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 本当のことをお教えください、と友情に篤いベルタはそう云った。あんなに窶れて、王太子殿下はやさしくしてくださるとエリシュカは云ったけれど、そんなこととても信じられません。

 規則に触れないぎりぎりの時刻とはいえ、約束もない相手の部屋を突然訪ねてくる無礼や、言葉遣いの荒っぽさを云々するよりも先に、モルガーヌは己の襟首に掴みかからんばかりに迫ってくるベルタの迫力に圧倒されてしまった。

「もともと華奢な子だったけど、あんなふうに顔色を悪くしていることなんかなかった。ここよりずっと寒い神ツ国にいたころだって、あの子は滅多なことでは風邪をひいたりなんかしなかったし、ましてや熱を出すなんてこともなかったんです。それが、ふた月もしないうちにあんなふうに弱ってしまって、王太子殿下はあの子にいったいなにをさせているんですか」

 とにかく座ったらどうかしら、とモルガーヌはたじたじとなりながらも、どうにかベルタを落ち着かせようと試みた。

「お嬢さまはこの王城での暮らしに不慣れでおいでなのです。淑女としての勉強や殿下のお相手もありましたし、そういった諸々の緊張が夜会を終えられて一気に解け、気が緩んだのでは?」

「気が緩む……?」

 座ったらどうか、という勧めに従う気などまるでないベルタは、相変わらず突っ立ったまま片眉を吊り上げてモルガーヌを睨んだ。

「エリシュカが気を緩めるなんてことがあると思いますか。あの子が緊張を覚えることなく笑っていられるのは故郷にいる家族の前でだけです。長いこと友だちだった私の前でも、あの子は簡単に気を緩めたりはしない」

 悲しいかな、それは動かしがたい事実だった。どれだけたくさんの言葉や、やわらかな笑みを交わそうとも、ときに涙を見せあおうとも、エリシュカの心の奥深くには、ベルタが足を踏み入れることの叶わない場所がたしかに存在している。ベルタがさりげなくその場所に手を伸ばすと、エリシュカは穏やかに、しかしきっぱりとその手を拒む。――あなたにわたしの気持ちはわからないわ。わかるはずがない。

 わたしの気持ち、とエリシュカが呼ぶそれ――はっきりと言葉にされたことはないが、しかし彼女が心の奥深くに隠し持っているそれ――は、云い換えればすなわち賤民である者すべての想いである。長く虐げられ続けている歴史を持つ彼らは、誰かに容易く心を許したりしないよう、自らに強く云い聞かせながら育つ。

「ましてや王太子殿下やモルガーヌさまの前で、あの子が気を緩めたりなどするはずがないのです」

 なるほど、とモルガーヌは思った。エリシュカの臆病とも云えるほどの物慣れぬ態度は、つまりはそれが理由か、と気づいたのだ。

 ヴァレリーの寵姫となってからすでに二か月ほどが過ぎたいまになっても、エリシュカは相変わらずモルガーヌにもデジレにも、さらに云えばヴァレリーにさえも慣れた様子を見せることがない。体調を崩し臥せっていた折にさえも、ヴァレリーの訪いや手ずからの看病には大袈裟なほどに恐縮していた。

 だからこそあの変態はますます彼女に夢中になる、とモルガーヌは思う。どれだけ長い時間をともに過ごしても、どれほど深く身体を繋げても、あってはならいほどの無体を強いても、いっかな己のものになったという気がしないのだろう。エリシュカの心のすべてを手に入れたい、と躍起になっているのだ。

「なにがあったのですか、モルガーヌさま」

 胸の前で指先を強く組み合わせ、ベルタはモルガーヌに縋った。モルガーヌは軽く息をついてから、首を横に振った。

「なにもありませんわ、ベルタさま。これまでのお疲れが出たのではないか、と侍医どのもおっしゃっておいでです。滋養のあるものを召し上がっていただき、ゆっくりと静養なさっていただくことがなによりだと……」

 わが国がぜひともその正体を隠しておきたいと考える変態鬼畜王太子が、あなたの大切な友人に一服盛ってやりたい放題やってしまったんです、とは口が裂けても云うことはできない。モルガーヌはあたりさわりのない言葉で、ベルタを核心から遠ざけようと試みた。

 お疲れが、とモルガーヌの言葉を口先で繰り返しながら、なにがあったかはこの際不問に付そう、とベルタは考えた。ここで下手に問い詰めてモルガーヌの機嫌を損ね、本来の目的を遂げ損ねるわけにはいかない。

