51

 エリシュカがオルジシュカの地図を譲り受けた日から三日が経った。

 旅立ちの日は明日と決めてある。

 エリシュカは厩に繋いであるテネブラエの旅装を調えてやりながらその鼻面を撫でた。これから先、ただひとりの旅の仲間となる賢い獣とひさしぶりに――そして、しばらくは望めなくなるであろう――ゆったりした時間を過ごしていた。

 エリシュカが海猫旅団を離れてひとり神ツ国を目指すことを、最後まで受け入れようとしなかったのはジーノだった。

 絶対だめだ、とジーノは何度も何度も強硬に云い張った。どうしても行くっていうなら、オレもついて行く、とまで口にして、周囲からの失笑を買い――おまえなんかがついて行ったって、エリィのお荷物になるだけだろうが――、拗ねてむくれて大騒ぎをした。

 山中の厳寒に備えて旅支度を整えたり、テネブラエのための飼料やら装備やらを買いそろえたりするのに忙しかったエリシュカだが、このジーノの我儘を宥めるのにも相当な時間を割かなくてはならなかった。

 ジーノの前では、最後までただのエリィでいたかったな、とエリシュカは思う。それが自分の我儘だということは承知していても、賤民の娘でもなく王太子の情人でもない、ただのエリィを慕ってくれた少年にだけは、自分の事情など聞かせたくなかった。

 だが、ジーノが捕らえられた原因が――それがたとえ、ジーノ自身の過失であったとしても――自分にあったことを知ったエリシュカは、ジーノを守るために己の立場を明かすことに決めたのだった。

 エリシュカが神ツ国から来た異国の娘であり、王城から追われる立場であることを知ったジーノは、そこではじめて得心がいった、というような顔をして見せた。オレが捕まって殺されそうになったのは、そういう理由だったんだね。エリィが旅をしていたのは、西国の主人のもとへ向かうためなんかじゃなく、神ツ国の家族に会いに行くためだったんだ。そっか、そうなんだ。それなら仕方ないよね。

 ジーノはそう云って、驚くほどあさりとエリシュカとの別れを受け入れた。でも、それならそうと云ってくれりゃあよかったのに。

 一緒にいたオルジシュカに、なんだいおまえ、命の恩人に向かってずいぶんと冷たいじゃないか、とからかわれると、ジーノは、だって父ちゃんや母ちゃんに会いに行くんだろ、それなら仕方ないじゃないか、と当然のように云ったのだ。

 エリィにはさ、ずっと一緒にいてほしいって思うけど、父ちゃんや母ちゃんに会いたいって云うんなら、それは仕方ないことだよね。オレだって会えるもんなら会いてえもん。

 それはジーノが初めて明かした、彼のこどもらしい心の一部だった。

 父親の顔を知らず、母親とは生き別れ、悪事を手伝わされながら育ったジーノは、出会ってからこれまで一度たりとも、家族について話したことがなかった。エルゼオの話をするときも母親の話をするときも、彼は努めて冷静に淡々とした態度を崩そうとしなかった。

 自分にとっての親はとうになく、それは寂しいとか悲しいとか思うようなことではない、と己に云い聞かせながら彼は育ってきたのだ。会いたいとか会いたくないとか、そんなことを云ったって、どうせ会えないのだから、言葉にするだけ無駄なのだ――。

 本当はそうではなかった。どこかにいるはずの父親のことも、わが子よりも己が身を大切にした母親のことも、本当は心の底から慕っていたし、会いたいと思っていたのだった。

 会えるはずもねえけどな、と云ったジーノの言葉には、そうした諦念が表れていた。

 エリシュカは胸を衝かれて黙り込んだ。なぜか、ひとことも発することができなくなった。

 ジーノはひとり納得して、エリシュカの旅を案ずる言葉を並べはじめた。彼のこどもらしい心遣いに感謝しながら、あのときのエリシュカは必死になって考えていた。

 わたしはなぜ、ジーノにひと言も返すことができないのだろう。

 あれからエリシュカは、ひとりになるたび同じことを考え続けてきた。その答えにふと思い至ったのは、やはりこうやってテネブラエのそばにいるときだった、とエリシュカは思い出す。

