30

 いよいよお別れの日が近づいてまいりましたね、とオリヴィエに云われて、ヴァレリーは、なにがだ、とペンを動かす手を止めることなく問いかけた。

「なにがだ、じゃありませんよ」

 呆れ返ったような物云いは、すっかり聞き慣れたそれである。

「妃殿下ですよ、妃殿下。お発ちになる日が近づいてまいりましたでしょう」

 ああ、とヴァレリーはまるで気のない返事をした。

「まだいたのか、あの女は」

「いたのか、じゃありませんよ」

 まったく妃殿下もお気の毒なことで、とオリヴィエは云った。無駄口を叩きながらも、手許ではヴァレリーの署名済みの書類をしっかりと手繰り寄せ、次の一枚を差し出そうとしている。

「おまえはいつからあれの味方になったのだ?」

「敵も味方もありません。ただお気の毒だと申し上げただけです」

「気の毒なものか」

 高慢で高飛車で自分のことしか考えていない女だ、とヴァレリーは吐き捨てた。それはあなたも似たり寄ったりですよ、殿下、とオリヴィエは思ったが、口には出さなかった。

「ときに殿下、エリシュカさまのことはどうなさるおつもりです」

「どう、とは?」

 寵姫の名を出した途端、仕事の手が滞るのだから正直なことだ、とオリヴィエは思った。ヴァレリーは書類をめくる手を止めて、じっと部下を見上げている。

「初冬の夜会の折に体調を崩され、その後は殿下のお召しもぱったりと途絶えられたご様子。殿下のお心が変わったのではないか、ともっぱらの噂のようですが……」

 ヴァレリーの眉間に深い皺が刻まれた。――厭なところを突いてきやがる。

「オリヴィエ。おまえが城内の噂話などに耳を傾けるとはな」

 私とて貴族の端くれです、とオリヴィエは肩を竦めた。貴族とは噂を糧に生きるものですよ。殿下もよくご存知でしょう。

「おれのことならば、おまえが一番よく知っているだろうに」

「私にも見えるものと見えないものとがございます」

 ふん、とヴァレリーは鼻で笑った。

「おれの心は変わらぬ」

「さようでございますか」

「なにが云いたい?」

 いえ、とオリヴィエはわずかに躊躇ったのち、やはり、とばかりにふたたび口を開いた。

「殿下はどうしてもエリシュカさまをお望みなのですか」

 ヴァレリーはオリヴィエをまっすぐに見つめた。

「どうしても、代わりの女性を探すわけにはいかぬのですか」

「代わりなどいない」

 エリシュカの代わりになる女などいないのだ、とヴァレリーは云った。そして手にしていたペンを置き、少し休むか、と部屋の片隅に置かれてある珈琲のポットを指差して見せる。いま以上に仕事が滞ることを不安に思ったオリヴィエが首を横に振ると、ヴァレリーは苦笑いを見せた。

「案ずるな、午後もこのまま続ける」

 するべき仕事を疎かにはしない、と云ったヴァレリーに、では、とオリヴィエは頷き、侍女を呼ぶことなく手ずから珈琲をカップに注ぎわけ、ひとつをヴァレリーに手渡した。主君と彼に仕える側近でありながら、友人同士でもあるふたりにしかできない、ごく気安い振る舞いだった。

 カップを持って立ち上がったヴァレリーは、大きく開け放してある窓の傍へと歩み寄った。風はまだ冷たいが、春の気配を含んだやわらかな陽光は、ヴァレリーの金髪を眩いほどに輝かせた。

 珈琲を口に含むと、しかしすっかりぬるくなったそれは酸味を含んだ苦味でヴァレリーの感覚を刺激する。目を細めて庭を見下ろせば、そこでは庭師がふたり、じきに春を迎える庭園を整えるために忙しく働いていた。

 あの夜会以来、とヴァレリーはため息をついた。

 エリシュカの様子はいまだに思わしくない。ヴァレリーが戯れに使った媚薬のせいで体調を崩し、その床上げに十日もかかったことがそもそものきっかけだった。その後も発熱やら嘔吐感やらを頻繁に訴え、すわ懐妊かと城内が浮足立ったのも束の間、ひどく重たい月の障りに苦しんだのちは、月がめぐるごとに数日も寝付くようになってしまった。

 王太子付筆頭侍女デジレや、正式にエリシュカ付侍女としたモルガーヌらの言葉を借りれば、強い薬のせいで体内の均衡が崩れてしまったことが原因だという。――まったく殿下が無体なことをなさるからですよ。

 自分のせいだ、と云われてしまえば、もうひと言たりも云い返すことのできないヴァレリーである。あの夜会の席で、従弟であるエヴラールに対するいわれのない嫉妬に駆られ、エリシュカに強い媚薬を使ってしまった。

