37

 広い露台テラスに引きずりだした肘掛けのついた椅子に浅く腰掛け、上体を手すりに預けるように凭れかかったエリシュカは、眼下に広がる庭を眺めるともなしに眺めていた。

 東国に来て二度めの春は、去年に比べだいぶ遅れてやって来た。今年はずいぶんと長いこと寒さが続きますね、とモルガーヌが云っていたから間違いはない。故国への出立が遅れた姫さまは、さぞやお苛立ちのことだろう、とエリシュカは思った。

 視界いっぱいに続く庭園には、ところどころに淡い紫色の花が咲いている。故郷で見た覚えもあるが、なんという名の花であるのかエリシュカにはわからない。傍へ寄って眺めることもできないいまは、そんなことはどうでもよかった。

 城内は朝からひどく慌ただしい。故郷へ帰るシュテファーニアが昼過ぎに城を出立することになっているため、大勢の者たちがその支度に追われているのだろう。

 誰かと誰かが呼びあう大きな声、馬の嘶き、馬車の車輪が石畳を走る音。重たい荷物を積み込むときの荷馬車の軋みや、歩みの遅い馬を鞭打つ音、歓声にも似た女たちの声もときおり響いてくる。

 エリシュカはそっと目を閉じた。――本当であればいまごろはわたしも、あのなかにいたはずなのに。

 ヴァレリーのおとないがふたたびはじまったあの夜から、エリシュカはひとりで朝を迎えたことはない。ときに夕刻と呼ばれる時間から、ときに陽が高く昇る昼近くまで、ヴァレリーはエリシュカを求め続けた。

 夜通し与えられる快楽はもはや苦役に等しく、エリシュカはヴァレリーと身体を合わせる以外の時間をほとんど眠って過ごすしかできなくなってしまった。

 エリシュカの一日はとても短い。ヴァレリーが去るとすぐにクロエの手を借りて身を清め、モルガーヌの給仕で簡素な食事を摂る。そのあとはいくらも経たないうちに寝台にもぐり込んで泥のように眠り、揺さぶられて目を覚ますとすでにそこはヴァレリーの腕のなかなのだ。

 エリシュカの世界はヴァレリーひとりで埋められてしまい、時刻も日づけさえもすでにおぼろげにしか把握できない。こうして昼より前の時間から身を起こしていられるのはとても珍しいことで、それは今日のシュテファーニアの出立を見送らねばならないヴァレリーが、いつもよりもずっと早く寝台を出て行ってくれたからである。

 エリシュカがこの部屋を出ることは許されていない。一度だけテネブラエの様子を見るために厩舎に出たいと頼んでみたが、悲しげな顔をしたモルガーヌにきっぱりと断られてしまった。――殿下のお供なくしてお部屋から出してはならぬと、強く云われておりますので。

 試しに扉を開けようとこっそり試してみたところ、外から施錠でもされているのか、押しても引いても開けることはできなかった。おまけに脱走しようとしたことを控えの間の侍女に気づかれてしまい、その夜はヴァレリーにいつもよりも冷たくあたられた。

 デジレもクロエも、モルガーヌでさえも、ここのところエリシュカとはろくに口をきいてくれない。勉強のための手習集や歴史書、楽しみのための書籍や画集は望めばいくらでも持ってきてくれるし、手慰みの刺繍や編み物に必要な道具も届けてくれるが、かつてのようにお茶を片手のおしゃべりや、簡単な遊戯に興じてくれることはなくなってしまった。

 もっともそうしたことが許されていたとしても、茶や遊戯を愉しむような体力はどこにも残っていないのだけど、とエリシュカはため息をつく。ただ腰かけているだけでも怠くて怠くて仕方がない。寝台にいると気が滅入るばかりなので露台に出てはきたものの、ただ立っていることさえもつらくてたまらないので、こうして椅子を引っ張り出してきたというわけだ。

