23
そこな下女、と呼び止めてくる声が自分に向けられたものであることに、ツェツィーリアはなかなか気づくことができなかった。
高等神官の娘として育ち、教主の娘の侍女として生きてきた彼女は、これまで誰かに見下された経験がほとんどない。いまも、立場こそ下女ではあるが、シュテファーニアに仕えるツェツィーリアに無碍な振る舞いをする者は神殿内にはひとりもいない。だからまさかこんな場所で、自分に対し、無礼なほどに横柄な口をきく者がいるとは考えられなかったのである。
「下女、聞こえぬのか」
失礼な、と思わず声を荒らげようとしたツェツィーリアは、傍らに立つツィリルの強張った表情に、はっとしてわれに返り、慌てて足を止めて頭を下げた。
「どこへ行くつもりだ」
はい、とツェツィーリアは慎重に顔を上げた。長年かけて培った鉄面皮が役に立つことをひそかに願う。
ツェツィーリアの前に立ちはだかるのは、厳めしい鎧を身につけた、ふたりの神兵だった。ひとりは重たそうな槍を持ち、ひとりは構えてこそいないが腰に剣を刷いている。
「わが主をお迎えに参りました」
「主だと」
神兵らの目が剣呑に眇められた。そんな話は聞いていない、と云わんばかりの表情である。
「はるか東国へと留学されていた神官さまでございます。神殿より召還があり、急遽のお戻りゆえ、申し伝えが遅れたのかと」
神殿、の言葉を聞いた途端、神兵らはわずかに表情を緩めた。ツェツィーリアはここぞとばかりに畳み掛ける。
「神官さまは気むずかしいお方。おひとりでのお国入りなどもってのほか。なにとぞ、お迎えのお許しを」
ツェツィーリアは深々と頭を下げ、ツィリルはその場に蹲るようにして恭順の姿勢をとった。
ツェツィーリアとツィリルが立っているのは、神ノ峰へと続く山道の入口に構えられている国境の門、神ツ国と外界とを繋ぐ唯一の道である。
ツェツィーリアはこの門を、これまでに四度くぐっている。西国への留学の折と、シュテファーニアの輿入れの折。その都度、国の玄関であるこの門に見送られ、また迎えられてきた。
そのたび感慨深くはあったけれど、とツェツィーリアは思う。なんという大きな門なのだろうと、石造りのそれを見上げたのは、西国へ出立したはじめの一度きりである。そのあとは、西国から戻ったときも、東国へ旅立つときも、なんという心許ない――脆弱きわまりない――構えであろうかと嘆かわしく思ったものだ。
他国に学び、その力を知ったことで、ツェツィーリアは、己が故国を誇らしく思うことができなくなってしまっていた。その力も、制度も、歴史も、なにもかもを。
だけどいまは少しだけ違う、と彼女はそっと顔を上げ、神兵ふたりへ穏やかな眼差しを向けた。
彼らの背後には、東国王城のもっとも粗末な不浄門にすら劣る構えの国境の門が見える。
ああ、そうなのか、とツェツィーリアは不意に気づかされた。いまの私は、この国を守りたいと思っているのかもしれない。
姫さまと私がなそうとしていることは、国を滅ぼすことではない。守ることだ。この国の未来を守ることだ。
たしかに傷つく者は大勢いるだろう。姫さまのご一族、私の家族。なにも知らずに、そのくせ自分が過ちを犯しているなどとは考えもしない無辜の民。これまで正しいとされてきた価値観が変われば、戸惑う者は多いはずだ。
けれど。
私たちは彼らを傷つけたいのではない。戸惑わせたいのでもない。
この国に未来を齎したいのだ。
いまはまるで誇らしくもない、愛することもできない、この国を、誇るべき故郷、愛すべき祖国へと変えていきたい。この貧弱な国境の門を、脆弱な守りと恥じるのではなく、誰にでも開かれた国であると誇りに思いたい。
そうやって、この国を守っていきたい。
躊躇い、迷うことなど、なにもなかったのかもしれない、とツェツィーリアは思った。
怯え、惑い、ただそうしているだけで守れるものなどひとつもない。守るとは戦うことだ。
