19
「エリシュカさまは今朝もまた厩へ行かれているのですか」
デジレに問われたモルガーヌは、はい、と低い声で答えた。デジレの声に含まれている棘が自分に向けられたものではないとわかってはいても、どうにも落ち着かない気分にさせられる。つまり私は、それだけあの儚げなお嬢さまに肩入れしてしまっているということなのだ、とモルガーヌは思った。
デジレの云いたいことはわかっている。王太子殿下の寵姫ともあろう娘が、自ら厩へ赴き馬の世話をするなどあってはならぬことだ、というのだろう。
それはじつにもっともな話だ、とモルガーヌも思う。
最初の夜から十日ほどが経ち、エリシュカは当初の困惑が嘘のように己の境遇を受け入れはじめていた。
デジレやモルガーヌの云うことにもいちいち涙ぐんだりしなくなったし、俯いてばかりでもなくなった。
王太子の恋人ともあろう娘が文字のひとつも読み書きできぬままではみっともないと教師をつけられれば素直に学び、歩き方や話し方、食事などの作法についても教えられたとおりに振る舞おうと努めている。衣裳については質素と云っても差し支えないほどに簡素なものを好むようだし、入浴や化粧の手伝いにはいまだに相当の恥じらいをみせるが、それでもデジレやモルガーヌが強く勧めればその言葉を拒むことはない。
連夜に及ぶヴァレリーの訪いもエリシュカは静かに受け入れている。夕方の政務が終わるや否やヴァレリーはエリシュカの部屋へと駆けつけ、ふたりは食事をともにする。そのあとのことは推して知るべしだ、とモルガーヌは小さなため息をついた。不寝番を務める同僚たちの顔色が日増しに悪くなっていくところをみると、王太子殿下は盛りのついた獣のごとくに恋人を貪っているらしい。
そろそろいい加減にしてほしい、とは不寝番を務めることの多い若い侍女見習いのぼやきである。こんなこと云いたくないけど、と彼女はげっそりとした顔色でモルガーヌに向かってこぼした。毎晩毎晩早い時間から朝方までってどんだけ元気なのよ。王太子ってなに、あれ化け物なの。お嬢さまもあんな華奢な身体でよく耐えてるよ。
耐えられているとすれば、それは可哀相なエリシュカがこれまでの厳しい労働によってそれなりに鍛錬されており、見た目以上に体力があるからだろう、とモルガーヌは思う。
毎朝、ひどく気怠そうな様子で寝室から出てくるエリシュカを迎えながら、もう少し
ヴァレリーとの夜を重ねるうちに身体が慣れたのか、あるいは彼の求めがいささかなりと軽くなったのか、このところのエリシュカはモルガーヌに促されることもなく起き上がってくることが多い。だが、起き抜けの顔色は決してよいとは云えず、モルガーヌが件の問いかけ――もう少し寝んでいらしたらいかがですか――を繰り返すことに変わりはなかった。いいえ、大丈夫です、と精も根も尽き果てた風情で微笑むエリシュカが、心の底から哀れでならないモルガーヌである。
だからそんなエリシュカが、午前中の早い時間を厩仕事に当てたい、と云い出したとき、モルガーヌは本気で反対した。王太子の恋人ともあろう女性が下女ですら敬遠するような下働きに出ることなど許されない、という王城の掟を念頭に置いてのことではなく、純粋にエリシュカの身体を慮ってのことだった。
テネブラエという子がいるんです。あの子、わたし以外の手を受け付けないから、とエリシュカは静かながらもしっかりとした声で云った。もう何日も放ったらかしにしている。心配なんです。世話をするのがいけないのなら様子を見に行くだけでも、お許しいただけませんか。
駄目です、とモルガーヌは云い張った。王城の規律もさることながら、あなたさまのお身体が持ちません。夜は王太子殿下とともに過ごされ、午後にはいくつもの講義も受けておられるのです。せめて午前中はゆるりとなされなくては。デジレさまも同じことをおっしゃるはずですよ。
お願いです、とエリシュカは云った。わたしなら大丈夫です。お願いです。このままではテネブラエがどうにかなってしまう。
そして結局、モルガーヌが根負けしたのだった。
むろんデジレには叱られた。王太子殿下の寵姫ともあろう方にいったいなにをさせているのか、わかっているのですか、モルガーヌ。
だが、そんなデジレを止めたのはなんとエリシュカだった。モルガーヌがデジレの叱責を受けているとどこかからか聞き及んだエリシュカが駆けつけてきて、デジレに向かって、これは命令なのです、と云い放ったのだ。モルガーヌに非はありません。わたしがテネブラエの世話をさせるようにとモルガーヌに命じたのです。
お嬢さま、とデジレはじつに冷たい声音で答えた。使用人には使用人の決まりごとというものがございます。お言葉をお控えくださいませ。侍女ごときを庇いだてするとはなにごとですか。
いいえ、とエリシュカは譲らなかった。テネブラエの世話をすることはわたしの心からの希望です。モルガーヌはそれを叶えてくれたにすぎません。彼女を責めるのは筋が違います。