「モルガーヌさま」

 先ほどよりはだいぶ穏やかな声音でベルタが云った。

「ひとつだけ、エリシュカのことでお願いがあるのです」

「お嬢さまのことで?」

 ええ、とベルタは頷いた。

「モルガーヌさまにしかお願いできないことなのです」

 モルガーヌはかすかに眉をひそめた。いったいなにを云いだすのだろう、この子は。私にしか頼めないことなど、そうあるはずがない。

「エリシュカさまには静養が必要だと、モルガーヌさまは先ほどおっしゃいましたが……」

 ベルタが言葉遣いをあらためたことに気づいたモルガーヌは、ますます眉間の皺を深くした。どうやらひどく厄介なことを云い出すつもりでいるらしい。

「それがなにか?」

 モルガーヌの声は自然と硬くなった。ええ、とベルタは頷く。

「王太子殿下とのお夜伽をしばらくお控えいただけるよう、ご配慮いただけないかと……」

「なんですって?」

「差し出がましいことを申し上げているということは重々承知しております。ですが、エリシュカさまのお身体を少しでも思ってくださるのであれば、ぜひともお聞き入れいただきたいのでございます」

「いったい、どういうことです?」

 昼間お話ししましたこととも多少は関係がございますが、とベルタは云った。

「私どもの国では、子をなすために行うのではない夜伽は忌まわしい行いであるとされているのでございます」

「忌まわしいとは……?」

 訝しげに問い返したモルガーヌに、ベルタは重々しく頷いてみせた。

「夜伽には快楽が伴う。その悦楽は人にすべてを忘れさせる。己も、あるいは神さえも蔑ろにしかねないそれは、すなわち神に対する叛逆である、と」

 エリシュカさまは、とベルタは云った。

「お小さい頃からそうしたお考えを叩き込まれておいでです。そんなエリシュカさまにとってみれば、いまのご自身のご身分には忸怩たるものがおありなのではないかと」

「どういう意味です」

「王太子殿下には姫さまという正妃殿下、つまり奥方さまがおありです。しかしながら、王太子殿下は姫さまを顧みられることなく、エリシュカさまに寵をお与えになる。昼にも申し上げましたが、私どもの考え方でまいりますと、これは夫婦関係における明らかな不貞行為となるのです」

 わが国では一夫一妻制が徹底されておりますので、とベルタは続けた。

「自ら望んだことではないとはいえ、エリシュカさまのお立場は、云うなればただの情人。寵姫などと呼ばれても所詮は泥棒猫にすぎない」

「ベルタさま!」

 言葉が過ぎますよ、とモルガーヌは厳しい口調で云った。申し訳ありません、とベルタは答えた。いまのお話は私の思いではありません。エリシュカさまの思いです。

「エリシュカさまは、きっとこうお考えでいらっしゃるに違いありません。自分は王太子殿下の慰み者である、と」

 モルガーヌは呆然としてベルタを見つめた。お嬢さまは王城の暮らしに戸惑っていたのではない。王太子殿下のお気持ちを信じられずにいたのだ。あれほどまでに思われていながら――。

 否、とモルガーヌは首を横に振った。配慮が足りないのは王太子殿下のほうだ。まるで騙すようにして手の内に囲い込み、二度と手離さぬように閉じこめてしまった。かつての主や友人と引き離し、誰かを傍につけることも許さずに。

 そこにエリシュカの意志など存在しない。最初からずっと。

 そのことがわかっていてなお、モルガーヌは主であるヴァレリーを庇わないわけにはいかない。それが彼女の務めであり、この城における存在意義であるからだ。

「それは誤解ですよ、ベルタさま」

「そうであればよいと、私も思っておりますわ」

 かすかに震えるモルガーヌの声とはじつに対照的な張りのある声でベルタは云った。

「いまさらどんなことを申し上げましょうとも、王太子殿下のお気持ちは変わらぬのでございましょう」

 エリシュカが国へ帰ることはできないのだろう、とベルタは言外に問う。モルガーヌは静かに頷いた。

「それであれば、せめてエリシュカさまのお気持ちが落ち着かれるまで、王太子殿下との夜伽をなさなくともよいように取り計らってはいただけませんでしょうか」

 エリシュカは賢い子です、とそこで友人を思う口調になってベルタは続けた。

「ほんの少しのお時間をお許しいただければ、そのあいだに必ずや自分の立場を弁え、自身にふさわしい振る舞いをすることができるようになるはずです」

「それはつまり……」

「エリシュカが自ら望むまで、王太子殿下にはお召しを控えていただきたいのです」

 モルガーヌさまを説得することができれば、私の目論見は大方のところで成功するだろう、とベルタは思っていた。エリシュカには王太子殿下の手を拒め、と云ったが、彼女にそんなことができるはずもない。だが、エリシュカが自ら夜伽を望むこともないはずだ。

 つまり、とベルタは考えた。王太子殿下がエリシュカを求めることがない限り、ふたりのあいだに親密な夜はやって来ない。止めるべきは殿下なのだ。そしてそれは、ベルタの考えによればさして難しいことではないはずだった。

