36

 シュテファーニア・ヴラーシュコヴァーが故国に向けて東国を出立する日まで、残り十日ほどを数えるばかりになった日、ツェツィーリアは東国王城付侍女長ジョゼ・セシャンの執務室を訪れていた。シュテファーニアとともに帰国する侍女の一覧を手に、己を含めた彼女らが東国王城を離れる許しを得るためである。

 神ツ国からやってきた侍女たちはみな、シュテファーニアとともに東国王城に仕える者であるとして城内の記録にその名が記されている。そのため、侍女の立場を退き城を離れるにあたってはこうした手続が必要なのだった。シュテファーニアにとっての離縁の手続と、つまりは似たようなものである。

 シュテファーニアが差し出した一覧を手に、いよいよでございますわね、と侍女長ジョゼ・セシャンはそう云った。

 いつも穏やかに微笑んでいる印象の彼女は、その職位から想像できる年齢よりもぐっと若い。侍女長とは、朝も昼も夜もなく王城に詰めきりとなる厳しい職務であるために、心身ともに充実した者でないと務まらない。決して年齢を重ねた者のための名誉職ではないのである。

「侍女長さまにはなにからなにまで大変なお気遣いをいただきましたのに」

 ツェツィーリアが云うと、ジョゼは、ええ、と頷いてみせた。

「シュテファーニアさまにおかれましては、最後までわが国に馴染まれるのは難しかったようでございますわね」

 率直な物云いは、若さゆえか、あるいは彼女の持ち前の性格ゆえか。ともかくもツェツィーリアは曖昧に笑むことしかできない。

「とはいえ、なにごともご縁にございます。お国に帰られましても、シュテファーニアさまとみなさまに幸多からんことをお祈りしておりますわ」

 ありがとうございます、とツェツィーリアは頭を下げた。

 シュテファーニアと彼女の夫ヴァレリーとの離縁はすでに正式に成立していた。したがって現在のシュテファーニアはすでに王太子妃ではない。侍女長であるジョゼが、シュテファーニアを王太子妃と呼ばぬのは、そうした理由からであった。

 まるで手慰みのように一覧をめくっていたジョゼの手がふと止まる。それに気づいたツェツィーリアは、なにか、と問いかけた。

「いいえ」

 そう答えた侍女長だったが、視線は手許から離れない。やがて顔を上げた彼女はやわらかな声で、しかし有無を云わせぬ口調でこう云った。

「こちらでしばしお待ちくださいませ」

 城を離れるにあたって必要とされるさまざまな雑事で忙しくしているのだ、と暗に迅速な裁可を求めるも、ジョゼは取り合う気配もなく執務室を出て行ってしまった。ツェツィーリアは険しい表情で、閉まったばかりの扉を睨む。

 さして時間の経たぬうちに、部屋の扉が叩かれた。すぐに開かれたところから、そのノックは入室をうながす声を待つものではなく、単に部屋の内にいる者――つまり、ツェツィーリア――に対する配慮だったのだと知れた。

「デジレさま」

 扉の陰から姿を見せた侍女の姿を認めるなり、ツェツィーリアは素早く立ち上がった。彼女がここに現れたことの意味。それは、すなわち――。

「おひさしゅうございますね、ツェツィーリアさま」

 はい、という返事の代わりに、ツェツィーリアは一度だけゆっくりと瞬いた。デジレの背後で扉が閉まる。どうやら侍女長は部屋に戻るつもりがないようだった。

「ああ、そのままで」

 席を譲ろうと立ち上がりかけたツェツィーリアを制し、デジレはゆったりとした所作で侍女長の執務椅子に腰を下ろした。書類が山と積まれた大きな机を挟み、ふたりはまっすぐに視線を交わしあった。

「ジョゼからお話は伺っておりますよ」

 侍女長の名を呼び捨てることによって、デジレは己の地位を示してみせた。つまり、これからデジレが云うことは、侍女長も承知のうえの――あるいは侍女長をもってしても覆すことのできぬ――決定事項であるという意味であろう。

