33

 しなやかなクロエの手が、迷いも躊躇いもない動きで、エリシュカの身を隅々まで清めていく。それは数か月前、ヴァレリーとのはじめての夜を迎える折に、ベルタによって与えられたものとまったく同じ儀式だった。

 エリシュカは身を震わせて怯えた。

 モルガーヌの手によって厩舎から連れ戻され、部屋で相対したヴァレリーは、しかし、モルガーヌが云っていたように苛立っているようには見えなかった。

 春の陽射しのような笑顔でエリシュカを迎え、温かく広い胸にやさしく抱きしめた。テネブラエは元気であったか、と尋ねる声は穏やかで、はい、と頷くエリシュカの頭を撫でる手つきはやわらかだった。

 だからエリシュカは、その胸に寄り添うような姿勢のまま聞かされた言葉を一瞬理解することができずに、微笑みながらヴァレリーを見上げることになってしまった。腕のなかに閉じ込めた愛しい女が、自分の云っていることをきっと理解できていないだろうことを知りつつも、ヴァレリーはあえて云い直したりはしなかった。

「ずいぶんと元気になった。もうこれ以上待ってやる必要はなさそうだな」

 たったそれだけのヴァレリーの言葉によって、エリシュカは侍女たちの手によって昼日中から入浴などさせられ、身体中をやわらかく解され、肌や髪に乳香を塗り込められることになってしまったのだ。

 掌で顔を覆って泣き出してしまったエリシュカにかまうことなく、クロエは自らに与えられた務めを淡々とこなしていく。

 東国王都の下町で育ったクロエは、王城で働きたい、と自ら職を求めてきた少女である。すっきりとした見目と明るい聡明さと丈夫な身体を認められ、厳しい選別に耐えて掃除婦として採用された。

 たかが掃除婦、されど掃除婦である。なんの縁故も伝手もない少女が、王城に職を得ることは並大抵の努力でできることではない。クロエは家族のために必死だった。彼女には多くの弟妹がおり、長女であるクロエが両親ともども働かねば、末の弟に読み書きを習わせることもままならなかったからだ。

 クロエが通っていた学校の教師は、賢いクロエにはもっと学をつけさせるべきだと主張した。なんなら自分が推薦状を書いたっていいんだ、と云ったその教師に向かって、クロエははっきりと答えた。――いまのあたしには、ううん、うちには学なんかよりも金が必要なの。わかってよ、先生。

 王城は特別に給金がよいわけではないが、働いたぶんの支払いを渋られることも踏み倒されることもない。もっと云えば、破産する可能性も低かった。下町育ちのクロエは、一晩で大金を掴む者の姿も、また無一文になる者の姿も厭というほど見てきていた。

 弟妹たちにはこれからますます金がかかるのだから、とクロエは思った。長く確実に給金をもらえるところで働かなくちゃ。

 王城に職を得たクロエは、その日からきわめて真面目に勤めをこなしてきた。

 掃除婦は厳しい仕事である。陽も昇らぬ薄暗いうちから起き出して、冷たい朝食を立ったままかき込むと、すぐにその日の担当の場所へと走っていかなくてはならない。高貴な人々の目に触れぬように気をつけながら、部屋を隅々まで掃いて、拭いて、清めていく。

 いったいどれだけ続くのかもわからぬ長い長い廊下、うんざりするほどたくさんある階段、掃除婦十人の命をかけても贖えぬ高価な調度で埋め尽くされた数多の広間。

 まだ歳若いクロエに割り当てられる場所は、大概が薄暗く湿った廊下や階段、よくても使い終わった浴室や洗面室などが多かった。多くの労力をかけて磨き上げても誰の目にもとまらぬか、あるいはすぐにまた汚れるような場所ばかり――。

 だが、クロエは愚痴ひとつ云うことなく務めを果たし続けた。タイル一枚、窓硝子一枚をひとつひとつ磨き清めていくことが、すなわち金を得るということなのだ、と自分に云い聞かせながら。

 クロエは年齢の割に聡く、そしてそうした者にありがちなことに諦めがよかった。多くを望まず、手に入りそうなものを確実に手に入れる。家族の口を糊するとはそういうことだと悟っていたのだ。

