春を征くきみ〔カクヨム版〕

三角くるみ

第一部 王城

01

 厩の朝は早い。

 濃いミルクのような早朝の靄が身体にまとわりつくのを心地よく感じながら、エリシュカは厚手の手袋をはめて箒を手に持ち、厩舎の奥へと進んでいった。早朝の空気は指先が切り取られたような痛みを覚えるほどに冷たいが、それでもエリシュカの故郷のそれに比べればずっと穏やかでやさしい。

 馬たちは静かに佇み微睡んでいるものもいれば、すでに脚を鳴らし走り出しそうなものもいる。エリシュカは一頭一頭の囲いのなかを覗き込んでそれぞれの様子を確かめながら、最後に厩舎の一番奥に繋がれている青毛に声をかけた。

「おはよう、テネブラエ」

 漆黒の毛並みに黒曜石の瞳を光らせた青毛馬は、鼻から白い息を吐いて挨拶に応えた。

 その名にテネブラエを戴く彼は非常に気位が高く、故郷にいるときからずっと自分の世話をしてくれていたエリシュカ以外の人間に心を開かない。ここにいる数多の厩番のなかには、エリシュカが生まれるはるか以前から馬とともに人生を歩んできた者も大勢いるが、そうした男たちの矜持を踏み躙ってテネブラエはエリシュカ以外を寄せつけない。

 エリシュカはテネブラエに与えられている囲いのなかへと足を踏み入れた。襤褸を集め、汚れた干し草を箒で掻き集め、そうしながら馬の健康状態を確かめていく。毛並みや馬体の匂い、蹄の具合に襤褸の状態まで、言葉を話すことのできない彼らの不調を一番に見抜くことも、厩番に課せられた大事な仕事のひとつである。

 テネブラエはエリシュカの首筋に鼻面を寄せた。銀糸の髪を簡単に結い上げているせいで冷たい空気に晒されているエリシュカの首筋はほっそりと華奢で、テネブラエがもしその気になれば簡単に噛み割いてしまえそうなほどである。もっともテネブラエは、この可愛らしい厩番を深く愛しているのでそんなことはしない。彼がエリシュカに強請っているのは彼女の血などではなく、周囲の目を盗んでの早駆けである。

 駄目よ、テネブラエ、とエリシュカは答えた。厚手の手袋をはずして、ほっそりとした指先でテネブラエの鬣を梳いてやる。

「三日前も走ったばかりだもの」

 テネブラエは不満げに鼻を鳴らした。自由な心を持つ獣である彼にとってみれば、人間の都合などどうでもいい。こんなところに繋がれて大暴れしないだけでも感謝してもらいたいくらいなのだ。

「ばれたら叱られちゃうの」

 ときに折檻を伴って厳しく叱られるのはテネブラエではない。彼のあるじであるエリシュカである。そのことを理解してでもいるのか、エリシュカの困ったような顔を漆黒の瞳に映したテネブラエは急におとなしくなった。

「ごめんね」

 エリシュカは綺麗なカーブを描く額をテネブラエの鼻先に押しつけた。思いきり走りたいよね、と薄紫色の瞳が軽く伏せられる。

「なにがだ」

 不意に背後から響いた低い声にエリシュカは飛び上がる。

「申し訳ありません」

 手にしていた箒を投げ捨て、その場に土下座せんばかりのエリシュカを見下ろすのは夏の空を映したような双眸である。

「なにを謝る?」

 エリシュカの二の腕を掴み、その場にひれふそうとした彼女をとどめた男は、濃い空色の瞳に苛立ちを滲ませながら、なにも謝ることはない、と云った。腕を掴まれながらも眼差しを伏せたままのエリシュカは、続く男の言葉を待った。

「テネブラエが駆けたいというのなら、仕事を終えたあとに好きなだけ駆けさせてやればいいだろう」

「アランさま……」

 思わず男の名を呼んでしまったエリシュカは慌てて口を噤んだ。

「なんだ?」

 いえ、とエリシュカは首を振り、ありがとうございます、と小さな声で付け加えた。

 月の光を集めたようにかすかな黄金を含む銀色の頭を見下ろしていた男は、やがて瞳に悪戯な光を浮かべて、エリシュカ、と呼んだ。

「おれも一緒に行こう」

 なにかに弾かれでもしたような勢いでエリシュカが顔を上げた。首が千切れるのではないかと思うほどの激しさで頭を振りたくり、拒絶を示す。

「厭なのか」

 男の声にはっきりと示されたのは不快感。このおれを拒むのか、とその顔にははっきりと書いてある。

「このあいだも一緒に出たではないか。それに、おれがいれば侍女長に叱られることもないぞ」

 エリシュカは目を見開いて、男を見上げる。な、と人のよさそうな笑顔を浮かべた男は、しかし善人らしからぬ、唆すような口調で続けた。

「テネブラエだって時間を気にせず思いきり駆けたいだろう」

 自分の目の前で艶やかな黄金色の巻き毛をふわりふわりとそよがせている男を、エリシュカは困ったように見上げた。男は、自分を同道すれば主の馬に無断で騎乗することも、獣の望むままに駆けさせることも、あまつさえ時間を気にせずの遠出さえも許されると云っているのだ。

