38

 結局、私はエリシュカのために、なにひとつしてあげることができなかった、とベルタは思った。

 二年のあいだ身に纏った東国王城付侍女の濃茶色の仕着せの代わりに、地味な灰色の平服ワンピースを身につけ、黒い長外套コートを羽織る。平年ならば春も盛りを迎えるころだというのに、いまだに霙が降ることもある今年は、例年にない寒い夏になるのではないかと云われていた。

 温暖な東国王都でこの様子であれば、故郷にはいまだに微風にさえ舞うほどの軽く冷たい雪が降っているのだろうな、とベルタは思う。

 帰郷の喜びに浮き立つ周囲とは裏腹に、ベルタの心は沈んだままだった。――エリシュカ。あの子を置いてここを去らなくてはならないなんて。

 ツェツィーリアがどうにかして――来たときと同じように、侍女の列のなかに紛れ込ませてしまえ――エリシュカを取り戻そうとして失敗した日、エリシュカが懐妊しているかもしれないと聞かされたベルタは、そこがツェツィーリアの前であることも、そのときが仕事中であることも忘れ、卒倒してしまいたくなった。やはり、寵姫であるエリシュカに王太子殿下の手を拒めるはずもなかったのか――。

 かくなるうえは、姫さまのおっしゃるようにエリシュカの永の幸せを願いつつ、ここへ残していくしかありません、とツェツィーリアは云った。

 ベルタはツェツィーリアを責める気にはなれなかった。本来、ツェツィーリアにはエリシュカやベルタのために労力を割く義理などない。にもかかわらず彼女は私たちのために多くの時間と、心までも割いてくださった。

 ツェツィーリアさまはご自身を責めていらっしゃるのだろう、とベルタは思う。エリシュカが王太子の手の内に囚われてしまったことに対して、ツェツィーリアはベルタと同じか、あるいはそれ以上の負い目を感じているに違いない。だからこそデジレに睨まれる厄介を押してもエリシュカを取り戻そうとしてくれた。

 申し訳ないわね、とツェツィーリアは云った。部下のひとりも取り戻すことができない第一侍女なんて情けない限りだわ。

 私たちは所詮、異国からの客人にすぎないのだ、とそのときのベルタは、諦めのこもったため息をつかずにはいられなかった。この東国王城の次期主たらん王太子の意に反することなど、はじめからできるはずもなかった。

 ただ、それでも私は、姫さまとツェツィーリアさまを許すことはできない、とベルタはそうも思う。

 私たちが間違っていたのね、とツェツィーリアはそう云ったのだ。エリシュカを身代わりに差し出すなんて、考えてみればずいぶんと残酷で愚かな真似をしたものね。命令だから当然だと、賤民だから従うべきだと、さも必然のごとくにエリシュカの命を差し出しておきながら、そんなふうにあっさりと詫びる姿には傲慢を感じなくもない。

 ただそれは、私自身にも云えることなのだ、とベルタはほかの侍女たちとともに荷馬車の横に並びながらため息をついた。自分の荷物を荷役夫に渡してから列を離れる。

 振り返って仰ぎ見る堅牢な石造りの王城は、昼前の穏やかな陽射しを遮って聳え立ち、神ツ国へ向かって出立するシュテファーニアの一行に薄鼠色の影を投げかけていた。その姿は決して倒せぬ巨大な敵のようにも見え、ベルタの心をひどく沈み込ませた。

 私は自分自身を許すことができない。エリシュカのために、結局なにひとつしてあげることのできなかった自分自身を。

 エリシュカに苦しみと悲しみを強いて、挙句、異国に置き去りにする。それは姫さまの罪でもなく、ツェツィーリアさまの咎でもなく、私自身の罪であり咎だと思う。

 懐妊したかもしれないというエリシュカに、ベルタはとうとう最後まで会うことが叶わなかった。ツェツィーリアにもモルガーヌにもさんざん頼み込んだけれど、会わせることはできないと、その答えはいつも同じだった。

 ベルタには本当になにもできなかった。悔しくて悲しくて、――けれど、ただそれだけだった。

 とことん無力であるばかりか、もしかしたら私がエリシュカを窮地に追い込んだのかもしれない、とさえ思うベルタである。王太子の手を拒めなどと、あんなことを云わなければよかった。エリシュカは素直な子だ。私の言葉を信じて――王太子殿下の手を拒めば、故郷へ帰れるはず――、きっとそのとおりにしたのだろう。

