31

 テネブラエ、と薄闇のなかに呼びかけると、鼻を鳴らすような返事が聞こえた。エリシュカは小さな灯りをひとつ掲げて、躊躇いなく囲いのなかへと足を踏み入れた。

 揺れる灯りを映す漆黒の瞳が、エリシュカをまっすぐに見つめてくる。エリシュカは灯りを持っていないほうの腕を延ばし、テネブラエの首筋をやさしく撫でた。

「なかなか来られなくて、ごめんね」

 本格的な冬がはじまる前に体調を崩したエリシュカが、かつてのように早朝に厩舎を訪れることができるようになったのは、ここ最近のことである。

 調子のよいときを見計らって、できる限りテネブラエの世話をしようとしてはみたものの、高熱や眩暈に苦しみながらでは、それにも限界があった。

 現在のエリシュカを取り巻く人々は、彼女に対して驚くほど過保護だ。モルガーヌもデジレも隙あらば彼女を寝台に押し込めようとし、食事どきのスプーンさえも持たせようとしないような有様である。

 侍医も彼の助手である歳若い医官も、エリシュカの小さなくしゃみひとつで、天地がひっくり返りでもしたかのような大騒ぎをして、やれ薬湯を飲めだの、やれ安静にしていろだのと、やかましいほどに云い立てる。

 ヴァレリーは、そんな彼らの言葉をなんでも真に受け、ますますエリシュカのことを部屋から出さなくなってしまった。

 まるで幽閉されているかのようだわ、とエリシュカは思った。そんなふうに思ってはいけない、と何度も自分を諌めはした。だが、いまの状況を冷静に考えてみると、これはどうあっても幽閉であり、よくてせいぜい軟禁といったところである。

 堅牢な鉄格子の代わりに厚い硝子窓が張り巡らされ、冷たい石の床と壁の代わりにやわらかな寝台と絹のクッションに囲まれた牢獄は、それでもそこが獄舎である以上、快適な場所になりえるはずがなかった。

 こうしてテネブラエの世話をするために厩舎を訪れることさえも、エリシュカに一番甘いモルガーヌに頼み込まなければ許してもらえない。デジレはエリシュカの望みなどまるで取り合ってはくれないし、ヴァレリーは気遣いと不安の表情のなかに露骨に拒否の色を滲ませる。あんな顔をされては、早朝の厩舎に出向きたいなどと云えるはずもない。

 それに、とエリシュカため息をついた。いまのわたしは、アランさまにこのような我儘を許していただける立場にはないのだ。そのことは弁えなくてはならない。

 早朝に部屋を空けることができるだけの体力が回復してきたいまもなお、エリシュカはヴァレリーの腕を拒み続けていた。否、正しくは拒んですらいない。

 ヴァレリーがエリシュカを求めてくることはないからだ。あの悪夢のような夜までは毎晩続いた閨の務めは、あれっきりぱたりと途絶えていた。アランさまはいったいどういうおつもりでいらっしゃるのだろう、とエリシュカは思った。

 わたしに飽きてしまわれたのなら、さっさとお払い箱にして侍女なり下女なりに戻してしまえばよい。あるいは王城から追い出してもよいのだ。

 追い出されたところで行くあてなどあるはずもないが、街でなにか仕事を見つけて春を待ち、姫さまとともに国へ帰ることくらいはできるだろう。故郷までの長い旅には下働きをする者が必要だし、もともとはそれこそがわたしの仕事だったのだから。

 ヴァレリーはなにも云わず、なにもせず、ただエリシュカを閉じ込める。エリシュカが無事に国へ帰るためにはヴァレリーとの閨があってはならず、そのことだけを考えれば事態はエリシュカの望むとおりであると云えた。しかし一方で、彼の寵姫であるというエリシュカの立場を考えれば、いまの状況はあまりにも不自然である。

