18

 夕刻も近くなってから、エリシュカは深い眠りから目覚めた。

 枕元にはモルガーヌが静かに控えていて、身を起こしたり柑橘水を飲んだりするのを手伝ってくれた。ひとりでできる、と云おうとしたが、彼女が浮かべている穏やかで親しげな笑みが、じつは、ひとりではなにもするな、というやわらかな命令であることを敏感に悟ったエリシュカは、おとなしくモルガーヌに従うしかなかった。

 喉を潤したエリシュカが、戸惑いながらもわずかながらに落ち着いてきたことを感じ取ったのか、モルガーヌは、お嬢さま、と控えめな声音で話しかけてきた。

「先ほどおっしゃっておられました小箱とは、こちらのことでしょうか」

 優雅な仕種で目の前に差し出された螺鈿の小箱に、エリシュカは思わず手を伸ばした。

「こちらに置いておきますわね」

 エリシュカの指先が触れるより先に、モルガーヌは小箱をさっと寝台の脇にあるテーブルの上に乗せてしまった。モルガーヌの意地が悪いのではない、そういう時機タイミングだっただけだ、とエリシュカは自分を慰めてみるが、たったそれだけのことで、場違いなところに留め置かれている心細さと不相応な扱いを受けている不安とが急に膨らんできてしまう。

 あの、とエリシュカは小箱に眼差しを据えたまま声を上げた。

「はい」

 モルガーヌの声音は静かで優しげだった。

「わたしはこれからどうすれば……」

「どう、とは?」

 問いかけに問いかけで返されてしまったエリシュカは俯くしかできない。

 温かな湯を使わせてもらい、やわらかな寝台で寝かせてもらい、肌触りのよい服を着せてもらっている自分。さすがのエリシュカも、自身が罪人として扱われているのではないことくらいとうに気づいている。愛しく思う、と云った王太子ヴァレリーの真意はさておき、少なくとも自分は彼の不興を買わずにすんだらしい、とエリシュカは思った。

 問題はいつになったら部屋に――これまでどおりの仕事に――戻らせてもらえるのか、ということだ。いますぐに殺されるのでないのなら、あの小箱は手元には必要ない。むしろ誰かに盗られたり壊されたりしないように、慎重に隠しておかねばならない。家族を想う縁が納められているこの小箱は、エリシュカにとって己の身と同じくらいに大切な品である。損なうことなく故郷へと持ち帰らなくてはならないものだ。

 同じ手間をかけさせてしまうのなら、あんなものではなく仕着せを持ってきてもらうべきだった、とエリシュカは悔やんだ。そうすればすぐにでも侍女としての仕事に戻ることができたのに。

「お嬢さま」

 モルガーヌの声はやわらかく口調も穏やかだが、有無を云わせぬ迫力に満ちている。云いたいことがあるのならば早く云え、と彼女は云っているのだ、とエリシュカは理解した。

「わたしはいつ仕事に戻らせていただけるのでしょうか」

「……お仕事」

 モルガーヌは努めて慎重に復唱した。あなたさまのお仕事は、これまで誰にも懐こうとしなかったケダモノのお相手をしてあれを満足させておくことですよ、と咄嗟に答えてしまわなかっただけ偉いもんだ、と内心で自分を褒めることも忘れない。

「はい」

 エリシュカはそこで顔を上げた。モルガーヌが思わず息を飲むほどの美貌が陽光の下に晒される。エリシュカが身に纏う銀と紫は、見慣れぬ者の目には至高の宝玉のようにも映る。歳若い侍女は刹那目を奪われ、次いで、これは、と内心で溜息をつかずにはいられなかった。あの王太子殿下も骨抜きにされるはずだ。

「今日は厩舎の仕事を終えたあと、姫さまのご衣裳の洗濯をしなくてはなりません。夕方からは繕い物もございます。馬のお仕事には間に合いませんが、ほかはすぐにでもかからなければ、今日中に終えることができません」

 昨日はお庭のお仕事も中途で放り出してしまいましたし、とエリシュカは一息に続けた。

 モルガーヌは呆気にとられて絶句した。厩仕事に洗濯、裁縫ときて庭仕事だと。王太子妃殿下はこの娘にいったいなにをやらせていたんだ。

「このままではお叱りを受けてしまいます。あの……」

「お嬢さま」

 妃殿下の振る舞いにケチをつけるのはあとまわしでいい、とモルガーヌは気を取り直した。いまはこの無自覚な美少女に自分の立場を弁えてもらわなくてはならない。

「お嬢さまはすでに王太子妃殿下の侍女の任は解かれております。いまおっしゃったようなお仕事に戻られることはありません」

「え……?」

 どういうことですか、と腰を浮かしかけたエリシュカを手で制し、モルガーヌは続ける。

「お嬢さまは王太子殿下の寵愛を賜られる身になられたのです」

「寵、あ……」

 愛、と首を傾げたエリシュカの顔がだんだんに強張っていくのを見下ろしながら、モルガーヌは、これは思ったよりもずっと厄介なことになったのかもしれない、と考えていた。

「ここは王太子殿下がご用意された、お嬢さまがお住まいになられるためのお部屋です。お隣には殿下のご寝所がございます」

 しばらくあの獣が自分の寝台を使うことはないだろうが、そんなことまで教えて差し上げるのは余計なお世話というものだろう、とモルガーヌは思った。いずれ自分の身体で思い知ることだ。それはもう、大変気の毒なことに。

