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 神を殺す、などとたいしたことを云ったはいいけど、いったいなにをどうすればいいのか見当もつかないことは、以前とまったく同じだわ、とシュテファーニアは思わず顔をしかめてしまった。朝の礼拝で深く額づきながらのことだったから、ほかの誰にも表情を見られていないことが幸いだった。

 図書庫に隠されていた史料室でツェツィーリアと顔を合わせ、国のありようを変える方法を言葉にしてから、すでに半月以上が過ぎようとしていた。

 神ツ国はすっかり冬を迎え、神殿の中はどこもかしこも深々と冷えきっている。朝の拝堂も例外ではない。厚い敷布の上に跪く神官も巫女も、石の床にじかに膝をつく民もみな、白い息を凍らせながら一身に神への祈りを捧げていた。中央神殿で行われる毎朝の祈祷には、神殿に仕える者たちだけではなく、一般の民も参加を許されているのだ。

 神を殺すということはつまり、彼らの心も殺すということなのね、とシュテファーニアは聖句に紛らわせた小さなため息をつく。

 いまのままではこの国は滅びてしまう。国としてのありようを変えなくては、誰ひとり生き残ることはできない。残された時間も、決して長くはないはずだ。

 だけど。

 国のありようを変える――神官も民も賤民もない、あたりまえの姿を取り戻す――ことは容易なことではない。建国のときから続いてきたヴラーシュコヴァーによる支配を終わらせることはむずかしくないが、代わりとなるものを見つけることは容易ではない。

 焦ってはだめよ、とシュテファーニアは神官長の声に合わせて顔を上げながら、軽く奥歯を噛んだ。そこにどんな過ちがあるにしろ、長く続いてきた因習をあらためるのはそう容易いことではない。

 人々の心と身体に染みついてしまった意識――差別する者もされる者も同じそれ――を拭い去ることは一朝一夕にはできない。とはいえ、少しずつゆっくりと蒙を啓いていくには、あまりにも時間がかかりすぎる。

 賤民を虐げることによって成り立っているこの国で、彼らを解放することはすなわち国を滅ぼすことだ。神ツ国という器を大きく損なうことなく、しかし、これまでつらい目に遭ってきた人々に安寧をもたらすためには、大きな転換点となるなにかが必要だ。民の心を揺さぶる、なにかが。

 その、なにか、がみつからない。

 あれからシュテファーニアは、毎晩のようにツェツィーリアとともに史料室に通い、大陸の歴史を網羅したさまざまな書から知恵を借りようと試みていた。過去に学ぶだけでは国を変えることはできない、と気づいてからは、史料室ではない場所に納められている書物を――哲学や経済の書、思想家の随筆や、ときには物語までをも――読み漁っているけれど、答えに至る道はいまだ発見することができないでいる。

 焦ってはならない、と自分を諌めようとすればするほど焦燥に駆られる己をシュテファーニアはちゃんと自覚している。そんな彼女にとって、日々の厳しい修練は、ともすれば暴走しがちになる心を落ち着けるのに必要なものとなっていた。

 教主の娘としてこれまでを生きてきたシュテファーニアが国を変えるには、いくつもの大きな障壁がある。それは、彼女自身が弁えていることであると同時に、ツェツィーリアにも再三云われていることでもある。

 決して無理をなさってはなりませんよ、とツェツィーリアはいつもシュテファーニアを気遣った。姫さまのお父上さまは教主猊下、兄上さま方もみな高等神官でいらっしゃる。姫さまがなそうとしてらっしゃることは、ご家族に対する裏切りにほかならないのです。

 父も兄たちも、母も姉たちも、きっとわたくしのことを許そうとはしないだろう、ということは、はじめからちゃんとわかっていた。そのことに心が痛むからといって、なにもしないままでいては、この国は変わらない。

 なにをどうすればいいか、その方法さえ見つかれば、わたくしはいつでも家族に別れを告げる覚悟ができている。

 そう思う一方で、しかし、シュテファーニアは、もしかしたら自分は国を変える方法などみつからなければいいと思っているのではないか、とふと感じることがある。国を変えたい、賤民をその身分から解放したいと願いながら、けれど、よい方法が見つからないのだという云い訳を失くしたくもない。家族との縁を引き裂くそんな方法など、ずっとずっとみつからなければいい――。