 オルジシュカに家族はない。ジーノに両親はない。自由に、闊達に生きる彼らが持ちえぬものを、自分は持っている。

 エリシュカはこのときはじめて――生まれてはじめて――自分のことを幸せな人間だと思った。わたしには、会おうと思えば会いに帰れる家族がいる。

 自分はひどく虐げられているのだと思っていた。

 惨めな暮らしを強いられ、このままなんの幸いも知らずに死ぬのだと思っていた。

 望まぬ相手と生涯をともにし、望まぬ子を産むのだと思っていた。

 すべては避けられぬ宿命のようなものだと、そう思っていた。

 ようするにエリシュカは、自分のことを決して幸せにはなれない存在だと思い込んでいたのだった。

 ――けれど。

 けれど、そうではなかったのかもしれない。

 わたしはもうとっくに、幸せだったのかもしれない。

 そのことに気づいていなかっただけで。気づこうとしなかっただけで。

 わたしには家族がいた。友がいた。ともに働く仲間もいた。

 つらいことはたくさんあったけれど、そのたびにみながわたしを助けてくれた。

 わたしは、――彼らを助けたことがあっただろうか。

 なにもできないと思い込んでいた。無力なわたしにできることなど、なにひとつないのだと思い込んでいた。

 本当に、そうだったのだろうか。

 生まれてはじめて心の底から勇気を振り絞ったのは、ジーノを助けたいと言葉にしたときだ。あのとき、わたしは自分のためではなく、誰かのために力を使いたいと思った。

 旅に出てから得た、力を。

 だけど本当は、本当はもっとずっと前から、わたしには力があったのではないだろうか。

 誰かを助けるための、みなと分かち合うための、自分を守るための、――力が。

 ただ、わたしが気づかなかっただけで。

 ううん、違う。気づかないふりをしていただけで。

 だって守られているのは心地がよかった。思いどおりにならないと泣いていれば、ただ唇を噛んで耐え忍んでいれば、誰かがわたしを守ってくれた。

 父が。

 ベルタさまが。

 ときには、モルガーヌさまが。

 そして、テネブラエが。

 差し延べられる手を当然と思い、頭を撫でてくれる手に安堵した。そして、その手が自分のためだけのものではないと気づくと、身勝手にも怒りを抱いた。

 わたしはなんと自分勝手で、愚かで、尊大だったのだろう。

 自分で自分を守ろうと戦うこともせず、人の心を慮ることもせず、考えることもせず、流されるままに生きてきた。

「……莫迦だったんだね、わたし」

 鞍の位置を調整し、金具の締め具合を確認しながら思わずひとりごちたエリシュカに、テネブラエが鼻面を寄せてきた。慰めてくれるつもりなのだろうか。この子はいつでも心やさしい。

「ごめんね、テネブラエ」

 なにがだ、とでも云いたげにテネブラエは鼻を鳴らした。

「これまでもいっぱい無茶させたけど、これからも」

 なにを謝ることがある、とテネブラエはまた鼻を鳴らした。彼は愛する主人がともにあるのなら、そこが地獄の先に通ずる道であっても喜んで歩むつもりでいるのだ。

 もう間違えない、とエリシュカは思った。多くの人と同じように、わたしにもきっと多くのことができるはずだ。

 だって、わたしには自由に感じることのできる心と、自由に動く身体と、自由に考えられる頭がある。父と母がわたしにくれた、大切な、――わたし自身。

 諦めではなく喜びと悲しみを覚え、俯いてばかりいた顔を上げ、未来のことを考えよう。

 わたし自身の未来だけではなく、家族の、周りの人たちの、そして故郷の――。

 なにもかもをすぐに変えられるなんて思わないけれど、なにもしないうちから諦めたくはない。オルジシュカのように涙を流すこともできずに苦しむ人を、もう見たくはない。

 エリシュカは馬具の調整を終え、テネブラエから鞍や銜を外してやった。これからしばらくは厳しい旅になる。今夜くらいは、あたたかく乾いた草の上でゆっくりと寝ませてやりたい。