そこまでおっしゃるのなら、とデジレは云った。馬の世話などおやめください。
やめません、とエリシュカは答える。あの子の世話はわたしにしかできないことです。それともわたしにテネブラエを見捨てろと云うのですか。わたし以外の世話を受け入れないあの子を見殺しにしろというのですか。わたしが姿を見せなかった七日のあいだ、可哀相にあの子は、汚れきった藁を取り換えられることさえ厭がって厩の隅で身動きがとれなくなっていました。水も餌も拒んでいたせいですっかり痩せてしまっていたし、身体の汚れもひどかった。
七日も放っておいたわたしに、それでも縋りついて甘えてくるテネブラエを見捨てることなんかできない。蹄の手入れができていなかったせいで脚を引きずり、桶一杯の水を飲み干してさえ渇きを見せるあの子の姿に涙が出ました。どなたがなんとおっしゃろうと、わたしはテネブラエの世話を止めません。
これは命令です、とエリシュカは最後にそう云った。わたしにテネブラエの世話をさせなさい。
エリシュカの迫力に飲まれたデジレは、ひと言たりとも反論することができなかった。結果としてエリシュカは毎朝厩舎へと出向くこととなり、彼女がテネブラエと呼んで愛する青毛馬の世話をすることになったのだが、デジレは当然納得などしていない。付け加えるのであれば、そのことを彼女がヴァレリーにいくら訴えても無駄だった。エリシュカの好きにさせろ、馬の世話ならおれもやっていることだ、とそっけなく突き放されてしまったのだ。国庫を空にするような放蕩に耽ろうというならともかく、馬の世話などと健気なことじゃないか。
どこまでも恋人に甘いヴァレリーに業を煮やし、モルガーヌやほかの侍女を叱りつけてみても、彼女たちはみなエリシュカの味方である。可愛らしくって偉ぶらなくって、おまけに働き者だなんて、気持ちのいいお嬢さまじゃないの。
頼るあてを失くし、黙らざるをえなくなったデジレだが、いつかはエリシュカに王城の規律を守らせてやろうと心に誓っている。勢い、午前中のエリシュカの不在にはつい声を尖らせてしまうことになるのだった。
「午後の舞踊のお稽古までには必ずお湯浴みしていただいて、新しく誂えたご衣裳を着ていただくのですよ」
承知しております、とモルガーヌは頭を下げた。
エリシュカがヴァレリーの恋人に納まって以来、デジレとモルガーヌはエリシュカ付きの侍女のごとくに彼女の世話を仰せつかっている。むろんほかに人を付けることも検討されているのだが、エリシュカの出自が出自であるだけに人選には慎重を期さねばならない。不用意な者をそばにつけてエリシュカの心を傷つけでもしたら、王太子殿下は私たちの首など容易く刎ねておしまいになる、とデジレは云い、彼女の言葉にモルガーヌも心から賛同している。
これまでずっと卑しい身と蔑まれてきたエリシュカに頭を下げることを潔しとしないのは、なにも神ツ国の侍女たちに限ったことではない。この王城のなかにもそういった手合い多くいるはずだ、とモルガーヌは思う。
なにごとも殿下第一でほかのことはどうでもよいデジレや、エリシュカの可愛らしさにとっとと籠絡された自分とは違い、この王城には野心を抱く者たちも大勢いる。あわよくば王族や貴族たちの寵愛を得たいと願う侍女、立身出世を考える侍従。そんな彼らにとってエリシュカは羨望の的である。
邪な心を抱く者をエリシュカの傍につけ、心ない言葉を彼女に投げつけさせるようなことだけは避けなければ、とモルガーヌの鼻息は荒い。
自分のそばに常に付き従い、なにくれとなく面倒をみてくれるデジレとモルガーヌを、エリシュカは信頼しはじめている。ことに年齢の近いモルガーヌには、少しずつではあるが心を開くようになってきていた。
愛らしい顔に純粋な信頼の色を浮かべて自分を頼る素振りを見せるエリシュカに、もともと姉御肌で面倒見のよいモルガーヌはあっさりと陥落した。小さくて細くて儚げで、ああもうなんと可愛らしいお嬢さまなのだろう、とヴァレリーさえも顔色を失くしかねない溺愛っぷりである。
「でも、お稽古にわざわざ正式のご衣裳とは珍しいですね」
「殿下もお越しになるからですよ。ご自分が選ばれたご衣裳を纏われたお嬢さまを一番にご覧になりたいのでしょう。王妃陛下のお誕生祝の宴まであまり時間もありませんし、自ら舞踊の手ほどきをなさりたいのでは」
なにが手ほどきだ、変態め、とモルガーヌは思った。ただ可愛らしい恋人の傍らにへばりついていたいだけではないか。ついでに、隙あらば、と邪なことを考えているに違いない。だが、侍女としての彼女に卒はない。
「殿下が自ら選ばれた、若草色の素敵なご衣裳ですものね。きっとお似合いになりますわね」
穏やかに微笑んでみせれば、デジレは満足げに頷いて、では頼みましたよ、と云ってから、不意に表情を硬く引き締めた。
「ところで、妃殿下になにか動きはありましたか」