誰をも傷つけずに生きていけるのなら、それは幸いなことに違いない。
けれど、誰もがいつでもそうできるわけではない。自分のため、誰かのため、なにかのために戦わなくてはならないときだってある。
傷つけるのが厭だからと、失うのが厭だからと、戦うことから逃げていてはなんにもならない。なんにもはじまらない。ただ見つめているだけで救われる国などありはしない。
私はもう決めたのだ。姫さまに従うと決めたのだ。
迷うな、とツェツィーリアは自分を叱咤する。もう迷うな。自分の望みを見失うな。
「兵士さま」
まるで聞かされていなかった旅人の到着を突然に知らされて戸惑い、互いに顔を見合わせて言葉を発しない神兵らに向かって、ツェツィーリアは穏やかに懇願する。
「なにとぞ。教主猊下所縁のお方でございますゆえ」
「猊下の?」
はい、とツェツィーリアはどこか困ったような表情をして見せた。氷のごとき無表情が困ったように歪むのを見て、神兵らはなにかに気づいたような目配せを交わしあった。
神ツ国は神の代弁者である教主を元首に抱く宗教国家である。民の多くが唯一とされる神を信仰しており、その暮らしの細部にいたるまで厳しい戒律に支配されている。
だが、これまでの長い歴史の中では、大陸の戦火が山を越えて押し寄せてきたこともある。国――国土というよりは、その象徴である数多の神殿――を守るために、防御に必要な最低限の兵士だけは揃えている。
とはいえ、なにぶん貧しい国のことゆえ、装備も武器も旧式で使い勝手が悪く、おまけに訓練らしい訓練も行われていない。それでも、神殿を守る兵らは神兵と呼ばれ、最低位ではあっても一応は神官職とされているため、民らの就職先としては人気が高かった。
厳密な階級社会である神ツ国では、ことに神官の位の上下は絶対である。最下位にある神兵らは、なにがあっても決して上位の神官に逆らうことはできなかった。ましてや教主など、一度でもその尊顔を拝することができれば、一生の誉れだと云われるほどである。
教主猊下所縁の神官、などと云われれば、たとえ相手が神殿付の下女――神官である神兵らのほうが、彼女よりは位が高い――であったとしても、逆らうことはできなかった。
「しかとさようか」
はい、とツェツィーリアは深々と膝を折った。ツィリルは跪いたまま一度も顔を上げていない。
「では通るがよい。この道の先に木柵があるが、そこより先には踏み込んではならんぞ。神の領域であるゆえな」
「はい」
ツェツィーリアはもう一度頭を下げ、急ぎますよ、とツィリルに呼びかけた。
「次からは早めに連絡を入れるよう、主に伝えるのだぞ」
神兵らは最後に念を押して、一応の体面を保とうとする。ツェツィーリアはそれにも丁寧に頷いて、足早に国境の門をくぐっていく。緊張に強張っていた肩から力が抜けてしまわないよう、ぐっと拳を握った。
「ツィリル」
ツェツィーリアがそう呼びかけたのは、自分たちの背中に厳しい眼差しを注いでくる神兵らと十分に離れ、間違っても声の届かぬところまでやって来てからのことである。
「ふたりはどちらに?」
神兵らを警戒し、ツィリルを振り返らないまま慎重に尋ねたツェツィーリアに、はい、と彼はやはり慎重に応じた。
「神兵さまがおっしゃっていた木柵の先で身を潜めているかと」
なるほど、とツェツィーリアは頷いた。
「なにか合図は決めておいたの?」
「僕が呼びかけることになっています」
ツェツィーリアは軽く首を傾げ、おまえが、と云った。
「僕は教主さまの宮の厩舎にいたことがあるんです。彼女は僕の声を知っています」
「だから、おまえは……」
はい、とツィリルは頷いた。
「神兵さまたちよりも先に、エリシュカを見つけることができたんです」
十日前、シュテファーニア・ヴラーシュコヴァーはいつものように神殿を訪れたツィリルに向かってこう云った。これから二日に一度は国境の門へと出向き、神殿からの使いだと云って、ある人を待つのです。
