16

 目の前に立つ男は、本当にユベール・シャニョンなのか、とジアンは思った。あの教師から聞かされていた柔和など欠片も持ちあわせていないような、この男が。

 無言で自分を睨んでくるジアンを前に、シャニョンはどこか呆れたような表情を浮かべてみせた。

「僕の云うことが信じられないのかな」

 自分たちが従うべき指導者の言葉だっていうのにね、とシャニョンは長套の下から黄土色の腕布を取り出し、ひらひらとこれ見よがしに振ってみせた。布の陰から覗く翡翠の瞳に厭な澱みが渦巻き、妙な具合に濁っている。ジアンは小さく喉を鳴らした。

「そうじゃない。そうじゃありません、ただ……」

 あなたがまさかこんなところにいらっしゃるとは思わなかった、ただそれだけです、とジアンは声が震えないように気をつけながらそう答えた。

 ああそう、とシャニョンは頷きもせずに応じると、さっと腕布を仕舞い込んで、名前は、と尋ねた。

「ギャエル・ジアン」

「エ、エリク・フォルタン」

 ギャエル・ジアン、とシャニョンはなぜかジアンの名前を復唱し、思案をめぐらせるように細い指で頬を数度叩いた。やがて彼は、ああ、と声を上げた。

「王城の騎士だとかいうきみか……」

 数多いる同志の中で自分のことを覚えていてくれたのか、とかつてのジアンならば感激したことだろう。だが、いまの彼にしてみれば、シャニョンの言葉はまるで悪魔の喜悦のように不吉なものに聞こえてならない。ちょうどいい道具を見つけたと喜ぶ、緑色の目をした悪魔。

「ついてきたまえ」

 シャニョンはふたたび目深に帽子をかぶり直した。紅茶色の髪と翡翠の双眸が見えなくなり、剣呑な気配が隠される。あの、とジアンは貼り付いたようになっていた喉から、どうにか声を振り絞った。

「なんだ?」

「ま、まだもう何人か仲間がいるんです。西から一緒にやってきた連中です」

 それで、とシャニョンが口許だけで応じた。

「彼らも、その、一緒に……」

 心配はいらないよ、とシャニョンは云った。

「僕の連れが迎えに行っているはずだからね」

「む、迎えに、ですか?」

 そうだよ、とシャニョンは答えた。

「じつを云うとね、きみたちのことは数日前から見張らせてもらってたんだ。いかにも人目を憚ってさ、危なっかしいことこの上なかったし。これ以上放っておくと面倒起こしそうだから、声をかけることにしたんだよ」

「……面倒って」

 あのね、とシャニョンは言葉ばかり穏やかに、しかし帽子の下から冷たい瞳を向けて寄越す。

「僕たちは王家に仇なす罪人だよ。誰かが捕まればそれだけこっちの身が危うくなるんだ。ふらふらふらふら勝手なことをされると困るんだよ」

「勝手なって……!」

 ジアンが思わず云い返すと、シャニョンはあからさまに舌打ちをした。

「あんまり面倒なこと云わないでくれるかな。利用価値があると思うから生かしておくけど、勝手なことするなら話は別だよ」

 するりと喉元に付きつけられた光が短刀であることに気づくのに、少し時間がかかった。喉の奥で悲鳴を上げて仰け反ったジアンに、シャニョンは薄い笑みを突き刺した。

「きみはさ、黙ってついてくればいいんだよ。わかった?」

 ああ、きみもね、とジアンは短刀の先をフォルタンに向ける。指差されたことの意趣返しだろうか、とジアンは恐怖から意識を逸らすためにどうでもいいことを考えた。どこが柔和だ。なにが穏やかだ。このシャニョンという男、聞いてた話と全然違うじゃないか。

 シャニョンは短刀をしまうと、さっさと歩き出した。

 そのときまでその場にいたことさえ忘れていたふたりの男たちに背を押されるように、ジアンとフォルタンはシャニョンの足跡を追いかける。昼間だというのにどことなく薄暗く感じられる路地が、地獄の底へ通じる道のように思えてならなかった。


 やがて到着したのは、なんの変哲もない一軒の食堂酒場だった。

 扉を閉ざしているでもなく、休業中の看板を掲げているでもないその店の裏口から、断りもなく店内に足を踏み入れたシャニョンは、そのまま二階へと上がっていく。客の注文に応えるべく忙しく働く厨房の者たちも、店主と思しき年輩の男も、ジアンらに注意を向ける様子さえ窺えなかった。

