02

 東国王太子ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュとその妃シュテファーニア・ヴラーシュコヴァーは、王族にありがちな政略結婚で結ばれた仲である。

 東国の王位継承者は古来より神ツ国から正妃を娶るのが習わしとされていた。国の頂点に皇帝を戴く西国も事情は同じであり、それは宗教的上位に立つ神ツ国へ対する敬意の表れであると同時に、彼の国との政治的な結びつきを強固にする意味も含まれていた。

 神ツ国の教主一族は男子一系の血族主義を貫いている。教主として立つのは当代教主の嫡男であり、嫡男に難ある場合は次男あるいは教主の兄弟と、その地位は男子によって相続されていく。一族の女は東国か西国へ輿入れするか、有力な神官のもとへ降嫁するか、あるいは生涯の純潔を誓って神に仕える巫女となるかのいずれかであった。

 東国の王室では、王位継承者が元服を迎えると、まず神ツ国へと使いを立て、当主にふさわしい巫女姫との縁組を乞うことになっている。その習いに従ってヴァレリーが十歳を過ぎたころ、東国王室は神ツ国教主に連なる娘との縁組を願い出た。

 神ツ国からは時をおくことなく、当代七番目の娘であるシュテファーニアとの縁組が吉と占われたとの返事があった。彼女はヴァレリーより二歳ほど年長であったが、明晰な頭脳と健やかな身体、さらに華やかな美貌も持ち合わせており、東国としてはなんの否やもあるはずがなかった。

 婚姻はヴァレリーの成人後になされるという約束が両国のあいだに交わされ、その定めどおりヴァレリーが正式に王太子を任じられた翌年、ふたりの婚儀は盛大に行われた。

 ヴァレリー自身はこの縁組になんの感慨も抱いていなかった。

 東国国王ピエリック・ロラン・ラ・フォルジュの唯一の子として生まれたヴァレリーは、いずれは王太子となり国王となる己の立場と身分を自覚したときから、己に自由な結婚が許されるはずもないことは重々承知していた。さらにいえば、正妃とともに義務さえ果たしさえすれば――つまり、王位を継ぐ子を儲けさえしてしまえば――、あとは好きなだけ恋愛を愉しむことができると知ってもいた。東国王室は、国王に側妃を持つことも寵姫を囲うことも許していた。

 この娘を正妃に迎えることでよいか、とヴァレリーが父ピエリックから尋ねられたのは、彼がまだ幼いと云っても通るほどの年齢のころであったが、人の形をしているのならどんな女でも構わない、と答えて国王をおおいに嘆かせたものだ。

 そなた自身の結婚のことだぞ、と悪口を諌める父に向かって、ヴァレリーは、しかし反省することもなく言葉を返した。王妃陛下におかれましては、今日も今日とて見目麗しきかの侍従をご寵愛でいらっしゃるご様子。

 なんだってこうも目端ばかりがきくようになったのだ、とピエリックは深いため息をついたものだ。いったい誰に似たのやら、わが息子ながら、そのひねくれた物云いはどうしても理解できぬ。

 それに対するヴァレリーの返答は、ピエリックに苦い笑いをもたらすものだった。王位継承者は正妃に産ませるという慣例を自ら破られた父上が、いまだ私と巫女との婚姻にこだわる理由こそ理解できません。

 ヴァレリーの口答えにぐうの音も出なかったのは、ピエリック自身の行いのせいである。国王である彼もまた、神ツ国から正妃であるエヴェリーナを迎えていたが、彼女との間に子をなしてはいなかった。ピエリックの一粒種であるヴァレリーは、彼の最愛の側妃であるルシールとのあいだに儲けた子なのである。

 ピエリックはルシールを深く深く愛しており、彼女以外の女とのあいだに子をなそうとしなかった。それゆえヴァレリーは側妃の子でありながら、第一王位継承者たる王太子の座に就くこととなった。