モルガーヌの顔から瞬時に笑みが抜け落ちて、やや吊り上がり気味の黒い瞳に剣呑な光が宿った。
「いまのところはとくに」
鋭い吐息は、ため息ではなく嘲笑の代わりである。
「ツェツィーリアさまやベルタさまにそれとなく探りを入れておりますが、特別になにかをなさるということはないようです。一時期はずいぶんと荒れていらしたようですが」
「荒れていらした、とは?」
「妻の侍女に部屋を与えるなど、この自分を愚弄するのかと、かなりの剣幕でいらしたとか。あれは自分の侍女なのだから強引にでも連れ戻せとか、殿下に正式な抗議をせよとか、それが無理なのであれば、いっそ……」
「もう結構です」
デジレの声はモルガーヌのそれよりも冷たい。
そもそもヴァレリーを受け入れなかったのはシュテファーニアのほうだ。互いの顔も見たことのない政略結婚でありながら、精一杯の気遣いと心尽くしで妻を迎え、愛しあうことはできなくとも、互いに思いやりを持ってともに歩もう、とヴァレリーが差し伸べた手を、彼女はすげなく振り払ったのである。
デジレからすればおよそありえない異国の巫女姫の振る舞いを、しかし当時新婚であったヴァレリーは動ずることなく受け入れた。なんなのですか、あの不躾な小娘は、と激昂するデジレを、まあまあ、と笑って宥めさえした。まあ、いいではないか。おれだってあんな鶏ガラみたいな女を抱かずにすむと思うと気もラクになる。
放っておけば時が解決するさ、とヴァレリーは云った。二年経てば国へ戻るのだ。そのあとまたどこかからかしかるべき姫を迎えて、王室の繁栄とやらに尽くせばよいのだろう。
でもそれでは殿下の威厳が、とデジレは悔し涙を呑んだ。いいえ、殿下だけではなくこの東国そのものがあの神の国に虚仮にされたのですよ。このまま黙ってあの娘の我儘を聞き入れられるおつもりですか。
悪いか、とヴァレリーは穏やかな顔のままそう答えた。あれはおれの妻だ。妻の我儘を聞いてやることのなにが悪いのだ。
己の返事を聞いてもなお不満げなデジレに向かって、ヴァレリーはにわかにやんちゃな王子さまの仮面を脱ぎ捨て、為政者の顔になって言葉を続けた。
この結婚は政治だ。あの女がこの城にとどまることに意味があるのだ。わが国にも、あのいけ好かない神の国にもな。夫婦の実態などどうでもいい。なに、あの女はあれ以上の我儘は云わないだろう。ここを追い出されれば、ほかに行くところなどありはしないのだから。年季が明けるまではせいぜい覚えた聖句を忘れぬよう諳んじていればいいではないか。
あまりにも投げ遣りな言葉に思わず息を飲んだデジレに向かって、すべては国の未来を思えばこそだ、とヴァレリーは悪戯っぽく笑ってみせた。おれの閨の無聊など微々たる問題だろう、少しは身を慎めとうるさく喚いていたのはおまえであろう、デジレ。
そう云っていたヴァレリーは、しかしシュテファーニアとの離縁がほとんど確実になったいまごろになってエリシュカに部屋を与えた。傲慢にも夫を拒んでおきながら自らの矜持にはこだわるシュテファーニアが、それを見過ごすはずがない。そう考えたデジレは、モルガーヌに命じてシュテファーニアの身辺を探らせ、エリシュカの身を守ろうとしていたのである。
「ご安心ください、デジレさま」
じつに有能な部下がひっそりと囁く声で、デジレはわれに返った。これまでにモルガーヌがデジレの信頼を裏切ったことはない。彼女はいつだって、私の思考を私よりも早く理解しているかのようだ、とデジレは思う。
「王太子妃殿下の居室周辺の警護に当たっている王城警護騎士のバローどのに、このたびの事情をお話ししたうえで、妃殿下の周囲の警戒を怠らないようにと強くお願いしておきました。バローどのは、私どもの懸念を正しく理解してくださいましたわ」
「なるほど」
「妃殿下と妃殿下付侍女たちの動向は、バローどのとその部下の方々によってしっかりと監視されておりますし、なにか少しでも妙な動きがあった場合には、すぐに報告していただくことになっています」
なにも心配はありませんわ、とモルガーヌは笑った。
「バローどのは王太子殿下のお部屋周辺の警護をより厳重にしたとおっしゃっておられましたし、彼女たちがお嬢さまに近づくことは簡単ではありません。ベルタさまもそうこぼしておいででしたから、間違いはありません」
ふとしたきっかけで知り合った侍女同士、立場はともかくも親しくさせてくださいませね、と微笑むその裏で、騎士に命じて相手を監視させるモルガーヌの遣り口は、有能が過ぎていささかおそろしくさえ感じられる、とデジレは思った。
「相変わらず抜かりがありませんこと。お嬢さまのお支度についても、同じようにお願いしますよ」
もちろんです、と微笑みながら頭を下げるモルガーヌに悟られぬよう、デジレは小さく身震いをした。
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