 テネブラエのことだけを思えば、エリシュカは一も二もなく男の提案に飛びついているところだ。だがエリシュカは、厩番の長を務めているというこの男のことを、さほどよく知っているわけではない。

 ここで働くようになってじきに一年半。気づけば、ごく親しげに声をかけてくるようになり、ほかの仲間たちとともにさまざまな苦楽をわけあってきた彼だったが、厩番頭という役職とアランという名前以外、ほとんどなにも知らないといってもよかった。

 この国の厩番頭ってそんなに偉いのかしら、とエリシュカは思った。アランさまのおっしゃる侍女長とは、おそらく東国オリエンスシヴィタス王城侍女長ジョゼ・セシャンさまのことだろう。王妃陛下をお助けして王城の奥を采配する侍女長にまで顔が利くなんて。

 アランさまがそんなにお偉い方なら、とエリシュカは思った。わたしがこんなふうに馴れ馴れしく口をきいたりしたら、ツェツィーリアさまに叱られてしまう。ましてや侍女長の口からエリシュカの名がツェツィーリアに伝わりでもしたら、面倒なことになりそうな気もする。

 たしかに表向きのことを云えば、東国侍女のひとりと数えられているエリシュカの上役は侍女長ジョゼ・セシャンである。だが、日々のエリシュカの勤めについて細かな指示を与えるのは、王太子妃付第一侍女であるツェツィーリア・コウトナーであり、彼女は文字どおりエリシュカの生殺与奪を握っていた。彼女の機嫌を損ねることは、エリシュカにとって死活問題なのだ。

 ツェツィーリアは、ほかの王太子妃付侍女たちに比べればエリシュカに対してきつく当たることは少なかったが、かといって特別に甘いわけでもない。エリシュカが割り当てられた仕事を疎かにしてテネブラエの早駆けに出掛けたことを知れば、ただではすませないはずだ。

 三日前も走らせたばかりだ、とエリシュカは思った。今日とあともう一日、テネブラエには我慢してもらおう。明後日の午前中はお休みをいただけることになっている。故郷にいたころと違って、この場所ではエリシュカにもきちんと休みが――ほかの侍女たちに比べればずっと少ないとはいえ――与えられるのだ。早駆けはそのときにすることにすればいい。

 心を決めたエリシュカは男に向かってやんわりと首を振り、あらためて拒否を示してみせた。

「わたしにはこのあとも勤めがございますので……」

 それは事実だったし、本当ならここでこうして彼と言葉を交わしている時間も惜しいほどなのだ。

 男は夏空色の瞳をすうと眇めた。これまでに誰かになにかを申し出て、それを拒まれたことなどない。

「厩番頭のアランがルナの早駆けを命じてもか」

 エリシュカは困り果てた顔で男を見つめた。薄紫色の瞳に困惑による薄い涙の膜が浮かぶのを見て取った男は、どこか慌てたように、ああ、いや、と言葉を重ねた。

「悪かった。困らせるつもりはなかったんだ」

「いえ、そんな……」

「次の早駆けはいつだ」

 エリシュカはまたもや小さく首を振った。エリシュカがテネブラエを駆るのは主の意志によるものではない。己が次の約束などできるような立場にないことをきちんと自覚しているエリシュカは、男の問いに答える言葉を持たない。

「明後日は休みなのだろう」

 男は不意にそう云った。エリシュカは顔を上げて、こくりと頷く。彼がなぜ自分の勤務を把握しているのか、そんなことはエリシュカにさほどの疑問を抱かせはしない。この東国王城の最下層の使用人として働く自分の休みを把握することなど、侍女長にすら顔が利くという彼にとっては容易いことだろうと思っただけだ。

 男は腰を屈めてエリシュカの顔を間近から覗き込んだ。

「そのときでどうだ」

 エリシュカの頬に寒さによるものではない赤みが射す。男は、甘くはないが精悍に整った顔立ちをしていて、エリシュカはその身分に縛られているとはいえ年若い女である。面立ちの整った男にやさしく微笑まれて心が躍るのは、むしろ自然なことと云えた。