 おやすみ、テネブラエ、と愛馬に挨拶を告げ、エリシュカは厩をあとにした。

 降るような星空の下をゆっくりとした歩みで部屋に戻る。途中、ふと足を止めて空を見上げた。

 不思議なことだ、とエリシュカは思った。

 家族とともにあった神ツ国では、心はとても穏やかだった。けれど、空を見上げたことなど一度もなかった。東国王城に暮らしていたときも同じだった。

 旅に出てから、エリシュカの心はいつも揺れていた。不安や恐怖に。感謝や喜びに。そしてそのたび、空を見上げた。抜けるような青、どんよりとした灰、世界を染める茜、瞬く光を散らした闇。

 故郷へ向かう途上にすぎない、旅に暮らす日々は、これまでのどんな毎日よりもエリシュカの心を揺らし、掻き乱し、そのくせ穏やかにした。故郷にいたときも、王城にいたときも揺らがなかったはずのこの心は、けれどきっとひどく荒れていたのだろう、とエリシュカは思った。

 自分がなにを感じているのか、立ち止まって見つめる余裕などどこにもなかった。空を見上げるゆとりがなかったのと同じことだ。

 ああ、そうか、とエリシュカは思った。自分だけではない。自分の周りにいる人たちがなにを感じ、なにを思い、なにを願っていたのか、わたしにはそのことを考える余裕もなかったのだ。

 わたしと離れなければならなかった家族が、わたしを案じてくれたベルタさまが、わたしを見守ろうとしてくれたモルガーヌさまが、そのときなにを感じ、考えていたのか、わたしはそうしたことに思いを馳せることさえなかった。いつだって自分のことだけでいっぱいいっぱいで――。

 そして、エリシュカはふと目蓋を閉じた。

 ――アランさま。

 いまこうして静かな心で静かな夜空を見上げ、そこに浮かぶのがあの方の姿だというのが、なんともいえず可笑しな感じがする。

 王城を出るときには、もう二度と思い出すこともないと思っていたのに、どうしても忘れることができない。ひどいことをされたと思うのに、心底から憎むことができない。

 なぜなのだろうと考えたこともあったけれど、答えは出せないままだった。

 けれど、いまならばなんとなくわかるような気がする。

 きっと気づいていたからだ、とエリシュカは思った。

 ヴァレリーがエリシュカをひどい目に遭わせたのは、たしかに彼の身勝手ゆえのことだった。けれど、ただそれだけが理由ではなかった。

 たしかにヴァレリーは、いつまで経っても己の思うようにならないエリシュカに苛立っていた。焦りを募らせてもいただろう。彼のやり方は決して許されてよいものではない。

 けれど、王太子として不足のなかったはずの彼が、ことエリシュカにかかわることとなると、ああも理性を失い、横暴を働いたのはなぜか。

 しかもヴァレリーは、己が過ちを犯していると自覚していた。正しい振る舞いではないと知りながら、エリシュカに無体を強いていたのだ。

 アランさまがあんな真似をなさったのは、きっとわたしのせいでもあったのだ、とエリシュカは思った。どれほど言葉を重ねても、どれほど身を抱きしめても、決してアランさまの心を知ろうとしなかった、わたしのせいでもあったのだ。