 そう、気の毒なことに、このお嬢さまにはおそらくまったく自覚がない。己がこの東国の王太子である男の寵を受けたことも、自身の身分が一晩のあいだに一変したことも、なにひとつとして。

「お嬢さまは王太子殿下の寵姫としてこのお部屋にお住まいになり、必要であれば王城の住人たるにふさわしい淑女としてのさまざまな教育を受けられることになるでしょう。いずれお子を授かれば、王室のおひとりとなられ……」

「ま、待ってください!」

 待って、とエリシュカは激しく首を振りながら叫んだ。

「な、なにかの間違いです! 昨夜のことは寵などではありません。あれは……」

 そこでエリシュカは賢くもはっとして口を噤んだ。――あれは。

 あれはなんだと云うつもりだったのだ。姫さまをお召しになった王太子殿下を騙し、身代わりとして参上した自分の命を差し出す代わりに姫さまの身を守ろうとしたと、そんなことをいまここで云うつもりだったのか。王太子殿下付のこの侍女に。

 もしもそんなことを口にすれば、彼女はすぐにでも自らの主のもとへと駆け込み、一部始終を報告するだろう。そんなことになれば姫さまのお命が危うくなる。仮にも夫であり、国の後継者である王太子殿下を謀ったのだ。彼が真実を知れば――。

 真実を知れば? とエリシュカは混乱する。なにを云っているのだ、わたしは。王太子殿下は――アランさまは――すでになにもかもご存知ではないか。姫さまの身代わりにわたしが現れたことをご存知のうえで、わたしを好きなようになされたのだ。

 いや、違う。エリシュカは首を振った。違う。求めたのはそなただけだ、とアランさまはおっしゃった。それがどういう意味であるのか――。

「間違いなどではございませんよ。昨夜、殿下の寵を賜ったのはあなたさまで、そしてそれは殿下が心から望まれたことなのです」

 エリシュカの全身から力が抜けていく。強張った顔のまま寝台の上に蹲り、絶望の表情を浮かべるエリシュカに対し、ここぞとばかりにモルガーヌが追い打ちをかける。

「自覚なさいませ。お嬢さまは王太子殿下の寵姫となられたのです。おわかりになりますね」

「寵姫……」

「経緯がどうあれ、あなたさまの想いがどうあれ、すべては王太子殿下が望まれたことでございます。身も心も運命もすべてを殿下に委ねて、どうぞお務めを果たしてくださいませ」

「……お務め?」

「お嬢さまもご存知でいらっしゃるように、王族の暮らしとは非常に過酷なものです。心身ともに厳しい規律に縛られ、数多の政務や軍務に忙殺されておられます。王太子殿下は未来の国王。御身にかかる重圧は想像を絶するものがありましょう。お嬢さまのお勤めとはそんな殿下をお慰めし、喜ばせ、癒やして差し上げることでございます。そしてできますればお子をお産みまいらせ、王室に繁栄をもたらすことでございます」

 薄紫色の瞳を見つめ、モルガーヌはそう言葉を重ねた。

「そんな……」

「ご自分にそんなことはできない、あるいは、ふさわしくない、などと仰せになってはなりませんよ。殿下がお部屋を用意なされた以上、お嬢さまの存在はこの城内あらゆる場所に知れ渡っております。お嬢さまは殿下がはじめて自ら求められた女性でいらっしゃる。みながお嬢さまに注目し、同時に監視しております」

 エリシュカは硬い表情のまま身じろぎひとつできなくなってしまった。

「お嬢さまが殿下のお心をとらえるにふさわしい方かどうか、あるいは、殿下のお隣にあるにふさわしい方かどうか。私ども使用人だけではなく、殿下のお父上お母上をはじめとする大勢の王族がたも、お嬢さまの一挙手一投足に注目しております」

 あなたさまの評判はすなわち殿下の評判でございます、というモルガーヌの言葉はエリシュカの身をますます凍らせていく。

「あなたさまが愚かな言動をなされば、責めを負うのは王太子殿下です。ご自分が殿下の恋人にふさわしくないとおっしゃることは、殿下の見る目を疑わせ、ひいては殿下自身に疵をつけることになるのですよ」

