52

「リオネル・クザンはなにか吐いたか」

 苛立ちを隠そうともしないヴァレリーの鋭い声音に竦みあがった兵が、小さく首を横に振りながら、申し訳ありません、と小声で答えた。

「申し訳ない、ではない。吐いたか吐いてないか、それを答えろ」

「なにもしゃべりません」

 ひと言もか、とヴァレリーが問うと、兵はまたもや、申し訳ありません、と云った。

「謝罪と報告をいっしょくたにするなッ!」

 ひぇ、と兵は情けない悲鳴を上げた。ヴァレリーは舌打ちをし、もういい、下がれ、と部屋から兵を追い出して、ふたたび目の間にある地図を睨みはじめた。どうにもこうにも苛立ちが募る。

 ヴァレリーはいま、神ノ峰の麓にある北の国境要塞で、叛乱勢力指導者ユベール・シャニョンを捕縛するための作戦を指揮しているところだった。

 叛乱勢力と相見えた地点から十日ほどもかけて北上を続け、今日になって国境へと到達した。しかし、これまでのところシャニョンの行方はまるで掴めていない。

 叛乱勢力内においてシャニョンの右腕であったリオネル・クザンを捕らえたのは、連中とまみえたその日のうちのことだ。厳しい尋問を重ねてもクザンが口を割る様子は一向になく、それがまたシャニョンの捜索を難航させる原因ともなっていた。

 ヴァレリーは捜索の範囲を広く取り、各地に斥候を走らせて様子を探らせている。しかし、シャニョンらしき男を見かけたという情報は、まったくもって届く気配がなかった。

 一刻も早く王城へと戻り、エヴラールの口から一連の事実を聞き出したいヴァレリーにとって、さっぱり進展しないシャニョンの捜索は苛立ちと頭痛の種でしかなかった。

 しかし、ヴァレリーはこの作戦の指揮を降りることはできない。叛乱勢力の首謀者を捕らえ、速やかに王都へ帰還せよ、という王命には逆らうことができないからだ。

 いついかなるときにもヴァレリーのそばに付き従い、ときには細やかにときには口やかましく補佐してくれていたオリヴィエは、いまこの場にいない。叛乱勢力の手から取り戻したエヴラールとともに王都に向かわせてしまっている。

 いったいシャニョンはどこへ消えた、とヴァレリーは一度だけ見た男の顔を思い出し、地図の上に重ね合わせて歯噛みする。

 あのとき、やつを取り逃がしたりしなければ、いまごろこんな苦労をしなくともよかったものを、と咄嗟にエヴラールの身柄を確保してしまった自分の振る舞いを悔やんでみるものの、いまさら取り返しのつくはずもない。同じ追うならジェルマンのほうが捕らえやすそうだというのに、と不謹慎なことを考えても溜飲は下がらなかった。

 それにしても不可解なことだ、とヴァレリーは思う。

 シャニョンとエヴラール、それからヴァレリーの三者で会談に臨んだ折、近くに馬の姿はなかった。ヴァレリーですら、オリヴィエが駆けつけてきてくれなければ、あの場でルナを呼び、すぐに陣頭へと駆けていくことはできなかったのだ。

 ということは、あの混乱のさなか、シャニョンは徒歩で逃亡したことになる。

 ヴァレリー率いる鎮圧の兵らと叛乱勢力が衝突したあの平原の東側は海に落ちる崖、西側は遮るもののない草原が広がっていた。南側には王都へと続く広い街道が延びていたが、そちら側には鎮圧軍が布陣しており、そこを通って逃げることは不可能だ。となると、唯一の道は、さほど深いとは云えずとも人目を遮る木々の茂る北方だけである。

 シャニョンは林の木々に紛れて北上し、逃走を続けているに違いない。

 ヴァレリーはそう考え、兵を率いて北上を続けてきた。しかし、東国の最北に位置する北の国境要塞まで辿り着いても、シャニョンの行方は杳として知れぬままであった。

 どこかにまだ協力者がいたのか、とヴァレリーは地図に目を走らせる。

 シャニョンが潜伏している可能性が高いのは、連中が本拠地としていた街と、それからいまいる北の国境の街である。

 なにしろここはあのトレイユの牙城だからな、とヴァレリーは思った。やつがひそかに手を回し、シャニョンらを匿っているとすればなかなかに厄介だ。しかし、それはそれでトレイユを捕縛する理由となって、こちらとしては都合がいい。