 テネブラエが大きく鼻を鳴らした。エリシュカは、いつのまにか愛しい青毛馬の首筋を抱くようにして鬣に埋めてしまっていた顔を上げた。

「ごめん。いますぐはじめるから」

 エリシュカは手に持っていた灯りを、馬具を置くために囲いの壁に板を打ちつけてあるだけの簡単な棚の端に乗せ、足元の汚れた藁を集めるべく箒を手にとってせっせと動きはじめた。

 こうして身体を動かしていれば、よけいなことを考えずにすむ、とエリシュカはなかば自棄になって、テネブラエの囲いのなかを掃き清めていった。貧しく厳しいものではあったが、難しいことの少なかった、かつての暮らしを思い出す。

 アランさまのことはたしかにお慕いしている、とエリシュカは汚れた藁を手早くまとめて麻袋のなかに押し込んだ。やさしい笑みも、楽しい言葉も、過剰なほどの気遣いも、華やかな容姿や強引にすぎる腕までも含めて、エリシュカはヴァレリーに対し、ふたたび淡い思慕を抱くようになっていた。

 一度壊れた想いは、その後の穏やかな時間によってゆっくりと回復してきていたのだ。

 それでも、いまの己の立場――求められるべきものを求められることもなく、ただ自由だけを奪われて、贅沢に甘やかされる暮らし――はエリシュカにとって不可解でしかなく、早く解放されたいと願う心にも偽りはない。

 ヴァレリーとの最後の閨からはすでに五か月近くが過ぎていた。もしもこの先もアランさまに求められることがなければ、わたしは姫さまやベルタさまたちと一緒に帰郷できるはずだ、とエリシュカは考えている。あとひと月、無事に過ごすことができれば――。

 シュテファーニアの動向は、エリシュカにはいっさい知らされていなかった。帰郷の日取りはおろか、ヴァレリーとの離縁が正式に決まったことすら、はっきりとは教えられていない。エリシュカの前ではみな、シュテファーニアという正妃の存在などはじめからないものであったかのように振る舞うのだ。

 以前、湯浴みを手伝ってくれた際に、シュテファーニアの帰郷についてエリシュカに漏らしてしまった下女は、その日を境にぱったりと姿を見せなくなった。おそらくは口の軽さを咎められ、罰を受けたのだろう。

 最近、エリシュカの身の回りを整える役についたクロエという侍女は、非常に口が堅く、そのうえ無駄口もたたかない。モルガーヌやデジレの信頼が篤いだけのことはある、とエリシュカは思う。

 テネブラエが前足で床を蹴った。ふたたびぼんやりとしていた自分に気づき、エリシュカは慌てて麻袋に詰めた藁を表へと運び出そうとした。顔を上げた拍子に、灯りが届かずに薄暗い陰となっている壁沿いにも藁の塊が落ちていることに気づき、エリシュカはそこへ何気なく歩み寄った。

 しゃがみ込んでかき集めてみれば、藁の下になにやら布のようなものがある。エリシュカは訝しく思いながらあらためて藁を除け、その布を手に取った。

「わたしの……!」

 驚きは思わず声となってこぼれ落ちた。エリシュカの手のなかには、彼女がかつて身につけていた侍女の仕着せがあった。乏しい灯りにかざし、袖口の解れ具合や裾のまつり方を確かめ、それがたしかに自分のものだと理解できると同時に、エリシュカはその濃茶色の仕着せを強く胸に抱きしめていた。

 それはエリシュカ自身にすら理解しがたい感情だった。

 シュテファーニアに仕える侍女として働いていたころ、エリシュカの暮らしは決して楽なものではなかった。神ツ国にいたときのように、休みもなく、食事もろくにとれずにひたすら働きづめであったときよりは幾分よかったものの、仕事の内容は厳しく多岐にわたるものであり、さらにほかの侍女たちからの性質の悪い厭がらせにも耐えなくてはならなかった。

