32
「なぜですか、ツェツィーリアさま!」
なぜエリシュカを連れて帰ることができぬのです、とベルタは、執務机を挟んだ向かい側に腰を下ろすツェツィーリアにぐっと迫った。
「姫さまがお許しにならぬからです」
「姫さまが?」
それはいまだお怒りだということですか、とベルタは問うた。ご自身のご夫君と懇ろになったエリシュカをお許しにはならないというわけですか。
「それを望まれたのは、ほかならぬ姫さまだというのに……」
「ベルタ」
「ツェツィーリアさま」
口の過ぎた部下を諌めようとしたツェツィーリアの言葉を遮って、ベルタは続けた。
「ツェツィーリアさまとてご存知でいらっしゃいましょう。城内の噂を」
「噂?」
問い返しながらも、ツェツィーリアにはベルタの云いたいことがわかっていた。
そもそも最初の過ちは半年も前、ひどく冷えた秋の夜のことだった、とツェツィーリアは思い出す。エリシュカを手に入れるため妃を求めるふりをした王太子、自身の身代わりとしてエリシュカを差し出させた姫さま、自らの手でエリシュカに支度を施したベルタと自分、すべてを受け入れ死を覚悟したエリシュカ。――罪深いのはいったい誰だ。
はじめからエリシュカだけを求めていたヴァレリーは、あの夜にとどまらずエリシュカを愛した。殺されてしまうとばかり思っていたかつての部下が、そうやって
だが、己が主であるシュテファーニア――これまで、ただの一度も賤民の苦しみなど顧みたことのなかった高貴な巫女姫――が、エリシュカの幸いを願う姿を目にして、ツェツィーリアもまたエリシュカに対する想いを新たにしていたのである。
一度はつらい目に遭わせてしまったあの子に、今度はどうにかして彼女の望む幸いをもたらしてやりたい。――故郷へ帰りたいと云うのなら、連れて帰ってやらなくては。
だからツェツィーリアは、こんなふうにベルタに詰め寄られるまでもなく城内の噂についても把握していたし、それとはなしにシュテファーニアにとりなしを持ちかけたこともある。
姫さまのお怒りもごもっともでございますが、高貴な殿方の寵を失った女の末路ほど哀れなものはございません。エリシュカは、もともとはわが国の賤民。姫さまのご帰郷に合わせ、ふたたび引き取られてはいかがでしょうか。旅路には下女の手が必要でございますし、エリシュカならば不足はありませんでしょう。
だが、どれほどツェツィーリアが言葉を重ねても、あの娘はここで暮らすのが幸せなのよ、とシュテファーニアは了承しなかった。それにわたくしはもう腹を立ててなどいませんよ、ツェツィーリア。
そしてツェツィーリア自身、そうしたシュテファーニアの言葉に納得してもいた。無理に故郷に帰るよりも、あるいはこの地にとどまったほうがエリシュカにとって幸いなのかもしれない。
「このままではエリシュカは王太子殿下の寵姫としての座を失い、路頭に迷うことになってしまいます。あの子はわたしの友人です。友人がそんな目に遭うなど、とても耐えられない」
ツェツィーリアに縋りつかんばかりにして、ベルタは訴えた。すべてはここにかかっているのだ、と彼女は考えている。
たった一度、エリシュカとの面会を許された折、ベルタはエリシュカに、ヴァレリーの手を拒め、と云った。ばかりか、ヴァレリーを少しでもエリシュカから遠ざけるため、モルガーヌに泣きつきさえした。
それはなにもかもすべて、この噂――王太子は早々に新しい情人に飽きてしまわれたらしい――に真実味を持たせるためだった。
本当の真実などどうでもよい、とベルタは思っている。王城のようにごくごく狭い世界では、ときに人の口の端を穢す戯言こそが物事を動かすことがある。王太子の心など、どうだっていいのだ。エリシュカを心から愛していようが、ただの好奇心から手を伸ばしただけであろうが、そんなことはどうだっていい。重要なことは彼の手からエリシュカを取り戻すことだ。それも姫さまのご帰国までに。
容易なことではないということはわかっていた。エリシュカにヴァレリーを拒ませ、モルガーヌにその手助けをさせる。たったそれだけのことで、エリシュカの身を取り戻せるはずがない。
ベルタは時期を見計らい、自ら噂を流すつもりでいた。――どうやら最近の王太子殿下は、あの新しい寵姫さまのところへはお通いになっていないそうだよ。
口さがない噂話は面白半分、やっかみ半分に勝手に広まって、やがて姫さまやツェツィーリアさまの耳にも届こう。潮時だと思われる頃合いに、私からツェツィーリアさまに頼み込むのだ。エリシュカが真実哀れなことになる前に、ともに故郷へ連れて帰ってやりたいのです、と。
自分で噂を流す必要がなかったことはありがたい誤算だった、とベルタは思った。噂の出所を辿られでもしたら厄介なことになると思っていたのだ。そもそもこんなに長いことエリシュカが王太子を拒みきれるとは思っていなかった。モルガーヌさまがよほどうまいこと立ちまわってくれたのだろうか。
「ベルタ」
少し落ち着きなさい、とツェツィーリアは云った。
「姫さまは、エリシュカはこの国にとどまったほうが幸せだろうと仰せなのです。私もそう思います」
「幸せ……?」
