35
長く床に跪いたままでいたためにすっかり強張ってしまった身体をヴァレリーに抱え上げられたエリシュカは、身を包む男の熱を懐かしんでいる己に気づいて戸惑っていた。あれほど怖いと思っていたのに、こうしてふたたび触れられることを嬉しく思っているなんて――。
広い寝台の上にエリシュカの身体を降ろし、ヴァレリーはすかさず彼女に覆いかぶさった。両手でそれぞれにエリシュカの手を掴み、押さえつける。真上から顔を覗き込めば、相変わらず怯えたように逃げ惑う薄紫色の瞳がある。
愛しさと歓びに苛立ちと悲しみを加え、さらに欲情で撹拌したようなひどく濁った感情のままにくちづけようとしたとき、エリシュカが口を開いた。
「……アランさま」
ヴァレリーはぴたりと動きを止める。
「アランさま」
ヴァレリーの夏空色の瞳が瞬いた。言葉の続きをうながされているような気がしたエリシュカは、急いたようにまた口を開いた。
「お願いが、お願いがございます……」
ヴァレリーはじっと黙ったままでいる。エリシュカは眉根を寄せ、願いを口にする許しを乞うた。言葉を繋ぐ許しもないままに願いを口にすることはできない。
「願い?」
押さえつけられた手首の感覚がだんだんと鈍くなっていくころになって、ようやくヴァレリーが口を開いた。
はい、とエリシュカはまっすぐにヴァレリーを見上げる。
ヴァレリーはなんの前触れもなく身を起こした。押し倒したエリシュカの身体を掬い上げるように抱き起し、寝台の上に向かいあって座る。
願いとな、とヴァレリーはわずかに乱れたエリシュカの髪を軽い手つきで撫でつけてやりながら問いかけた。
「話してみろ」
そのときのヴァレリーの唇には仄かな笑みが浮かべられていた。エリシュカがはじめて口にするという願いとやらに、彼の心はおかしいほどに浮き立っていた。――ようやく、その心を見せてくれるのか。
エリシュカは珍しくまっすぐにヴァレリーを見上げ、口を開いた。
「どうかこのまま、わたしをお許しくださいませ」
ヴァレリーは目を見開いた。――なんだと? 許せとは、どういう意味だ?
「故郷へ、帰してくださいませ。このまま……」
どうか、とエリシュカはヴァレリーの目を見つめたまま懇願した。
唇の端に乗せられてはずのかすかな笑みは一瞬で消え去り、ヴァレリーは奥歯をきつく噛みしめた。
故郷へ帰せ、という言葉の意味がわからぬヴァレリーではない。このまま身体に触れることなく自分を解放し、王城から出してくれ――神ツ国へ帰らせてくれ――とエリシュカは云っているのだ。
願いがある、といったエリシュカの言葉には耳を疑い、だが、次の瞬間には弾けるような喜びを感じた。驚きすぎて言葉にはならなかったが、エリシュカがはじめて自ら言葉に変えようとした願いならば、なんでも叶えてやろうと思った。
だが、その願いは――。
「どういう、意味だ」
「帰りたいのです」
「帰りたい?」
「故郷へ、家族のところへ、帰りたいのです」
堰を切ったようにエリシュカの言葉が溢れ出す。
「お願いでございます、アランさま。このままお手をお離しになり、わたしのことは今宵を限りにお忘れくださいませ。どうか……」
ヴァレリーがあれほど願ったエリシュカの言葉は、しかし到底受け入れられるようなものではなかった。ヴァレリーは緩く頭を振る。
黄金色の髪が頼りなく揺れたことを否定の意と受け止めたエリシュカは、薄紫色の瞳に涙を浮かべてなおも言葉を続けた。
「わたしには故郷の家族がすべてでございます。お願いでございますから」
「おれにもそなたがすべてだ、エリシュカ」
いいえ、とエリシュカはヴァレリーが耳にしたこともない鋭い声で云い放った。
