09

 時はわずかに遡る。

 王太子付侍女クロエ・クラヴリーと王城警護騎士シプリアン・バローを伴ったモルガーヌ・カスタニエが東国の最北端にある北の国境へと到着したのは、西の国境を発ってから十五日後、ヴァレリーの遭難から五日が経ってからのことだった。

 むろんモルガーヌは、北の国境へたどり着くまで王太子の行方不明を知らなかったし、もっと云うのであれば、国境要塞に居場所となる部屋を得てからも、しばらくのあいだ、その事実を知らされずに過ごしていた。

 北と西で同時に起きた叛乱勢力の蜂起の裏にアドリアン・トレイユの存在があるのではないかと推測したモルガーヌは、その旨を知らせる書状を王都のガスパール・ソランに書き送っていた。書状は過たずソランのもとへと届いたようで、西から北への旅の途上、モルガーヌは彼からの返信を受け取っていた。

 アドリアン・トレイユの行方を追え、と鬼のような上司はじつに直截に書いて寄越した。おまえの予想が正しければ、トレイユはすでに北の要塞にはいないはずだ。行方を突き止め、私が駆けつけるまで監視を続けろ。

 云うだけならば簡単だ、とモルガーヌは思った。いないはずだ、とソランが云うのであれば、きっとトレイユは行方を晦ませているに違いない。かの老将軍は、その思想こそ過激で時代遅れだが、知恵がまわらないわけではない。彼が隠蔽した痕跡を見つけ出し、その行方を追う困難さは生半可なものではないだろう。

 ああ、もうこうなったら、とモルガーヌは心の裡で嘆く。愚か者だ、莫迦者だと罵られてもいいから、私の予想、外れていてくれないかしら。トレイユは王家の転覆を狙う簒奪者などではなく、ただの戦争好きの変人で、いまも北の要塞でのんびりと悪巧みをめぐらせている。趣味はといえば、王弟殿下との策謀ごっこ、生甲斐はといえば、やっぱり王弟殿下との陰謀ごっこ。

 ――駄目ね、想像に無理があるわ。

 自分を甘やかすことを早々に放棄したモルガーヌは、一刻も早く事実を確認するべく急ぎに急いで旅路を進み――バローの的確な助言を得るだけではなく、クロエが乗馬を習得したこともあって――、驚くほどの速さで北の国境の街へと到着した。

 強行軍に次ぐ強行軍の果て、疲れ切った状態で国境要塞までたどり着いたモルガーヌらを、そこにいた兵士はさほど歓迎してはいないようだった。

 監察府の役人がなんの用だ、と門を開けようともせずに兵士は云った。いまおまえたちがするべきは叛乱勢力に加担したとかいうエヴラール殿下の取調べだろう。われわれの要塞に用などあるまい。

 なにがわれわれの要塞ですか、とモルガーヌは云い返した。おまえなどに私の任務を明かすわけにはいかない。いいから早くこの門を開けなさい。

 兵士に分はなかった。上長に裁可を仰ぐという涙ぐましき時間稼ぎも空しく、門はあっけなく開かれ、モルガーヌとその仲間たちは無事に北の要塞に腰を落ち着けられることとなった。

 だが、そのあとはなにもかもがうまくいかなかった。兵士たちは日々忙しく駆けまわり、モルガーヌが聴取を試みようとしても一向に応じようとしない。王太子の書状も、ガスパール・ソランの印章も、ここではなんの役にも立たなかった。

 兵士や騎士らから話を聞くことを諦めたモルガーヌは、次に要塞で働く下男下女らに標的を変えてみたが、それでもやはり結果は芳しくなかった。トレイユが留守であることは随所にて察せられたが確証はなく、また兵士らがなぜこうも慌ただしく駆けまわっているのか、その理由はまるで明らかにならなかった。

 その制服がいけませんや、とある下男に指摘されるまで、モルガーヌは自分の仕事がさっぱり進まない理由に、まるで気づくことができなかった。その黒い制服は監察官のもので間違いありませんやね、と彼は申し訳なさそうに云ったものだ。

 ここの者たちは、多かれ少なかれトレイユ将軍のお力に縋って生きている。儂だってそうです。あのお方が本当はどういう方か、そんなこたあどうでもいい。あの方のおかげで仕事にありつけ、あの方のおかげで飯が食える。大事なのはそのことで、だから儂らはあの方を失いたくねえんだ。その制服は貴族の敵、それはつまりここらで唯一の貴族である将軍閣下の敵だってことだ。閣下の敵は、儂らの敵、だからあんたには誰もなんにも喋んねえんですよ、と下男は最後にそう云った。