 あのときが幸せであったとはどうしても思えないのに、とエリシュカはきつく目蓋を閉じた。なぜこうも懐かしく、そしてあろうことか、戻りたいとさえ感じるのだろう。

 かつての自分の服を抱きしめたままじっと動かなくなってしまったエリシュカを気遣うように、テネブラエが彼女の首筋に顔を寄せた。

 テネブラエの穏やかな呼吸を肌で感じているうちに徐々に落ち着いてきたエリシュカは、やがて顔を上げた。テネブラエの首筋を撫でながら、握り締めた仕着せをじっと見つめる。――いったいなぜ、この仕着せがこんなところに。

 誰が、と口に出して呟いて、こんなことができる者はごく限られていることにすぐに気づいた。わたしの仕着せを持ち出し、テネブラエの囲いのなかに隠すこのできる誰か。

 ベルタさま、とエリシュカはまた呟いた。

 エリシュカの想像したとおり、テネブラエの囲いのなかにエリシュカの仕着せを隠し、それがひそかにエリシュカの手に渡るよう仕組んだのはベルタである。モルガーヌがエリシュカの螺鈿の小箱を取りにベルタらのもとを訪れ、エリシュカが王太子妃付侍女に戻ることがないとわかった朝、ベルタはエリシュカの仕着せを彼女の部屋に戻さずに手元に置いておいたのだ。エリシュカの部屋に戻しておきなさい、とツェツィーリアから託された仕着せを自室に隠しておくことは、ベルタにとってそれほど難しいことではなかった。

 ベルタさまは、いったいなんのためにこんなことをなさったのだろう、とエリシュカは思った。わたしがこの服を着る機会など、もうありはしないというのに――。

 ありはしない――。否、あるのだ。この服に袖を通す機会が、もう一度。

 姫さまとともに帰るときに、とそこまで考えたエリシュカの耳に、不意に何人かの男たちの声が届いた。朝の挨拶もそこそこに早速に仕事の報告をしあう厩番たちのいくつもの声は、すっかり聞き慣れたそれだ。

 エリシュカは背筋を伸ばした。この仕着せを彼らに見つけられてはならない、と咄嗟に思ったのは、エリシュカがベルタの思惑に気づきかけていたせいだ。これは、わたしが国に帰るために必要であると、ベルタさまが守ってくださったもの。そしていまは、己の手で守るべきもの。

 エリシュカは素早く仕着せを手繰って小さく丸めると、あたりに散らばっていた藁と一緒に麻袋のなかに突っ込んだ。テネブラエに素早く銜を噛ませ、鞍をつけると、麻袋を小脇に抱えて囲いから足を踏み出した。

「エリシュカじゃねえか」

 ひとりの男が驚いたように声を上げると、周りにいた厩番たちからも口々に、なにしてるんだ、こんなところで、とか、えれえひさしぶりじゃねえか、とか、元気だったか、とか、アランさまとはうまくやってんのか、とか、それはもう答えきれないほどに声をかけられた。

 粗野でありながらもあたたかみのあるそうした声に、エリシュカは自分の本当の居場所を思い出したような心地になる。しかし、かけられた声のすべてに返事をすることのできない彼女は、微笑みつつも曖昧に頷きながら厩舎を出た。

 汚れた藁と侍女の仕着せを詰めた麻袋を抱え直し、エリシュカは男たちの目がなくなるとすぐにテネブラエに跨った。エリシュカが手綱を握るやいなや、テネブラエは躊躇いもなく駆け出した。腹を蹴る必要などありはしない。

 エリシュカは片腕で手綱を操りながら、もう片腕で麻袋を抱え直した。毛織の外套の襟元から、早春の朝の冷たい空気が入り込んでくる。エリシュカは小さく身震いした。

 ベルタさまは、これをいつテネブラエの囲いのなかに隠してくださったのだろう、とエリシュカは思った。わたしが最後に厩舎を訪れたのは二日前のことだ。ここのところ体調が安定しているので、できる限り顔を出すようにしている。ベルタさまは、そんなわたしの様子をご存知なのだろうか。

