそめた。

 神ツ国の身分制度において、エリシュカが被差別階級にあったことは知っている。だが、その賤民という立場や制度について、知識として理解してはいても感覚的にとらえることのできないモルガーヌは、シュテファーニアとその侍女たちがエリシュカを不合理に手酷く扱ってきたという事実に腹が立ってならない。

 可憐で可愛らしいお嬢さまは、あの獣だけではなく私の心までもすっかり捕えてしまわれた、とモルガーヌは少々可笑しくなり、つい口元を緩めてしまった。

「あの、モルガーヌさま」

 いけない、いまは仕事中だった、とモルガーヌは自戒し、だからその隙をつくようにして声をかけてきた自分よりもさらに歳若い王太子妃付侍女に向かって、ついついきつい眼差しを投げつけてしまうことになった。

「なにか?」

 モルガーヌの鋭い語調に戸惑ったベルタは、それでもめげずに問いかけた。

「あの、エリシュカは……」

「先ほど云ったことがわからなかったのですか」

 あ、いえ、とベルタは慌てた。

「エリシュカさまは、いまはどうしておいでですか」

「お寝みになっていらっしゃると申し上げたはずですが」

 あ、いえ、そういうことではなくて、とベルタは一度俯き、少しのあいだ言葉を探してから顔を上げた。

「私、エリシュカさまにお会いしたいのです。エリシュカさまのお持物を私がお持ちしてはなりませんか」

「なりません」

 モルガーヌの答えはにべもなかった。

「私は王太子殿下より直々に、お嬢さまのお世話をするよう申しつけられております。主の命に背くわけにはまいりませんわ」

「お荷物をお持ちするだけでも……?」

 ベルタは食い下がった。ここで諦めては、本当にもう二度とエリシュカと言葉を交わすことはできなくなってしまう。

「お託けがあるのなら承りますわ」

 ベルタをエリシュカに会わせる気はない、とモルガーヌは言外に云っている。モルガーヌの意図を過たず感じ取ったベルタは、それ以上言葉を重ねることができなかった。

 モルガーヌはそんなベルタにかまうことなく、エリシュカの私物――ごくわずかな身の回りの品と、エリシュカが云っていた螺鈿細工の小箱のみ――を手早くまとめてしまう。そして、ご案内ご苦労さまでした、とベルタに向かって微笑みかけ、終始一貫保ったままだった慇懃な態度を崩すことなくその場をあとにした。

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