 薬のせいで理性を失い、乱れに乱れた彼女との情事は、ヴァレリーに痺れるような快感と深い罪悪感をもたらした。背徳に満ちたあの戯れを取り消せるものなら取り消したい、とヴァレリーは悔やむ。

 いったいなんだっておれは、エリシュカの心を疑うような真似をしたのだ。あの純真な娘には、このおれに抱かれながらほかの男を想うことなどできるはずもないというのに。

 あの夜からヴァレリーはエリシュカの身体に触れていない。手を握り、頬や額にくちづける以外は、いっさいを自分に許していなかった。

 エリシュカのもとへは毎日通っている。ただ隣で眠るだけではあるが、夜は必ずともに過ごす。よほどエリシュカの加減の悪いときでない限り同じ寝台で眠り、朝もともに目覚める。日中も――そんな幸運は滅多にないが――時間の許すときは、できる限りそばにいるようにしている。

 これほど近くにいるのに彼女の身に触れられないとは、と己の慾に苦しめられたのは最初の数日だけだった。

 高い熱を発したエリシュカが夜中に荒い呼吸を繰り返して魘されていれば、すぐにでも代わってやりたいと願いながら、冷たい氷水に浸した布を額にあてがってやった。嘔吐に苦しむ彼女が苦しさのあまりに涙を零せば、伏して詫びたい気持ちを抑えながらその背をさすり続けてやった。

 このままでは殿下までお身体を壊してしまいます、どうかおひとりでゆっくりとお寝みくださいませ、とエリシュカが同衾を拒んだ折には、一晩中そなたを思って苦しめと云うのか、と縋りついて許しを乞いさえした。

 冬の寒さが緩むころになって、ようやくエリシュカは落ち着きを取り戻してきた。相変わらず月の障りには苦しむが、そうでないときには一日じゅう床を離れていられるようにもなり、食欲も戻ってきたようだ。

 それでもヴァレリーはエリシュカには触れていない。エリシュカが自ら許してくれるまでは、と心に誓っているからだ。

「だいぶ暖かくなってきたな」

 暖かい時間がもう少し長くなってきたら、エリシュカを庭へ連れ出してやろう、とヴァレリーは思った。

「オリヴィエ。おまえの云いたいことはわかっているつもりだ」

「殿下」

 王太子の忠実なる部下は控えめに口を開いた。

「私は、もう以前のようには案じてはおりません。殿下のエリシュカさまへのお気持ちは、この冬のあいだにとくと思い知らされましたから」

 殿下のああしたお姿は、この私にとりましてもじつに新鮮でございましたし、とオリヴィエは笑いを含んだ口調で云った。

 己の慾を堪え、恋人を気遣うヴァレリーの姿は、それまでの我儘勝手な彼しか知らなかったオリヴィエにたしかな衝撃を与えたのだ。あの殿下が他人に、しかも女相手に気を遣うなどと――。

 はじめは、ただの気まぐれであろう、と考えた。エリシュカを恋しく思っていることはたしかなようだったし、そんな気持ちを抱くことさえはじめてであろうヴァレリーが、らしくもなく相手に気を遣っているのだろう、と。

 だが、ヴァレリーは慾を堪え続けることの惨めさなどおくびにも出さずに、エリシュカを気遣い続けた。日々の見舞いに添い寝はもとより、食事は朝も昼も夜も可能な限りともに過ごし、献立にも気を配る。侍医の診察に立ち会い、療養にあたっての留意点を真剣に学ぶ。オリヴィエがモルガーヌと交わした約束――寵姫のお身体に多少は配慮すべきでは、とヴァレリーを諌めてはくれまいか、というあの妙な頼みごと――など、口にするまでもなかった。

 数多の政務や軍務をひとつも疎かにすることなく、寵姫に尽くすヴァレリーの姿を見続けるうちに、オリヴィエだけではなく周囲の者も、王太子の心に気づきはじめた。――殿下は、真実、心底からあの寵姫を想っておいでなのだ。

 英雄色を好む、という言葉のとおり、こと女性関係にかけては破廉恥きわまりなかったヴァレリーのことだ。城内のほとんどの者たちが、エリシュカのことを、王太子の多少毛色の変わった恋人のひとりにすぎないのだろう、と考えていた。放っておけばやがては飽きられるはずだ、と。

 ヴァレリーの耳にもそうした声は届いていたに違いない。まだ飽きぬのか、とあからさまな揶揄を受けることも珍しくはなかったからだ。

 殿下の本気に早いうちから気づいていたのは、彼のそばにいた侍女たちと父親である国王陛下、それから妙に鋭いところのある殿下の従弟、エヴラール殿下だけだった、とオリヴィエは思う。この俺も気づくことができなかった。

 そう、王太子付侍女であるモルガーヌ・カスタニエの注進を受けるまでは、とオリヴィエはカップに口をつけて珈琲を啜った。猫舌のオリヴィエにはちょうどよい温度であるが、殿下にはだいぶ温かろうな、と彼はふと視線だけを主に向けた。