 きっとそうなのだ、とエリシュカは腕のなかの麻袋の重みに確信する。わたしはひとりではなかった。先の見えない牢獄に閉じこめられてはいたけれど、厚い壁の向こうには、わたしのことを考えてくれている人がいたのだ。――ベルタさま。

 彼女の厚意を無にしてはならない、とエリシュカは思った。この仕着せはなにがなんでも隠しとおすのだ。決して見つからぬよう。決して誰かの手に渡らぬよう。

 これはわたしを守ってくれる大切な縁なのだから。


「お嬢さま」

 テネブラエを引いて厩舎に戻ったエリシュカを待ち受けていたのは、彼女の帰りが遅いことを案じるあまりに表情を険しくしたモルガーヌだった。

「どちらへ行かれていたのです?」

 ごめんなさい、とエリシュカは詫びた。

「ひさしぶりにテネブラエを駆けさせてやりたくて」

「おひとりでですか」

「いけなかったですか」

「早駆けに出かけられるときには、必ず殿下か警護騎士とともに、とあれほど申し上げたではありませんか」

 ごめんなさい、とエリシュカはまた云った。

「今朝は急に走らせてやりたくなったものだから……」

 テネブラエを囲いのなかへと戻し、その鼻面を撫でてやりながらエリシュカは云った。

「それよりも、どうかしたの、モルガーヌ」

「お嬢さま。お急ぎくださいませ。お部屋で殿下がお待ちになっていらっしゃいます。お嬢さまのお戻りが遅いと苛立っておいでなのです」

 エリシュカの眉間に皺が寄った。知らず、小さな拳が握られた。

「朝は厩舎に行くと……」

「大切なお話があるとのことでございます。どうかお急ぎを」

 強い口調で云い切られ、エリシュカは言葉を失った。かすかに揺れる銀色の頭を気の毒なものでも見るかのように見下ろしていたモルガーヌは、それでも表情を緩めたりはしなかった。

「殿下のご機嫌を損ねれば、こうして馬に会いに来ることもできなくなるのですよ」

 わかりました、とエリシュカは俯いたまま、そう返事をした。握った拳のやり場はどこにもない。

 お急ぎください、とモルガーヌはもう一度エリシュカを急かした。気の毒だとは思うけど、という思いを口にすることはない。こればかりはこの私にもどうして差し上げることもできない。

 それに、とモルガーヌはエリシュカの背中に手を添えて城内へと導きながら思う。今度ばかりは殿下のお振る舞いにも道理がある。

 ヴァレリーが云う大切な話とやらの内容は、モルガーヌにも容易に想像がついた。閨のことに違いない。

 エリシュカが体調を崩して以来、いっそ健気なほどに身を慎んできたヴァレリーである。だが、ここへ来て一転、これまで見せなかった苛立ちを募らせはじめていることに、モルガーヌはもちろん気づいていた。

 オリヴィエを味方に引き込んでまで、エリシュカの身を守ろうと画策したモルガーヌだったが、こうも長引くとは思わなかった、と最近では自身の計算違いに舌打ちをしてもいた。モルガーヌの腹積もりでは、どんなに長くともふた月ほどでふたたびお閨の求めがあるはずだと読んでいたのだ。――あのケダモノがそんなに長いこと我慢できるはずがない。

 モルガーヌの予想に反してヴァレリーは耐えた。耐えに耐えたと云ってもよい。

 なんだ、やればできるんじゃないの、などと、ふた月が過ぎたばかりのころにはうっかり感心さえしていたモルガーヌだが、三か月、四か月と日が重ねられるにつれ、徐々に不安を覚えるようになってくる。もしや、ルクリュさまのおっしゃるとおり、殿下はお嬢さまに飽きてしまわれたのだろうか。

 でも、そのわりには毎晩寝所をともにはするし、日中だってひまさえあれば顔を見るためだけに部屋に通ってもくる。いったいどういうことだろう、とモルガーヌはオリヴィエに探りを入れることにした。