 あの朝――悋気に駆られたヴァレリーにひどい目に遭わされたエリシュカが、人事不省に陥った朝――のクロエが、王太子の寝所の前の廊下にいたのはただの偶然である。手際がよく、口も堅いことを上役に認められたクロエは、まだごく経験が浅いにもかかわらず、城内の中心部の掃除を担当させられることも増えてきていた。

 掃除婦としての標準装備――水を張った桶と何枚かの雑巾、モップと箒、洗剤と磨き粉――を携え、さっさと終わらせて次へ行かなくちゃと腕まくりをしたところで、重たそうな扉を押し開けて真っ青な顔した侍女が顔を覗かせたとき、クロエは咄嗟に床の汚れを拭き取ろうとしているふりをして廊下の隅に屈みこんだ。

 いいかい、という仕事の指導をしてくれた先輩の台詞を思い出したからだ。王城のなかで長く生き残りたけりゃ、余計な話を聞いたり、余計なものを見たりしちゃいけないよ。運悪くそういうもんに当たっちまったときにはね、綺麗に忘れるのさ。どうやって忘れるのかって。簡単だよ。言葉にしなきゃいい。誰かに話すのはもちろんのこと、自分のなかでも言葉にしなきゃいいんだ。おまえ、自分の毎日のいちいちを言葉にしたりするかい。しないだろう。それと同じことだよ。

 だが、先輩のありがたい助言は、怒涛のごとく迫りくる現実を前にしてはなんの役にも立たなかった。青褪めた顔のまま廊下に走り出てきた侍女は、クロエを見つけるなり、おまえ、と叫んだのだ。王太子付侍女のモルガーヌさまをすぐに呼んできておくれ。

 そんなことを云われても、とクロエは思った。モルガーヌなんて人のことは知らない。

 それでも王城という身分社会に生きるクロエは、すぐに、はい、と頷いて、侍女の私室が並ぶ一帯へと足を向けた。顔見知りの侍女を見つけ、モルガーヌの部屋はどこかと尋ね、そこを訪れたときの彼女は、いまこの瞬間が自分の運命の分かれ道であるなどとは考えてもいなかった。ただ、このことはすぐに忘れよう、と思っていただけである。

 クロエの気働きと寡黙さは、モルガーヌの気に入ったらしい。クロエは、その後すぐに、掃除婦から下級侍女へと昇格した。

 それからすぐの休暇に実家へ帰り、侍女に昇格したことを告げると、姉ちゃんが王城の侍女さまになったんだってよ、と家族は大喜びだった。さすがはクロエじゃないか。おまえはほんとに優秀なんだねえ。姉ちゃん、侍女さまって毎日おいしいもの食べられるって本当かい。王さまには会えるのかい。

 侍女さまなんて云われたってさ、この仕事はそんなにいいもんなんかじゃないよ、とクロエは云わなかった。掃除婦のほうが何倍もマシだ、などと続けてしまって家族をがっかりさせたくなかったからだ。

 下級侍女となり、モルガーヌの手足として働くようになっていたクロエは、掃除婦として働いていたころには目を瞑り、耳を塞いでやり過ごしてきたようなできごとばかりと毎日のように向かいあわねばならなくなっていた。それは、さすがのクロエにもひどく堪えるものだった。

 それでもクロエは、あたしはとても運がいいよね、と思っている。だっておかげで、いままでの三倍も家族に仕送りできるようになったんだから。そのおかげで、来年には仕立屋にでも働きに出なくちゃならなかったはずの四番目の妹は、上の学校に進めることになった。こんな機会を恵んでくれたモルガーヌさまには、いくら感謝してもしすぎることはないだろう。

「お嬢さま」

 クロエが短く声をかけると、顔を覆って俯いていたエリシュカが小さく首を横に振った。

「……お願い」

 やめてちょうだい、と細い声が云う。なにを云っているんだ、このお嬢さまは、とクロエは思った。やや強引に彼女の細い腕をとろうとすると身をよじって抵抗された。

「お嬢さま」

「お願いだからもうやめて……」

 冗談じゃないよ、とクロエは思う。あんたを磨き上げることは、モルガーヌさまから仰せつかったあたしの仕事なんだ。手を抜いたり、ましてや放り出したりなどできるはずがないだろう。お給金がもらえなくなっちまう。