 聖句を唱え終えたシュテファーニアは神官の声に合わせて立ち上がりながら、もう一度小さなため息をついた。

 なんという卑怯。なんという怯懦。

 でも、わたくしの中にそうした思いがないと云い切れるだろうか。

 教主あるいは神官というこの国の象徴を背負って生きるシュテファーニアの家族は、民にとって聖なる存在だ。だが、シュテファーニアにとっては、それだけではない。肉を持ち、血を通わせる、俗なる父と母、兄と姉でもある。失われれば心の痛む、愛すべき存在だ。

 国を変えるには、その家族を失う――それも自らの手で害する――覚悟をせねばならず、きっとその罪の意識は生涯わたくしを苦しめることになるだろう、とシュテファーニアにはわかっている。

 そのことさえをも覚悟して故郷に戻ってきたつもりだった。

 あの史料室の中で、強い覚悟とともに未来の拓ける予感を抱いた。国を変えるその糸口を掴んだような気になった。

 心が晴れたような気持ちになり、けれど、それはすぐに暗鬱なる未来を想像させた。――わたくしを愛してくれた、そしてわたくし自身も大切に想う家族の崩壊。

 心が揺れた。

 わたくし自身が傷つくだけであれば、このように躊躇したりはしなかっただろう。思考を止めてしまうことなく、正しいと思える選択ができたのに違いない。あるいは、人々の前で八つ裂きにされるそのときが来ても、昂然として顔を上げ、最後まで高慢な姫のまま死ぬことだって厭わなかったのに違いない。

 だが、それはあくまでも自分ひとりのことだ。家族は違う。

 自分の命が自分だけのものだと思い上がるつもりはない。ただもしも、この先いつか、この国のために命を捧げなくてはならないのであれば、それは自分の命だけであってほしいとシュテファーニアは思っている。

 国を変えたいと思ったのは自分であるからだ。

 己が正しいと思ったことのために死ぬのなら、それは仕方のないことだと思える。けれど、この国のありようを疑うことなく――あるいは疑いながらも、現状を維持することが最大多数の幸福に繋がると考えている――いまの地位にある父や兄たちに、命を差し出せ、と云うことはシュテファーニアにはできない。たとえ家族であっても、己のものはでない想いに殉じるように、と迫ることはできない。

 それが身内に対する甘さなのだと罵られても、これまでの賤民の痛みを思えと叱られても、そこを譲ることはできそうになかった。

 誰もが幸せになれる、そんな世界はないのだと、シュテファーニアはいまさらながらにそんなことを思った。

 賤民の解放は己の家族の崩壊と、そのほかの多くの神官とその家族の離散、そして多くの死を呼ぶだろう。だが、彼らの暮らしを守ろうとすれば、賤民らはいつまで経っても苦痛を強いられる。

 そしてこの国は滅びを避けられない、と堂々巡りになる思考にうんざりしながら、シュテファーニアは拝堂を出て、与えられた持ち場の掃除に取り掛かかった。

 この迷いがわたくしの弱さゆえのことだとすれば、こんなわたくしに国を変えることなどできないのかもしれない。このままおとなしく巫女としての修業に励み、父と兄たちとを支える存在となるしかないのかもしれない。自分たちの罪深さと賤民たちの苦しみを嘆きながら、しかしただ嘆くだけで――。

 そんなのは厭、とシュテファーニアは思い、でも、と思考を止め、そんな自分に苛立って、なにやら叫び出したいような気持ちになった。思わず強く握り締めてしまった雑巾から冷たい水が滴り落ち、服の裾を濡らしていく。

