50
その刹那、シャニョンの脳裏からは、エヴラールもトレイユも、ヴァレリーも革命軍もなにもかもが綺麗に消え失せていた。彼の思考を占めるただひとつは、クザンにまつわる真実の行方だけだった。――あなたは、僕を裏切っていたのか。
リオネルと話をしなければ、とシャニョンは思った。
どこか焦点の合わぬ瞳をして、ふらりと立ち上がったシャニョンをヴァレリーが、おい、と声を上げて呼び止める。
「どこへ行く! シャニョン!」
自分の名前に反射で応じたシャニョンは、エヴラールの腕を無造作に掴んだ。大事な人質を残していくわけにはいかないというなかば本能的な行動だったが、それを許すわけにはいかないヴァレリーである。
思わず小机を跳ね飛ばすようにして、シャニョンの肩を掴んでしまった。
腰を下ろしたままのエヴラールの腕を引いて自陣に戻ろうとするシャニョンと、それを力ずくで押しとどめようとするヴァレリー。
三者のあいだにはろくな言葉もなく、もちろん争う意志もなかったが、遠くから見守る両陣営にとっては事情が違った。
ヴァレリーとエヴラールの身に万が一のことがあってはならないと神経を尖らせていたオリヴィエの目にも、シャニョンの安全を最優先したいクザンの目にも、このときの三人の様子は、交渉が決裂した結果、深刻な危機が生じたようにしか映らなかった。
オリヴィエの号令とクザンの悲鳴が上がったのは、だからほとんど同時だった。
進め、という怒号とともに王太子に率いられてきた騎士と兵士らは、全軍一糸乱れぬ足並みで進撃を開始した。
シャニョン、という悲鳴とともに叛乱勢力は思い思いの武器を手に、自らの指導者を救わんとして突進をはじめた。
ぐわり、という地鳴りににも似た気配とともに両軍が迫りくる。
驚いたのは、知らぬうちにことの引き金を引いていた三人である。
「止まれッ!」
ヴァレリーは声を限りに叫んだ。だが槍や剣を構え、甲冑を鳴らしながら鬨の声を上げる兵らに、ただの声が届くはずもない。
「やめろ! やめるんだっ!」
シャニョンも大声を上げたが、指導者の危機に浮足立った仲間たちが聞く耳を持つはずもなかった。
たまらずに駆けだしたのはシャニョンが先だった。人質であるエヴラールの存在など置き去りにして、彼は自陣へ向かって一心に駆けた。
まっとうな武器さえ満足に持たず、まともな鍛錬も積んでいない僕らが、王城の正規軍相手に戦いを挑んで勝てるはずがない、とシャニョンは焦った。手にした武器は自らの覚悟を示す象徴のようなものであって、決して抜いてはならないものだ。返す刀に切り裂かれ、徒に命を落とすばかりだ。
僕たちの革命は死ぬためのものではない。生きるためのものだとあれほど云ったのに。
駆け出したシャニョンには目もくれず、ヴァレリーはエヴラールの腕を捕らえた。
「来いッ」
荒々しい動作で腕を引けば、不敵な笑みを浮かべたままの従弟は、思いのほか素直に従った。こちらへ向かって駆けてくる自軍に向かって片手を掲げながら、ヴァレリーは大きな歩幅で進んでいく。
兵らの一部が交戦するぶんには一向にかまわない、とヴァレリーは思っていた。いずれ武力をもって圧するつもりでいたのだ。もしも攻撃の合図があったとしても、叛徒の連中はできる限り殺さずに片っ端から捕らえるようあらかじめ徹底してある。無用な流血は避けられよう。
それよりもいまは、とヴァレリーはエヴラールの腕を掴む手に力をこめた。この愚かな従弟のほうがよほど厄介だ。
「殿下ッ!」
息を乱したオリヴィエが馬の背から飛び降りて駆け寄ってくる。
「ご無事ですかッ」
「大事ない」
ヴァレリーの穏やかな声に、オリヴィエは幾度も頷き、いったいなにがあったのです、と息を弾ませたまま尋ねた。
いまはそれどころではない、とヴァレリーは応じた。
「おまえはいますぐにジェルマンの身柄を王城へ移すべく手配を整えろ。おれはユベール・シャニョンとリオネル・クザンを捕らえるよう全軍の指揮を執る。いいな」