「アランさまには大勢の方がいらっしゃいます。ご両親もご友人も、臣下の方々も数多の民もみな、アランさまのおそばにおいでです。でも、わたしには誰も……」
「おれがいるだろう」
「いいえ」
「おれがいる」
いいえ、とエリシュカは云い張った。
「いるだろう、こんなに近くに!」
ヴァレリーはエリシュカの両肩を強く掴み寄せ、顔を近づけた。エリシュカが首を逸らせたために、ヴァレリーの唇が彼女の頬に触れそうになるほどだ。
「いままでもずっとそうだったし、これからだってそばにいる。誰もいないなどと……」
「おりません」
いないのです、とエリシュカはふたたびヴァレリーのほうへ顔を向けた。夏空色の瞳と薄紫色の瞳が、火花散るような激しさで絡みあった。
「わたしを想ってくれているのはこの世界で家族だけです。父と母、兄と妹だけです」
己の想いのすべてを否定されたヴァレリーは呆然とした。――エリシュカはいったいなにを云っているのだ。
「わたしが大切に想うことを許されるのも家族だけです。わたしたち家族には互いしか許されていない」
そういう生き方しか許されていないのです、とエリシュカは云った。
エリシュカとてヴァレリーの想いを知らぬではない。否、ヴァレリーに限らず、ベルタやモルガーヌなど、家族のほかにも自分のことを考えてくれる者がいることは知っている。自分もまたそうした者たちのことをそれなりに慕い、それなりに大切に思っている。
だが、愛しく思うのは家族だけだ。遠く離れてもその身の健やかなることを願い、その心の穏やかなることを祈るのは、家族だけなのだ。
アランさまのことは、とエリシュカは思った。たしかにお慕いしてはいる。
まだ彼のことを厩番頭だと思っていたころ、エリシュカは毎朝顔を合わせる彼に素直に惹かれていった。天真爛漫な笑顔も、素直な声も、陽気なやさしさも、ヴァレリーのなにもかもがエリシュカの心を慰めてくれた。ふたりでひそかに出かける早駆けはなによりの楽しみだった。――わたしの人生にも、こんなに楽しいことがあるだなんて。
ヴァレリーが王太子だと知った夜、その想いは粉々に砕け散った。ヴァレリーにはじめて抱かれたあの夜に。
王太子だなんて知らなければよかった。ひそかな想いとして胸にしまったまま、失うことも叶うこともなく、幸せな思い出としてひっそりと温めておきたかったのに。冷たく凍える故郷の冬も、彼の思い出ひとつで暖かく過ごせると思っていたのに。
エリシュカにとっての王族は、顔を見ることさえ許されぬ天上の存在にも等しい。自分のような賤民が想いを寄せるなど、どれほどの罰が下されるかと考えると、おそろしくてたまらなかった。
この想いは誰にも知られぬうちに砕いてしまわなければならない。そう思って、自らの手で淡い想いを封印したとも云える。
思ったよりもそれは簡単だった、とエリシュカは思う。厩番頭の仮面を脱いだヴァレリーは、自分勝手で傲慢で我儘で、エリシュカの気持ちなどこれっぽっちも考えてはくれない卑怯な男だったからだ。
夜のあいだじゅう好き勝手にエリシュカの身体を弄び、朝になれば放り出す。豪華なだけの贈物は次々に増えたが、そこに彼の心があるとは思えなかった。だいたいあんな華美な衣裳や宝石をどうしろというのだろう。身につけていく場所もないというのに。
それでも時を重ねるうちに心は少しずつ絆されていった。もとは憎からず思っていた相手なのだ。毎晩のように求められて嬉しくないはずがない。
だがその絆も、妙な薬を使われてひどく苦しい思いした夜にふたたび砕け散ってしまった。悪い人ではないのだろうとは思っても、恋い慕う気持ちを思い出すことはできなくなってしまいそうだった。
それにもかかわらずエリシュカが少しずつ、本当に少しずつヴァレリーの想い――同時に、一度ならず二度までも、砕き、封印した自らの想い――を信じることができるようになってきたのは、やはり時間のおかげだった。
