17

「なあ、親方」

 寒肥に使うための肥料を慎重に配合していた庭師ジスランに向かって、彼の不肖の弟子クレマンはどこか強張った声をかけた。

「なんだ」

 ジスランはぶ厚い手袋をはめた武骨な手を、動物の骨を細かく砕いた肥料を入れた大きな袋に突っ込みながらぶっきらぼうに答えた。こいつの云いたいことはわかっている。

「エリシュカは大丈夫なんすかね?」

「大丈夫ってのはなんだ?」

 昨日のあれですよ、とクレマンは答えた。

「なんだか意地悪そうな侍女が来て、仕事の途中だってのに城んなかに連れてかれちゃったじゃないすか」

 だからなんだってんだ、とばかりにジスランは弟子を見た。肥料の袋を肩に担いで自分を見下ろしてくる素朴で不器用なクレマンが、異国からやって来た可愛らしい侍女に淡い想いを抱いていることを知らぬではない。こいつの想いがうまくいくだなんて露ほども思っちゃいないが、横から手を伸ばしてわざわざぶち壊してやることもないからな、とジスランはそうも思っていた。

「なにか急な用があったんだろう」

 人の仕事のことなんか気にしてる場合か、とジスランは低い声で付け加えた。

「そいつをとっとと運べ、ウドの大木。ぼさっとしてると日が暮れるぞ」

「でもあんなこと、いままで一度だってなかったのに」

 東国王室が、北の最果てにある神ツ国からはるばる嫁いでくる王太子妃の心を慰めるために、と設えたこの庭に、シュテファーニアが姿を見せたのは、たった一度きりのことだ。嫁いできてすぐのころ、あくまでも儀礼の一環としてヴァレリーが案内してきたのである。

 まだ夏の暑さの残るころのことで、ジスランは額に汗しながら丹精込めて作り上げた造作についてあれこれと説明をした覚えがある。

 王城で働く者たちならば誰もが知るやんちゃな素顔を穏やかな笑みで覆い隠したヴァレリーは、シュテファーニアから微妙な距離をあけて立ち、庭師の言葉に聞き入っている態を装っていた。実際の彼が、嘶きも足踏みもしない植物なんぞには欠片も興味がないことなど、ジスランは百も承知している。彼は夫としての務めを果たすためだけにこの場にいるのだ。

 彼の新妻はと云えば、しかしそうした婚家の気遣いなどまったく意に介してなどいないようだった。傍らに立つヴァレリーを鬱陶しげに睨みつけたかと思えば、鼻の頭に皺を寄せて庭師たちを見遣る。紫色の瞳には冷たい軽蔑の光が宿っており、庭木について説明をしていたジスランは、自分がまるで毒々しい色合いの毛虫にでもなったような気がしていた。

 シュテファーニアの不機嫌は、柘植の木を刈り込んで作った鹿の姿を目にしたときに頂点に達したらしかった。なんて下品なの、と彼女は可愛らしい唇をこれでもかとばかりに捻じ曲げてそう叫んだ。もう我慢ならないわ。下働きの男に直答を許すのも、この匂いも、あなたに傍に寄られるのも、この暑さも、なにもかも、もう厭。部屋に戻るわ。ああ、あなたは来ないでいいから。

 他人行儀にあなたと呼ばれた挙句、ついて来るなと使用人の前で力いっぱいに面子を潰されたヴァレリーは、それでもあからさまに不機嫌になる無様は見せず、まだ婚儀の疲れが抜けていないのだな、ゆっくり休むといい、と足音も高らかに傍を去って行く妃を見送っていた。

 慌てて深々と頭を下げたジスランとその弟子、付き従っていた侍従や侍女たちは、だからそのときのヴァレリーの眼差しが、北限の海に吹き荒れる嵐よりもまだ厳しい冷たさを帯びていたことを知らずにすんだ。

 騒々しく礼儀知らずな王太子妃の姿が消えると、世話をかけてすまなかったな、とヴァレリーは云った。思いがけない言葉にジスランが返事をすることもできずにいると、ヴァレリーは苦笑いを深くした。あれやこれやと面倒な立場なんだよ、王太子ってのも。妻の無礼を許してくれるとありがたい、と彼はさらに付け加え、静かな足取りでその場を去って行った。