「このままじゃ帰れなくなってしまう。ねえ、クロエ、お願いだから……」

 わたしを逃がして、とエリシュカは云った。クロエの眉がひそめられる。

「なにをおっしゃっているんです」

「乳香を用意するために目を離した隙に逃げたことにすればいいわ。ねえ……」

「お嬢さま」

 莫迦莫迦しいことをおっしゃらずにさっさと腕をお出しください、とクロエは云った。急ぎませんと、モルガーヌさまがおっしゃっておられた刻限に間に合わなくなってしまいます。

「クロエ」

 しつこく食い下がるエリシュカに苛立ちを覚えたクロエは、お嬢さま、と低い声で答えた。どすの利いた声音に怯えたエリシュカが息を飲む。

「私の仕事の邪魔をしないでいただけますか。なにをおっしゃられましても私にお答えできることはありません。お話ならばモルガーヌさまかデジレさまにお願いいたします」

 唇の端を震わせたまましばらく口を開けたり閉じたりしていたエリシュカは、やがてそのまま俯いてしまった。薄紫色の双眸に溜まっていた涙が頬を滑り落ちていった。

「お泣きになるのはおやめください」

 クロエの言葉にエリシュカがびくりと肩を震わせる。目蓋が腫れてしまいますから、とクロエは云って、冷たい水に浸した手巾をエリシュカの目の周りに軽く押し当てた。

 クロエはエリシュカに対し、特別な感情を抱いてはいない。銀色の髪や薄紫色の瞳を類稀なほどに美しいと認めてはいるが、言葉少なに俯いていることが多い彼女を魅力的だと思ったことはなかった。――王太子ってのは、ずいぶんと面食いな男なんだねえ。

 だからクロエは、モルガーヌがなにかというとエリシュカに肩入れしていることを、少々不思議がってもいる。

 いまだってきっと、とクロエは思った。モルガーヌさまがこの場に立ち会われていないのは、こうやってお嬢さまに泣かれでもしたら逆らえないと、彼女自身おわかりでいらっしゃるからだろう。

 下級侍女のひとりにすぎないクロエは、エリシュカの心のうちなど知る由もない。ましてや今宵の閨を務めるかどうかが、彼女にとっては生死を分けるにも等しい重大なことであることなど理解できようはずもなかった。

 仕える相手の事情など知りたくもない、というのがクロエの本音でもある。誰かに肩入れしたり、あるいは誰かを敵視したりしはじめると、途端に生きづらくなるのが王城という場所だ。ここにはお給金をいただくためだけにいるのだ、と割り切っていなければ、やりきれなさに夜も眠れなくなる。

 だからクロエは、エリシュカに対するささやかな同情も苛立ちもすべてを押し殺して、彼女の支度を整えることに、よりいっそう専念したのだった。


「お嬢さまのお支度は、滞りなく進めていますか、モルガーヌ」

「ええ、はい」

 デジレの問いにはそう頷いたものの、彼女と相対して腰を下ろしているモルガーヌは、ひどくそわそわと落ち着かなかった。ともすれば叫び出したいような奇妙な焦燥にかられ、とてもではないがじっとしていられる気分ではなかったのだ。部屋でクロエに支度を整えさせているエリシュカが、いまごろどんな思いをしているのかを考えると、自分がとんでもない人でなしにでもなったような気がしてくる。

 あの、デジレさま、とモルガーヌは云った。

「あれで、よかったんでしょうか」

「なにがです?」

「殿下とお嬢さまのことです」

 云っていることの意味がわかりませんね、とデジレは答えた。

「いいも悪いも、お嬢さまがようやく本来のお務めを果たされるだけのことではないですか。なにをそんなにそわそわすることがあるのです?」

 いえ、とモルガーヌは珍しく言葉に詰まって口を閉ざした。

 テネブラエの世話をするために、と云って厩舎に出ていたエリシュカを、ヴァレリーの言葉に従って呼びに行ったのは今朝のことだ。彼女を部屋まで連れて行き、そこで、エリシュカを腕に抱いたヴァレリーに、今宵の支度は入念にいたせ、と妙に穏やかな声音で身も蓋もない命令を受けた。実際の言葉は違っていたけれど、口でなにを云おうともつまりはそういう意味なのだ。

 政務に追われるヴァレリーが部屋を立ち去るまで、顔を強張らせたままじっと耐えていたエリシュカは、彼がいなくなるやいなや、モルガーヌに縋りついてきた。自分の仕着せの袖を握りしめてきたエリシュカの指がひどく震えていたことを思い出すと、胃の腑でも掴まれたような気分になる。