ある人とは、と思わず問い返したツィリルをシュテファーニアは叱らず、わたくしの侍女よ、と短く答えた。名前はベルタ。ベルタ・ジェズニーク。旅の途中でゆえあってはぐれてしまったのです。もしかしたら南国の隊商かなにかに紛れ、山を越えてくるかもしれない。ひとりでは国境を越えるに障りもありましょうから、おまえに彼女を迎えに行ってもらいたいのです。
わかりました、とツィリルは応じた。侍女さまならば、国境の門を越えるのになんの咎めもないのではないか、と思ったが、それを口にはしなかった。疑問があろうが、異論があろうが、それが誰かからの命令であるのならば黙って従うのが己の役割であると、そう心得ていたからだ。
ツィリル、とシュテファーニアは低い声で笑った。なにか云いたいことがあるのなら、云ってもいいのですよ。そんなことでおまえに罰を与えたりはしません。
そう云われてもなお、ツィリルは首を横に振った。甘い言葉を素直に信じて、ひどい目に遭った仲間たちを大勢知っていたからだ。
そう、とシュテファーニアはどこか寂しげな声で返事をした。
この高貴な方には、きっとなにか事情がおありなのだろう、とツィリルは思った。だがそれは、彼にとってはなんのかかわりもないことだ。自分はただ云われたことをすればよい。好奇心は猫をも殺す、とよく云うではないか。
なにかに関心を持ってはいけない。死にたくなければ。
そして、ツィリルはイエレミアーシュにお伺いを立てたあと――国境の門へとみだりに足を向けることは、死に値する罪であるとされていた――、二日に一度、国境の門の外、山道のはじまりを告げる木柵の傍でベルタを待ち続けた。
門を守る神兵らは、お仕えする神官さまをお待ちしたいのです、というツィリルの云い訳について、まったく疑う様子を見せなかった。賤民である彼が門の先へ進むことは、逃亡を疑われてもおかしくないことであるのだが、そこはなぜか拍子抜けするほどあっさり許しが与えられた。
ツィリルが知る由もないことではあるが、じつは彼が国境の門に到着するよりも早く、イエレミアーシュの遣いがそこを訪れていた。遣いは、イエレミアーシュの印を施した書状を神兵らに見せ、いまからやって来る従者を門の外で待たせるように、と命を下していたのである。
ともかくツィリルはそれから二日に一度、命令どおりに国境の門へとやってきては、一日中木柵のそばで顔も知らぬベルタを待ち続けた。退屈だとか、無駄なのではないか、などとは思わなかった。
人気のないところでひとりきり、あてもない相手を待ち続ける仕事は、ツィリルにとっては仕事のうちになどはいらない。
むしろ、日ごろ目にすることのない珍しい鳥や森の小さな動物たちの姿を見ることもできて、心が浮き立つほどだった。神殿の中であれやこれやと用事を云いつけられ、ときに意地の悪い神官らに小突きまわされることを思えば、ここは天国のようだ、と彼は思っていた。
ベルタなんて人のことは知らない。シュテファーニアさまのこともどうでもいい、とツィリルは思った。その侍女さまが戻らなければいい。だってそうなれば、シュテファーニアさまはずっと彼女を待ち続けることになって、そうすれば僕にはこの仕事が残る。
だが、ツィリルの希望はそう長く続かなかった。
木柵の傍らに控えるようになって十日――二日に一度のことであるから、正確には五度めの張り番の日――、ツィリルはそこで思いがけない者と再会することになった。
エリシュカ。
教主の宮の厩舎で、ほんの一時期ともに働いていた厩番見習いの女である。女でありながら厩番であるというだけでも珍しいというのに、彼女は銀色の髪に薄紫色の瞳をしたたいそうな美少女だった。彼女とは縁あってずいぶんと親しくしていた時期もあったのだが、その美貌は何度目にしても見慣れるということがなかった。