 ヴァレリー自身はといえば、母の身分を引け目に思ったことなどない。それは父が母を心から愛していることを知っていたからだ。それだけに、あくまでも飾りにすぎぬ正妃などどんな女でも構わない、という思いを抱きもするのだった。

 あいわかった、と父親の顔をしたピエリックは諦めたように頷いた。だが、くれぐれも追い返すような真似だけはせず、務めだけはつつがなく果たすように、と厳かに告げる父の前で神妙に頷きながら、わかったわかった、つまりやることやっときゃいいんだろ、とそのときのヴァレリーは内心で舌を出していた。

 飾りとするにせよ、実際に子を産ませるにせよ、丁重に迎えたあとはせいぜいこちらの好きにやらせてもらうとしよう、という父子の思惑は、微妙に食い違いながらも一致したところであったといえる。

 しかし、数年ののちに輿入れしてきたシュテファーニアと、その父である神ツ国教主の言葉によって、彼らの身勝手な目論見はあっけなく打ち砕かれることになった。

 婚儀のひと月ほど前に東国へ到着したシュテファーニアは、初めて対面した夫となる歳下の男を前に、非常に硬い顔つきで、ヴァレリーさまにお願いがございます、と云い出したのである。願いごととな、とヴァレリーは表面上はごく穏やかに応じた。

 はい、と頷いたシュテファーニアは、まっすぐにヴァレリーの瞳を見据えてこう云い放った。どうぞ、わたくしたちのこの婚姻は白い結婚とご了承くださいませ。

 なに、とヴァレリーは夏空色の瞳を思わず歪ませてしまった。

 白い結婚。それは夫となる者と妻となる者のいずれか、あるいはそのいずれもが幼すぎる場合に、一定の年齢を満たすまで実際の夫婦関係を築かずにおく婚姻関係のことである。

 政略結婚が当然とされる王侯貴族の縁組にはままあることで、さほど珍しいことでもない。だが、今回の婚姻についていえば、当事者のふたりともがすでに成人を迎えており、ことにヴァレリーは東国の王位継承者である。ふたりには名実ともに夫婦となることが求められているはずだった。

 理由は、と尋ねたヴァレリーに、シュテファーニアは傍らの第一侍女に命じて一通の封書を差し出させた。たとえ相手が夫となる男であっても、その手に触れることを避けようとする彼女の態度に、ヴァレリーはおもしろくないものを感じた。

 容姿からして誰に引けを取ることもなく、やや横暴な面はあるが素直で明るい性格と王太子という申し分のない身分を持つヴァレリーが、初対面で女性に嫌われることはまずない。すり寄ってくる数多の甘い匂いのなかから好みのものを選り出し、自身の都合で振りまわしては打ち捨てることがあたりまえとなっていた彼の目には、自身の妃となる女の態度は不愉快なものとしか映らなかった。

 受け取った封書を乱暴な手つきで開封し、書面に目を落としたヴァレリーはそこに書かれていた内容に、ますます不快感を募らせた。

 神ツ国の元首であるところの教主マティアーシュ・ヴラーシュコヴァーは、娘の夫となるヴァレリーに宛て、彼女との婚姻につき、その純潔を保つように、と願い出ていた。その理由としては、高齢となった神ツ国中央神殿の大巫女の代替わりが数年以内に控えていること、そしてシュテファーニアが次代大巫女の第一候補とされており、本人もその地位に立つことを強く希望していることが挙げられていた。

 巫女になりたいがためにおれとの婚姻を二年で破棄しろと、つまりはそういうことか、とヴァレリーは唸った。――ありえない。

 そもそも王族あるいはそれに準ずる家格に生まれついた者として、己の人生を己の意志で処すことができるなど考えること自体が甘いのだ。巫女になりたいのなら、とっとと出家でもして神殿へ籠ればよかったのだ。それをのこのことおれの目の前までやってきておきながら、白い結婚を迫るとは莫迦にするにもほどがある。

 断ると云ったらどうする、とヴァレリーは不機嫌そのものといった声音で問うた。シュテファーニアは怯むことなく顔を上げ、いっそ傲然と答えた。どうしても夜伽を務めよと仰せであれば、わたくしはその場で喉を突いて神の御許へ参ります。