 ヴァレリーの寵愛を受けることがエリシュカの生きる術なのだと理解してはいても、あんなふうに怯える姿を目にしてしまえば、どうにかして助けて差し上げられないか、と思ってしまう。助けるとはなんだ、とモルガーヌは首を振る。いまのお嬢さまにとって大切なことは、王太子殿下の想いを彼女自身に繋ぎ止めることだけであるはずだ。

「殿下のやんちゃが過ぎたのはたしかです」

 デジレは不意にそう云った。モルガーヌはデジレを見つめ、言葉の続きを待つ。

「国王陛下をはじめとするみなさまのいらっしゃる前でこどもっぽい悋気を顕わになさり、エヴラール殿下にお手をお上げになった。あげく、お嬢さまに怪しげなお薬を使われたなさりようは、まったく愚かしいのひと言に尽きます」

「デジレさま」

 ヴァレリーに対し、蜂蜜漬けの果実にさらに砂糖をかけたよりも甘いデジレがここまで云うのだ。エリシュカに対するヴァレリーの振る舞いには、彼が幼少のころよりそばに仕えてきたデジレにとっても腹に据えかねるものがあったのだろう。

「ですがそれでも、殿下のお気持ちに偽りはありません。よくも悪くも女人に対しては冷たくあられた殿下が、お嬢さまに対しては違います。毎夜求められたことも、数か月もの無聊を忍ばれたことも、すべては殿下のお気持ちの表れなのです」

 殿下の気持ちを疑っているわけではない、とモルガーヌは思った。本気であることはわかる。十分に。いや、十分すぎるほどに。

 問題は、本気であればどんな真似をしてもいいのか、というところである。根底に相手を慈しむ思いがあるからと云って、誰かを傷つけるような真似を許すべきなのか。モルガーヌがそう云うと、デジレは薄く笑ってこう答えた。

「もちろんです。許すも許さないもありません」

 デジレのあまりの突き抜けっぷりに、思わずぽかんと口を開けてしまったモルガーヌである。親莫迦もここに極まれりといったところか。

「私たちは王城に仕える侍女ですよ、モルガーヌ。それを忘れてはなりません」

 いかなるときとて忘れたことはない、とモルガーヌは答えた。

「主の望みに沿うことが、私たちに課せられた務めです」

「承知しています」

「あなたの主とはどなたですか、モルガーヌ」

 主、とモルガーヌは呟いた。――お嬢さま、ではない。

「王太子殿下……いえ、国王陛下です」

「そのとおりです。われらは、王家ラ・フォルジュのみなさま方にお仕えする者です」

 まるで小さなこどもを褒めるような口調でデジレは云った。

「先日、私は御前に呼ばれ、国王陛下とお会いしてきました」

 王太子付筆頭侍女であるデジレは、モルガーヌにはとうてい許されぬ数々の特権を持っている。そのひとつが国王との謁見である。デジレは――これまでに一度として望んだことはないが――、もしも望むのであれば、自ら国王に謁見を申し込むこともできる立場にある。

「近ごろの殿下のお振る舞いについては、陛下もご存知でいらっしゃいます」

 少々どころではなくお嘆きでいらっしゃいましたよ、とデジレは苦笑いをする。

「それももっともなことです。殿下はどうにも極端でいらっしゃいますからね。ですが、それはそれとして、喜ばしいと思う気持ちがないわけではない、とも仰せになられておいででした」

「喜び……?」

 ええ、とデジレは頷いた。

「国王陛下とてひとりの父親であることに変わりはありません。息子が、それもさんざんの放蕩三昧に手を焼かせられてきた息子が、ようやくのことでひとりの女性を心の底から愛し、求めるようになったのです」

 だから問題はそんなことではないのに、とモルガーヌは思う。

「親とはそういうものですよ、モルガーヌ。そして私たちは、そうした親子に仕える身の上であるのです。必ずしも正しいばかりではなく、美しいばかりでもない、ごくあたりまえの親子に」

