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 いつかの夜と同じようにヴァレリーの寝所に入り、床に膝をついたエリシュカは、ヴェールの陰で俯いたまま部屋の主を待っていた。暖房を効かせ、厚手の絨毯を敷き詰めてあってさえ、まだ春と呼ぶには早いこの季節の夜は冷える。ことに床に蹲るようにしているエリシュカの身体は冷えきって、すぐには立ち上がれそうにないほどだった。

 昼日中から湯浴みをさせられ、肌と髪を整えられ、玉葱と燻製肉の温かなスープだけという食事を摂らされた。喉を通らないとスープを拒もうとすると、いつになく厳しい眼差しをしたモルガーヌとクロエに力ずくで喉に流し込まされそうになったので、慌ててスプーンを手に取った。

 なんとしても逆らうことを許さないという気配を漂わせたままの彼女たちは、陽が傾きかけるとすぐにエリシュカを王太子の寝所へ連れてきて閉じ込めてしまった。暗くなるころまでには殿下がおいでになります、とモルガーヌに告げられ、エリシュカは日の沈みきらぬうちからこうして跪いてヴァレリーを待っている。

 どうしよう、どうしたらいい、とエリシュカは思った。このままではベルタさまに云われたことを守れなくなってしまう。――どうにかして殿下のお手を拒むのよ。

 もとよりできるはずもない相談だったのだろうか、とエリシュカは思う。

 自身の立場は弁えているつもりだった。それでも甘かったのだ、とエリシュカは思った。

 ヴァレリーの寵を得て日の浅い自分は、彼の庇護がなければこの王城内で生きていくことはできない。彼の寵を失えば、城を追い出されるか、あるいはひっそりと亡き者にされるか。姫さまのもとに戻してもらえるかもしれないなどとは、本当に甘い考えだったのだと、今日の一日で思い知らされていた。

 身体の不調を理由に閨の務めを遠ざけ、ある程度快復してきてからも、ときには仮病を使い、ときにはモルガーヌに泣きついて、ヴァレリーの手を拒んできた。

 モルガーヌはエリシュカに同情的だった。そろそろ殿下のお気持ちもお考えになられては、とうながしてくることもたびたびだったが、どうしても怖いの、と云って泣けば、ため息とともに慰めてくれた。仕方ありませんわね、と背中を撫でてくれたやさしい手が、しかし自分のためのものではあるはずもなかったことを、今朝の今朝までエリシュカはすっかり忘れていたのだ。

 務めを果たさぬ自分がよくないということはわかっている。それでもどうしても故郷へ――家族のもとへ――帰ることを諦めることができない。父と母の顔を、兄と妹の声を思い出すたびに胸が痛んだ。

 家族にふたたび会うためにはヴァレリーを拒まなくてはならない。賤民として生まれ、云いつけられた務めを放棄することなどこれまで一度として許されなかったエリシュカにとって、それは本能に逆らうにも等しい苦行だったといえる。

 悪いのは務めを果たさぬ自分だと何度も何度も己を責めた。もう抗うことなどやめて流れに身を任せてしまえばいいと思ったこともある。

 だけどそうしてしまえば、家族に会うことは二度と叶わぬのだ。

 それだけは厭だ、とエリシュカは小さく首を振った。絶対に厭だ。

 寒さと怯えに震える自分の指先を見つめ、エリシュカは決意した。――かくなるうえはアランさまに直接お縋りしてみよう。

 アランさまは、わたしを大事に想っているとおっしゃってくださった。もしもそれが真実ならば、わたしの願いを叶えてくださるかもしれない。国へ、家族のもとへ帰してくれと縋ったら、あるいは頷いてくださるかもしれない。

 アランさまは東国王太子であらせられる。いずれは玉座を継がれ、国王陛下となられるお方だ。どうあってもわたしなどが長くおそばにいられるはずがない。そのことはアランさまご自身が一番よくご存知だろう。

 ならば、とエリシュカは思った。いずれ必ず訪れる別離ならば、それがいまでもかまわないはずだ。


 エリシュカが待つ寝所へ向かうヴァレリーの足取りは、珍しく重たかった。今宵の閨をエリシュカが望んでいないことはわかっている。朝、厩舎から戻ったばかりのエリシュカを抱きしめたときに感じた、彼女の身体の震えはつまりそういうことなのだ。