そう云うなりエヴラールの身をオリヴィエに押しつけるようにして、ヴァレリーは指笛を鳴らして愛馬ルナを呼んだ。枯れた緑の中を駆けてくる月色の獣を目で追う主に、オリヴィエは猛然と食ってかかる。
「いったいどうしてあのような事態になったのです。われわれは殿下の身になにかがあったのではないかと」
「見てのとおり大事ない。それよりもジェルマン」
なかば放置されかけていたエヴラールは、それでも逃げようとするでもなくその場に佇んだままでいる。ヴァレリーは穏やかな表情を浮かべてこちらを見つめる従弟を鋭く睨みつけ、話は王城へ戻ったらじっくりと聞いてやる、と唸るような声を上げた。
「おまえの話にはまるで信憑性がない。いいか、必ず本当のことをしゃべらせてやる」
覚悟しろ、とヴァレリーは引っ叩くように云った。いいか、オリヴィエ、と側近の顔を一瞥もせずに王太子は続けた。
「はい、殿下」
「おれが帰城するまでジェルマンを自室に閉じ込め、一歩たりとも外に出してはならん。父上、叔父上、大臣ども、その誰にも会わせてはならん。身の回りの世話はすべてエドモンとデジレに任せ、そのほかの者はいっさい近づけてはならん」
「殿下……?」
オリヴィエの声が不審に歪み、当然だろうね、というエヴラールの声を聞くに至っては、とうとう不安げに眼差しを大きく揺らした。
「いったい、なにをおっしゃっておられるのです?」
エヴラール殿下は叛乱勢力に囚われておいでだったのでは、と問うオリヴィエに、それ以上の質問は許さん、とヴァレリーは答えた。
そして、駆けつけてきたルナの手綱を取り、彼の鼻面を軽く叩いてやりながら、ヴァレリーは押し殺した早口でオリヴィエにだけ聞こえるように付け加えた。
「おれが戻るまでジェルマンの身を守れ。必ずだ、いいな」
「守る、とは?」
「死なせるな、絶対に」
殿下、とオリヴィエは思わずヴァレリーの腕に縋った。いまにもルナの背に飛び乗りそうな主に、どうか、少しでもいいので事情を教えてください、そうでないとお守りできるものもできません、と必死で訴える。
「叛乱勢力の背後にいるのはトレイユだ。ジェルマンは自らの意志でトレイユと結託したとほざいている。真実だとは到底思えん。だが、今回の件にトレイユがかかわっているのであれば、やつは必ずジェルマンに接触を図ろうとするはずだ。口裏を合わせにかかるか、あるいは殺しに来るか」
いずれにしてもトレイユとジェルマンを決して会わせてはならん、とヴァレリーは云った。オリヴィエの喉が大きな音を立てた。
「いまの時点で信頼できる者は限られている。誰が敵で誰が味方でもおかしくはない。やつの侍従や侍女も信用はできん。ゆえにエドモンとデジレをつけるのだ。警護にはおまえがあたれ。おまえが信用できる者ならば手伝わせてもかまわんが、ジェルマンと話をさせてはならん。おまえも、そしてエドモンたちにもいま云ったことを徹底させろ」
いいな、とヴァレリーは云って、オリヴィエの腕を振りほどいた。ルナの背に跨り、相変わらず穏やかな顔つきで佇み、そこを動こうともしないエヴラールを見下ろす。
「おまえの嘘は、おれが必ず暴いてやる。逃げるなよ、ジェルマン」
エヴラールは無言のままにヴァレリーを見上げた。否とも諾とも云わぬその顔が、エヴラール本人にしかわからぬ奇妙な覚悟を示しているような気がして、ヴァレリーは苛立ちを募らせる。――本当ならいますぐに締め上げて、すべて吐かせてやりたい。
だが、ヴァレリーには時間がなかった。父である国王の命令――叛乱勢力の鎮圧と捕縛――を疎かにすることはできない。王太子軍の攻撃を受け、離散しつつある叛乱勢力を追撃し、首謀者であるシャニョンとクザンを捕らえなくてはならないのだ。
「ジェルマンを頼んだ、オリヴィエ」
承知いたしました、というオリヴィエの声を拾うこともなく、ヴァレリーは己の務めを果たすべく、ルナの腹を蹴って駆け出していった。
「いったいなにがあった? ユベール」
王太子軍の槍と剣に追われながらも、こちらへ向かって駆けてくるシャニョンを捕捉したクザンは大声で問う。甲冑の鳴る音や馬の蹄の音におそれ慄いた仲間たちは、いまや理想も理性もなく、散り散りになって己が命を守ることのみに必死になっている。