 シュテファーニアが姿を見せることはなくとも、王城内の庭を荒らしておくわけにはいかない、とジスランはこの一年半、この王太子妃の庭の手入れを怠ったことはなかった。エリシュカが手伝ってくれるようになったおかげで、神ツ国から運ばれてきた植物の世話についても不安がなくなったし、主が姿を見せることのないこの庭には、じつはあちらこちらにジスランのひそかな趣味が潜んでいた。

 たとえばこの慎ましやかな野の花がそうだ、とジスランは傍らに置いた小さな鉢たちを見遣った。これから陽当たりのよい場所にでも植え替えてやろうと思っているその株は、冬の終わりごろ、本格的に暖かくなる前にごくごく小さな薄紫色の花を咲かせる。

 まるであの子の瞳の色のような、と考え、ジスランはふと、たった一度だけ目にしたことのある高慢な王太子妃と健気で働き者の侍女がその身に纏う色が、じつはよく似通ったものであることに気がついた。

 そういや髪の色まで一緒だな、と庭師は思った。銀色の髪に紫色の瞳とは、彼の神国にはありふれた色合いなのだろうか。この国の人間からするとあまりにも神々しく見えるあの容貌は、王太子妃にあっては近寄りがたく、エリシュカにあってはたとえようもなく可憐に見える。

 因果なことだ、とジスランは思った。国中の民が伏して尊ぶ巫女姫さまと、同じ民らに足蹴にされる賤民の娘とが同じ色を身に纏って生まれてくるとは。もっとも、彼女たちの容姿にはまるで似たところはなかったがな。

 王太子妃の銀と紫は冷たく凍える冬を思わせ、エリシュカのそれは光に輝く野の花を思わせる、とはあまりにも姫さまに不公平か、とジスランは己の物差しの歪みに苦笑いをした。

「親方ッ!」

 小さな鉢をいくつも入れた籠を両手で持ち上げたばかりのジスランのもとへ、弟子が走り込んできた。なんだ、とジスランは落ち着いた声でクレマンを窘める。落ち着きがないのは、おまえの数ある欠点のうちのひとつだぞ。

「おッ、でッ、殿下がッ……!」

 落ち着け、と口にする間もなく、邪魔するぞ、とクレマンの背後に続いてすぐに姿を見せたのが、件の王太子殿下当人だったことに、さすがのジスランもぎょっとして目を剥いた。

「突然すまない」

「いったいなんの御用ですかな」

 持ち上げたばかりの籠を足元に置き、ジスランは落ち着き払った声で答えた。自分の背中に張りつくようにして縮こまっている弟子を振り払うように肩を揺すったことに他意はない。おまえの図体は、儂の背中に隠れられるほど小さかない。しかし王太子の面前であるせいか、無駄なことはやめろ、とまでは云わなかった。

「いつぞやは妃が失礼を働いたな」

 はて、とジスランは笑った。

「なんのことやら記憶にありませんな」

 そうか、とヴァレリーは夏の空のように深く輝く青い瞳を眇めた。

「今日は頼みがあって来たのだ」

「この庭師にできることであれば」

「おまえにしかできぬことだ」

 この庭には神ツ国の草木が多く植えられていると聞いたが、とヴァレリーは軽く眉を持ち上げてみせた。輝くような金色の髪よりもやや深い飴色の彼の眉はじつに表情豊かだ。瞋恚や嫉妬、悲哀に恋慕。いまの彼の顔を彩っているのはいったいどんな感情か、と庭師は目を細めて絶対者の顔色を窺った。