 彼女がおれを望むことはもうないのかもしれない、とさえ思うヴァレリーである。ひどいことをしたと自分でも思うのだ。彼女の怯えはいかばかりだろう。

 だが、と一方でヴァレリーはこうも思う。エリシュカにとってのおれの存在とは、たったそれだけのものにすぎぬのだろうか。ただ一度の過ちさえも許してはもらえぬ程度のものなのだろうか。

 ともに過ごした時間は決して短いものではないはずだ、とヴァレリーは思っている。王太子としての身分を明らかにしてからのことはともかく、厩番頭のアランとして顔を合わせ、ともに働いた日々は数多の笑いと涙とに溢れていたはずだ、とヴァレリーは思う。

 水を汲み、肥を運び、藁を干して、早駆けに出かけた。仔馬が生まれれば手を取りあって喜び、脚を折った馬を処分するときには肩を抱きあって悲嘆した。

 忘れたのか、エリシュカ、とヴァレリーは拳を握る。おれはいつだってそなたのそばにいたし、それは王太子の身分を明かそうとそうでなかろうと変わらなかったはずだ。

 だのになぜだろう。エリシュカはいつのころからか笑わなくなった。そうかといって嘆くこともなくなった。表情のない瞳でおれを見つめ、悲しそうに微笑むばかりになった。なにを尋ねても、はい、としか答えなくなり、やがてただ頷くだけとなり、その声さえも聞こえなくなってしまった。

 なにが悪かったのだろう、とヴァレリーは思った。否、なにが悪かったと云えば、きっとすべてがよくなかったのだろう。

 最初から、なにもかも、すべて間違っていたのだ。

 妻を求めると謀り、強引に愛しい者を手に入れた。それを知ったエリシュカが傷つくことはあまり考えなかった。多少驚くことはあるだろうが、おれが厩番頭のアランだと知れば、すぐに心を開いてくれると思っていた。

 なかなか心を見せぬエリシュカに焦れたこともよくなかったのかもしれない。これ以上はないというほどに想いを見せつけても、エリシュカは戸惑うばかりでまるで応えてはくれなかった。手に入らぬ心に焦れて、身体ばかりを求めたのは、せめて現身うつしみだけでも繋がりたいと思ったからだ。おれが与える快感に溺れるゆえでもかまわないから、エリシュカが欲しかった。

 そして、ジェルマンのことだ。ジェルマンが見た目どおりのただの朴念仁でないことを、おれは知っている。

 ヴァレリーは思わずため息をついた。

 こどものころからなにくれとなく尖っては、誰彼となく衝突することの多かったヴァレリーと違い、エヴラールは人の心の先へ先へと立ちまわって振る舞い、些細な諍いをも避けようとするところがあった。

 繊細かつ穏やかな気質の彼が、人と争うことをなによりも嫌っていることをヴァレリーはよく知っていた。地質学者になりたいというのも、もの云わぬ大地を相手に黙々と思考を重ねることに無上の楽しみを見出したからだということもわかっていた。

 オリヴィエをはじめとする側近たちは、なにかというと王弟ギヨームと彼の息子エヴラールとを同一視し、もっと警戒しろと眦を吊り上げるが、エヴラールの賢さや気配りは野心とは結びつかない種類のものだ。

 夜会の席でエヴラールがエリシュカにやさしく接していたのは、当然のことだ。あれは女こどもにはおしなべてやさしく穏やかに振る舞う性質の男なのだ。ましてや相手がおれの大事な女だと知っていればなおさらだ。そこに下心などない。

 にもかかわらず、おれはエヴラールに嫉妬し、エリシュカをひどい目に遭わせた。どれだけ悔やんでも悔やみきれない、とヴァレリーは唇を噛んだ。

 男に身を任せることに慣れていない女にとって、寝所での営みがある種の恐怖を伴うものだということは閨房の作法を学ぶときに教わった。

 殿下のお妃となられるお方は、殿下が最初で最後の殿方となるのです、と閨の作法を教えてくれた未亡人は云っていた。もどかしいくらいに丁寧にして差し上げたとしても、怖がらない女などいないのです。それでもその方が殿下に従うのは、殿下のお心を信じるからですよ。

 もとより、好いた女と添い遂げられるとは望んだことも、考えたこともなかったヴァレリーである。彼にとっての結婚とは政治で、政治とは策謀だ。王室を途絶えさせぬために子だけは必要であるから、妃となる女を必要以上に怯えさせずに孕ませることができれば十分だ、と考えていた。人並み以上の熱慾を持て余したときには娼婦たちを相手に発散すればそれでよい。