 いったいどうなっている、とジアンは思った。ここが王都における彼らの隠れ家なのだろうか。

 食堂酒場の二階は簡単な宿になっていることが多い。ここもまたご多分に漏れず、そういった店の一軒だったようで、階段を上がった先の廊下には同じような扉がいくつも並んでいた。その一番手前のひとつを開けて、シャニョンが軽く顎をしゃくった。

「入って」

 柔らかな口調にこうも怯える日がくるとは思わなかった、とジアンは思いながら、けれど逆らう気にはなれなかった。シャニョンが懐に呑んでいた、あの短刀が放つ鈍い光――手入れが杜撰なせいなのか、あまりにも血を吸わせすぎたのか、人を斬った痕跡がはっきりと残り、刃が鈍っているようにさえ見える――が頭から離れない。僕たちの指導者が人殺しの得意な冷鬼だとは知らなかった。

 ジアンは黙ったままシャニョンに従って部屋の中に入り、指示されたとおりの椅子に腰を下ろした。彼の隣にはフォルタンが座らされ、ふたりの向かい側にシャニョンが陣取った。きみたちも飲むか、と問われたのが酒ではなく茶であったところにシャニョンの潔癖が窺えた。

「物騒なやり方をしてすまなかったね」

 シャニョンは、街中にいたときよりは幾分か穏やかな表情でそう云った。彼に従うふたりは部屋の隅に控えたまま、長套の釦ひとつ寛げようとしない。

「知ってのとおりの追われる身でね。警戒はしてもしすぎることはないものだから」

「僕たちのことはどうやって……?」

 ずっと見ていた、と云われたことが気にかかっていたジアンは、おそるおそるといった調子で問いかけた。シャニョンは、うん、と頷いた。

「きみたちに最初に気づいたのは、僕ではなく、そこにいるルスュールだよ。彼が王都に入ってきたきみたちに目をつけてね。そのあとは交代で監視させてもらった」

 職人や農夫にしては雰囲気が悪いし、学生にしては浮ついたところがない。そんな男たちが緊張した表情で七、八人も固まっていれば、厭でも目立つものさ、とシャニョンは笑った。

「宿を分けたところまでは賢かったけれど、食事のたびに皆で顔を突き合わせていれば、互いに連れだと触れて回っているようなものだ」

 それはそのとおりだ、とジアンは顔を赤くした。

「でも、監視だなんて、どうしてそんなことをしたんですか。すぐに声をかけてくださればよかったのに」

 それはねえ、とシャニョンは笑みを深くした。薄い幕の向こうからじわりと浮かび上がる瘴気のような、深い闇を孕んだ笑みだった。

「きみたちを見定めさせてもらうためだよ」

「見定める?」

 ジアンの声に不満が滲んだ。シャニョンの云い方はまるで、できのよくない螺子を弾き出そうとする工場の検査係のようだ。

「下手な者に僕のことを知られるわけにはいかないんだ。いまはまだ身が惜しいんでね」

「僕たちはみな、あなたのことを慕って立ち上がったんですよ。それなのに……」

「僕の顔すら知らなかったくせに」

 それは、とジアンは云い澱んだ。

「僕のことなど、なにも知らないくせにね。叛乱に加担したのは僕のせい、捕らえられるのも僕のせい。斬首を命じられれば、それもまた僕のせいかな」

 シャニョンは冷笑した。

「都合の悪いことはなにもかも他人のせいにしたがるような誰かを仲間だと思ったことは一度もないよ。ましてや顔も知らないきみたちのことなどね」

 そんな、と声を漏らしたのはフォルタンだ。ジアンはきつく顔をしかめただけでなにも云わなかった。

「そんな人だとは思わなかったって、そう云いたいのかい?」

 シャニョンは優雅な仕草で茶を飲み、音を立てて器を置いた。わざと響かせた高い音は彼の悲鳴なのかもしれない、とジアンは思った。

「期待を裏切って悪いけどね。僕のことを知りもしないくせに勝手な期待を押しつけすぎないでくれるかな」

 少し黙っててくれる、とシャニョンはフォルタンをおとなしくさせると、きみは、とジアンを見つめた。

「もう少し話がわかる人だといいんだけど」

「あなたのおっしゃりたいことはわかります」

 あなたの考えていそうなこともね、とジアンは心の中だけで付け加えた。シャニョンはきっと、祭り上げられた偶像と実際の自分との乖離に苦しんでいる。

 彼が掲げた理想は紛れもなく本物で、人を動かす力を持っていた。理想に共鳴し集まった者たちは、けれどいつしか、シャニョン本人を見ることはなくなり、自分たちが理想とする勝手な指導者像をシャニョンに押しつけるようになったのだ。