 聞くところによれば、最近のヴァレリーのエリシュカに対する執心は常軌を逸しているという。

 それはきっと、エリシュカが王太子殿下を拒んだせいだ、とベルタは思う。次期国王となるべく、数多の者たちに恭しく傅かれて育ってきた王太子殿下はきっと、これまでの人生で誰かを求めて拒まれたことなどなかったはずだ。ましてや、手の内に囲い込んだ寵姫に拒まれるなど、彼にとってみればあってはならないことだったのに違いない。

 あらゆるものを手にすることのできる男が、自分の意のままにならぬものに執着するのは当然の理屈だ。なんとしてもわが物にせんとばかりに、エリシュカを追い詰めているに違いない。

 私があんなことを云わなければ、エリシュカはきっと王太子殿下に素直に身を委ね、結果、帰れないことに変わりはなくとも、いまよりももう少し心穏やかな日々を過ごせていたかもしれないのだ。

 厩番たちが、シュテファーニアをはじめ、帰路につく一同が騎乗する馬たちを引いてきた。あたりは馬の嘶きや蹄の音に溢れ、途端に騒々しくなった。厩番たちが馬を急かしたり宥めたりする声がやけに耳につく。

 ことさらに大きな嘶きと厩番の怒鳴る声が響いて、ベルタは思わずそちらを振り返った。

 身体の大きな青毛馬が、男三人に引きずられて列に加えられようとしている。足を踏ん張り、歯を剥き出しにして、その青毛はやけに反抗的だった。

 思わず手綱を緩めてしまった厩番が、振り上げられた脚で蹴られ踏みつけられ、尋常ではない悲鳴を上げた。あたりはにわかに騒然とし、侍女たちが逃げ惑う。

 ベルタはぶつかってくる侍女たちを避けようともせずに、その場に立ち尽くした。

 ――テネブラエ。

 あの子がここに連れてこられるなんて。考えてもいなかった。エリシュカ以外に決して懐こうとしないあの子が、エリシュカのいない旅に加えられるとは思わなかった。てっきり、置いて行くものとばかり思っていたのに――。

 まずい、とベルタは唇を噛みしめた。まずいことになった。


 エリシュカに会いたくとも会えずにいたあいだ、そしてシュテファーニアの帰国の支度が着々と調っていくあいだ、ベルタはなにもせずに手を拱いていたわけではない。自身の仕事をこなしつつ、最悪の事態に備えて少しずつ少しずつ用意を整えていたのである。

 ベルタが思う最悪の事態とは、つまりエリシュカをひとりこの王城に残していかねばならなくなること。

 シュテファーニアは、ヴァレリーとともにあることがエリシュカの幸いだと云ったそうだ。ツェツィーリアもまた同じように考えているということは、ついのこあいだ本人から聞かされたばかりだ。

 そんなはずがないのに、とベルタは思う。エリシュカの顔を見れば、そんなことは一目瞭然だ。王太子のことを話すときの彼女と、家族のことを話すときの彼女。満たされているのはどちらか――。

 暮らしに不自由しないことや贅沢に浸ることは、幸福とは別の問題だ。神ツ国で暮らしていたときのエリシュカは到底恵まれていたとは云えないが、大切な家族に守られ、家族を守り、きっと心は穏やかだったに違いない。

 なにを幸いと思い、なにを悲しみと思うかは、人によって違うし、当人にしかわからないものだろう。

 ベルタだって、エリシュカが故郷へ帰りたくないというのなら、帰らないほうがいいと思う。ヴァレリーに愛され、それをよすがにここで生きていきたいというのなら、それが彼女の幸いなのだと思う。

 だけど、エリシュカは帰りたいと云った。どうしても帰りたい、と。ならば、彼女の幸いとは――。

 それにベルタは、ヴァレリーのことを話すときのエリシュカの表情を忘れることができない。なにかに怯えたような、すべてを諦めたような、とても静かな顔。

 愛し、愛される喜びに満ちた顔ではなかった。

 エリシュカにあんな顔をさせるような男が、彼女を幸せにできるはずがない。それがたとえ、絶大な権力をもって一国に君臨する国王となることを定められた王太子であっても。

 だからベルタは、もしも万が一、エリシュカが東国に残されることになったときにも、自分だけは彼女に希望を残していこうと心に決めていた。

 希望。故郷へ帰れるかもしれないという希望。

 ヴァレリーがエリシュカを手放すことはありえない。だとすれば、エリシュカは自らヴァレリーの手を振り切らなくてはならない。

 つまりそれは、彼女が己の力と知恵でここを逃げ出さなくてはならない、ということだ。

 私の知るエリシュカなら、きっとその答えに辿り着くはず、とベルタは考えた。私はそんなあの子の助けになるべく、できる限りのことをしておかねばならない。エリシュカのために、これまでなにもできなかった私の、これはせめてもの罪滅ぼしなのだ。