 デジレの口調は変わらない。にもかかわらずモルガーヌの耳は急に冴えたようになって、やけに鮮明にデジレの声を拾うようになった。

「殿下のお考えやお振る舞いには過ちもあるでしょう。卑怯や狡猾とも無縁ではありません。行きすぎた醜悪さはないと信じたいところですが……それもどうでしょうね」

 それでも、とデジレは笑ってみせた。

「私たちが殿下に仕える身である以上、殿下の利益を考えなくてはなりません。殿下の望みを叶えることだけを考えるのです。ときにその望みが、誰かを傷つけることがあったとしても、です」

 それが私たちの職務なのですから、とデジレは云った。モルガーヌは雷に打たれでもしたかのように身を竦ませていた。デジレの言葉が、己に対する厳しい叱責であると理解したからだ。

 モルガーヌは迷っていたのだ。エリシュカ付になったとはいえ、彼女の本来の立場は王太子付侍女である。モルガーヌの主は王太子ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュであり、ひいては彼が連なるところの王室そのものである。つまり、モルガーヌが優先すべきは主たるヴァレリーの意志で、エリシュカの意志ではない。

 にもかかわらず、ここ最近のモルガーヌはエリシュカの意志ばかりを優先させてきた。ヴァレリーがエリシュカを求めていることがわかっていながら、エリシュカが厭がるままに閨の再開をずるずると引き延ばしてきたのだ。

 エリシュカを擁護するための云い訳は容易に見つかった。――自分を傷つけた相手に身を任せるなど、女であれば誰でも嫌悪するに違いありませんもの。

 自身に非のあることを自覚していたヴァレリーは、エリシュカのことも、そしてモルガーヌのことも責めたりはしなかった。ただじっと耐え忍んだのだ。

「あなたの気持ちはわからなくもありませんよ、モルガーヌ」

 自身の叱咤がきちんとモルガーヌに届いたことを悟ったデジレは、やわらかい言葉を重ねることにしたらしい。

「お嬢さまはじつに可憐でいらっしゃいます。この私ですら、ときおりお可哀相に思うこともあるくらいです」

 なにが可哀相なのかを、モルガーヌは尋ねたりはしなかった。ただ、デジレから視線を外し、そっと俯いただけである。

 私は王太子殿下に仕える身なのだ、とモルガーヌはあらためて思った。私がお嬢さまのおそばにあるのは、お嬢さまが殿下の寵姫でいらっしゃるからであって、お嬢さまゆえのことではない。――私はなにを勘違いしていたのだろう。

「申し訳ありませんでした。デジレさま」

 私、と云ったきり言葉を失ったモルガーヌに、いいのですよ、とデジレは頷いた。

「云いましたでしょう。王室に身を捧げて何十年にもなるこの私ですら迷うことはあるのです。まだ若いあなたであれば、ごくあたりまえのことです」

 殿下とて人の子でいらっしゃる、とデジレは続ける。

「必ずしも正しい道ばかりを歩まれるとは限らない。実際多くの過ちを犯してもいらっしゃるでしょう。それでも私は殿下を信じているのです。この国を率いるに足る、導くに足る国王におなりあそばすであろうと、そう信じているのです」

 私だって信じている、とモルガーヌは思った。人間的に――主に女性に対する態度の面で――多少の問題があることはわかっていても、ヴァレリーが王太子たるにふさわしくないと思ったことは一度もないのだ。この国の未来の指導者として仰ぎ称えることに、そして彼に仕えることにいささかの不満もない。

「あなたもそうだと、私にはわかりますよ、モルガーヌ。あなたも殿下を信じている。そうでなければルクリュどのと組んで汚い仕事をするわけがない」

 エヴラール付侍女アニエスを利用しての間諜スパイ行為のことを云われているのだ、とモルガーヌはすぐに理解した。顔を強張らせた部下に、デジレは深く頷いてみせた。

「それでよいのです、モルガーヌ。あなたの忠誠が殿下にあることのなによりの証ですからね」

 迷うまでもなかったのか、とモルガーヌは思った。

 ヴァレリーのためだと思えば汚い仕事もできた。だが、いくらエリシュカのためだと思っても、今宵は閨の支度をせよ、というヴァレリーの言葉に逆らうことはできなかった。

 つまりはそれがすべてだったのだ。

 己の本分に気づいたモルガーヌは、すっかり落ち着きを取り戻した。デジレは穏やかに微笑み、問いかける。

「お嬢さまのお支度はクロエが?」

 モルガーヌは今度こそ静かな声で答えることができた。

「万事滞りなく、整えてございます」

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