 自死は大罪、そんな真似をすればいかな神とてそなたを赦すまいよ、とヴァレリーは嗤った。たとえ悪魔にこの身を喰われるとしても、殿下と添い遂げるのは厭でございます、とシュテファーニアも嗤った。

 わたくしは巫女となって神に身を捧ぐために生を授かったのでございます、とシュテファーニアは、異様なほどに澄んだ眼差しをヴァレリーに向けて寄越した。決して異国の男の子を産むためなどではございません。わたくしのはらはこの世の数多の孤児みなしごのためにあるのであって、地上の一国の繁栄のためにあるのではございません。

 シュテファーニアの言葉を聞いたヴァレリーは、急になにもかもが莫迦莫迦しく感じられた。この婚姻も、頑なに自分を拒否する女も、自分を拒否する女に腹を立てる自分も。

 わかったわかった、とヴァレリーは云った。白い結婚でも、巫女の修行でも、そなたの好きにするがよい。

 わたくしには指一本触れないでくださいませ、とシュテファーニアは答え、そなたのような女などこちらから願い下げだ、とヴァレリーは吐き捨てた。

 婚儀においても、その後に催された祝いの晩餐会の席においても、ふたりは終始よそよそしく他人行儀で、儀礼的に手を取り合うことすらしようとはしなかった。ヴァレリーはシュテファーニアの言葉どおり、彼女に指一本触れようとはしなかったし、シュテファーニアにいたってはヴェールの陰で俯くばかりで、夫となった男の顔を見ようともしなかった。


 以来ふたりは公式行事で致し方なく顔を合わせる折以外、いっさいの触れあいを拒んだまま、これまでの一年半を過ごしてきた。婚姻から二年が経てば、子をなすことができなかったことを理由に離縁することができる。心通わぬ夫婦は、互いにその日ばかりを心待ちにしている。

「しかし殿下が、この一年半、あの氷の妃殿下によくも我慢なさったと思うと、このオリヴィエ、感無量と云いますか、やればおできになるのだなあと……」

「やかましい」

 ヴァレリーは苦々しげに一喝した。

 主君に命も心も捧げた忠実な腹心であるオリヴィエの目から見ても、シュテファーニアを迎えるまでのヴァレリーは、じつに火遊びに熱心な男だった。

 成人を迎えるはるか以前に閨の作法を学んだヴァレリーは、自身が率いる近衛騎士団の部下を伴って街場の娼館へと、ことあるごとに繰り出していたものである。

 むろんのこと身分は伏せているが、耳聡い娼館のこと、足繁く通ってくる見目麗しい男が王室に連なる者だということはすぐにばれた。幸いにして国王がそういった振る舞いに鷹揚で、若さゆえの衝動もあろう、あちこちに子をなすような下手を打ちさえしなければいい、とばかりに目を瞑ってくれたからよかったようなものの、王太子殿下の火遊びは一時期、街の艶っぽい場所では頓に有名であったのである。

 手練手管に長けた娼婦を同時にふたりも三人も朝が来るまで相手して、翌日は平然と騎士団名物の地獄の鍛練に参加しているのだから、あの底なしの体力にはおそれいる、とオリヴィエは心中ひそやかに感心さえしていたものだ。

 オリヴィエ自身は娶ったばかりの妻に夢中だったし、それ以前もあまり下半身の緩くない男であったから、ヴァレリーがなぜあんなにも女遊びに熱心になれるのかさっぱり理解できずにいた。否、いま現在にいたってもなお理解できていない。

 正妃を娶ってからのヴァレリーはそういった遊びをいっさいしなくなった。シュテファーニアに対し貞操を立てたということもないのだろうが、いずれは破棄する婚姻関係を結んだ以上、いざその段になって自身の不貞が明らかになるのはよろしくない、とでも考えたのかもしれない。