 とはいえ、こうも手がかりがつかめないとなると、埒が明かないのだが――。

 そのとき部屋の扉を叩く音がした。

 入れ、と短く命じると、ひとりの若い騎士が扉の向こうから姿を見せた。その顔に見覚えのあったヴァレリーが記憶を探っていると、騎士は快活に笑い、口を開いた。

「ドナ・フーリエ、と申します、王太子殿下」

 赴任前の夜会の折には殿下から盃をちょうだいいたしました、とフーリエは云った。

「……ああ、あのときの」

 ヴァレリーにはひとつもよい思い出のない夜会である。エリシュカを披露するつもりが、己の愚かさを露呈することとなった苦い思い出を噛みしめていると、フーリエが、ところで、と本題を切り出した。

「山門の警備隊長から先ほど妙なこと伺いましたので、ご報告に参りました」

「妙なこと?」

 ヴァレリーの顔が瞬時に引き締まった。フーリエも先ほどまでの明るい笑顔を消して、厳しい眼差しを向けてくる。

「何者かが、無断で山へ入った形跡があるということなのです」

「神ノ峰へか」

 さようです、とフーリエは答えた。そして、そちらを拝見しても、とヴァレリーの手元にある地図を示した。

「ご覧のとおり、神ツ国へと続く神ノ峰へと分け入る山道は、この要塞を越えた先にしかありません」

 ヴァレリーの許しを得たフーリエが示す先を見つめ、ヴァレリーは頷いた、穴が空くほどに眺めた地図だ。云われなくともわかりきっている。

 神ノ峰は数多の急峻な山々が織り成す連峰で、その地形は複雑に入り組んでいる。峰を踏破する道は、昔から行商人や巡礼者たちが通うのに使っていた細く険しいものしかなく、それすらも、山に慣れた案内役がついていなくては越えることは難しいとされていた。

 標高の低い場所では樹木が深く生い茂り旅人を迷わせ、やがて高度が上がるにつれ険しい岩場が続くようになる。さらに尾根に近くなれば、年中強い風が吹くようになって旅人の体力を奪い、消耗させる。陽の射さぬ北側の斜面では真夏でも降雪が止まず、氷と薄闇に閉ざされた死の世界が広がっているとも云われている。

 ここは東国の北の果てであり、山を越えた先には神ツ国がある。だが、当然こうした厳しい道を知る民らは、たとえ要塞など築かれていなくとも、誰も好んで山に足を踏み入れたりなどしない。そもそも神ツ国よりもよほど豊かな東国から、彼の国へ渡る理由などありはしないのだ。

 だが、そこは国と国との境のこと。形ばかりとはいえ、山道の入口には山門が築かれ、衛士が配置されている。ここを越えようとする者は、南国との国境と同様に身分検めを受けたうえでないと通ることができないことになっている。

「いつのことだ?」

「昨晩の見回りの折には異常はなかったと聞いております。ですので、明け方から朝にかけてのことではないかと」

 そうか、とヴァレリーは頷いた。

「シャニョンだと思うか」

「可能性は高いと思います」

 ヴァレリーがこの北の要塞へ到着したのは、まだほんの数刻前、昼を少し過ぎたばかりの頃であった。要塞の主たるアドリアン・トレイユは不在にしており、所用で数日留守にしている、と説明された。

 すぐに呼び戻すように、と命じたものの、彼の姿はいまだに見えない。おそらくこのまま現れることはないだろうな、とヴァレリーは考えている。

 要塞に到着してすぐ、ヴァレリーは国王へ宛てて使いを立てた。ことの経緯を報告するためである。エヴラールを王城へ向かわせた直後にも知らせを出していたが、それを追いかける形での報告である。叛乱勢力の鎮圧については全権を委ねられているため、とくに報告する必要もないのだが、刻々と変わっていく事態を父にも知らせておくべきだとヴァレリーは考えたのである。