「姫さま」

 己の中に猛り狂う嵐に耐えていたシュテファーニアが我に返ったのは、ごく静かに呼びかけてきた聞き慣れた声のおかげだった。

「ツェツィーリア」

 どうしたの、とシュテファーニアは応じた。その声が小さく震えるようなものになってしまったのは、完全に感情を抑える暇がなかったせいだ。

「裏にツィリルが来ています。姫さまに急ぎお目にかかりたいと」

「ツィリルが?」

 シュテファーニアは急激に現実に戻る己を意識した。兄イエレミアーシュの従者であるツィリルに頼んでおいたあることを思い出したせいだ。

 姫さま、とツェツィーリアは訝しげな声を上げた。

「なぜ、あの者が姫さまに?」

 いいのよ、とシュテファーニアは答えた。

「頼んでおいたことがあるの。すぐに会うわ」

「ですが、姫さま。お時間が……」

 いまのシュテファーニアは、厳密に定められた修行に励まねばならない巫女見習いである。己の時間を己のために使う贅沢は許されていない。

 しばし逡巡したのち、仕方ないわね、とシュテファーニアは云った。ツェツイーリア、あなたに頼みたいことがあるの。

「頼み、でございますか」

 そうよ、とシュテファーニアは頷いてみせる。

「おまえにしかできないこと。おまえにしか頼めないことよ、ツェツィーリア。頼まれてくれるわね」


 姫さまに従うと決めたのは私自身だけれど、とツェツィーリアは神殿内の薄暗い回廊を急ぎ足で進みながら、緊張を堪えきれずに両手で拳を握った。こうした事態はあまり想像していなかった。

 ツェツィーリアは極力人目につかぬよう神経を使いながら、神殿内に与えられている自室へと帰り着いた。すぐさま衣装棚を開け、替えの仕着せをひとそろい取り出す。

 それからすぐに部屋を出て、今度は神殿の裏手にある洗濯部屋を目指した。

 ここでは多くの下女たちが洗濯婦として働いている。同じ神殿付下女ではあっても、彼女たちは、シュテファーニアの身の回りの世話をするツェツィーリアとは比べものにならぬほどの重労働をこなす者たちだ。

 彼女らの多くは夫に先立たれたか、あるいは、故あって離縁した者たちである。どこにも行き場のない彼女たちは、身を削るような労働に賃金もなく従事せねばならない。賤民制度とは異なるけれど、これもまたわが国の冷たい現実だ、とツェツィーリアは思った。

 姫さまが抱く志を果たせば、こうした者たちの暮らしも幾分かはよくなるのだろうか。生まれ落ちた立場で一生が決まることのない、自由な暮らしをすることができるようになるのだろうか。

 すぐには無理なのだろう、とツェツィーリアはわずかに瞳を眇めた。少しずつ、少しずつ。それでもきっと、最後まで変わらない――変えられない――ことはある。

 姫さまの理想は高尚だ。それだけに、実現するには多くの妥協をせねばならないだろう。清く澄んだ想いを現実にするには、濁り汚れたものをも飲み込む必要がある。

 そんなご自身に姫さまは耐えられるだろうか。

 いや――。

 ツェツィーリアは慌てて首を横に振った。急がなくては。いまはそんなことを考えている場合ではない。

 近くにいた洗濯婦を呼び、神官の衣装をこれもひとそろい用意させた。ツェツィーリアの顔を見知っていた洗濯婦は、なぜ神官さまの衣裳などがご入用なのですか、と怪訝な顔をしたが、とくに逆らうような真似はしなかった。

 姫さまの――教主猊下の――ご威光は、こんなところまであまねく行き渡っているのだ、とツェツィーリアはやや皮肉な気持ちになりながら、急ぎ足で神殿の裏門へと回る。

 軽い雪の舞う裏門では、鈍い赤色にも見える褐色の髪をした青年がツェツィーリアを出迎えた。イエレミアーシュの従者ツィリルである。

「待たせたわね」

 白い息を吐きながらツェツィーリアが云うと、ツィリルは硬い表情のままわずかに頭を下げた。賤民である彼は、神殿内に足を踏み入れることも許されていなければ、神殿に仕えるツェツィーリアと――どうしても必要なときを除いて――口をきくことも許されていなかった。

「すぐにまいりましょうか」

 ツェツィーリアがそう云っても、ツィリルは小さく頭を下げただけだった。ツェツィーリアは彼を従えて、急ぎ歩き出す。思わずしかめてしまった表情を見られただろうか、と彼女は思った。

 絶えることなく雪が舞い、思わず身震いするほどの寒空の下、ツィリルは裸足だった。賤民が靴を履くことを許されないなど、ここではあたりまえのことだというのに、とツェツィーリアは思う。自分のあたたかな靴を恥ずかしく思う日が来るとはね――。