 エリシュカが着ていた侍女の仕着せを彼女の部屋へ戻さずにおいて、時機タイミングを見計らって厩舎に隠しておいたのは、そのひとつである。エリシュカにしか心を開かぬテネブラエの縄張りに踏み込むことはおそろしかったが、エリシュカの命綱を託すのに、あの青毛以外は思いつかなかった。

 エリシュカ以外の誰もそこを掃除することがありませんようにと期待しながら、侍女の仕着せをテネブラエの寝藁のなかに隠した。もちろん彼にもよく云い聞かせた。必ずエリシュカに渡すのよ、と。

 ほかの厩番がそれを発見してしまいやしないかと冷や冷やしながら、ベルタはその後、ほとんど毎朝厩舎へと通った。隠しておいた場所から仕着せが消えたあとも、こんなものが厩舎から出てきた、と騒ぎになるようなことはなかった。

 あれを見つけたのはエリシュカなのね、と思わずテネブラエを振り返ったが、青毛はしれっとした顔をして餌を食んでいた。だが、ベルタを見ても威嚇しなくなったところをみると、どうやらエリシュカの敵ではないと認識されたらしい。よし、とベルタは心の内で快哉を叫んだ。

 仕着せはきっとエリシュカの手に渡ったのだ。確証はなかったが、ベルタはそう信じることにした。

 東国王城では、使用人たちが貸与される衣類は厳しく管理されている。主に警護上の理由――侍女にしろ、下女にしろ、ほかの通いの使用人たちにしろ、決められた仕着せを着て、通用札を見せさえすれば、使用人用の通用門からの出入に対する監視の目は格段に緩くなる――から、誰がどんな衣類を何着保持しているかについては煩く数えられるし、破損や修繕、廃棄についても鬱陶しいほどの手続が必要とされる。

 むろん、ベルタたち神ツ国の侍女たちは、帰郷にあたって、東国王城付侍女として貸与されていた仕着せなどをすべて返却しなければならなかった。

 ベルタが、エリシュカが貸し与えられていた仕着せを一着、うまいことちょろまかすことができたのは、彼女が職を離れる原因が特殊なものであったために手続に乱れがあったせいと、ベルタの行動が迅速だったせいである。

 ベルタはそのことを正しく理解していた。だから、彼女はエリシュカの逃亡に必要と思われるそのほかのもの――目立たぬ色合いの靴や靴下、帽子、外套など――をぬかりなく用意するため、貸与品を返却する面倒な仕事をあえて自ら引き受けた。私に預けていただければ、全部まとめて手続しておきますわ。みなさまはほかにもたくさんお仕事がおありでしょうから。

 いくら厳しい規則があるとはいえ、それを運用するのは人間である。

 大勢の侍女たちが、やれ裾が解れたの、袖が破けたのと修繕を要求したり、あるいは抜けない染みがついたの、大きな鉤裂きができたのと交換を要求したりするなかで、十五名もの侍女たちがいっせいに衣類や備品を返却しようとすれば、現場は必ず混乱し、規則だ、手続だ、などと生温いことを云っていられなくなる。

 おまけに神ツ国の侍女たちは、よくも悪くも狭い社会に生きていおり、世間ずれもしていなければ、欲深くもない。彼女たちのなかに、貸与された品々を悪用してひと儲けしよう――つまり、侍女の仕着せ類を売っ払って小金に換えよう――とするような不埒者はいない、と考えられていた。

 ベルタはその隙につけ込み、靴に手袋、帽子から外套に至る一式をエリシュカのために取り置くことに成功した。そして、それらをひとつずつテネブラエの囲いのなかに隠しておくようにしたのである。

 もしも、あれらがすべてエリシュカにきちんと渡っているのであれば、彼女の手元には侍女の仕着せ一式が揃っているはずだ。王城で働く者の衣裳であるから、民が日常に纏うような質素なものではないが、少なくとも寵姫である彼女に与えられているものよりは、ずっと動きやすく、周囲にも溶け込みやすいはずだ。それらは、エリシュカが城を抜け出そうとするときには必ず役に立つ、とベルタは思う。