身に触れさせぬエリシュカを責めることもないヴァレリーは、それでも、そなたが大切だ、と全身で訴えかけてきた。彼がその心に、ただならぬ熱情を秘めていることは明らかだった。
「許されていない、だと?」
誰にだ、とヴァレリーは噛みつくように云った。
「そんなことはない、家族しかいないなどと、そんなことは……」
「家族だけです。わたしが愛するのも、わたしを愛するのも、家族だけです」
エリシュカの目から涙が溢れ出した。もう厭だ、とエリシュカは心のなかで叫ぶ。――帰らせて。もうここにはいたくない。お願いだから、父さんと母さんのところへ帰らせて。兄さんとダヌシュカに会わせて。
はじめて目にするエリシュカの心がこぼす涙に、ヴァレリーは身体を強張らせた。深い悲しみと激しい怒り、そしてどうにもしがたい慾望が募る。
「……本当に、そう思うのか」
ひどく低い声でヴァレリーは尋ねた。
「そなたを愛する者はこの世で家族だけだと、本当にそう思うのか」
はい、とエリシュカはすぐに答えた。
「そのとおりです」
そうか、とヴァレリーは答えた。先ほどよりも深くなった声で。
「お手をお放しください。国へ帰らせてください。どうか……」
「断る」
ヴァレリーは両手で掴んでいたエリシュカの肩をそのまま強く押し、ふたたびやわらかな寝台へと押し倒した。エリシュカの手を片方の掌のうちにまとめて絡め取ると、驚き、慌てふためく彼女の顔の片側にきつく止めつけた。
おかしな具合に身をよじらされて、エリシュカが顔を歪める。ヴァレリーは低い声を立てて嗤った。
「……家族だけ、か」
なあ、エリシュカ、とヴァレリーの声は不気味なほど穏やかで、しかしぞっとするほど低い。エリシュカは恐怖のあまりに震えはじめた。
小刻みに震え、粟立つエリシュカの肌を、自由になったヴァレリーの指先が辿りはじめた。夜着の襟元を止めるリボンを解き、細かく並んだ
「ならば話は簡単だ」
ヴァレリーの掌がエリシュカの素肌にたどり着く。するりと滑らせ、緊張に冷たくなっている薄い腹をゆっくりと撫でた。途端に波打つように震える、ひさしぶりに触れるほっそりとした身体が愛おしい。
「おれと家族になればよい」
苦痛を訴えんとしてヴァレリーに向けられていたエリシュカの双眸が大きく見開かれる。ヴァレリーは目を細めて笑ってみせた。
「おれの子を産めば、その子とおれがそなたの家族だ、エリシュカ。そうなれば、いずれはおれだけが、そなたの愛する者だということになる。そうだろう?」
エリシュカは咄嗟に首を横に振った。
「なにが違う。子がひとりでは足りぬか。では、何人でも産めばよい。おれを家族だと、そなたが認めるまで」
厭、とエリシュカの唇から細い声が漏れた。ヴァレリーの眼差しが剣呑に歪む。
「厭、とはなんだ」
いっそ殺してやりたい、とヴァレリーは思った。なによりも残酷な言葉でおれを拒んだエリシュカを、おれの手で殺してやりたい。
家族だけだとエリシュカは云った。自分を想っているのは家族だけだと。
そんな残酷な言葉があるか。
おれはそなたを想っているのに。こんなにも、そなたを想っているのに。
「ひとつ、よいことを教えておいてやろう、エリシュカ」
涙で頬を濡らし、小さく震え続けるエリシュカがヴァレリーに眼差しを戻した。
「隣の間には侍従長と筆頭侍女が控えている。夜明けが来れば、彼らはそれぞれに父上と母上、それから王妃のもとへと出向き、おれたちの契りの成ったことを伝えるであろう。そしてすぐにそなたを側妃として迎えるための準備が始められることになる。おれがそのように頼んでおいたからな」
「そ、側妃……」