 まるで囚人だ、とエリシュカは思った。死ぬことも逃げることも許されず、冷たい獄に囚われたまま夜ごとに罰を与えられる囚人。

 愛している、とヴァレリーは云う。――おれはそなたを心から愛している。

 愛とはなんだ、とエリシュカは思う。こうして部屋に閉じ込め、ただ夜ごとに身体を繋ぐばかりが愛だというのなら、愛などいらない。

 帰らせてほしいとはもう云わない。望んでも無駄だとわかってしまった。生涯をここで生きると決めたから、だからどうか許してほしい。

 エリシュカがいくらそう云っても、ヴァレリーは許してはくれなかった。

 冷たい熱のこもったおそろしい瞳でエリシュカを見つめ、おれの子を産むまではここから出さぬ、と冷酷きわまりないことを口にする。

 少し前に月の障りが遅れたとき、周囲は、もしや、と浮足立ったが、いくらもしないうちにそれは訪れた。デジレやモルガーヌは目に見えて落胆したが、エリシュカはむしろ安堵した。こんな状態で子を宿したとて、まともに産み育てることができるとは思えなかったからだ。

 だが、ヴァレリーの言葉が彼の本意であるのなら、エリシュカは彼の子を産み落とすまで、この部屋のなかに閉じこめられて暮らさなければならない。

「……アランさま」

 ぽつりと呟いて、エリシュカは露台の手すりに乗せた腕のなかに顔を埋めるようにする。

 いったいなぜ、こんなことになってしまったのだろう。

 帰らせてほしいと願ったことがいけなかったのだろうか。あるいは数か月ものあいだ、彼を拒み続けたことが。そうでなければ、姫さまの身代わりでもいいからと一夜の夢に溺れたことが。

 違う、とエリシュカは首を振った。きっと出逢ったこと、そのものがいけなかったのだ。厩舎で言葉を交わし、仮初にでも親しくなったことがすべての過ちの根源なのだ。

 いっそすべてが夢ならよかったのに、とエリシュカは今度はぼんやりと空を見上げる。淡い想いを抱いたことも、おれを愛してくれ、と夜ごとに乞われることも、すべてが夢ならよかったのに。

 ヴァレリーの瞳よりほんの少し明るい青に白い雲が流れている。はるか高みを鳥が飛んでいる。とても綺麗な空だ。

 故郷では仕事の合間に空を眺めることがささやかな喜びだった。黄昏に焼ける雲、僥倖の虹、激しい雪嵐の前触れの不吉な雷さえ、厳しい日々を慰めてくれた。

 でも、いまはこの美しい空を見てもなにも感じられない。空っぽだ。

 わたしがアランさまを想うことはもうないだろう、とエリシュカは予感する。空虚な心で誰かを想うことはできない。ましてやこの心にうつろを植えつけた男を想うことなどあるはずがない。


 不意に鋭い馬の嘶きがエリシュカの耳を打った。

「テネブラエ?」

 思わず立ち上がり、露台の手摺から身を乗り出す。どれだけ目を凝らそうと、耳を澄まそうと、その姿をとらえることはできないというのに、エリシュカはそうせずにはいられなかった。

 テネブラエの嘶きは続く。きっとわたしを探してくれているのだ、とエリシュカは思った。

 もうひと月近くもあの子の顔を見ていない。一向に姿を見せないわたしを諦め、さすがに誰かの世話を受け入れてくれているのだろうとは思っていたが、城を離れるとわかって最後の抵抗を示しているのかもしれない。

 エリシュカは露台の手摺から身を乗り出し、真下を覗き込んだ。思わず眩暈を覚えるほどの高さがある。でも――。

 シーツを割き、それを結びあわせれば下まで届く長さになるかもしれない。

 思いついてしまった閃きはエリシュカを衝き動かした。寝台に駆け寄りシーツを剥がし、露台の床に敷き詰められたタイルの欠けたところを使って布を裂いた。焦りと疲労に震える指先を叱咤しながらいくつもの結び目を作っていく。