 そして彼女は昨日も、これが最後と、テネブラエの囲いを訪れていた。藁を避け、壁と床の角に小さな皮袋を置いて、その上にいくつかの石を乗せた。藁を元に戻して立ち上がったベルタは、なにかに祈るように目を閉じた。――エリシュカ。

 頼んだわよ、テネブラエ、と最後にベルタは云ったのだった。凶暴な印象ばかりが強い青毛馬に近寄ることはおそろしかったが、彼の強さを頼みに感じていることもたしかだった。あんたしかいないんだからね、と漆黒の眼を覗き込む。エリシュカを守ってね。

 テネブラエは相変わらず知らん顔をして、なにやらもぐもぐと口を動かしていたが、やがて、わかった、とでも云うように尻尾をはたはたと動かしてみせた。


 あんただけが頼りだったのに、とベルタは暴れるテネブラエを見つめる。なんで連れ出されてきちゃったのよ。

 眉根を寄せ、自分を見つめるベルタの前で、黒い獣は必死になって嘶き、抗っている。男四人がかりでも振り回されるほどの勢いに、みなの顔が青ざめはじめたころ、凛とした声が響いた。

「なにをしているのです?」

「姫さま」

 ツェツィーリアの鋭い声がシュテファーニアを呼ぶ。人前、とくに男性の前に姿を表すことをひどく厭がっていたはずのシュテファーニアが、混乱の場で自ら声を上げたことに驚いたのだろう。

 ツェツィーリア、とシュテファーニアは云った。

「いったいなにごとですか」

「姫さまは馬車のなかに」

 よいのです、とシュテファーニアは目を細めて第一侍女を一喝した。

「ここで騒ぎを起こすわけにはいきません」

 厩番をはじめ、あたりにいた者たちは、シュテファーニアを前に深々と頭を下げ、礼をとってみせた。

 王太子と離縁した彼女はすでに王族ではない。また簡素な旅装に身を包んでいるために日ごろの華やかさは欠片もない。だが、単なる身分や見目の美しさにとどまらぬ威厳が、まだ若いシュテファーニアにどこか神々しくさえある魅力を与えていた。

「馬が暴れておりまして」

 シュテファーニアの一番近くにいた厩番がおそるおそるといった調子で答えた。日ごろであればそのような者の直答を許さぬはずのシュテファーニアは、そのときばかりは紫色の瞳をいまだ暴れているテネブラエに据え、なにかを考え込むような表情を見せた。やがて短いため息とともに吐き出された命令は、ツェツィーリアを仰天させる。

「あれは置いて行くわ。厩に戻しなさい」

「お待ちください、姫さま」

 ツェツィーリアは主を制止せんと慌てて声を上げた。テネブラエは稀に見る優駿である。神ツ国としては簡単に手放したくない大切な財であるはずだった。

「あの馬は……」

「どんな駿馬だって、自在に駆ることができないならば無用の長物。餞別だと思って置いていくわ」

 シュテファーニアは、誰に向けての、とは云わなかった。それだけ云えば、ツェツィーリアには伝わるはずだと思ったからだ。

 ツェツィーリアは息を飲み、しかしすぐに静かに頷いた。それを見たシュテファーニアは先ほどのベルタと同じように仰ぐようにして城を見上げた。望んであったわけではない、この王城での二年間が走馬灯のように脳裏を駆け抜けていく。

 よいことなどひとつもなかった。楽しいことも、嬉しいことも、なにひとつ。

 夫となった男は厭わしく、住まいとなった城は冷たかった。それがここに馴染もうとしなかった己のせいであるとなんとなくは理解していても、拗れてしまった感情を結び直すことはできなかった。

 それでも最後に、とシュテファーニアは思った。わたくしは、少しは変わることができたのかもしれない。

 これまで思いを至らせることもなかった賤民の娘に情けをかけ、彼女の幸いを願いさえした。神の恩寵を受けることのできぬ存在に、罰ではなく言祝ぎを与えることもできるのだと、わたくしははじめて知ったのだ。

 思いもよらぬことだった。人であるとさえ思っていなかった賤民にも心があり、思いがあり、命があると、そう気づけたのは、わたくしにこれ以上ないほどの屈辱を味わわせてくれたあの娘がいたからだ。