そんな中でもクザンだけは迷うことなくシャニョンの傍へと駆け寄り、彼の無事を確かめると同時に、ことの仔細を問い質そうとした。
クザンの裏切りを疑うシャニョンは一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに、いまはそれどころじゃないだろう、と短く切り捨てた。
「まずは自分の身を守ることを考えなくては」
ほかの者たちはともかく、僕とあなたとは捕まれば無事ではすまない、とシャニョンは云った。クザンは鋭い眼差しを揺らすことなく、それについては心配ない、と云った。
「常に最悪を想定するのが俺の仕事だ。ついてこい、ユベール」
シャニョンはすいと瞳を眇めたが、それ以上はなにも云わなかった。否、背後に迫る軍靴の響きに、なにも云うことができなくなった、と云うほうが正しいか。
それからシャニョンとクザンは黙ったままひたすらに草原を駆けた。追手の目を少しでも誤魔化すために着ていた上着を脱ぎ捨て、仲間が着ていた上着を借りて、どうにかこうにか林の中へと逃げ込んだときには、息も絶え絶えの有様だった。
学問の徒であるふたりは、体力的には圧倒的に追手に劣っている。そのことを自覚していたシャニョンは、木の生い茂ったその陰で息を整えながら、潜めた声でクザンを問い詰めた。
「こんなところへ逃げ込んでどうするつもりだ」
袋の鼠ではないのか、というシャニョンに、クザンは、静かにしていろ、といまだ弾む息を整えられぬまま答えた。
「リオネル」
黙れ、ユベール、とクザンは答えた。
「いまは俺の云うことに従っておけ。手筈は整えてある」
「手筈だと?」
そうだ、とクザンは悪びれるふうもなく応じた。
「あなたはこうなることを予測していたのか」
ようやくのことで呼吸を平素の速さに戻したクザンは、そうだ、と頷いた。
「云っただろう。それが俺の役目だからだ」
「それだけか」
「どういう意味だ?」
「役目だから、というだけが理由か」
なにを云っている、とクザンは鬱陶しそうに目を細めた。ときおり視線をあちらこちらへと揺らす仕種は追手を警戒しているようにも、また、訊かれたくないことを誤魔化そうとしているようにも見えた。
なにがあったか知りたいと云ったな、とシャニョンは云った。
「会談が決裂したのは、エヴラール殿下がおかしなことを云いだしたからだ。殿下とトレイユがじつはひそかに結託していたのだ、と」
「なに?」
クザンは思わず目を剥いた。あのぼんくら殿下はいったいなにを血迷ったのだ。
「あの場は話し合いどころではない騒ぎになった。僕はもちろんのこと、王太子ですらわけがわからないという風情だった」
クザンは頬を引き攣らせ、それで、と云った。
「エヴラール殿下とトレイユには、もともと殿下の父親である王弟に絡んだ因縁があったらしい。エヴラール殿下は、その因縁を利用してトレイユと結託し、僕たちと行動をともにしているのだ、と王太子に云ったんだ」
「なんだ、その出鱈目な話は!」
「出鱈目?」
あたりまえだろう、とクザンは思わず鋭い声を上げる。慌てて声を低めるも、話を中途でやめることはできないようだった。
「本当に出鱈目なのか、リオネル」
「どういう意味だ?」
「本当は全部知っていたんじゃないのか」
「なにをだっ!」
エヴラール殿下とトレイユのことをだよ、とシャニョンは吐き捨てるように云う。
「あのふたりがもともと結託しているのを承知で、エヴラール殿下を僕たちのところへ連れて来たんじゃないのかって云ってるんだ」
「なんだ、と……」
クザンにしてみれば、まるで身に覚えのない疑いである。それゆえにただひたすら驚くしかできないのだが、その狼狽えた様子は、常日頃の不遜なまでの自信に満ちたクザンを見慣れたシャニョンにとっては、ますますの不信を招く材料となってしまう。
「あなたはもともとトレイユの話に妙に積極的だった。金の話にしろ、エヴラール殿下の件にしろ、僕の意見など端から聞こうともしなかった。それは、あいつらの企みを知っていたからなんじゃないのか」