 テネブラエ。あんなに鳴いて。すぐに行くから。一緒に行くから。そこで待っていて。――お願い。

 できあがった紐の片端を手すりの脚のひとつに結びつけ、片端を階下へ投げ下ろす。手すりを跨ぎ、垂れ下がった紐を掴んで、ひとつ大きく息を吸った。

 ひゅっ、という呼吸の音ともに身を躍らせようとしたそのとき。

 エリシュカの身体は宙でとどめられた。

「お嬢さまッ!」

 エリシュカの腰にクロエの腕が絡みつき、肩と腕をモルガーヌが捕まえる。ふたりがかりで手摺から引きずりおろされ、露台の床に押さえつけられた。エリシュカは手足を振りまわして暴れたが、侍女たちは容赦がなかった。

「なにをなさっておいでですかッ!」

 モルガーヌの顔は興奮と怒りで真っ赤に染まっている。日ごろは怜悧な表情を崩したことのないクロエでさえ、肩で息をしながら怒りの形相でエリシュカを睨み据えていた。

「離してっ!」

 なりません、と云いながらふたりはエリシュカを部屋内へ引きずり入れる。エリシュカはシーツを引き裂いて作った紐に必死に縋って抵抗したが、疲労に戦慄く腕はすぐに限界を迎え、逃亡はあえなく失敗に終わった。

 もう厭なの、テネブラエ、離して、とエリシュカが並べ立てるあらゆる言葉はすでに繋がった意味をなしていなかった。薄紫色の瞳からは大粒の涙がとめどもなく溢れ出てきて、頬から顎を伝い、彼女が纏う部屋着を濡らしていく。

 モルガーヌはたまらずに跪き、床に蹲るエリシュカを強く抱きしめた。

「お嬢さま」

 部屋内の騒ぎを聞きつけたほかの侍女たちが、なにごとですか、と表から扉を叩く音が響く。モルガーヌの目配せを受けたクロエがすっ飛んで行き、なんでもありません、と彼女たちを慇懃に追い返した。お嬢さまが厭な夢をご覧になったようですわ。

 クロエの云うように、なにもかもすべてが夢だったらよかったのに、とエリシュカは泣きじゃくった。ヴァレリーとのことも、この東国へ来たことも、生まれてきたことも、――なにもかもすべて。

 もう厭、とエリシュカは何度も云った。

 これまでどんなにつらいことがあっても死を願ったりはしなかった。厳しい勤めにも、誰かから虐げられることにも、死を命じられることにさえも耐えてきたエリシュカだったが、いまの状況にはこれ以上耐えられないと思った。

「……お嬢さま」

 モルガーヌはやわらかく、しかししっかりとエリシュカの身体を抱きしめたまま、何度も何度も呼びかけた。扉の傍に控えるクロエが痛ましげな表情でふたりを見つめている。

 王太子殿下のお嬢さまに対する仕打ちは、同じ女として到底許容できるものではない、とクロエは思っている。きっとモルガーヌさまも同じ思いでいらっしゃるはずだ。だけどあたしたちは、自分の思いを口にすることはできない。あたしたちは、王太子殿下に仕える侍女だから。

 モルガーヌさまはおっしゃっていた。殿下はすっかり変わられてしまった、と。以前の殿下であれば、私たち侍女の諫言にも広いお心でお応えになることもおありだったが、いまは違う。いまの殿下は誰の言葉にもお耳を貸さない。――たったひとり、誤った道を進んでおられる。

 誤った道というのであれば、それははじめからそうだったのではないだろうか、とクロエは思う。

 いまのヴァレリーの行いが、あまりにも残酷であることは明白だ。けれど、こんなふうにエリシュカを部屋に閉じ込め、夜ごとに苛むようになるより前だって、状況は同じだった。エリシュカがヴァレリーのそばにいるのは、ただひとえにヴァレリーの意志によるものであって、エリシュカの意志はどこにもない。