 エリシュカの気持ちはいざ知らず、王太子殿下は彼女のことをとても大事に想っているようだ。そしておそらく彼は、自身の求めがエリシュカの負担になっていることも知っているはずだ。エリシュカの身を盾にとれば、王太子殿下に無理強いはできない。つまり殿下はエリシュカを想えば想うほど、彼女を求めることができなくなっていく。

 すべては王太子殿下にかかっている、とベルタは考えた。私ができるモルガーヌさまへの根回しなど、ほんの子供騙しにすぎない。でも、それでも、エリシュカの身を救う一助になるならば――。

「私に王太子殿下をお止めすることができるとでも思っているのですか」

 モルガーヌのどこか呆然としたような口調での問いかけに、ベルタは、はい、と穏やかに、しかし力強く頷いた。


 まったくあのベルタさまにはしてやられたとしか云いようがない、とモルガーヌはオリヴィエを前にしたまま、その瞳を眇めた。

 モルガーヌさまを信じておりますわ、とベルタは云ったのだ。それは、エリシュカを大事に思っているというのなら、行動で示してみせろ、と云われたに等しい。

 むろん私だって、とモルガーヌは思った。エリシュカさまを大切なお方だと思っている。ひどく可愛らしい容姿に、頼りなく儚げなお人柄。ご自身を強く主張なさらないぶん、余計になんでもして差し上げたくなる。あんな獣に身を捧げられたことを不憫に思ってもいる。せめて殿下のお傍を離れているときくらいは、お心安らかにあるようにと願っているし、できる限りのことはして差し上げているつもりだ。

 とはいえ、モルガーヌはいまだ王太子付侍女であった己を忘れたわけではない。エリシュカ付のいまの立場は彼女にとってあくまで仮のものであり、彼女の本来の主は王太子ヴァレリーなのだ。

 もしも王太子殿下がエリシュカさまを強く望まれれば、私はそれを拒むことはできない、とモルガーヌにはわかっている。ヴァレリーの身辺を居心地のよいものに整え、そのために彼が望むことを可能な限り叶えることが侍女の役目であるのだとすれば、モルガーヌがその務めを放棄することはできなかった。

 だからモルガーヌは、現在のヴァレリーをおそれることなく意見できる家臣――ほとんど唯一と云ってもいい稀有な存在――、オリヴィエ・レミ・ルクリュを利用することを思いついた。夜会の席で、ヴァレリーの従弟エヴラール・ジェルマン・ラ・フォルジュに対する間諜スパイまがいの真似を依頼されていたことが都合よく――交換条件として利用できるという意味で――働いた。

 自身も地方貴族の出身であるモルガーヌは、侍女の仕事が綺麗なものばかりではないことをよく承知していた。当主の情人を務めることもあれば、間諜行為に手を染めることもある。自身の誇りに悖るような真似をするつもりはなくとも、雇われた身であれば仕事を選ぶこともままならない。

 だが、主を守るためのものであると信じることができるならば、手を汚してもかまわない――間諜でも娼婦でも喜んで務めよう――と覚悟しているモルガーヌは、オリヴィエの依頼についてもさほどの抵抗はなかった。むしろヴァレリーの役に立つならば、と自ら進んで買って出たと云ってもいい。交換条件を突きつけるつもりなどなかった。

 けれど、利用できるものはなんでも――それが自分自身であれ、秘密裏に交わされるうしろ暗い約束であれ――利用する。それが有能な侍女、モルガーヌのいつものやり方でもある。

 オリヴィエは、まさかモルガーヌがこんなふうに交換条件を持ち出してくるなどと思ってはいなかったのだろう。彼の動揺を思うと些か気の毒に思えてくる。

「約束はできない」

 逡巡ののちのオリヴィエの声はやや掠れていた。

「殿下のご気性は、カスタニエどのもよく存じていよう」

「もちろんでございます」

「では、こうしたことについて他人が口を挟むことを殿下がひどくお嫌いになるということも」

 もちろん存じておりますわ、とモルガーヌは云った。

「人の心を動かすのに策を弄しても無意味なことは承知しております。エリシュカさまに傾いている殿下のお心を動かすことは、いまはどなたにも不可能です。私が申し上げているのは、ただエリシュカさまのお心とお身体に、しばしのご休息を与えて差し上げたいという、ただそれだけのことでございます」

 殿下が絶えずおそばにあっては、エリシュカさまの御身が休まるとは思えないのですわ、とモルガーヌは低い声で付け加えた。

 それはそうだろう、とオリヴィエは思った。熱情の塊のようないまの殿下を前に、エリシュカが安らかにあれるとは到底思えない。

「わかった」

 オリヴィエはとうとうそう云って頷いた。

「私にできることにも限りはある。できる限り、としか云えないが、努めてみることにしよう。しかし……」

「しかし?」

「もしこれで殿下のお心がエリシュカさまから離れたとして、そのときの保障まではいたしかねるが、よいのだな」

 むろん心得てございます、とモルガーヌは一礼した。

「すべては殿下のお心のままに」

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