「企みってなんだ?」
「謀反だよ。革命なんかじゃない、エヴラール殿下が王座を狙う大逆だ」
なに、とクザンは呼吸が荒ぶるほどに気を昂ぶらせた。
「なんの話だ、いったい! わかるように話せ! ユベール」
「そのままだ、聞いたことをそのまま話してるだけだ。僕は……」
クザンの肩がすとんと落ちた。
「違うっ! 違うぞ、ユベール。エヴラール殿下は嘘をついた。俺はなにも知らない殿下を、人質を盾に連れてきた。本当だ」
「だとしたら、殿下がそんな嘘をつく理由はなんだ、リオネル」
「知るか、そんなこと」
「僕たちと行動をともにすることは、そこにどんな理由があれ、王族であるエヴラール殿下にとっては命取りだ。人質を取られていようと、自ら参画しようと、そこにたいした違いはない。王城に連れ戻された彼は、王族の体面を汚した罪でひそかに死を賜る。きっと、そうなるだろう」
クザンは身体を震わせながらシャニョンの言葉を聞いていた。頭と口先だけは常人の数倍もの速度で回るはずの男が、珍しくなにも考えることができなかった。
「だけど、トレイユと結託して大逆を企てていたとなれば、話はまるで変わってくる。彼の処刑は大勢の民の目の前で行われ、彼の名誉は永久に回復されない。王族の記録から彼の名前は抹消され、その存在すら未来に語り継がれることはなくなるんだ」
エヴラール殿下に嘘を吐く理由はないんだよ、リオネル、とシャニョンは云った。
「彼はたしかに物静かでおとなしい気質の人だけど、王族としての矜持と誇りを持っていないわけじゃない。短い期間とはいえ、常では考えられないほど近くにいたんだ。それくらいわかる」
そうだな、とクザンは大きな息をついた。
「もし仮に、そうだとしてもだ、ユベール。俺はなにも知らない。いったいなぜ、そんなことを云いだした。俺がなにもかも知っていたのではないかと……」
クザンは苦々しい声で問いかけた。
彼は、シャニョンの知らないトレイユの真の目的――革命軍に対する篤志家を装う彼は、その裏で己こそが権力者たらんと画策を巡らせている――に気づいている。気づいていて、なおもかの老将軍を利用しようとしているのだ。
クザンがシャニョンに対してトレイユの肚を明かさないのは、真実を知ったシャニョンはトレイユと手を組むことを拒否するに違いない、ということがわかっているからである。潔癖なシャニョンは己の理想に対してばかりではなく、周囲に対しても己と同じ誠実を求めようとする。
トレイユのような陰謀屋は、本来シャニョンとはもっとも相容れない人物なのだ。クザンがいなければ、彼らが手を組む――それがたとえ、金銭のうえの話だけだとしても――ことなど、ありえない。
だがクザンは違う。目的のためならば手段を選ばぬ彼は、トレイユを失くすのは惜しい、と考えていた。正確には、トレイユから流れ込む金を失うのは惜しいと思っていたのだ。
もしもこの話をシャニョンに聞かせれば、彼は間違いなく、金のために理想を枉げたのか、とクザンを詰るだろう。クザンはそうなることをおそれた。シャニョンに責められるだけならばかまわなかったが、大事を前に仲間割れを起こすわけにはいかなかったからだ。
そういった意味において、シャニョンに対して疚しいところがないわけではないクザンは、エヴラールの行動が忌々しくてたまらなかった。まったく余計なことを云ってくれた、と彼は思う。あのおとなしく、凡庸で、朴念仁のふりをした爽やか面の王子さまは、存外食わせ物であるらしい。
「エヴラール殿下が、そう匂わせたのか」
いつまでたっても口を開かないばかりか、徐々に俯き加減になってしまったシャニョンに向かってクザンが云った。シャニョンが弾かれたように顔を上げる。
「図星というわけだ」
クザンは苦く笑いながら、ため息をついた。――ここらが潮時か。
「殿下の話が本当か嘘か、俺は知らない。本当だ。信じてくれ、としか云えないが、本当だ」
頷かないシャニョンに焦れながら、クザンは先を急いだ。
「だが、俺はおまえに話していないことがある」