「妃殿下のお心が少しでも安らかにあるよう、丹精しております」

 ふん、とヴァレリーは鼻で笑った。

「おまえには悪いが、妃の心は氷のごとくに冷たくて、庭木なんぞで慰められるものではなかったらしい」

 賢い庭師は言葉を控えた。王太子と対等な口をきく親方の姿に驚いてでもいるのか、彼の背後にいるクレマンはなお一層身を縮める。

「ここにある神ツ国の草花で、いますぐに植え替えられるものはあるか」

「いますぐにでございますか?」

 どちらへ、とジスランは尋ねた。

「おれの庭だ」

 そうですな、とジスランは頷き、いますぐとなりますと、あまり大きなものは無理ですし、殿下のお庭の造作を崩すわけにもまいりませんしなあ、と続けた。

「今日のところは多くなくてよいのだ。明日までに多少形を整え、残りは少しずつ植え替えればそれでいい」

 そうですなあ、とジスランは唸る。

「おそれながら殿下、理由をお尋ねしてもよろしいですかな」

「なぜだ」

「ここは王太子妃殿下のお庭でございます。ここにある草木は、小さな花のひとつひとつに至るまで、妃殿下のお心安からんことを願って、儂とこのクレマン、それから王太子妃殿下付の侍女のひとりが丹精込めてお世話しております」

 植物も人と同じでしてなあ、と庭師は云った。右から左へひょいひょいと動かすわけにはいかんのです。

「恋人のためだ」

 放っておけばいつまでも続きそうなジスランの繰り言を断ち切るかのような口調で、ヴァレリーはあっさりと云った。

「恋しい女の心を庭の草木で慰めてやりたいのだ。まさかあれを妃の庭へ連れて来るわけにもいかぬからな。おれの庭をあれの好みに変えてやれば、故郷を想う寂しさも少しは紛れるだろうと思ってな」

「恋人……」

 呆然と口を開いたのはジスランではなかった。王太子の威光に怯え、親方の影に隠れていたクレマンである。

「そうだ」

 庭師見習いの無礼を咎めるでもなく、美貌の王太子は艶然と微笑んだ。昨夜の情事を思い起こしでもしたのか、うっとりと眇められるその瞳に映るのは無骨な男ふたりの姿などではない。夜の帳に白く光るようにさえ見えた、嫋やかな娘の身体である。

 親方、とクレマンはほとんど涙声になりながらジスランの腕を掴んだ。ジスランは弟子の動揺にかまわず、さようでございますか、と短い返事をした。

 ヴァレリーが、神ツ国の草花で心を慰めたいと願う恋人とは、あの可愛いエリシュカに違いあるまい。神ツ国が故郷だという彼女は、昨夜のうちにこの王太子の寵姫となってしまったのだろう。――あるいは、させられた、か。

 ジスランは草木の植え替えに悩む素振りで眉間に皺を刻んだ。いずれどんな経緯があるにしろ、この雲上人の色恋沙汰に庭師風情が口を挟むことは許されない。クレマンにはまったくもって気の毒なことだな、とジスランは思った。己の恋敵が王太子であるとは、得難くもありがたくない経験であるに違いない。

「かしこまりました」

 そう云ってジスランは頭を下げた。

「できるか」

「あまり大きなものは無理ですが、寒の時期に花をつける低木のなかには丈夫なものもございますし、この鉢のやつなども春を前に薄い紫色の綺麗な花をつけます。殿下の想い人にもお喜びいただけるのではないかと存じますがな」

 薄紫色の、と云われたところでヴァレリーの眼差しに険を孕んだ光が浮かんだ。

「あの子は儂らにとっても可愛い娘みたいな子でした。殿下のお立場ではいろいろと難しいこともありましょうが、どうか大事にしてやってください」

 ヴァレリーは夏空色の瞳をこぼれんばかりに見開いて庭師を見つめた。無骨で不器用そうでおよそ男女のことになど疎いはずの彼に、自身の心を見透かされていることに驚いたのだ。

 ジスランとて王城で長く働く者のひとりである。彼は、城内でかしましく云い交わされる噂話や陰口には、じつは多くの真実が潜んでいることをよく知っていた。嫉妬や悪意の渦中から真実を拾い出すことはそれほど難しくはない、とジスランは思っている。自身がそうした薄暗い感情を抱いていなければ、だがな。

 そういえば昨日の城中はえらく荒れていたな、とジスランは思い出した。不穏なできごとに翻弄されているというよりは、祭りの前の喧騒のような奇妙な高揚が侍女たちのあいだに蔓延していた。城のなかで色恋沙汰を繰り広げたことのない王太子が、はじめて恋人に部屋を与えたことが理由だとすれば、あの浮かれっぷりもわからないではない。