「けれど、僕たちはこれまであなたに会うすべを持たなかった。ある程度は仕方のないことだと、他人の理想を許容するのも指導者の役目だと僕は思いますが、それは間違っているんでしょうか」

 間違ってはいないよ、とシャニョンは片頬を歪めて答えた。

「僕が聞いていたユベール・シャニョンと、いま相対しているあなたとはまるで別人のようです。革命の指導者シャニョンは、慕ってくる者たちを試すようなことはしない。使い捨てにすることもない。問答無用で刃を振りまわし、部下を傷つけるようなことも」

 僕はそう思っていましたよ、とジアンは云った。

 ジアンが口を噤んでも、シャニョンはしばらく黙ったままでいた。やがて、そうだね、と応じた彼の声は、さっき浮かべた笑顔のように、闇を孕む重たいものに変わっていた。

「人は変わる。時間が流れ、立場が変わり、経験が増え、人は変わる。僕も変わった。それだけのことだ」

 口を閉ざしたシャニョンは、もうジアンを見てはいなかった。

 人は変わる。

 そのとおりだとジアンは思った。ゆっくりと、あるいは急速に、けれど、――確実に。

 輝かしい理想――民による民のための政――を掲げ、明るく穏やかな人柄で多くの者を惹きつけたユベール・シャニョンはかつてたしかに存在したはずだ。それが、躊躇いひとつなく人を殺めるような冷たい男に変貌するには、きっとそれなりの理由があるのだろう、とジアンは、刹那なにかを惜しむような気持ちになった。

 その一瞬でなにを惜しんだのかはわからない。

 純粋さ、朗らかさ、あたたかさ。損なわれ、失われ、もう二度と戻らないもの。――シャニョンにも、自分にも。

 僕だってかつては――故郷の村にいたころは――平気で嘘をついたり、誰かを騙したりするようなこどもじゃなかったはずだ。誤って友人を傷つけることはあっても、傷つけるために言葉を選んだりするようなことはしなかった。

 自分を守るため。理想を叶えるため。

 誰かを傷つけるための云い訳は無限にある。それは同時に、狡猾で卑怯な自分を許すための云い訳でもある。

 多くの者たちの心を揺り動かし、国を乱すほどの勢力を率いるシャニョンと、その勢力の一員にすぎない自分とを比べるのはおこがましいかもしれない。それでも、僕とシャニョンはどこか似ている、とジアンは思った。

「僕は、なにをすればいいんですか」

 あなたのために、とジアンは問いかけた。隣でフォルタンが息を飲む気配がしたが、取り合わなかった。ジアンの眼差しはシャニョンだけを見つめている。

 ふうん、とシャニョンは顔を上げた。

「ずいぶん、話が早いんだね」

「まどろっこしいのはお嫌いかと」

 嫌いだよ、とシャニョンは頷いた。

「きみは王城の騎士なんだろう? ギャエル・ジアン」

「そのとおりです」

 所属は、というシャニョンの問いにも、ジアンは素直に応じた。

「へえ、西部守備隊将軍の配下なのか」

 なかなか優秀なんだね、とシャニョンは小さく含み笑いする。

「国境へは配属されませんでしたから、云うほどではありません」

「不満なの?」

 いいえ、とジアンは首を横に振った。

「所属などどこでも同じです。平民出身の騎士など、昇級昇格もたかが知れています。退役の歳まで勤められたらありがたいという程度のことでしかありません」

「そういうもんかねえ」

「そういうものです」

 ふうん、とシャニョンは頷き、でもさ、と掌を広げてみせた。

「いまのぼくにはきみみたいな男が必要なんだ。お高く止まったお偉い騎士さまなんかじゃなくってね」

 そこのところがわかったら、続きを話そうか、とシャニョンは云った。

「きみに大事な使命を与えようと思ってね」


 しっかり頼んだよ、という自分の声に振り返ることもなく部屋を出て行くギャエル・ジアンともうひとりの背中を見送ったシャニョンは、椅子に大きく凭れかかり、背中を伸ばして大きな息をつく。その様子を見守っていたレイモン・ルスュールが、新たな茶を満たした杯を差し出しながら、シャニョン、と声をかけた。

「なんだ」

「よかったのか、あのまま帰して」

 うん、とシャニョンは頷いた。

「ギャエル・ジアンは騎士のくせに荒事には慣れていないみたいだからね。目の前で流血沙汰になれば変に動揺して、このあとの仕事に障りが出るに違いない。フォルタンの始末は、ジアンが王城に戻ったそのあとでいいよ」

 そうか、とルスュールは頷いた。彼から杯を受け取ったシャニョンは、いつもどおり任せたよ、と云って微笑み、ルスュールを部屋から追い出すべく目配せをする。忠実な護衛はすぐにくるりと踵を返し、シャニョンの希望を叶えてくれた。