 エリシュカの身がきちんと快復するまでは、彼女にヴァレリーを近づけるな、とモルガーヌは云っていた。そんなことできるはずもない、と思っていたんだがな、とオリヴィエは自嘲する。俺はどうやら殿下の心を見誤っていたらしい。

「オリヴィエ、おまえは……」

 ふとヴァレリーが呟くようにそう云った。オリヴィエはすっと姿勢を正し、はい、とだけ返事をした。

「おれがただ純粋な想いだけで、エリシュカを求めていると、そう思うか」

「どういう意味でしょう?」

 オリヴィエは思わず問い返してしまった。ヴァレリーは、よく晴れているだけの空のいったいなにがそんなにおもしろいのか、無言で窓の外を見つめ続けている。

「殿下……?」

 オリヴィエが呼びかけても、ヴァレリーはじっと佇んだまま身じろぎもしなかった。

「そうであったら、どんなによかったか」

 ヴァレリーが口を開いたのは、実際にはわずかなのちのことであったのかもしれない。だがオリヴィエはそのごく短い時間で、自分とヴァレリーとのあいだに深い溝があるかのような錯覚に囚われた。――殿下の心がまるで見えぬ。

「違うのですか」

「違う」

「おそばにエリシュカさまを置かれることには、なにか深い意味があると、そういうことですか」

「深いかどうかはわからぬが、意味はある」

 どんな、とオリヴィエは性急に問いかけた。

「異国の賤民の娘を御身のお近くに置かれることに、いったいどんな意味があるというのです」

「オリヴィエ」

「はい」

「ひとつだけ云っておくことがある。この先なにがあろうとも、おれがエリシュカを手離すことはない。絶対に、だ。エリシュカが望まずとも、おまえが望まずとも、おれはそうする。そうすることが必要だからだ」

 オリヴィエに顔を向けたヴァレリーは、そこでうっすらと微笑みさえしてみせた。

「だから、おれとエリシュカを引き離そうとする者は誰であれ許さぬ。このおれに、ひいてはこのラ・フォルジュに謀反しようというのならば、話は別だがな」

 エリシュカに対する己の執着が、ただひとえに恋心ゆえのものであったならばどんなにかよかっただろう、とヴァレリーは思う。邪な肚など捨て、あの可愛らしい存在を心から慈しむことができたなら、どれほど幸せだったことだろう。

 おれにはそんな真似は許されない、とヴァレリーは奥歯を噛みしめた。王太子であるおれには、誰かを恋しく想い、その想いだけを理由に、その者の傍にいたいと願うことは許されない。

 エリシュカが体調を崩してからすでに数か月になる。その最初の原因がほかでもない己の愚かさであると自覚しているヴァレリーは、エリシュカが許しを与えてくれるまで、彼女の身に触れるつもりはなかった。

 だが、こんなに長くかかるとは思わなかった、と歯噛みする己をヴァレリーは心のなかで嘲笑う。――なにが長くかかるだ、愚か者め。拒まれるのがあたりまえなのだ。おまえの軽率と短慮が、エリシュカの心と身体を深く傷つけたのだから。

 ああ、もう二度と彼女を傷つけるような真似はしたくないというのに、とヴァレリーは思った。このまま時間ばかりが過ぎていくようなことになれば、おれはまたエリシュカを傷つけなくてはならん、というため息をどうにか堪え、ヴァレリーは空になった珈琲のカップをオリヴィエに差し出した。

「もっとお飲みになりますか」

「いや、もういい」

 殿下、とふたりぶんのカップを片づけたオリヴィエが呼びかける。

「いったいなにをお考えなのですか」

「なにを、とは?」

「エリシュカさまをお傍に置かれることには、なにか意味があるのでしょう。なにか理由が。それは私にもお話しいただけないことですか」

 ヴァレリーに向けられたオリヴィエの眼差しは真剣そのものだった。オリヴィエはヴァレリーの第一の側近である己を誇りに思っている。そしてそれは、彼の生きる意味でもあった。ヴァレリーの信を失うことは、オリヴィエにとって死にも等しい。

「すまぬ」

 ヴァレリーは短く答えた。

「おまえに咎のあることではない。ただ、いまはまだ時期ではないのだ。許せ」

 王太子としては最大限の謝罪に、俯きながら、いえ、と答えたオリヴィエは、そういえばあのとき、エヴラール殿下にも同じことを云われたな、と思い出した。――われら、ラ・フォルジュがルクリュの者を蔑ろにするはずがないであろう。

 オリヴィエがヴァレリーを疑う理由はなにもない。ヴァレリーはできうる限りにおいてオリヴィエに対し、誠実であろうとしている。そのことはオリヴィエにもよくわかっている。

 信じるしかない、とオリヴィエは思った。なんであれ俺は、ただ殿下を信じるしかない。――たとえ、いまのように殿下の心がまるで見えずとも。

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