「そうです。この国にいれば、もしも王城のなかで暮らすことができなくなったとしても、エリシュカは街中で普通の人となんら変わることなく暮らすことができましょう。けれど国へ帰れば、あの子は賤民に戻ることになる」
あの子にとってどちらがよいか、云うまでもないことですね、とツェツィーリアは云った。ベルタは咄嗟に首を振る。
「違います、ツェツィーリアさま。それは違います」
エリシュカは故郷へ戻ることを望んでいます、とベルタは云った。
「家族とともにあることがエリシュカの幸せです。少なくとも彼女はそういう幸せを望んでいる。私はあの子の口からはっきりとそう聞いたのです」
「それはエリシュカが恵まれた暮らしを知らなかったからですよ。王太子殿下に慈しまれ、豊かに暮らしていくうちにきっとわかるはずです。ここにとどまってよかったと、そう思うようになるはずです」
違う! とベルタは叫んだ。
「それは違う。違います。どれほどの贅沢も愛情も、それを望まぬ者には無意味です。己の心が望まぬものを押しつけられることは奪われることに似て、少しも幸せなことではありません」
ツェツィーリアは深いため息をついてベルタの勢いを遮った。
「私にどうしろというのです、ベルタ。姫さま付の第一侍女とはいえ、私とて一介の使用人にすぎません。姫さまがお拒みになるものを無理強いはできぬのです」
「ツェツィーリアさまには姫さまのお輿入れにあたって、随行の者を選ぶ権限が与えられていると聞きました。それはなにも、こちらへ参るときばかりのものではございますまい」
ベルタの云いたいことを理解したツェツィーリアは、ぐっと表情を険しくした。
「国へ帰るにあたり、エリシュカを随行の下女のひとりに選んでいただければそれでいいのです。この城内で、エリシュカの立場はまだはっきりとはしておりません。たしかに冬の夜会でお披露目はされたのでしょうが、あれ以降、公の場には一度も姿を見せていない。懐妊したという話が出たこともありましたが、結局は体調を崩しただけだということになった。そこへ今度は先ほどの噂です」
「噂は噂にすぎませんよ、ベルタ」
ツェツィーリアは部下の軽率を窘める口調でそう云った。
「事実、エリシュカの部屋は相変わらず王太子殿下のご寝所のお隣から移動もしていないし、城を追い出されてもいない。王太子殿下のお心が移ろったかどうかは誰にもわからないのです」
ですが、とベルタはここで声を低めた。
「お召しがないのは事実です」
なんですって、とツェツィーリアは大きく目を見開いた。
「この数か月、王太子殿下はエリシュカをお求めになられていません」
「……なぜ?」
「それこそ私が存じ上げるわけが……」
違います、と今度はツェツィーリアが叫んだ。
「あなたがそんなことを知っているのはなぜか、と訊いているのです」
「会ったからです」
「誰に?」
「エリシュカに」
エリシュカに、とツェツィーリアは鸚鵡返しに呟いて呆然と椅子の背に凭れかかった。
「どういうことです、ベルタ」
「少し前に、モルガーヌさまを通じてエリシュカから呼び出しを受けました。王太子殿下のお庭で、ほんの短い時間ではありましたが、ふたりきりで話をする機会を作っていただいたのです」
事実に反する話だったが、この程度の嘘は仕方がない、とベルタは腹を括った。
「故郷へ帰りたいという話はそのときに聞いたのです。同時に、体調を崩して以降、王太子殿下のお召しが途絶えた、とも」
「それは事実ですか」
「はい」
自分の言葉に潜むいくつもの偽りを見抜かれぬよう、ベルタは努めて穏やかに返事をした。
ツェツィーリアは視線を落とし、深いため息をついた。ベルタの云うことが事実であれば、エリシュカは早晩寵姫の座を追われ、城を出されることになるだろう、とツェツィーリアは考える。
先ほどベルタに云って聞かせたことは、ツェツィーリアの本心だ。たとえ寵姫の座を追われることになったとしても、東国の市井に民として暮らすことができるのであれば、それはエリシュカにとっては幸いであるに違いない。
だが、ツェツィーリアには、エリシュカがそれを望まぬであろうこともなんとなくわかっていた。あの子は国へ、否、家族のもとへ帰りたいと、そう願うのかもしれない。神ツ国の賤民の多くがそうであるように、己だけが自由と豊かさを手に入れることを潔しとしないのかもしれない。
「それで?」
エリシュカはたしかに国へと帰りたがっているのか、とツェツィーリアは尋ねた。ベルタは即座に頷いた。
「もちろんでございます」
「厳しい暮らしに戻るのだとしても?」
「なんとしても家族のところへ帰りたいと」
そのように云っておりました、とベルタは答えた。
「よくわかりました」
ツェツィーリアは静かな、しかし力強い声とともに立ち上がった。
「私も少し調べてみましょう」
これは償いの機会なのかもしれない、とツェツィーリアは思った。一度は己の手で死地へと送った娘を、自らの手で救い出すために神が与え給うた機会であるのかもしれない。
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