 ひとりになったシャニョンは、あたたかな茶をゆっくりと啜る。変わらないのはこれだけだな、と彼はひとり仄暗い笑みを浮かべた。僕が変わらないのは、酒を好まないことだけだ。

 兵士に金を渡して越えた北の国境の門の向こう側、神ノ峰の入口で、ユベール・シャニョンは追手である王太子ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュと遭遇した。

 一度は捕縛されたものの、しかし、ヴァレリーが崖から転落したことによって大混乱に陥った兵らの目をかいくぐり、辛くもその手から逃れたシャニョンは、その場で生き残っていたただひとりの護衛であるルスュールとともにふたたび東国へと足を踏み入れた。

 もともとシャニョンは国外へ逃亡しようとしていたわけではない。国境の門を出たあとは神ノ峰の麓を西へと進み、警備の手薄なところを狙ってふたたび東国へ戻ろうと考えていたのだ。

 思いもかけず国境の街へ戻ることのできたシャニョンは、これ幸いと、まずは故郷の街へと戻ることにした。そこにはまだ隠れ家もあるし、少ないとはいえ仲間も残っている。いざとなれば実家に身を寄せることも考えた。

 だが、現実はそう甘くはなかった。

 あてにしていた隠れ家はとうに追手に暴かれ、仲間たちは官吏に捕縛されるか、どこへともなく離散するかしていて、シャニョンを匿ってはくれなかった。革命を起こすのだと大言壮語して飛び出してきた実家にも当然のごとく王城からの追手が居座っており、両親の顔を見ることさえ叶わなかった。

 夜の街道をルスュールとふたり、ひたすらに南下し、要所要所で仲間たちと決めておいた拠点を訪れてまわる旅がはじまった。すでに手配書が回され、お尋ね者となっているシャニョンは宿ひとつ取ることができない。街に入ることさえできず、市場での買い物にさえ不便する有様だった。

 仲間たちとはなかなか会えなかった。捕えられた者、逃げてしまった者。仕方ない、とシャニョンは心のどこかでは、そう諦めてもいた。リオネルも云っていたじゃないか。――食えない現実の前では理想など無力だ、と。

 革命に失敗した僕たちは、誰に見捨てられてもおかしくないんだ。

 けれど、事態はそれだけでは治まらなかった。

 慣れぬ夜の道を旅し続け、故郷の街からもだいぶ離れた、ある町でのことだ。さほど規模の大きくない町で、衛士の警戒も厳しくなかったせいか、ここではシャニョンも街門の中へと入ることができた。ひさしぶりに宿に部屋を取り、噂で聞いた仲間の潜伏先を訪れようと思っていたときである。ひとりの男がシャニョンのもとを訪ねてきた。

 警戒を強めるルスュールだったが、シャニョンはその男を部屋へと招き入れた。その男が、自分はクザンとともにエヴラール殿下の拉致に加担した者だ、と云ったからだった。

 男は、明日から自分も一緒に旅をさせてくれ、とシャニョンに迫った。革命の炎はまだ消えていない。西からも大勢の仲間が行軍してきているのだから、と。

 逃亡の旅に出てから、心を砕かれるような知らせ――仲間の捕縛や死亡、出頭、逃走など――ばかりに接してきたシャニョンの耳に、男の言葉いかにも甘く魅力的に聞こえた。

 ルスュールは反対したが、シャニョンは男を伴うことを約束し、出立の日取りや時間を打ち合わせた。

 ルスュールは陰気な大男で、人殺しを得意とするような不気味な存在だったが、旅をともにするうちに少なくとも信用はできる相手だということがわかってきていた。そのことが、シャニョンにとってどれだけ救いとなったかわからない。

 だからシャニョンとしては、ルスュールの言葉を軽んじたつもりは決してなかった。彼はただ、自分を慕ってきてくれた者の言葉を疑うことができなかっただけだし、その好意――らしきなにか――を無碍にすることができなかっただけだ。

 結論から云えば、正しかったのはルスュールのほうだった。

 シャニョンとルスュールが出立する日の朝、宿を町の衛士たちが取り囲んだ。いち早く異変に気づいたルスュールの機転により、ふたりは二階の窓から飛び降りてどうにか逃げ延びることができた。追手を撒いたところで、気を取り直して先へ進もう、と云ったルスュールにシャニョンは、あの男を殺せ、と答えた。