「ツェツィーリアさまが先ほど提出された神ツ国の侍女たちの一覧のなかに、どうやら誤りがあったようで、それをお伝えに参りましたの」

「誤り?」

 ええ、とデジレは頷いてみせた。

「なんの誤りがございましょう。私が作成し、姫さまもお認めになられた、たった十数名の一覧でございます。誤りなどあろうはずもございません」

 それがね、とデジレはわざとらしく微笑んでみせた。

「ございましたのよ。困ったことに」

 デジレの云う誤りがなんであるか、よくよく承知しているツェツィーリアは無駄な駆け引きをやめ、単刀直入に切り出した。

「エリシュカは姫さま付の侍女でございます。姫さまのご帰国とともに連れ帰るのは当然のことかと」

 デジレの目がきつく眇められた。ツェツィーリアはそれを承知のうえでなおも言葉を連ねる。

「エリシュカに王太子殿下のお手がついたことは承知しております。ですが、いまだあの子の立場は公然のものではなく、王城のなかでもはっきりとはしておりません。エリシュカはいまだわが国の民であり、姫さまの差配のもとにあると考えるのは当然ではありませんか」

 デジレは口を挟まなかった。

「加えて聞くところによりますれば、王太子殿下におかれましては、近ごろエリシュカをお召しになる機会がいっさいなくなられたとか。あの子が病を得てからは、ことに冷淡におなりだとも聞き及んでおりますわ」

 そのような殿方のところに、とツェツィーリアはいささか大袈裟と思われても仕方ないほど顔を顰めてみせた。

「あの子を置いて行くことはできませんわ、デジレさま」

 デジレは大きく息を吐き出した。ため息とは明らかに異なるそれは、嘲笑に代わるものだったのかもしれない。

「おっしゃりたいことはそれですべてですか、ツェツィーリアさま」

 ツェツィーリアは押し黙った。

「まったくあなたがたの厚顔無恥にはほとほとあきれ返るばかりです。いったいどの口が、エリシュカさまのことを、わが国の民、などと云うのですか」

「わが国の身分制度と、王太子殿下のお振る舞いとになんの関係がありますか」

「なんの関係もありませんよ」

 デジレは冷たく云い放った。

「ですが、殿下とエリシュカさまは互いに想いを交わしあっておいでです。ツェツィーリアさまがなにをお聞きになられたのかは知りませんが、おふたりは夜ごと仲睦まじくお過ごしでいらっしゃいます」

 なんですって、とばかりにツェツィーリアの眼差しが眇められた。

「そのような女性と殿下とを引き離すことは誰にもできませんでしょう。仮に、以前の主であった方がそう望まれたとしても」

「ですから、エリシュカはまだ……」

「殿下がはじめてエリシュカさまを迎えられた翌日に、私どもから申し上げたことをお忘れですか」

 あれは、とツェツィーリアは厳しい声を上げた。

「単に侍女と侍女のあいだで交わした了解のようなもので、エリシュカの立場を正式にするものではありませんでした。付け加えて申し上げれば、姫さまは王太子殿下からなんのお言葉も賜っておりません。私どもとしては、姫さまに対しひと言もないお相手に、姫さまの侍女を好きにさせるわけにはいかぬのです」

「殿下からそちらの姫さまに、侍女を貰い受ける旨を伝えよと云うのですか」

「エリシュカの主は姫さまでいらっしゃいますゆえ」

 デジレは短く息を吐き出した。それに、とツェツィーリアは続ける。

「私どもはエリシュカの意志も確かめることができておりません」

「お嬢さまの意志?」

 あなたがそんなことをおっしゃるとはね、とデジレは嘲笑うように云った。

「あなた方がかつてのお嬢さまをどのように遇していたか、私が知らないとでも思っているのですか。お嬢さまの意志を確かめるなどと笑止もよいところです」

「それをあなたがおっしゃるのですか、デジレさま」

 ツェツィーリアの声音は針のように尖り、デジレの嘲りを突き破った。

「たしかに私どもは国の習いとしてエリシュカにつらく当たっていたかもしれません。しかし、だからと云って、王太子殿下の情人となることがエリシュカの意志であったとは到底思えません。私どももあなた方も、つまるところはご同類ではありませんか」