 この中央神殿でも、ツィリルと同じような多くの賤民たちが下働きを務めているが、彼らの境遇は、ツェツィーリアが東国に行くより以前から一向に改善されていない。

 神の恩寵を受けることのできない存在であるとされている彼らは、神殿内に足を踏み入れることを基本的には許されていない。敷地内に用意された別棟に押し込められるようにして暮らし、死ぬまで働かされる。どんなに寒い時期であっても暖房を与えられることもなく、むろん間仕切りもなく、薄い毛布と互いの体温で暖を取る。食事は一日に二回、それも外で摂るよう厳しく云われ、まともな休憩も休暇も与えられない。

 しかし、それでも賤民の暮らし向きとしては悪くないほうだと云える。神官や巫女たちは賤民らにことさら厳しく当たったりはしない。いきなり売り飛ばされたり、殴られたり、犯されたりすることはない。よほどのへまをしない限り、生きていくことはできるのだ。

 それを幸いと呼ぶことはできないけれど、とツェツィーリアは腕の中の二組の衣装を抱え直しながら、そんなことを思った。

 西国に学び、故郷へ戻ったあと、義憤に駆られながらなにもできなかった自分を、ツェツィーリアはずっと恥ずかしく思っていた。父にどんなことを云われたにしろ、慣習に逆らうことができなかったのは、それがつまり己にとって楽な道であったからにほかならない。

 自分が傷つかないまま誰かを救うことなど、できるはずもなかったというのに、といまのツェツィーリアはそう思う。シュテファーニアを見ていて思ったことだ。

 清廉かつ真摯でありながら、傲慢で我儘だった姫さま。賢さと愚かさとを併せ持っていた彼女は、己の過ちに気づいたとき、大きく変わった。――それはもう、ツェツィーリアが戸惑うほどに。

 嬉しかった。期待もした。この方ならば、と人生を賭ける決意もした。

 けれど、一方でこうも思った。姫さまに、人としてあたりまえの幸せをかなぐり捨ててほしくはない、と。

 この国を象徴する教主や神官は、シュテファーニアにとってそのまま家族でもある。教主として、その妻として多忙であった父や母に代わり、彼女は幼少のころからさまざまな神官や巫女たちの手に預けられることが多かった。ヴラーシュコヴァーの一族の中でもことさらに篤い信仰心は、そのころに育まれたものだ。

 賤民の境遇を変えることは、国を変える――支配体制を変える――こと、すなわち、シュテファーニアにとっては家族に刃することでもある。心を痛めないはずがない、とツェツィーリアは思う。

 かつての私は踏み切ることができなかった。父を裏切り、母を泣かせ、妹たちを悲しませて、そこまでして国を変えようとする覚悟はできなかった。多くの人が苦しんでいることを知りながら、故郷が歪んでいることを知りながら、それを正そうとすることはできなかった。

 迫りくる現実に諾々と従った私は、だから、結局は賤民を虐げる側の生き方を選んだのだとも云える。積極的に手は下さなくとも、消えていく命に目を向けようとはしなかった。

 それこそが、無為の罪。

 償うことすらしようとしなかった私の前で、姫さまは自身が傷つくことも厭わずに立ち上がろうとしている。それを痛々しいものと感じてしまうのは、私がただ臆病なだけなのだろうか。

 誰よりも姫さまに期待している。

 けれど、きっと誰よりも姫さまに傷ついてほしくないと思ってもいる。

 そんなことは不可能だというのに。ひとたび堰を切られれば止まらないであろう流れに飲まれ、無事でいられるはずもないというのに。

 姫さまはきっと、なにもかもをお見通しなのだろう。私が抱いている期待も、それから怯えもおそれも、なにもかもを。

 だから、すべてを明かそうとはなさらなかった。

 知っていること、それだけで罪に問われることがある、といまの姫さまはよく弁えているはずだ。この国が抱える歴史の秘密、大陸の秘密に触れた彼女は、秘密はそれだけで人を殺める力があるのだと、ちゃんと知っている。

 秘密を秘密とするのは、それを知られたくないということだけが理由ではない。知らないことで守れる命もある、知らないことでしか守れない命がある、ということなのだ。

 姫さまは私を守ろうとなさった。ご自身のなさっていることをぎりぎりまで私に明かさないでいることで、臆病な私を守ろうとなさった。

 ツィリルの気配を背後に感じながら、ツェツィーリアは足を早めた。

 そろそろ私も覚悟を決めるときなのかもしれない、と彼女は遅ればせながらにそんなことを思う。シュテファーニアの覚悟を己のものとし、ともに国を変える――国を滅ぼす――覚悟をするべきときなのかもしれない、と。