 エリシュカはおそるおそる夏空色の瞳を見返した。薄紫色の双眸はしばらくのあいだ迷いを湛えていたが、やがてわずかに撓められてからこくりと揺れた。

 男は無造作に腕を伸ばし、エリシュカの銀色の頭に触れた。艶やかな髪の感触を楽しむようにそのまま暫し指先を遊ばせていたが、すぐに、いい子だ、と云わんばかりの表情で口を開いた。

「約束だ」

 はい、と素直に頷く可愛いエリシュカの顔を、目を細めて眺めていた男は、やがて、もう行くがよい、とばかりに顎を上げた。

 エリシュカはまた、はい、と返事をするなり踵を返して走り去った。男が現れたせいで、愛する厩番に相手をしてもらえなかったテネブラエが、不満そうに蹄を鳴らしながら彼女の薄い背中を見送っていた。


 厩舎を出た男は足早に城のなかへと戻っていく。

「殿下」

 裏口から入り、自室へ繋がる通路へひっそりと歩を進めれば、いくらもしないうちに幼馴染であり側近でもある男が駆け寄ってきた。

「オリヴィエ」

「厩舎においでだったのですか」

 王太子付政務補佐官であり近衛騎士のひとりでもあるオリヴィエ・レミ・ルクリュの深い緑色の瞳に、わずかながらもたしかな非難が含まれていることに男はもちろん気づいている。

「また、あの娘と?」

「まあ、そう云うな」

 殿下もお人が悪い、とオリヴィエはぶつぶつ云い、男は豪放に笑った。

「なにも知らない侍女を誑かして、妃殿下に知れればただではすみますまい」

 咎めを受けるのは殿下ではありませんよ、おわかりなのですか、というオリヴィエの言葉に男は軽く眉をひそめた。

「あんな形ばかりの妃になにを咎められねばならない?」

「殿下……」

 そういうことではないのです、とオリヴィエは男の不明を窘める。

「彼女は……エリシュカは、殿下の正体を知らぬのでしょう? 知っていれば、そうおいそれと近づいたりはしないはずですからね」

 男はおもしろそうに唇を歪めたが、言葉にはしなかった。

「自分に云い寄ってくる男が、まさか主の夫だとは思いも寄らないに違いありません。あまり無体なことはなさいますな」

「無体など働いてはいない」

 男は憮然として云い返しながら、自室の扉を自らの手で開けた。オリヴィエは腰に佩いていた剣を片手で掴んで廊下に立つ警護騎士に預け、男に続いて部屋へと足を踏み入れる。そのころには男はすでに肩から羽織っていた外套を脱ぎ捨て、光沢のある生地で仕立てられているシャツの袖を捲り上げているところだった。

 部屋付きの侍女が急ぎ駆け寄ってきて、脱ぎ散らかされた衣類を片づけていく。

「殿下にとってはそうでも、彼女にとってはささやかなことが命取りなのです。愛おしく思うならそのあたりを……」

 うるさいやつだな、と男は云った。

「そんなことはわかっている。おれだっていろいろ考えているんだ」

「なにを考えているというんです?」

 あの娘を寵姫に据えるのは難しいですよ、とオリヴィエは云った。

「寵姫?」

「一時の寵を施すのであっても、その程度の身分は必要でしょう。あなたはわが国の王太子なのですよ」

 侍女を摘み食いだけして部屋も与えない、などといういい加減なことをして許されるご身分ではありません、とオリヴィエは堅苦しく付け加えた。

 こいつも悪い男ではないのだが、こういうことに関してはどうにも頭が固い、と王太子は苦笑いした。

「一時の、でないとしたらどうする」

 まさか、とオリヴィエは絶句した。

「そのまさか、だ」

「殿下。あの娘は……」

「わかっているさ」

 王太子は素早くオリヴィエの言葉を遮った。だから都合がいいんだ、と王太子は続けてそう云い、ふたたび廊下に出る。やや離れたところにある執務室に赴くためだった。

「その話はあとだ、オリヴィエ。爺どもとの会食が終わったらな」


 その大陸はちょうど、要を北に扇を広げたような形をしていた。広い海のなかに浮かぶいくつもの小島とひとつの広い大陸で構成されているその土地は、大きく四つの国とひとつの属国にわかれている。