ツィリルがイエレミアーシュの傍仕えとして西方神殿に引き取られてからは、偶然にも行き会うことなどなくなってしまっていたけれど、彼女の消息はときどき耳に入ることがあった。曰く、女としては極めて珍しいことだが、正式な厩番として認められたらしい。曰く、教主さまの末娘さまのお輿入れに従って、東国へ行くこととなったらしい。曰く、東国へ渡るにあたり、教主さまが直々のお目通りを許されたらしい。
そうした噂を耳にするたび、ツィリルはもう二度とエリシュカに会う日は来ないのだろうと思い知らされているようで、ひどく寂しく思っていた。あの子は僕のことなんか全然覚えちゃいないだろうけど、僕は違う。いつかまたどこかで会えたらなって、そんなふうに思っていたんだ。でも、東国へ行かされるって聞いて、僕も諦めがついた。いよいよ会えないものだと、そう思っていた。
なのに。
なんでこんなところに、とツィリルは目を見開いた。記憶にあるよりもさらに美しくなったように見えるエリシュカは、大きな黒い馬を引いていた。
「エリシュカ」
気づいたときには木柵の陰から立ち上がり、声を上げていた。名を呼ばれたことに驚いたのか、エリシュカは小さく肩を竦ませてからおそるおそるツィリルのほうへと視線を向けた。
ゆるゆると見開かれていく瞳に、はっきりと驚きの色が浮かび、ツィリル、とやわらかそうな唇が呟く。
「ツィリルなの?」
そうだよ、と思わずツィリルは大きな声を上げていた。
「僕だよ、エリシュカ。憶えていてくれたんだね!」
もちろんよ、とエリシュカは頷いた。
「忘れるはずがないわ。元気だったの?」
うんうん、とツィリルは勢い良く首を縦に振った。
「きみは、きみは元気だったの、エリシュカ。シュテファーニアさまについて東国へ行ったと聞いていたけど……」
手を握らんばかりに迫るツィリルに、エリシュカは曖昧な笑みを見せた。握っていた手綱を胸元に手繰り寄せ、ええ、と戸惑うような返事を寄越した。
「そ、それよりも、ツィリル、あなたいったいどうしてこんなところに?」
そう問いかけられたツィリルは、そこでようやく自分の仕事を思い出し、さっと青褪めた。――まずい。こんな大声を上げてはまずい。
「エ、エリシュカ」
こっちに、と木柵の陰――国境の門からは目の届かない場所――へと彼女を誘導し、ツィリルは云った。
「人を待ってるんだ。シュテファーニアさまに云われて、その、ベルタさまって人を……」
「ベルタさま?」
まるで悲鳴のような声を上げるエリシュカに、ツィリルは、静かに、と掌を向けた。
「あんまり大きな声を上げないで、エリシュカ。神兵さまに聞こえちゃう」
「神兵だと?」
突如として頭上から降ってきた声に、ツィリルは震えた。
「この国には軍があるのか」
エリシュカが引いていた馬の背から、男がひとり降り立った。頭巾の隙間からこぼれる黄金色の髪、頭巾の下から覗く深い青色の瞳。ひとめでわかる、支配者の容貌。
ひう、とツィリルの喉が引き攣った。
「アランさま」
男に対するエリシュカの声はごく落ち着いていた。震えるツィリルを背に庇うようにして、落ち着いてくださいませ、と云う。
「国境の門を守る神兵さまです。神殿に仕える神官さまで、そう大勢いらっしゃるわけではないと聞いています」
「……エリシュカ」
アランさまと呼ばれた男の声は、毒気を抜かれたように穏やかになった。
「その者はなんだ。旧知の者か」
「かつてともに働いていたのです。ツィリルといいます」
そうか、と男は云い、そのまま口を噤んだ。鋭い眼差しが値踏みするようにツィリルの全身を睨めまわす。
「ツィリル」
エリシュカに何度も呼びかけられてから、ツィリルはようやく、なに、と返事をする。
「ベルタさまって、さっきそう云ってたけれど、ベルタさまになにかあったの?」