「手がかりはなにもないのか」

 どこか苛立ったようなヴァレリーの声に、フーリエは、はい、と申し訳なさそうな声で答えた。

「日ごろですと、国境の山門を通る者はほとんどなく、数日前からの見回りの者たちの足跡がすべて数えられるほどですので、不審な痕跡があればすぐにでも追跡をはじめることができそうなものなのですが……」

「なにかあったのか」

 ヴァレリーの問いかけにフーリエはなんとも云いようのない、妙な顔をしてみせた。

「なんだ」

 いえ、あの、としばらく云いにくそうにしていたフーリエだが、ヴァレリーの苛立ちがますます募っていく気配を感じ、思い切って口を開いた。

「神ツ国のシュテファーニアさまのご一行が、十四、五日前に山へと入られたのです」

 シュテファーニアだと、とヴァレリーは思わずぽかんと口を開けた。思いもよらぬところで思いもよらぬ名を聞くものだ。

「いかがなされましたか、王太子殿下」

 あ、ああ、いや、とヴァレリーは慌てて表情を引き締めた。それで、と先をうながすも、フーリエは目を瞬かせ、いかにも不審そうにしている。ヴァレリーは仕方なしに言葉を足した。

「あれがまだこんなあたりにいるのだとは思いもしなかっただけだ」

「はあ、さようで」

 それで、とヴァレリーはばつの悪さを取り繕うようにフーリエを急かした。神ツ国の連中が山に入ったからなんだというのだ。

「その際、ご出立の準備などを含めますと、延べでは非常に大勢の方が山門を出入りされました。ですから、山門のあたりには、いまだに常とは異なる足跡などがたくさん残されているのです。あれでは、たとえ不審な者が通ったとしても、痕跡だけでそれに気づくことは難しいかと」

 なるほど、とヴァレリーは頷いた。

「だが、それでもなお不審な点がある、とはどういったことだ」

 はい、とフーリエは答え、あらためて地図に手を延ばした。

「こちらが現在いる要塞。ここから延びる、この道が神ノ峰へと至る山道です」

 フーリエの指が道を辿り、やがて等高線の入り組んだあたりでぴたりと止まった。

「シュテファーニアさまのご一行は、こちらを歩まれていると思われます。監視はついておりませんが、間違いはないでしょう」

 ですが、とフーリエは云った。

「じつは先ほど、衛士のひとりが、こちら、この要塞から延びる擁壁沿いに、人が通り抜けたような痕跡を発見したのです」

 灌木の枝が何箇所にもわたって不自然に折れ、また下草を踏みつけたような跡もあったとか、とフーリエは続けた。

「この擁壁沿いを抜けたところで、山へと続く道はありません。また、見回りの衛士は、平素はこちらを通ることはなく、またここ最近補修などが行われたということもありません。つまり、何者かがひっそりとここを通った可能性が高いのです」

 地図の上で擁壁沿いを辿るフーリエの指先を、ヴァレリーはじっと見つめた。

 たしかにフーリエの云うことには一理ある。しかし、擁壁沿いであるにしてもその場所を通るには、国境であるところの山門を越えなくてはならないのである。

 いくら通行の少ない地であるとはいえ、仮にも国と国とを隔てる門を、王家に追われる罪人が容易く越えられるはずがないではないか。ヴァレリーがそう云うと、フーリエはどこか恥じ入ったような様子で驚くべきことを述べはじめた。