「虐げられることと、殿下の寵を賜ることとではまったく違いますよ」

 いいえ、とツェツィーリアは首を振った。

「同じことです。しかも、王太子殿下はずいぶん長いことエリシュカに無聊を強いているとか」

 それは誤解です、とデジレは云った。

「殿下がエリシュカさまとのお閨をお控えになられていたのは事実ですが、それはエリシュカさまがお身体のご不調を訴えられていたあいだのことです。寵愛なさるお嬢さまが健やかであられることが殿下のお望みであれば、それは当然のことでございましょう」

「ですが、しかるべき筋から聞いた話では……」

 ベルタはエリシュカと顔を合わせたと云っていた、とツェツィーリアは思い出す。だが、そのことはデジレに知らせないほうがよいだろうと考えた彼女は、曖昧な言葉を選ぶことにする。

「王太子殿下はじつに半年もの長きにわたって、エリシュカを遠ざけていらしたとか」

「そのような事実はありません」

 デジレとツェツィーリアは至近距離から睨みあった。

 いったいなぜ、とデジレは思っていた。なぜ、いまごろになって神ツ国の巫女姫はお嬢さまを国へ連れ帰るなどと云い出したのだろう。神ツ国におけるエリシュカは、ひとりの賤民の娘にすぎず、その命にさしたる価値などないはずなのに――。

 いずれにしても、というツェツィーリアの言葉に、デジレは気づかないうちに彼女から逸らしていた視線をもとに戻す。

「エリシュカはいまだわが国の民であり、姫さま付の侍女にございます。此度の帰国にあたって同道することに、なんの否やがありますか」

「どうしてもご納得いただけない、ということですか」

「無茶なことをおっしゃっているのはそちらでしょう」

「正妃であったシュテファーニアさまはたしか、殿下のお手がついたエリシュカさまに相当なお腹立ちでいらしたとか。あの悋気がぶり返しでもしましたか」

「姫さまは世俗の感情に御身を委ねたりはなさいません」

 なにをそらとぼけたことを、とデジレは苛立ちのこもった声を上げた。

「エリシュカさまに公の身分が与えられていないことが不満ですか」

「不満などありません。ただ、エリシュカの身を姫さまのもとへお戻しいただきたいだけでございます」

「お話になりませんね」

 その点だけは同感だ、とツェツィーリアは短い吐息を漏らした。だが、なんとしても諦めるわけにはいかない。ここで退けば、エリシュカを取り戻すことは永久に叶わなくなる。

「ツェツィーリアさま」

 静かな声に呼ばれ、ツェツィーリアはあらためてデジレを見据えた。ツェツィーリアと眼差しを交わしたデジレは、ふと瞑目する。ツェツィーリアは身を固くした。

「これから申し上げることは他言無用に願います」

「はい」

「エリシュカさまにはご懐妊の兆候が見られます」

「か、懐妊……?」

 ツェツィーリアは思わず腰を浮かせてしまった。鸚鵡返しに呟き、そうして自分の口からこぼれた言葉に呆然とする。――エリシュカがどうしたって?

「まだ王太子殿下もご存知ないことでございます」

「それは、事実でございますか……?」

 ツェツィーリアの声は、喉の奥に貼りついてしまったかのように嗄れている。それでも無理矢理に引きずり出して、ただそれだけを問うた。

「いつもでしたら数日前にははじまっているはずの月の障りが遅れております。侍医の診断はまだですが、可能性としては高うございましょう」

「まだわからないではないですか!」

「もちろんですわ」

「以前もそうした噂がありましたが、誤りであったとか」

「さようでしたわね」

 優雅に微笑んでみせたデジレは、一転厳しい表情になって言葉を続けた。

「ですが、そうした可能性がございます以上、お嬢さまを殿下のお傍から遠ざけるわけにはまいりません。おわかりいただけますわね」

 ツェツィーリアは今度こそ完全に言葉を失い、呆然とデジレを見つめるしかできなくなってしまった。

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