 実際そうやってうまくやってきた、とヴァレリーは思っている。たしかにオリヴィエや侍女たちには、だらしなかった下半身事情をあますところなく知られてもいるが、それとて毎日のことではない。月に一度か二度、どうしようもない夜があったというだけのことだ。

 それが、とヴァレリーは寝所の前に立った。廊下に控えていた侍従が素早く扉を開ける。

 ヴァレリーはまたもやため息をついた。エリシュカと出会って、なにもかもがおかしくなってしまった。

 ひとりの女のたったひと言、たったひとつの笑顔に胸が痛いほどに熱くなる。――あの笑みはおれだけのものだ。

 情熱と慾望が結びついて、簡単に発散などできなくなった。――代わりの女などいない。

 ふとした隙に思い出すのは彼女のことばかりだった。――自分でも頭がおかしいとわかっている。

 要するにヴァレリーはエリシュカに溺れていた。自身で思うよりも、よほど深く。――彼女を自分のそばに、と願うもうひとつの理由など、ともすれば忘れてしまいたいと願うほどに。

 それは彼にとってはじめての経験だった。だからなにをどうしたらいいのかわからない。

 できるだけそばにいたい、いつでも顔を見ていたいと思うから部屋を与えた。エリシュカはおとなしくそこに納まってはいたが、いつだって居心地はよくなさそうだった。

 手を繋ぎたい、抱きしめたいと思うからそうしてみた。エリシュカは抗いこそしなかったが、あの細い腕をおれの背にまわしてくれることは数えるほどしかなかった。

 感じたい、繋がりたいと思うから身体を求めた。最初の夜にエリシュカが示したささやかな抵抗は、恐怖ゆえのものだと思えたから精一杯に宥めながらやさしくしたつもりだった。

 そのうち慣れるだろう、と思っていた。――王城にも、おれにも。いつかは。

 だが、待てど暮らせど、その、いつか、はやってこなかった。エリシュカはいつまでたっても物慣れぬ態度を崩さず、ひどくよそよそしかった。笑顔も消え、わずかな言葉も消え、ただ人形のように抱かれるだけ。

 悋気に狂って過ちを犯したあとはひたすら詫びた。手離してやる以外のことならなんでもするつもりでいた。殴りたいというなら殴らせてやっただろうし、地にひれふせというならそうしただろう。――それで赦してもらえるのなら。

 けれどエリシュカはなにも云わなかった。嘆きもせず、責めもせず、怒りもせず――。

 云いたいことがあるなら云ってくれと何度も懇願したが、なにもございません、とたったひと言ですべてを無にされた。

 ではせめて、と彼女がおれを求めるまではなにもするまいと心に決めた。それが自分で自分に与えることのできる最大の罰だったからだ。

 それでもエリシュカの部屋には毎日通った。毎夜抱きしめて眠った。いつかは心の片鱗を覗かせてくれると信じて。

 いっそすべてを拒んでくれたならまだよかったのに、とヴァレリーは思った。笑顔もなく言葉もなく佇むばかりではなにもわからない。拒んでくれたなら、エリシュカの望みが奈辺にあるかを知る手掛かりにはなっただろうから。

 けれど、もうそれも叶わぬ、とヴァレリーは苦く笑う。――時は尽きた。

 廊下から続く控えの間には、王太子付侍従長エドモン・マルケと筆頭侍女デジレ・バラデュールが控えていた。日ごろ不寝番になど立つはずもないふたりが今夜に限ってそこにいる意味を、誰よりもよく知るヴァレリーは、彼らに向かって鷹揚に頷いてみせる。上着のボタンを外し、どちらにともなく問うた。

「なかで見届けるか」

 いいえ、と答えたのはエドモンである。彼はデジレと同じように、ヴァレリーが幼いころから傍に仕え続けてきた侍従である。

「殿下に遺漏のあろうはずがございませんからな」

「こと女に関しては、か」

 ヴァレリーがにやりと唇を歪めると、エドモンはいたって真面目な口調で応じた。

「いいえ。殿下が誰よりも王室の将来を案じておられることを承知しておりますゆえでございます」

 エドモンの隣でデジレも深く腰を折っている。ヴァレリーは忠実なふたりの姿をしばらく眺めたあと、そうか、とぽつりと答えた。

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