「しかし、それは金さえあればさほど難しいことではないかと」

「金、だと?」

 はい、とフーリエは頷いた。

「じつは、この要塞には金で動く衛士が少なくないのです、殿下」

「どういう意味だ。まさか、金で国境を越えさせてやる、ということではないだろうな」

「そのまさかなのです、殿下」

 なんだと、とヴァレリーは色をなした。

「どういうことだ。まいないを受け取って、不正にわが国への出入りを認めている、ということか」

 どちらかと云うと出て行くほうですが、とフーリエは答えた。その答えはつまり、ヴァレリーの問いかけに対する明確な肯定である。

「なんということだ……」

 国境を守る衛士は国の官吏である。彼らはみな、困難な試験を突破し、国のために仕えようという高い気概を持った者たちではないのか。

「もちろん、みながみな不正に手を染めているというわけではありません。ただ、そういった輩がいることはたしかなのです」

「ここの責任者はトレイユだろう。やつはなにをしてたんだ」

 部下の不正に気づかぬなど、将軍の名にふさわしからぬぼんくらではないか、とヴァレリーはここにはいない老将軍をそう云って詰った。

「閣下は、下々の者のやりとりには関心を示されません。それをいいことに、一部の者たちは規律を破り、風紀を乱し、やりたい放題なのです」

「関心のあるなしの問題ではなかろう」

 トレイユの無関心をよしとしていたのならおまえも同罪だぞ、とヴァレリーは云った。フーリエは慌てて首を横に振る。

「意見はしたのです、私も、私とともに赴任した仲間たちも。しかし、ここはトレイユ閣下にとっては第二の故郷のようなもの。われら新任が口を出す余地など……」

 おまけに彼らはかつておれの配下だった者たちだ、とヴァレリーは口には出さずに苦々しい思いを腹に溜める。トレイユは彼らの目を警戒し、重要な任務や案件にはかかわらせないようにしたのだろう。彼らを責めるのは気の毒というものか。

 いかにもやつのやりそうなことだ、と舌打ちをしてから、ヴァレリーは気を取り直すように首を振った。話が逸れたな、と彼は声の調子を変えて云った。

「その件は日をあらためて対処するとしよう。いまはシャニョンの件だ」

 はい、とフーリエもまた口調をあらためた。

「それで、その不審な痕跡を見つけて、いまはどうしている?」

「私とともに赴任した者たちが衛士数名を連れて追跡しております。同時に足跡などが残っていないかどうか詳しく検分しておりますが、いまのところはまだ」

 そうか、とヴァレリーは頷きながら、椅子の背に投げかけたままになっていた外套を手に取った。

 殿下、とフーリエが慌てたような声を上げた。

「いかがなさるのです?」

「おれも行く」

「おやめください!」

 焦ったようなフーリエに、ヴァレリーは、なぜだ、と短く問いかけた。

「おまえたちはシャニョンの顔を知らないだろう。おれは間近でやつを見ている。おまえたちのうちの誰よりもやつの捜索に向いているのは、このおれだぞ」

「いえ、ですが……」

「黙って座ってただ待てと云うか」

 そうだ、とフーリエは喉元まで出かかった答を必死に飲み込んだ。将来の国王たる王太子が自ら山狩りに出る――たとえ、捜索する相手が王家に叛逆した大罪人とはいえ――など、聞いたこともない。だいたい下手に打って出られてけがでもされた日には、供をしていた者たちみなの首が飛ぶではないか。

 自分の首が胴体から離れたさまを生々しく想像してしまったフーリエは、ほとんど涙目になりながらヴァレリーを思いとどまらせようとした。

「おやめください、殿下。山に慣れぬ方が捜索に加わられても、時間と体力を無駄にするだけです。シャニョンを捕らえたのち、殿下は王都へ急がれる身ではありませんか。ここは……」

「足手まといになるようなら、深追いはせぬ」

「いえ、あの……」

 フーリエと話を続けながらも、ヴァレリーは手を止めることなく外套を着こみ、剣を腰に下げ、身支度を整えていく。私の話を聞く気などこれっぽっちもありませんね、殿下、とフーリエは思った。

「おまえとて、もともとはおれの配下だったのだ。おれがどの程度使えてどの程度使えぬか、知らぬわけではあるまい」

 剣術も体術も並みの騎士には決して引けを取らないヴァレリーである。フーリエとて、体術に比べて不得手とする剣術では、ヴァレリーとやり合って必ず勝つ、と云い切る自信はない。おまけにヴァレリーは、馬の扱いにかけては並ぶ者なき巧者である。

 身分の差を考えなくとも、この云い合いにおいてフーリエに分はなかった。

「しかし殿下。殿下におかれましては不慣れな山の中のこと。決して無茶な真似はなさらないとお約束を」

 わかっている、とヴァレリーは短く答えた。

「おまえたちの手間を増やすようなことはしないさ」

 フーリエは諦めたような深いため息をつき、人員と身支度とを調えるために王太子のもとを離れていった。

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