「愚かな、言動……」

「ご自分を否定なさるような発言です。先ほどおっしゃりかけていたような、ね」

 お嬢さまがご自身を否定なさることは王太子殿下を否定なさることに等しいのですよ、とモルガーヌは続けた。

 もちろん、とモルガーヌはそこで幾分か口調を和らげ、腰を屈めてエリシュカの顔を間近から覗き込んだ。

「お嬢さまのこれまでのお立場について、われわれはよく存じております」

「それなら……!」

 わたしが王太子の寵姫になどなれるはずがないことくらいわかっているはずだ、とモルガーヌの袖に縋りつくようにエリシュカは手を伸ばした。その手を優雅に、しかし無情にも払いのけながらモルガーヌは云った。

「すべてはこれから慣れていけばよいことです。デジレさまをはじめ、多くの教育係がお嬢さまに、寵姫たるにふさわしい教育を施させていただくことになるでしょう。もちろん、不肖この私もお手伝いいたしますし、なにひとつご心配にはおよびません」

 お嬢さまはお心安らかに殿下に寄り添い、殿下をお慰めし、できますれば殿下のお心にお応えになればよろしいのです、とモルガーヌは微笑んだ。

 こうしてエリシュカはいっさいの反論も許されないまま、王太子の恋人の座に押し込められてしまったのである。


 身体の芯に怠さを残したまま、エリシュカはふたたびヴァレリーとの夜を迎えていた。

 つまりは仕える相手が変わっただけのことだと考えればいいのかもしれない、と王太子に組み敷かれながらエリシュカはぼんやりと思った。深いくちづけに塞がれた唇からは、悲鳴ひとつあげることができない。

 怖くて怖くてたまらなかった昨夜の記憶に、心はすっかり竦みあがっているくせに、ヴァレリーの手が施す愛撫に身体は少しずつ慣れはじめてきていて、そのこともエリシュカをひどく混乱させていた。自由になった唇からこぼれ落ちる声が悲鳴ではなく、甘やかな艶を帯びた泣声であろうことは容易に想像がついた。身体の奥に灯った奇妙な熱はどんどん膨らんでいく。

 この国へ来てからずっとわたしの主であった姫さまは、ご自身のご夫君である王太子殿下にわたしを差し出されたのだ、とエリシュカは思う。わたくしの代わりに死ぬことができぬのなら、そこから戻らずともよい。そのまま彼に仕えよと、昨夜の命令はそういうことだったのだ。

 馬の世話をし、庭を丹精し、ご衣裳を洗い繕う代わりに、王太子殿下の慾望を受け止めよ、とそう仰せなのだ。

 アランさまは姫さまのそうした思惑をご存知だった。そうでなければ、おれが求めたのははじめからそなただけだ、などと云うはずがない。そなたを抱けることをとても嬉しく思っている、などと――。

 おふたりははじめから結託しておられたのだろうか。ご自身を守りたい姫さまと、ご自身のお言葉を信じるならばわたしを手に入れたいアランさま。

 違う、そんなことなどあるはずない。謀られたのかもしれないなどと勘繰ってはいけない、とエリシュカは思った。ここがどこであれ、相手が誰であれ、主である姫さまのなさることはすべて正しいのだから。

 では、姫さまのお気持ちをご存知だったアランさまが、一方的にそれを利用なさって――。

 いえ、やめるのよ、エリシュカ。考えては駄目。主の、新しくあるいは主となる人のお考えを想像しようなどとしてはいけない。

 そうしてエリシュカは本当に考えることをやめた。

 そうすることで、ヴァレリーの卑怯――妻を求めるふりをして別の女を求めた、そのやり方――に傷ついた自分に気づかぬふりをしようとした。

 アランさまはやさしい方だ、とエリシュカは自分を慰めようとする。わたしのような身分のない者にも穏やかに微笑みかけてくださった。たまにご一緒した早駆けの折にはいろいろなお話もしてくださった。

 だからきっと昨夜のお言葉も彼のやさしさだったのだろう。自分の求めに応じなかった姫さまのことも、姫さまの身代わりに差し出されたわたしのことも傷つけぬよう、アランさまはあんなことをおっしゃったのだ。――そなたのことを愛しく思っている。

 ヴァレリーの唇がエリシュカの首筋を丁寧に辿っていく。エリシュカは唇を噛みしめて必死に声を上げまいと堪えた。ヴァレリーは焦れたようにエリシュカの喉元に強く吸いつき、同時に夜着のなかへと手を忍びこませた。

 アランさまがなにをお考えになって昨夜と同じ真似をなさろうとしているのかはわからないが、とエリシュカは唇を噛んだ。これからはきっと、こうした仕打ちに耐えることをはじめ、アランさまのご要望に応えていくことがわたしの勤めとなるのに違いない。

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