 白い結婚を迫ったのはシュテファーニアと神ツ国だが、ヴァレリー自身の振る舞いに瑕疵があったとなると、離婚時の条件に障りが出てくる可能性もある。東国としては政略と知って嫁してきたくせにはじめから離婚を含んでくるような女に、いわゆる慰謝料の名目であっても少しの我儘も許さないつもりでいた。

 このおれを虚仮コケにしたのだ、とヴァレリーは胸のうちで意地悪くほくそ笑む。わが国に比べ、はるかに貧しい神ツ国のことだ。帰国のための支度金を渋ってでもやれば、顔色を失くして縋りついてくることだろう。金を恵んでやる代わりになにを毟り取ってやろうか。一国の王太子を、ひいては国家を愚弄することがいかに高くつくか、思い知るがいい。

「期日が来たらすぐにでも追い出せるよう手をまわしておけよ」

 はい、とオリヴィエは頷いた。この話はこれで終わり、とばかりに次の書類に手を伸ばしたヴァレリーに、しかし、オリヴィエは静かな声で問いかけた。

「であれば、あの娘のことももう捨て置かれるということでよろしいのですね」

 なんだと、とヴァレリーが視線を上げる。エリシュカという娘のことですよ、というオリヴィエの言葉で、インク壺に浸したペン先がひたりと止まった。

「あの娘は王太子妃殿下付侍女。妃殿下がお帰りになる暁には、彼女もまた……」

「許さん」

「は?」

「許さん、と云っている」

 オリヴィエは開いた口を塞ぐこともできずにぽかんとしている。

「あれは帰ればよい。国へでも教主の膝の上にでもいっそ兄の股座か、ああ、もう好きなところへ帰ればよい。だが、エリシュカは帰さん」

 彼女はおれのものだ、とヴァレリーはにやりと笑った。

「殿下!」

 オリヴィエの声が悲鳴じみた甲高いものになったのは、主君の錯乱を詰るものであったのかどうか。

「そうだな」

 ヴァレリーはなにに納得したのか、深く頷いてみせた。

「云われてみればたしかに時間がない。さすがだ、オリヴィエ」

 なにがさすがなのか、オリヴィエは知りたくもなかった。だが、彼の唯一絶対であるところの王太子が非人間的行為に走らないように諌めることこそが、現在の自分の火急の務めであると瞬時に心得たオリヴィエは、主君の机の上に手をついて、いけません、殿下、と叫んだ。

「なにがだ?」

「あの娘に無体を働いてはなりません、と申し上げました」

「無体?」

 あなたがいま、その真っ黒な腹の底で考えていることです、とオリヴィエは無言のままヴァレリーを見つめる。ヴァレリーは片眉を吊り上げて腹心の部下の視線を受け止めていたが、やがて、ふん、と鼻を鳴らした。

「おれはあの娘が欲しい。これでも一年近くも我慢してやったのだ。もうそろそろいいだろう」

「殿下」

 今日のオリヴィエはしつこかった。ヴァレリーはうんざりとした顔つきになって、なんだ、と答える。

「オリヴィエ、しつこいぞ。別にかまわんだろう、侍女のひとりやふたり国に帰さずとも」

 国に戻ったってむやみやたらに働かされるばかりだ、おれの傍にいれば好き放題贅沢ができるんだぞ、と傲慢な王太子は嘯いた。

「たとえエリシュカが湯水のように金を浪費しても、それでも可愛いと思えるほどには、おれはあの娘を好いているんだがな」

「そういうことを申し上げているのではありません」

 ではなんだ、とヴァレリーはいよいよ次の書類に目を落としながらそう尋ねた。国の次代を担う王太子である自分が、限られた時間のなかで考えなくてはならないことはたくさんある。女は好きだし、ヴァレリー自身にとっても大事な問題ではあるが、それよりも重要な仕事があることを忘れたことはない。