 広げた扇の東側に工業と技術の東国、西側に農業と秘術の西国オシデンスシヴィタス、東と西に挟まれた真んなかに交易の南国オーストラムス、その南国の属国たる島ツ国インスラシヴィタスは、南国の沿岸より遥か沖まで数多の島々を連ねている。そしてこの大陸の民が崇める神が坐す神ツ国ディヴィナグラティスが扇の要を占め、大陸は争いの日々を遠く過去の記憶とし、かつてない安寧の時代を迎えていた。

 扇形をした大陸の要に位置する神ツ国は、この地であまねく信仰を集めている唯一神が坐すとされる辺境の国であり、神を代理する教主とその一族によって治められている。真夏でも降雪が途絶えないとされる深く急峻な山々――神ノ峰――に囲まれたごくわずかな平地には、広大な礼拝堂を備えた教主の住まう宮や荘厳な神殿が築かれ、少ない民はそのほとんどが神に仕えて暮らすとされる神国である。

 大陸のなかでもっとも広大な国土と肥沃な平野に恵まれた西国は、絶対君主を戴く帝政国家である。豊かな土地に加えて、きわめて優れた灌漑の技術を持ち、国民の大多数が穀物栽培をはじめとするあらゆる農業に従事している。また、他国ではすでに失われてしまった秘術を操る魔導師を多く抱える奇跡の国としての顔も持ち合わせていた。

 唯一、属国を従える南国は、大陸の中央を縦断する南北に細長く痩せた国土を有している。狭い土地のほとんどが、北から連なる神ノ峰に続く山岳地帯であり、人口の大多数が沿岸部に集中している。交易によって国同士を繋ぎ、蓄えた富によって他国を凌ぐ繁栄を誇る南国は、力のある豪商によって支えられる国家であり、大陸唯一の共和制によって国の舵取りを行っている。

 南国の属国である島ツ国は小さな島々の集まりである。かつては各々の島が海ノ民の長によって治められていた。交易によって強大な力を蓄えた南国との数多の戦を経て、やがてその旗下へと降った歴史を持っている。属国となった屈辱を忘れえぬ民による反逆の火種がないではない。だが、南国は選挙権と租税制度の飴と鞭を使い分けることよって島々を統率し、いまでは島ツ国のなかに南国に対する不満を抱く不穏分子はごくわずかしか存在しないという。

 西国に次いで広い国土を持つ東国は、王政によって治められる国家である。西国と異なるのは、東国が非常に優れた工業技術を誇る国であるということだ。神ノ峰に連なる山岳地帯から切り出した鉱石をもとに鋼を鍛え、武器や船は云うに及ばず、近年では非常に性能のよい小型内燃機関の開発に成功し、それを動力として走る車の普及まで期待されている。

 オリヴィエが王太子と呼んでその身を捧げて仕える男こそ、その東国第一王位継承者であるヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュその人であった。


 爺ども、と揶揄したところの国王と国の重臣たちとの朝食会を兼ねた朝議が終わると、ヴァレリーはオリヴィエを伴ってまっすぐに執務室へと戻った。

 朝議の前には綺麗に整えられていたはずの執務机の上には、すでに王太子の署名を待つ書類が山積みにされている。ヴァレリーは紙束の山に一瞥をくれると厭な顔を見せることもなく、まずは、と一番上に乗せられていた封書を取り上げた。蝋によって封されたそれは彼の義理の父、つまり一年半ほど前に彼の妃となった女の父親によってしたためられた私信であった。

「なんだこれは」

 鼻の頭に皺を寄せてヴァレリーは云った。

「なんだ、とはどういう意味です?」

 封蝋に施された刻印を見れば、その差出人も信書の内容もすぐに知れる。オリヴィエは主君が捌きやすいように書類を調えながら、その封書へちらりと視線だけを送った。

「父親が娘の身を案ずることになんの不思議がありましょうか」

 娘の身ね、とヴァレリーは、ともすれば彼の顔を冷たく見せることもある薄い唇を不機嫌に歪めた。

「娘がまだ処女でいるかどうか、夫であるこのおれに毎回毎回性懲りもなく尋ねてくる男が正気とは到底思えんが」

「神ツ国の教主どのは、ご自身の大切な巫女姫さまが国へお戻りになられたあとのことを案じておられるのでしょう」

 皮肉に満ちたオリヴィエの言葉にいかにもつまらなそうに鼻を鳴らし、ヴァレリーは封を切ることもなくその封書を無造作に放り出した。うまいこと床に落ちず机の端に引っかかったそれを、オリヴィエは目にも止まらぬほどの早業で回収し、主の目に触れぬところへと隠してしまった。

「あれを国へ戻すのはいつだ?」

「もうあと半年ほどでお約束の二年になるかと」

 なんだまだ半年もあるのか、とヴァレリーはため息をついた。

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