わからない、とツィリルは首を横に振った。
「山を越えてくるかもしれないからここで待つようにって、そう云われたんだ」
「山を越える?」
おひとりで、とエリシュカは首を傾げる。
「ベルタさまは姫さまとともにお帰りになったはずよ。おひとりで、なんてありえないわ」
なにかの間違いじゃないの、とエリシュカは云った。
「もしくは聞き間違いとか」
まるで疑うようなエリシュカの言葉に憤慨し、ツィリルは、知らないよ、と声を荒らげた。
「僕は云われたことに従っているだけだ。ベルタなんて人のことは知らない。事情も知らない。きみだってそうだろ、命じられたことをこなすだけで、その理由なんて考えたりしないだろ」
刹那、エリシュカの瞳にかすかな苛立ちが過ぎったような気がした。ツィリルの胸に不安が押し寄せる。もしかしてエリシュカは、あのころのエリシュカとは違うのかな。
「……ツィリル」
ごめんね、ツィリル、とエリシュカは云った。
「いまはその、ベルタさまのことは関係がないのだったわ。あなたを責めるつもりはなかったの、ごめんね」
まるで不安を見透かすかのような謝罪の言葉に、急に気恥ずかしさを覚えたツィリルは、いいよ、別に、と短く云った。
「それよりその方は?」
相変わらず自分を睨み据えてくる金髪の男をおそるおそる見返しながら、ツィリルはエリシュカにそう尋ねた。
「アランさまよ。ヴァレリー・アランさま。東国の方でね、その、事情があって、一緒に旅をしてきたの」
「東国の?」
ツィリルは思わずまじまじとヴァレリーを見つめてしまった。無礼を働いて叱られるかもしれない、という怯えよりも、はじめて目にする他国の人間が珍しくて仕方ないという好奇心が勝った結果である。
ツィリルの不躾な視線にも動じたふうを見せないヴァレリーは、まるで、さあよく見ろ、と云わんばかりに軽く両腕を広げてみせさえした。
「ツィリル」
しかし、さっきからエリシュカが僕の名前を呼ぶたびに、このアランさまとやらの男の顔に険が走るような気がするのだけど、気のせいかな、とツィリルは内心で首をひねる。
「ツィリル」
「なあに、エリシュカ」
わざと声の調子をやわらかくしてみれば、やはり気のせいではない、ヴァレリーの顔にははっきりと苦いものが浮かんだ。思わずツィリルは、エリシュカとヴァレリーを見比べてしまう。
「ツィリルはさっき、姫さまのお使いでここにいるといったわよね、その、姫さまに云われて、ベルタさまをお待ちしている、と」
そうだよ、とツィリルは今度こそエリシュカに視線を戻して頷いた。
「いくらシュテファーニアさま付の侍女さまといえど、ひとりで国境の門をくぐろうとすれば咎められるかもしれないからだって、そんなふうに云われたような気がするけど」
そう、と答えたエリシュカの表情が沈んだ。
「それなら、わたしなんかとうてい無理ね」
そうかもね、とツィリルは内心で頷いた。賤民であるエリシュカが国境を越えようとすれば、それがたとえ正当な理由あることだったとしても、咎めなしでは済まされないだろう。賤民は、どこにあっても主から離れてはならないとされているのだ。
シュテファーニアはとうに帰国している。彼女に従って東国へ行ったはずのエリシュカがひとりで――しかも大幅に遅れて――国境に姿を見せようものなら、それだけで鞭や棍棒で死ぬまで叩かれてもおかしくない。
「ねえ、ツィリル」
お願い、とエリシュカは頭を下げた。
「どうかひとつだけ、頼まれてもらえないかしら」
「頼み?」
そう、とエリシュカは頷いた。
「アランさまとわたしがここにいることを、姫さまに知らせてもらいたいの」
そして、ツィリルはその足で中央神殿へ向かい、シュテファーニアにエリシュカとヴァレリーの到着を告げることとなったのである。
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