「話していないこと?」
顔を上げたシャニョンに向かって、そうだ、とクザンは頷く。
「トレイユのことだ」
「……リオネル」
いいから聞け、とクザンは云った。
「トレイユはおまえの理想に共感した善意の篤志家などではない。やつの目的は権力だ。国王に代わり、この国を動かす権力を握ることがやつの目的なんだ」
シャニョンは大きく目を見開いた。そんな、と呟く声は、音にならずに木々のあいだに消えていく。
「ではなぜ、僕たちに協力するなどと……」
「俺たちを隠れ蓑にするためさ。王城の目を俺たちに向けさせ、その陰でひそかに私兵を動かす。頃合いを見て俺たちを押しのけ、自分が王城へと攻め入るつもりだったんだろう」
クザン、とシャニョンは悲鳴じみた声を上げた。クザンは慌てて、静かにしろ、とシャニョンの口を塞いだ。
「なんだってそんな男と手を組んだ!」
自分の口を覆うクザンの手を振り払い、シャニョンは云った。
「なんだってそんな男の金を受け入れた? なあ、リオネル。なんでだ!」
「ほかに方法がなかったからだ。おまえの理想は俺の理想だ。そう云った言葉に嘘はない。だが、理想を現実に変えるには金がかかる。金がなければ、理想なんてやつはただの夢物語でしかない。民とはな、食えない夢より、食える現実を選ぶものだ。わかるか」
「……それがあなたの云いぶんだったよね、ずっと」
ああ、とクザンは頷いた。
「僕だってわかってる。あなたの云うことは正しい。だけど、理想も抱かず現実を受け入れ続けることは、結局なにも考えずに流されていくのと同じことだ。貧しくとも、食えなくとも、正しい道を進むことはできる」
「食えない現実の前では理想など無力だ。誰もがおまえのように強いわけじゃない。考えてもみろ、もしも俺たちにトレイユの金がなく、年中食い詰めていたとしたら、さっきまであそこにいた連中のうち何人が俺たちと行動をともにしたと思う?」
頬を引っ叩かれたような顔をしてシャニョンが口を噤んだ。クザンはかすかに首を横に振った。
「こんなことが云いたかったわけじゃない。だが、そんな顔をするんだ、おまえにだってわかっていたんじゃないのか」
わかっていたさ、とシャニョンは思う。クザンの云うことはいつだって正しい。正しいけれど、認めたくなかった。それを認めてしまうことはつまり、現実の前になんの力もない理想に絶望しながら、それでもなおその理想にしがみついてしまう自分を直視するということと同じだったからだ。
そして自分を見つめたその先では、煩わしい現実をすべてクザンに押しつけ、都合のいい上澄みだけを啜ってきた卑怯と向かい合わねばならない。
シャニョンはきつく目蓋を合わせた。睫毛が震え、唇が震えた。
「それでもな、ユベール」
クザンは不意にシャニョンの二の腕を軽く叩いた。
「おまえの理想は俺の理想だと、そう云った言葉は嘘じゃない。あのときもいまも、そう思ってる。おまえは信じられないと云うかもしれないが、俺はおまえを騙そうと思ったことは一度もないんだ」
シャニョンはゆっくりと目を開けた。クザンの顔をまっすぐに見ることはまだできなかった。
「仲間内から腕の立つやつを何人か選んで、おまえから決して目を離すなと、なにかあった際にはおまえの身を守ることを最優先するようにと、頼んでおいた。なにがあってもおかしくないと思っていたし、トレイユがどう動くか、本当のところは俺にもわからなかったからだ」
「どう動く……?」
おまけにいまのこの状況だ、とクザンは頷いた。
「王都まで案内をさせるくらいのつもりでいた俺たちが散り散りになったことで、仕立てていたはずの私兵をトレイユがどう動かすのか、俺にもわからん」
正面切って王太子に斬りかかるとはとても思えないな、とクザンは云った。
「俺たちを切り捨て、追っ手に早変わりする可能性もなくはない。じきに迎えがくるはずだ。おまえはすぐにそいつらとともにここを離れろ。北へ逃げ、身を潜めるんだ。故郷の街の中にはまだ、俺たちの味方でいてくる人たちがいる。いいな」
「……あなたは?」