 レイモン・ルスュールはひどく驚いた。

 リオネル・クザンの命令によってシャニョンの護衛についた彼は、もとは東国の兵士だった男である。訓練中の事故によって仲間ふたりを死なせ、五人にけがを負わせた彼は、そのずば抜けた戦闘能力にもかかわらず軍を除籍され、することもなく腐っていたのをクザンに拾われた経緯がある。

 ルスュールは自分のような男を拾い、居場所を与えてくれたクザンに義理を感じていた。そのクザンが陰に日向に支え続けるシャニョンという男にも興味があった。だから、クザンから、シャニョンの護衛につき、命果てるまで彼を守れ、と云われたとき、一も二もなく頷いたのである。

 シャニョン率いる革命軍と王太子軍が相見えたあの草原で、武力衝突が起きてすぐにルスュールは仲間四人とともに戦列を離れた。戦闘を本職とするルスュールは、本来であれば革命軍の大きな戦力となっていたはずだった。だが彼は、シャニョンの命を、彼だけの命を守るため、別行動をとった。草原のすぐ傍の林の中でひとり蹲っていたシャニョンを見つけ、保護し、ともに北へと向かった。

 国境を越え、王太子の遭難現場に居合わせ、ルスュールはこれまで、シャニョンとほとんど同じものを見てきている。

 際どい場面は何度もあった。仲間たちは死に、ルスュール自身けがを負うこともあった。シャニョンだって、何度も自ら剣を握ったのだ。またとない好機に恵まれ、どうにか東国内にふたたび戻ったのち、ふたりきりの旅となったあとも、衛士に追われ、仲間の裏切りを知り、何度もひどい目に遭った。

 それでもシャニョンは、ただの一度も恨み言を吐かなかった。

 逃げた仲間を呪うことも、自ら官吏のもとへ出頭した者を罵ることもなかった。亡くなった者を悼み、けがを負った者を慰めようとした。家族が彼を拒んだときでさえ、シャニョンは微笑んだまま、仕方ないんだよ、と云ったのだ。仕方ないんだよ。父さんも母さんも、これから先を生きていかなきゃならないんだから。

 大逆の罪を犯した息子を持ち、彼らはそれでも生きていかなくてはならない。これから多くの非難を浴びるだろう。商売なんてできないだろうし、あの街にもいられなくなるかもしれない。長年かけて築いてきたすべてを、彼らは僕のせいで失くすかも知れないんだ。だから、仕方ない。仕方ないんだよ。

 ルスュールには理解しがたい心情だった。けれど、自分とは違い、その手で人を殺めたこともない穏やかな青年ならば、そんなふうに考えるものなのかもしれない、とも思った。だからあえてなにも云わなかった。黙ってシャニョンに従った。クザンに従ったのと同じように。

 だから、本当に驚いたのだ。

 まさかこのシャニョンが、誰かを殺せ、とオレに命じる日が来るなんて、と。

 驚きはしたが、ルスュールはシャニョンの言葉に素直に従った。ふたりを裏切って衛士を呼び込んだ男を始末した。

 それからのふたりの道行きは、まさに血塗られたものとなった。衛士の追跡を躱すために商人の隊列に紛れ込み、翌朝には全員を屠った。一夜の床欲しさに町はずれの家に忍び込み、そこに暮らす家族をこどもまで皆殺しにした。

 それまで、誰かを殺すなど考えたこともなかったはずのシャニョンは、けれどひとたび得物である短刀を握ると、人が変わったようになって、平然と人を殺めた。

 自分の中のなにかが壊れたのだ、ということはシャニョンにもわかっていた。

 甘やかされ、庇護され、そのくせ指導者などに祭り上げられていい気になっていた。誰も本当の僕をわかってはくれないのだと、独りよがりの悲劇に酔って、煩わしいことはすべて誰かに――クザンに――押しつけてきた。

 リオネルが囚われて、僕にもようやく現実が見えてきたっていうことだ、とシャニョンは思っていた。理想を叫ぶ自分の陰で、リオネルがどれだけの現実と戦ってきたか。どれだけの敵を葬ってきたか。どれだけの汚れに手を染めてきたか。ようやく理解することができた。

 ルスュールとの旅は、シャニョンにとって己の弱さや甘えと向かいあう旅でもあった。長年の友だと思っていた者たちは離れていき、父と母から見放され、目的も名誉も故郷も、なにもかもを失って、その上さらに手酷い裏切りを受けた。――かつての仲間から。

 シャニョンは変わった。

 甘ったれで、頭でっかちで、そのくせ自尊心ばかりは人一倍の生意気な学生はもうどこにもいない。冷徹で機敏、嘘つきで剣呑、いざとなれば自らの手を汚すことも厭わない、そういう男に、――なったのだ。

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