 見目麗しく、気さくで、さらに賢くもあるヴァレリーは使用人たちに絶大な人気を誇っている。そんな彼の幸せを誰もが祝福するのは当然のことであろう。一部の例外はもちろんあるだろうがね、とジスランは思った。寝台の上に寝転がっていてさえもまつりごとを忘れられないような、お偉い方たちに限っては、王太子の新しい色恋沙汰は、それこそ肝を冷やすようなできごとであるに違いない。

 もっとも己以外の誰の思惑も蹴散らして歩く王太子殿下にとっては、自分と恋人の幸せ以外、いまはすべてがどうでもいいのだろうがね、とジスランはヴァレリーの顔を、不躾にならない程度に気をつけながらじっと見つめた。

 もの云わぬ植物ばかりを相手にしてきた朴念仁は、じつのところ人の心の動きにたいそう聡く、それは誰が相手であっても同じなのだった。己が息子よりいささか年嵩なだけのヴァレリーの心を見抜くなど、ジスランにとっては容易いことである。

 そしてそんなジスランの見るところ、ヴァレリーの恋情は心の底からのものであるように思われた。

「明日の昼までには植え替えを終えておきましょう。殿下の想い人のお気に召すとよろしいですな」

 ああ、とヴァレリーは頷いた。

「よろしく頼む」


 エリシュカはこんなところでも働いていたのだな、とヴァレリーは庭師から離れ、寒風の吹き抜ける庭を歩きながら胸を痛めた。

 昨夜この腕に抱いたエリシュカの身体は、どこもかしこもやわらかくすべらかで甘く香っていたが、ただ両の手の指先だけは乾燥して硬くなり、爪も皮膚もひどく荒れて罅割れていた。幾度もくちづけ、握りしめてやったが、そのたびに痛みを訴えるように握り込まれるのが哀れでならなかった。

 無理矢理に奪った自覚はある。この自分の振る舞いに驚き慄いて、それでも拒むことができずに受け入れるしかなかったのだろうと理解はしている。そうとわかっていても、もう手放す気はない、とヴァレリーは思った。

 だからこそ彼はあんな真似を――周囲を、エリシュカ本人さえをも欺いたうえで既成事実を作り上げるような卑怯を――したのだ。引き止めるにはこの手しかなかった、とヴァレリーは思う。オリヴィエさえも謀って、エリシュカを部屋へ呼び、強引にでも自分のものにしてしまうしか方法はなかったのだ。

 ヴァレリーがなんと云おうと、エリシュカはシュテファーニアが国から伴ってきた侍女である。このままヴァレリーとシュテファーニアとの婚姻が破綻を迎え、彼女が国へ帰るとなれば、エリシュカも間違いなく彼女に同道することになる。

 おれが閨へと誘えば、白い婚姻を貫こうとする王太子妃は必ずエリシュカを寄越すはずだ、とヴァレリーにはわかっていた。だから筆頭侍女のデジレにはあらかじめ因果を含めておいたのだ。

 なんということをお考えか、とデジレは当初ヴァレリーの無謀を詰り、諌めようとした。だが、ヴァレリーがエリシュカを心から欲していることを理解すると、掌を返したように協力的になった。

 もしもオリヴィエが、現時点でヴァレリーとエリシュカとの関係によい顔をしていないのであれば、すべてが滞りなくすんでしまうまで、彼には事実――王太子妃を寝所へ呼ぶ真の目的が、彼女の身代わりとして差し出されるエリシュカにあること――を伏せておいたほうがよい、と云ったのはデジレである。障害はひとつでも少ないほうがようございますから。

 デジレはまた、妃殿下については心配ございません、とも云った。あの国の者たちは殿下のお嬢さまにそれはそれはつらく当たっておるようですから、態のいい厄介払いができたと、手を打って喜ぶことでしょうよ。

 デジレらしくもないな、とヴァレリーは云った。おまえはおれが女人と情を交わすことをことのほか嫌っていたではないか。身分の低い娘など相手にするなという口癖はどこへ行ったのだ、とヴァレリーが笑えば、デジレは、殿下のお気持ちが誠実なものであれば話は別です、と耳に痛い言葉をさらりと口にした。

 まったくおまえにはかなわない、とヴァレリーがついたため息に応え、おそれおおいことでございます、と深く腰を折り、主の幸せを願わんと穏やかに微笑んでみせたデジレだったが、彼女は主には明かさぬある思いを抱えてもいた。