 おかしなものだ、とシュテファーニアは思う。心通わぬとはいえ夫であった男を奪われ、一時は殺めてやろうとさえ思ったのに、いまのわたくしは国へ帰ったのちは、彼ら賤民の処遇についていま一度考え直す必要があるとまで思っている。

 賤民たちがわれらとは違い、生まれながらの罪深い存在であるとしても、その罪は神によってすでに罰されている。わたくしたちは、神の罰に重ねてさらなる苦役を課すのではなく、彼らを赦すこともできるのではないだろうか。

 あるいは、赦すべきであるのかもしれない、とシュテファーニアは眼差しを前へと戻した。これまで一度として考えたこともなかったことだ。けれど、いまのままではいけないと身のうちから聞こえてくる声は熱く激しい。

 シュテファーニアはツェツィーリアにふたたび促され、馬車に乗り込んだ。離れたところに、立っているヴァレリーには一瞥もくれなかった。

 あの娘には感謝しなければ、とシュテファーニアは飽きもせずに、今度は馬車の窓から城を見上げた。わたくしに考えるきっかけをくれたあの娘には。

 だからわたくしはあの娘の幸いを願う、とシュテファーニアは小さな祈りを捧げた。特別の祝福を受けた教主の血がもたらす言祝ぎが、あの娘にさらなる幸いを運ぶように、と。


 馬車に乗り込んだシュテファーニアを、ベルタは複雑な思いで見つめていた。

 姫さまがいらっしゃらなければ大変なことになっていた、とベルタは思う。もしも姫さまが、テネブラエを置いて行くとおっしゃらなければ、あの青毛はあのまま無理矢理にでも旅の列に加えられていたに違いない。そうなれば彼がいた場所は綺麗に片付けられ、皮袋に詰めこんだ金貨が見つかっていたことだろう。

 いったいどんな大騒ぎになっていたことか、とベルタは身を震わせた。

 東国侍女として受け取った給金のうち、手元に残しておいたほとんどを、ベルタは小さな皮袋に詰め、エリシュカのためにと厩舎に隠していた。昨日のことである。

 旅路に金はいくらあっても足りないはずだ、とベルタは考えていた。だが、王太子の手の内に囲われているエリシュカが現金を手にできるとは思えない。

 だからベルタは、服や靴を渡すのと同じ要領で金も残しておくことにしたのである。靴や帽子ならば見つかったところでたいした騒ぎにはなるまいが、金貨は違う。見つかれば必ずや騒動となり、あるいはその前に隠しておいたあれこれの品と合わせ、ベルタの企図するところが暴かれてしまうかもしない。

 テネブラエが連れてこられたとき、ベルタが青ざめたのはそのせいだった。

 だが、テネブラエは引きずられるように厩舎に戻されていった。嘶きの声も聞こえなくなったから、きっと囲いのなかに戻されたのだろう。

 よかった、とベルタは深い息をついた。そして、もしかしたら姫さまは少しばかりお変わりになられたのかもしれない、と思った。テネブラエを残していくよう命じられたのは、きっとその表れだ。

 エリシュカを身代わりに差し出して平然としていた姫さまには腹も立ったが、彼女にはきっと悪意などなかったのだろう、とベルタは思う。姫さまにとって、自分を守る盾としてエリシュカの身を利用することは、呼吸をするように自然なことだったのだ。そして姫さまはいま、同じ自然さを持ってエリシュカの幸いを願っている。

 誰も悪くないとは云えない。けれど、姫さまだけが、ツェツィーリアさまだけが、そして王太子殿下だけが悪いとも云えない。

 そのことに気づいてしまった私にできるのは祈ることだけだ、とベルタは軽く俯いたまま侍女の列に加わった。そして、エリシュカ、と最後の祈りを捧げる。

 エリシュカ。あなたがどんな道を選んでも――ここに残ると決めても、故郷に帰ると決めても――私は、私だけは、あなたの味方でいると心に決めた。

 王太子殿下のそばにあなたの光があるのなら、どうかその光を求めて。

 でも、やはり故郷に帰るというのなら、ささやかながら私の助けを受け取って。

 そして、どうか、どうかあなたがあなたの行きたい道を行くことができるように。願わくはその道が、私の未来と交わることがあるように。

 いつかまた、あなたと抱きあう日が来るように――。

 動きはじめた列を追って歩き出したベルタは、そのまま一度として振り返ることなく王城から去っていった。

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