 帰りたい、と涙をこぼすエリシュカは、これまでもずっとそうやって訴え続けてきたのではないだろうか。

 なにもかもいまさらだろう、とクロエは思った。モルガーヌさまのなさることにどうこう云うつもりはないけれど、そうやって抱きしめて差し上げるのならば、どうしてもっと早くになさらなかったのか。あんなふうに壊れきってしまう前に――。

「クロエ」

 潜めた声に名を呼ばれ、クロエはいつのまにか伏せてしまっていた顔を上げた。開け放されたままの窓から聞こえていた表の喧騒は、いつのまにか静まっていた。馬の嘶きももう聞こえてこない。

「侍医どのをお呼びするのです」

 身を震わせて泣きじゃくるエリシュカを抱きしめたまま、モルガーヌが云う。

「静かに、あまり人目を引かないようにお連れして」

 クロエは、はい、と静かに返事をし、すぐに部屋を出て行った。

 幸い、と云ってよいかどうかはわからないが、とモルガーヌは考えた。幸い、いまの城内はシュテファーニアの出立を見送るために人気が少ない。国王陛下も王妃陛下も見送りこそなさらないが、執務室あるいは自室からお出になることはないだろう。

 王太子殿下は、妃殿下であった女性に対し、公人として最後の礼を尽くすために見送りに出ておられる。お嬢さまのお部屋に侍医を呼んだことが知れるとしても、ずっと先のことになるはずだ。

 近ごろのヴァレリーはエリシュカをこの部屋ひとつに閉じ込め、ここに近づく者を厳しく制限していた。自身を除いて、エリシュカの部屋に足を踏み入れることを許されているのは、三人の侍女――デジレ、モルガーヌ、クロエ――、侍医とその助手である医官のみである。

 さらに部屋の外には複数名の警護騎士を配置し、控えの間にも侍従と侍女が二名ずつ控えている。露台はどの部屋とも繋がっておらず、誰の目にも触れずにエリシュカの部屋に出入りすることは不可能な状態だった。

 むろんモルガーヌたち侍女にも、侍医たちにも勝手な振る舞い――ヴァレリーが許しを与えていない者を部屋に呼び入れたり、エリシュカを部屋から連れ出したり――は許されていない。

 わかっていような、とヴァレリーは云った。おれはそなたたちを信頼している。信頼を裏切るような真似をすれば、その贖いは死だ。

 勝手をすれば殺す、とヴァレリーははっきりと云った。さすがのデジレも顔を引きつらせて、それはあんまりな、と反駁しようとしたが、ヴァレリーはそれさえも許そうとはしなかった。

 あんな殿下は見たことがない、とはデジレの言葉である。どうしても譲れないことについては聞きわけのないところはおありだったけれど、あんなふうになにもかもを断ち切る刃のようなお顔は見たことがありません。

 エリシュカの心を壊し、身を損なうようなヴァレリーの命令に、どれほど抵抗を覚えようとも、デジレにも、もちろんモルガーヌにも逆らう術などなかった。

 だからこれまでじっと黙って従ってきたのだ、とモルガーヌは思う。

 けれど、痩せた身体をひどく強張らせたまま、心のすべてを涙に変えて泣きじゃくるエリシュカを見ていると、黙ってなどいられそうにない。どうにかして差し上げなければ、お嬢さまはひとり取り残された異国の地で、心寄せる相手もなく、ひどくつらい人生を歩まなければならなくなってしまう。

 たとえこのまま殿下のお子を宿し、母となられたところで、孤独な心をお慰めすることはできないだろう。お子を愛することができたとしても、そのお子はお嬢さまだけの子ではない。王の子であり、東国の子だ。生涯の伴侶にはなりえない。

 やはりここはどうしても、殿下に改心していただかなければなるまい、とモルガーヌは思った。執着と悋気をどうにかして愛情に変えていただかなくては。

 そのためにはどうするべきか、モルガーヌは腕のなかで震え続けるエリシュカを抱きしめながら、じっと考えはじめた。

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