 エリシュカさまがお許しくださるまでは、ということのようだ、とオリヴィエは、心底呆れた、と云わんばかりの表情でそう云った。エリシュカさまが自ら殿下をお求めにならない限り、手出しはしないとお決めになったのだとか。

 あんぐりと口を開けたモルガーヌを、なにやらおもしろいものでも見るような目で眺めてから、オリヴィエは、そんな顔をするものではない、と云った。殿下とて、人の子。獣ではないのだから。

 いや、それはどうだろう、とモルガーヌは思ったが、その場では黙っていた。たしかにここ最近の殿下の振る舞いは、人たるにふさわしいと云えなくもない。

 だが、獣も人になれることが証明できてよかったではないか、などと暢気なことを云っていられる期間はそう長くは続かなかった。王城内によからぬ噂が出回るようになったためである。

 曰く、王太子殿下の新しい情人は、どうやら早々に飽きられてしまったようだ、と。

 もう半年もお渡りがないそうだ、とか、身体だけの女では飽きられるのも早いのだろう、とか、城内の者たちの妬みや嫉みを含んだ悪意は、ほんのわずかの事実を孕みながらあっというまに王城中に広まってしまった。

 ヴァレリーがエリシュカを求めていないことは事実であったので、ふたりの身近にいる者たちにも強く否定することができなかった。あれだけ強い執着を見せていたヴァレリーが、エリシュカから許されないというただそれだけの理由で、何か月も我慢を重ねたりするだろうか。ヴァレリーは本当にエリシュカに飽きてしまったのかもしれない――。

 やはり下賤の者に王太子のお相手など無理だったのだ、という悪意のある声に頷くつもりは、モルガーヌにはない。だが一方で、エリシュカに対しては、できるだけ早く殿下に閨を申し出てもらいたいと思っていた。

 いまのエリシュカには身分がない。彼女が王城の内に部屋を持ち、優雅に暮らしていくことができるのは、ひとえに王太子の寵姫であるためである。寵を失い、ただの女となれば、そう遠からずエリシュカはいまの地位を追われることになる。城にとどまりたいと願うのであれば、それがどんなに苦痛を伴うものであれ、エリシュカはヴァレリーに身を捧げねばならないのだ。

 まさかエリシュカが、かつての主とともに神ツ国へ帰りたいと願っているなどとは、露ほども思わぬモルガーヌである。この国で望みうる限り最高の男に愛され、そればかりか、これまでからは想像もできなかったほどの贅沢な暮らしができるのだ。おとなしい気質のお嬢さまだけに、強引で身勝手な王太子殿下にほんの少し戸惑っているだけで、やがては心を開き、寄り添ってくださるだろう、というのがモルガーヌの内心であった。

 気の毒なことがあるとすれば、エリシュカにはそう長い猶予が与えられない、ということだろう。ヴァレリーの寵を受けることを存在意義とする寵姫は、子でもいない限りはそう長く城にとどまることを許されない。きちんとした地位を与えられ、側妃となってしまえば話は別だが、いまはまだ――正妃であるシュテファーニアが帰国するまでは――それも難しい。

 むろんモルガーヌとて、まったくの無為でいたわけではない。お身体がよほどおつらいということでもない限りそろそろ、と幾度かうながしはしてみたのだ。だが、そのたびにエリシュカは怯えたように首を横に振るばかりだった。

 どうしてもあの夜のことを思い出してしまうの、アランさまが怖い、と細い声を震わせて答えられてしまえば、エリシュカのことが可愛くてたまらないモルガーヌにそれ以上の無理強いなどできるはずもない。身分のない者に厳しい王城を知っていても、どうすることもできなかった。

 でも、今度ばかりはお嬢さまも逃げるわけにはいかないだろう、とモルガーヌは思った。エリシュカの肩から外套を脱がせ、そのまま城内を進んでいく。エリシュカの足取りは決して遅くはなかったが、ヴァレリーの苛立ちを知って焦るモルガーヌにはいかにもゆっくりとしたものに感じられてならなかった。

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