「あの娘は賤民です」

 この事実を口にしたくはなかった、という顔でオリヴィエは云った。

「ああ、知っている」

 オリヴィエが驚きに目を見張る。

「おまえ、おれを莫迦にしているのか。そんなことくらいとっくに知っている」

「では……」

「卑しい賤民の女が王太子の恋人では不服か」

 おまえはいつからそんな考えを持つようになった、とヴァレリーは書類にペンを走らせながら云った。

「エリシュカはいい娘だ。出自など関係ない。身分が釣り合わぬというのなら、適当な貴族の養女にしてから娶ればいい。将来の国王の妻の養い親だ。なり手には困らん。誰もがこぞって名乗りを上げるさ」

「そういうことを申し上げているのではありません。神ツ国とわが国の関係についてお考えくださいと申し上げているのです」

 オリヴィエは食い下がる。

「エリシュカに含むところなどありはしません。あの娘の人柄に卑しいところなどない。あの容姿も賢さも従順さも、殿下のお相手としてなんの問題もありません。それでも、あの娘は駄目です。賤民であるあの娘を殿下が娶ることの意味を……」

「しかも教主の娘である妃を追い返して、な」

 くつくつと喉を鳴らし、さもおもしろそうにヴァレリーは笑った。言葉を遮られたオリヴィエは、殿下、と厳しい声を上げて主君の不真面目を詰った。

「教主の娘であるシュテファーニアさまを追い返し、彼の国で非道に遇されている賤民の娘を殿下が、ほかでもないこの東国の王太子であるヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュが寵愛する。これは、神ツ国が固執する、理不尽な身分制度に対する抗議と受け取られかねないお振る舞いです」

「理不尽だと、おまえにもわかっているではないか」

 わかっていますとも、とオリヴィエは云った。

「恥ずかしながらこの私も、あなたがエリシュカ、エリシュカと莫迦のひとつ覚えのように云いはじめるまでは、賤民という身分についてまともに考えたことは一度もありませんでしたよ」

「ならわかるだろう? なんの問題もない」

「……わけがありません」

 おまえさっきからよくかぶせてくるな、とヴァレリーは厭な顔をした。オリヴィエと云いあいながらも、彼の手は次々と書類に署名を載せていく。問題のありそうなものはのちほど時間をかけて決裁するつもりでいるのか、きちんと選り分けているあたりが彼の優秀さを表していた。

 オリヴィエもヴァレリーの補佐をする手は止めていない。口うるさく、ややお節介なこの側近をヴァレリーが手放さないのには、きちんとした理由があるのだった。

「他国の制度に真っ向から喧嘩を売るなど、王族にあるまじきお振る舞いです。妃殿下をお国へ帰らせるのであれば、彼女のものに手を付けるべきではありません」

「エリシュカはあれのものではない」

 おれのものだ、とでも云い出しそうなヴァレリーに向かって、オリヴィエは渾身の一撃を食らわせる。

「エリシュカは妃殿下の侍女です。私の身が殿下のためにあるように、エリシュカの身は妃殿下のためにある。エリシュカは妃殿下のものなのです」

 ひたり、とヴァレリーの動きがふたたび止まった。インク壺に挿し込んでいたペン先もそのままに、夏空色の双眸でオリヴィエをきつく睨み据える。

 間違ったことは云っていない、とオリヴィエは努めて穏やかに主君の顔を見下ろした。深い緑色の瞳にはなんの打算も謀りもなく、ただ主君を想う心が表れている。

 ヴァレリーはオリヴィエの真意を見誤ったりはしなかった。その証に、視線を逸らしたのは王太子が先だった。

「なるほど、おまえの意見はよくわかった」

 云うなりヴァレリーは口を閉ざしてしまった。もうこれ以上話すことはなにもない、とばかりに顔を俯け書類に目を落とす。オリヴィエは言葉を失った。先ほど除けておいた厄介な案件に取り組んでいるらしい王太子の全身から、あからさまな拒絶の気配が滲み出していたためである。

 オリヴィエはため息ともつかぬ小さな吐息を残し、ヴァレリーの執務机からほんの少し離れたところにある自身の机に向かい、王太子が署名を終えた書類を必要な部署へ送るための処理にとりかかった。

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