そうだ、とヴァレリーは頷いた。
「まあ、そんなものにはならずとも、今宵をともに過ごせば、そなたが城を出ることは叶わなくなる。な、そうだろう、エリシュカ?」
エリシュカはこれ以上ないほど大きく目を見張ったのちに、眉根をきつく寄せて唇を引き結んだ。ふふ、とヴァレリーが含み笑いをする。
「おれが気づいていないとでも思っていたのか。それともおれがそなたに甘いゆえ、見逃してもらえるとでも思っていたか」
あと一歩だったな、とヴァレリーはエリシュカを見下ろして呟いた。
「おれとの交わりがなくなって半年経てば城を出られたものを、な」
エリシュカは顔を歪めて必死に首を振った。おそろしさのあまり声も出せないくせに、意思表示だけはするのだな、とヴァレリーは思った。
「これでも迷っていたのだ。このまま逃がしてやるのがやさしさかもしれぬ、と」
誰に云われたわけでもなく、ヴァレリーにはなんとなくわかっていた。エリシュカが自分を求める日など来ないということが。
それでもどうにかこの日まで耐えたのは、一縷の望みに縋ったせいだ。ともに過ごした日々の、無邪気な笑顔の記憶に縋ったせいだ。――いつかまた、あの笑みを見ることができるはずだという儚い夢。
けれどもう限界だった。なにもかもが、もう限界だったのだ。
今日を逃せば、もう数日も経たぬうちにエリシュカは褥すべりを申し出ることができるようになる。ようするに半年ものあいだ、正当な理由もなく王太子から閨の所望がなかったので城を出て行きたいと、そう主張することができるようになるのだ。
あるいは、奥向きを取り仕切る王妃から閨を務めぬ理由を問われることになるかもしれない。そしてその答えに正当性がなければ、王太子の寵姫の座から引きずり下ろされ、城を追われることになる。
いずれにせよエリシュカは城を出ていくことになる。
まかり間違ってもそんなことが許せるはずもない、とヴァレリーは思う。おれにはエリシュカが必要なのだ。ことはおれ自身の心と身体の問題にとどまらない。まだ誰にも――腹心の部下たるオリヴィエにさえも――告げてはいないが、この国と王室のために、どうしてもエリシュカが必要なのだ。
アランさまには、と自分の身体の下で細い声を上げるエリシュカを見下ろしたヴァレリーは、なんだ、と問うた。
「アランさまには、ほかにいくらでも、想いを通わせることのできる方がおいでです。わたしでなくとも、ほかにもいくらでも」
これまでただの一度も目にしたことのなかったエリシュカの心がこぼす涙は、ヴァレリーの心を深く抉った。――こんな泣き顔を見たいわけではなかったのに。
「わたしには誰もおりません。家族よりほかに、わたしには誰もいないのです」
「まだ云うか!」
「お願いでございます、アランさま」
腕をまともに動かすこともままならない不自由な姿勢のまま、エリシュカは懇願した。
「どうか、お許しくださいませ。お願いでございます」
ヴァレリーは静かにエリシュカを見下ろした。ただただ腹立たしく、悲しく、せつなかった。いったいなぜ、こんなふうになってしまったのだろう。
お願いでございます、と繰り返しながら震えるエリシュカは顔を横に背け、きつく目蓋を閉じてヴァレリーを見ない。
「その願いは聞いてやれぬ」
途端に目を見開いたエリシュカは、なおも懇願を続けようと口を開いた。その開けた口を閉じさせぬように頬を掴み、顔を寄せたヴァレリーは哀しみを堪えた低い声で告げる。
「そなたは生涯をおれの隣で過ごすのだ」
そしてヴァレリーは己の望まぬ言葉ばかりを紡ぐエリシュカの唇を塞ぐべく、深いくちづけを与えはじめた。
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