シャニョンは自分から離れて行こうとするクザンを引き止めた。
振り返ったクザンは、シャニョンがこれまで一度も目にしたことのないほどにやわらかな笑顔を見せた。いつも皮肉っぽく、どこか世間を憎むような目つきばかりみせていた男が、こんなふうにも笑えるのだとは知らなかった。――知らないままだった。
「王太子は、この革命の首謀者をおまえと俺だと正しく認識しているだろう。血眼になって追ってくるはずだ。それこそ、王室の威信をかけて」
ふたりでいれば逃げ切ることはできない、とクザンは云う。
「俺が連中の目を引いている隙におまえは逃げろ。決して捕まるんじゃないぞ」
リオネル、とシャニョン非難の声を上げた。
「僕だけ逃げろと、そう云うのか!」
そうだな、と頷くクザンに、なんでだよ、とシャニョンは詰め寄った。
「あなたが捕まるなら僕も捕まらなくては。僕が逃げるなら、あなたも」
「同じことを何度も云わせるな、ユベール。おまえの理想が俺の理想だと、そう云っただろうが」
「なら、余計に僕たちは……」
俺たちの仲間はこの東国中にいる、とクザンは云った。
「故郷の街だけではなく、遠く離れた西の果ての村にまで、この革命の熱は伝わっている」
「わかってる。だから……」
「いいや、おまえはわかっていない。王家の支配に泣き、貴族の圧政に苦しみ、制度と制度の狭間に落ちて潰され、民の多くはそうした痛みを知っている。俺たちはそうした者たちのために立ち上がった。けれど、みながみな強くいられるわけではない。ともに戦ってくれる者たちばかりではない。旨い汁だけ啜って、痛みは誰かに負わせようと考える者も大勢いる。そういうところは貴族も民も、そうは変わらない。だけどそれでも、この国は変わらなくちゃならない」
だからおまえは失われてしまうわけにはいかないんだ、とクザンは笑った。
「多くの人を集め、心を動かし、行動させる。それはすべておまえがなしたことだ、ユベール。おまえの理想が、人を集め、動かし、立ち上がらせた。おまえは、この革命の象徴なんだよ」
「……象徴」
問い返すシャニョンの声は隠しようもなく震えていた。恐怖にではなく、羞恥に。
「僕はたしかに指導者だったかもしれない。だけど僕がそうあることができたのは、誰のおかげだと思っている。リオネル、あなただ。あなたのおかげで僕は……」
「それは違う」
「違わないっ!」
違う、とクザンはもう一度云った。
「おまえと同じことを云うだけのやつは、これまでにも大勢いただろう。あるいはおまえよりもずっと上手いことを云い、もっともらしいことを並べるやつが。だけど、そいつらは結局なにもできなかった。ラ・フォルジュに対し、明確な叛旗を翻した民はおまえだけだ、ユベール。それがどういう意味か、おまえにはわからないんだろうな」
クザンはそこで言葉を切り、あたりの気配を窺う。近づいてくる者の足音はまだ聞こえてこなかった。
「人の心を動かし、仲間を集め、ともに戦う決意をさせたのはおまえだけだ、ということだ。どれだけ崇高な理想を掲げたところで、人はひとりでは戦えない。誰かを導くには、人を動かす力が必要なんだ」
おまえにはその力があるんだよ、ユベール、とクザンは云った。ほかの誰にもなかった、おまえだけの力だ。
「俺のような者の代わりはほかにいくらでもいる。おまえならすぐにそういうやつを見つけられる。だけど、おまえの代わりはどこにもいない」
わかるな、とクザンはシャニョンの目を間近から覗き込んだ。
「おまえは逃げろ。逃げて、生き延び、再起のときを待て。時機は必ずやって来る。必ずだ」
身動きひとつできず、言葉ひとつ見つけられずにいるシャニョンを前に、クザンはすっくと立ち上がった。シャニョンはただ茫然とクザンの足許を見つめている。
「俺は行く。生きろよ、ユベール」
そうしてクザンは茂みから立ち上がり、走り出した。己の存在を知らしめるかのような大声を上げて彼が林を抜け出たのは、それからすぐのことである。
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