「……侍女さま」

 逸るツェツィーリアの足を止めさせたのは、おそるおそるといった調子で呼びかけてくるツィリルの声だった。

「どうかして?」

 振り返ったツェツィーリアは、目深にかぶった頭巾の下から薄い水色の瞳を光らせた。ツィリルは褐色の髪を振りたくり、そのお荷物を、となおも遠慮がちに指差してくる。どこかおどおどとした仕草は、長年の彼の立場をそのまま物語っているかのようで、いかにも憐れだった。

「僕に持たせてください。あの……そのままですと、その……」

 ああ、とツェツィーリアは得心の吐息をこぼした。

 この角を曲がれば、そこはもうすぐ目的地である。ただでさえ危うい橋を渡らなくてはならないのだ。些細なことが命取りにならないよう、私が先に気づくべきだった、とツェツィーリアは思った。

「すまなかったわね、ツィリル。気づいてくれてよかった」

 ツェツィーリアの言葉に驚いたツィリルは、緋色の瞳とかさついた唇をぽかんと開いた。これまで一度たりとも投げかけられたことのない気遣いだったからだ。

「頼みますよ」

 ツェツィーリアはツィリルの驚きなどいっさい斟酌せず、抱えていた荷物を彼に向かって差し出してくる。ツィリルは慌てて荷物を受け取り、小さく頭を下げながらごくりと喉を鳴らした。

 失敗することはできない、と彼は、押し寄せてくる緊張に人知らず震える。

 ツィリルが、自身の仕えるべき主であるイエレミアーシュ・ヴラーシュコヴァーの妹、シュテファーニアに思いもかけないことを頼まれたのは、もう十日ほども前のことだ。

 それまでも主の命令に従ってほぼ連日のように中央神殿に通い、シュテファーニアと顔を合わせてはいた。慣れない神殿での暮らしに不便はないか、なにか望むものはないか、彼女の希望を聞き出してくるように、と厳しく云われていたからである。

 ツィリルにはよくわからない決まりごとによって、主は愛する妹と言葉を交わすことができないらしい。人の数に入らないおまえも、たまにはおおいに役に立つのだね、とイエレミアーシュに云われたツィリルは、その言葉を喜んでいいのか、悲しんでいいのか、よくわからなかった。

 そんなツィリルは十日前、シュテファーニアからとんでもないことを頼まれた。彼女の要望であるならばどんなことにでも従え、と云われていたにもかかわらず、即座に西方神殿へと引き返し、イエレミアーシュにお伺いを立てたほどである。

 イエレミアーシュの返事はとても短く、明快だった。――シュテファーニアの云うとおりにするように。

 聞く前から答えはわかっていたようなものだけれど、とツィリルは思う。煩わしいと殴られる羽目になろうとも、どうしても確かめずにはいられなかった。だってこれは、明らかに許されないことだ。いくらイエレミアーシュさまでも、シュテファーニアさまでも、決して許されないことだ。

 だけど、僕は僕自身のためにこの仕事をやり遂げなくちゃならない――。

 ツィリルにとってのイエレミアーシュは、もうすでに三人めの主である。仕えるべき主が変わることは賤民にとって珍しいことではなかったが、この国を支配する神官、その頂点に座す教主の血脈に直接仕える賤民は、そう多くはない。

 これまでも数人の賤民を傍仕えとして使っていたイエレミアーシュは、ツィリルのことも取り替えの効く道具のひとつとしか考えていない。現に、ツィリルの前に彼に仕えていた賤民は、なんということのない風邪をひとつひいただけで放り出されたのだと聞かされている。放り出されたその先のことは誰も知らない。

 あたたかくもなく、やさしくもないイエレミアーシュは、しかし冷酷でも残虐でもなく、ために、ツィリルにとっては仕えやすい主だった。

 ここでつまらぬ失敗をし、主さまのお心を乱すわけにはいかない、とツィリルは思っていた。そんなことをすれば、僕は明日にでも、どこへともわからない――しかし、ここよりは確実によくないどこか――場所へと追いやられてしまうだろう。

 そんなのは厭だ。

 だから僕は僕のために、シュテファーニアさまから云いつけられた仕事を完璧にやり遂げなくてはならないのだ。

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