 モルガーヌはひとことたりとも返すことができなかった。ここでは私が悪なのか、と彼女は思った。

 貴族の息女から王太子付侍女となり、いまは監察官であるモルガーヌは、その立場を次々に変えてはきたけれど――そのことによって悩みはしたけれど――、いつでも己が正義なのだと思ってきた。

 貴族には貴族の、侍女には侍女の、そして監察官には監察官の理屈があり、正義がある。モルガーヌはいつでも、その理屈を自分のものにし、立場によって異なる正義をきちんと受け止めてきた。そうすることで、自分がなそうとしていることは正しいことなのだと、ときには誰かを傷つけることがあったとしても、それは致し方のないことなのだと、自分を納得させながらここまでやってきた。それはつまり、言葉を尽くせば、真摯な態度を崩さなければ、己の正義がいつかは理解してもらえると、そう考えていたということにほかならない。

 そうではないのだ、とモルガーヌは気がついた。どれだけの言葉を重ねようと、どれだけの誠意を示そうとも、決して相容れぬ相手というものは存在する。理屈ではない。ほとんど本能的ななにかによって、人はそれに気づく。――この相手とは、決して相容れぬ仲である、という真実に。

 いくら話しても無駄、ということか、とモルガーヌは悟った。相容れぬ敵であるとわかっている私に、ここの者たちが正直になにかを打ち明けるはずがない。

 そうして打つべき手を失くしたモルガーヌだったが、しかし、思わぬところから救いを得た。

 アドリアン・トレイユの行方を追うこともできず、かといってほかに行くべきところも見つけることのできないまま、モルガーヌはその日、クロエとともに街中の市場へと繰り出していた。

 いっかな進まぬ仕事に苛立つモルガーヌに、少しは気分転換をなさるべきです、とクロエが云ったのだ。毎日毎日辛気臭い要塞の中に閉じこもっていては、いいお考えなど浮かぶものですか。

 はっきり云って億劫だった。手詰まりの閉塞感に疲れも出てきていたし、自信も失いかけていた。こんなときはゆっくり寝るに限るのだけど、とやんわり拒否しようとしても、クロエは譲らなかった。――いいえ、モルガーヌさま。物事が上手くいかないときは、他人の思考に身を委ねてみるのも悪くはないもんですよ。

 王都から遠く離れた鄙の地にさして見るべきものなどあるまい、と出かける前のモルガーヌはそんなふうに思っていた。だが、いざ市場に来てみれば、存外の活気に驚かされることになった。

「ここは、この地方では一番大きな街ですからね。賑やかなのはあたりまえですよ」

「目立った産業があるわけでもないのに」

 そうかもしれませんね、とクロエは答えた。

「けれど、人の集まるところにはモノもカネも集まるものです。そしてさらに人を呼び、モノとカネを呼ぶ。王都もそうではありませんか」

 ここには仕事もたくさんありそうですしね、とクロエは苦笑いした。いつだったかの己の愚かな物云いを思い出したのかもしれない。

「ここへ来るまで、たくさんの町や村を見ましたけれど、ここほど豊かな街はそうはなかった。要塞を預かるトレイユ将軍が慕われている理由が、わかるような気がします」

「政治的には厄介な人物だけれどね」

 朗らかに云い切るクロエの態度がおもしろくなく、モルガーヌは思わず憮然としてそう云い返した。

「あたしらにはそんなこと関係ないですもん」

 クロエの返答は明解だった。

「上に立つ人なんて誰だっていいんです。国王陛下だろうが将軍さまだろうが、はたまた叛乱を企む学生さんだろうが」

 ねえ、モルガーヌさま、とクロエはどこかあらたまった口調で云った。

「民と呼ばれる人たち、あたしも含めてそういう人たちのほとんどは、高望みなんかしちゃいないんです。そりゃあ、広い家に住みたいし、美味しいものも食べたい。綺麗な服や髪飾りも欲しい。だけど、それを誰かに恵んでもらいたいなんて思ってない。たまの贅沢を楽しみにしながら、日々を暮らしていかれればそれで十分なんです。働いて、その対価を得て、自分と家族の口を養っていく。そういう、ごくあたりまえのことができれば、それで満足なんです」