 帰したくない。

 そばにいてくれ。

 ともに生きよう。

 愛している。

 ヴァレリーが幾度もエリシュカに捧げた言葉たち。王太子である彼が、その立場も矜恃も投げ打ってこいねがった、エリシュカの心と身体。

 悲しいかな、そうした言葉はどれひとつとしてエリシュカの心には届いていなかった。

 エリシュカは決して信じようとしなかった。ヴァレリーの言葉も振る舞いも、どれひとつとして。

 だから受け入れることもせず、かと云って拒むこともしなかった。

 信じてもいなかったのだからあたりまえだ。

 エリシュカはヴァレリーから告げられた言葉を、想いを、受け取りもせず拒みもせず、ただその場に放り出した。

 ヴァレリーは途方に暮れたことだろう。

 受け入れられなくとも、はっきりと拒まれたのならばそれなりの対応をすることができたはずだ。深い想いを拒まれ、傷ついたとしても、彼は強い男であるのだから。

 しかし、そもそもヴァレリーの言葉を信じようとしなかったエリシュカは、彼の想いも信じなかった。そこにあると信じなかったから、拒みもしなかった。

 ヴァレリーは――エリシュカに出会ってはじめて恋を知った哀れな男は――ひどく混乱し、どうにかしてエリシュカに自分の想いを信じてもらおうとした。部屋に閉じ込め、誰にも会わせず、言葉が通じないのなら身体で、態度で、とにかくなんとしてでも信じてもらおうとしたのだ。

 そうまでしても、エリシュカはヴァレリーの想いを信じなかった。彼女にとってははるか雲の上の存在であるヴァレリーが、まさか自分のような賤民の娘に心を寄せるなど、ありえないこと、あってはならないことだと、端から決めてかかっていたからだ。

 これほど愚かなことがあるだろうか、とエリシュカは思った。差し出された想いに偽りがあるかどうか、あれだけ濃密な時をともに過ごせば、少しはわかりそうなものなのに。

 わたしは目を瞑り続けた。そこにある想いから、真実から。そして、これ以上ないほど深く、アランさまを傷つけてしまったのだ。

 アランさまのもとにいることを、わたしは耐えがたい苦しみのように思って王城を逃げ出してきたけれど、本当はわたしこそが、アランさまに耐えがたい痛みを与えていたのに違いない。

 だとしたら、アランさまの罪はわたしの罪でもある。アランさまとわたしとは同じように罪深く、同じように愚かで、同じように傷ついていた。

 エリシュカは深い深いため息をついた。――なにもかも、いまさらだ。

 一度は淡い思慕を抱いたアランさま。

 きっと深い想いを寄せてくれていたのだろうアランさま。

 お会いしてもきっと言葉はすぐには見つからないだろう。きっとすぐに手を取ることもできないだろう。自身の愚かさが招いたこととはいえ、心と身体に受けた痛みは本物だからだ。

 それはきっとアランさまも同じだろう、とエリシュカは思った。すぐにお言葉をかけては下さらないだろう。すぐに抱きしめてもくださらないはずだ。アランさまもまた、深く傷ついているはずだからだ。

 それでもいまならば、きちんと受け止められるような気がした。寄せられる想いも、紡がれる言葉も、あたたかな抱擁も。

 否、違う。

 今度は自分から差し出すことができる。いまはまだ淡い想いを、堰き止めてしまっていた言葉を、やわらかな抱擁を。

 けれど、そうすることはもう、――二度と叶わない。

 アランさまの想いに触れることも、わたしの想いを差し出すことも、もうできない。

 すべてを捨てて逃げたのはわたし。愚かなわたし。アランさまの心に気づかなかったばかりか、自分の心にさえ気づこうとはしなかった。

 アランさま、とエリシュカは夜空に輝く、もっとも明るい星に向かってそう囁いた。

 どうか、力強く、気高い王となって、あの豊かな東国を正しい未来へと導いていかれますように。

 どうか、心やさしく、しなやかな強さを秘めた女性と巡り会い、穏やかなご家族に恵まれますように。

 どうか、どうか――、お幸せに、アランさま。

 それは、エリシュカが生まれてはじめて神に捧げた、心の底からの祈りの言葉だった。

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