 それは王太子妃付第一侍女ツェツィーリアに対するものである。ツェツィーリアは、デジレの目から見ても非常に有能な女性である。だが彼女は己の部下の管理に甘いところがある、とデジレは思っていた。神ツ国からやってきた彼女たちが、賤民を虐げる故郷の習慣を引きずったままでいることの是非は問わずにおくとしても、仮にも侍女と遇される者に下女の仕事を与えて平然としているなど、王城の秩序を乱すありえない振る舞いである。

 デジレはこれまでも、侍女長ジョゼ・セシャンを通じて東国王城の規律を守るようツェツィーリアに進言していた。だが、王太子妃もその侍女たちも自らの行いを決してあらためようとはせず、デジレは不快感を募らせる一方であったのだ。

 だがそんな不愉快も、エリシュカがヴァレリーの寵姫となれば、過去のものとなるはずで、デジレはそのことにも溜飲を下げる思いでいたのである。

 むろんヴァレリーはそんなこととは知らない。ただ、幼少のころより自分の面倒をみてきてくれたデジレを、ささやかなりとも喜ばせることができたのなら、己の振舞いも悪いばかりではないのかもしれない、と思っただけだ。

 執務室へと戻り、外套を脱いだヴァレリーは、書類箱に溜まった紙の山に目を遣った。どうやらオリヴィエは昨夜のヴァレリーの振る舞いにまだ怒り狂っているらしい。乱雑に積み上げられた書類の山が、彼の苛立ちを如実に物語っていた。――今日の今日ばかりは、なにがあってもお手伝いはいたしません。

 ヴァレリーは軽いため息をついた。

 今朝早く、己の寝所の隣に設えさせたエリシュカの部屋から近衛騎士団の訓練へと赴いたヴァレリーに、オリヴィエは腰に佩いた剣を抜かんばかりの勢いで詰め寄った。いったいなんということをなさったのですか、と叫ぶ彼に向かって、みなが見ているぞ、と普段なら効果抜群の呪文――オリヴィエは人一倍体裁を気にかける男なのだ――を唱えてみたが無駄だった。

 オリヴィエ自身、エリシュカに対し含むところがあるわけではない。それは彼が再三主張しているところだ。――可愛らしくて働き者の、いいお嬢さんだと思いますよ。

 でも、殿下のお相手としては相応しくありません、というのがオリヴィエの云い分なのだ。

 寵姫を据えたいとおっしゃるなら何人でも連れて来ればいい。ですが、彼女はいけません。彼女は神ツ国の賤民です。賤民である彼女を妃殿下に次ぐ地位に据えることは、彼の国の身分制度に真っ向から否を突きつけることになるのです。しかも、当の国から迎えた妃殿下がただのお飾りときては、なお悪い。口が酸っぱくなるほど申し上げたはずですが、とオリヴィエは云った。

 ああそうだな、とヴァレリーは答えた。それでもおれにはエリシュカが必要なのだ。

 オリヴィエはかっと目を見開き、わなわなと唇を震わせ、周囲の止める声も聞かずに騎士団の訓練を放り出してその場から立ち去ってしまった。彼と王太子とのやりとりに固唾を飲んでいた近衛騎士団の連中のなかに、日ごろ鬱陶しいほどに生真面目なオリヴィエの職務放棄を誰ひとりとして責める者はいなかった。

 正しいことを云っているのは、どう考えてもオリヴィエのほうだからな、とヴァレリーは書類に目を通し、署名を続けながら考えた。

 いつなんどきも己に従うことを誓ってくれた側近に対し、必要な言葉を尽くしていないのはほかならぬ自分である、とヴァレリーにはわかっている。己が肚ひとつに呑む、恋とは別のこの思い――エリシュカを手に入れたいと願う、もうひとつの理由――を、いつかオリヴィエにも語って聞かせるときが必ず来よう。

 だが、いまはまだ、と彼は公人らしからぬ甘い思いを捨て去ることができずにいた。

 いまはまだなにも考えずにただ溺れていたいのだ。生まれてはじめて恋しく思った女との、蕩けるほどの至福のときに。

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