 だからなんだ、とモルガーヌは思った。クロエはなにが云いたいのだろう。

「トレイユ将軍がなにを企んでいようと、彼はこの地では正義です。仕方ありません。だって将軍は、この土地の民の暮らしを守ってくれているんですから」

「民を守っているのは国王陛下と王府よ。トレイユではないわ」

「政治の仕組みではそうなんでしょうね。だけど、あたしらから陛下のお顔は見えません。雲の上のお人です。でも、トレイユ将軍は違う」

 会おうと思えば会える、とクロエは云った。モルガーヌさまがいろんな方にお話をお聞きになっているあいだ、あたしもいろんな人に会ってみたんです。

「要塞に出入りする商人や、市場に店を出すおばちゃんやおじちゃん、靴を磨く男の子や繕いの女の子まで。みんな云ってました。この街がこんなふうに賑やかに、豊かになったのは、トレイユ将軍がここへ来てからだって。働けば食べていけて、治安もよくなって、病を得れば薬師にだって診てもらえる。全部、トレイユ将軍のおかげだって」

 地方を治めるのは、各地を領有する貴族の務めである。街や村が豊かになるかどうかは、その地をもっともよく知るはずの領主の手腕にかかっているのだ。

「トレイユは優れた領主だと、そう云いたいの?」

 王府直轄地である北の国境の街は、正確にはトレイユが領有する地ではない。だが、長くこの地に赴任し、守護将軍としてまつりごとの長である知事の役目も果たす彼は、この地における領主と云ってもよい存在であることはたしかだ。

 はい、とクロエは頷いた。

「だから、誰もトレイユ将軍の悪口は云いたがらない。彼が治めるよりも前の、苦しい時代を知っている人が多いからです。それがどういうことか、おわかりになりますか、モルガーヌさま」

 ええ、とモルガーヌは答えた。

「トレイユが陛下に対してどんな悪逆を企もうとも、民に対して懐の深い領主であった事実は消えない。もしも国王陛下が逆賊としてトレイユを討てば、民は陛下をお恨み申し上げるかもしれない」

「そのとおりです」

 ありえないことだわ、とモルガーヌは思った。東国を守る王家を害するということはつまり、東国そのものを害するということだ。そして、それはそのまま、東国の民の暮らしを害するという意味でもある。

「なぜ、そんな……」

「民の視野は狭いのです、モルガーヌさま。あたしがそうであるように、民にとって一番大事なのは自分の食い扶持なんです。税を決める仕組みよりも、自分たちが払う税が実際にいくらになるのかのほうが大事だし、遠くにいる国王陛下よりも、同じ街にいる衛士のほうがずっと怖い」

「でも、それは……」

「理屈ではない、それが実感なんです。そしてそれは、要塞の兵たちも同じなんだと思います、モルガーヌさま」

 彼らから話を聞くことは、たぶんできません、とクロエは云った。

「ですから、なにか別の方法を考えなくては」

「別の方法?」

 モルガーヌは盛大に顔をしかめた。ここが王都であったなら、あるいはカスタニエの領内であったなら、こんな苦労はしないのに、と彼女は思った。こんな辺境の地では、使える縁故もろくにない――。

 幼い頃より貴族の子女として隙のない教育を受けてきたモルガーヌが、このいかんともしがたい状況に、舌打ちという己にふさわしくない仕草を許そうとしたそのとき、思わぬ声がかけられた。

 モルガーヌさま、とその声は云った。

「モルガーヌ・カスタニエさまではありませんか?」

 モルガーヌは険しい表情をどうにか緩め、声のしたほうをのろのろと振り返った。

「やはりモルガーヌさまではないですか! いったいどうなさったのです、こんなところで」

「ベルタさま……!」

 モルガーヌとクロエは同時に掠れた声を上げた。ふたりとも驚きのあまり、声を張ることもできない。

 はい、と焦茶色の瞳を輝かせた快活な元王太子妃付侍女は頷いた。

「こんなところでお会いするなんて驚きましたわ」

 王城付侍女の仕着せではなく簡易な旅装に身を包んだベルタは、ごくあたりまえのような顔をして背後にひとりの騎士を伴い、そこに立っていた。

 モルガーヌもクロエも、驚きましたわ、どころの騒ぎではない。思わず手を触れ、彼女の実在を確かめたくなるほどに驚いていた。

「それはこちらの台詞ですよ、ベルタさま。なぜあなたがこんなところに?」

 ベルタは眉で八の字を描く少々情けない表情を作り、ですよねえ、とため息交じりに答えた。

「私もそう思いますわ」

 嘘をつけ、とクロエは思った。口で云うほど驚いてなんかいないくせに。

「シュテファーニアさまとともにお国に帰られたとばかり……」

 というより、帰っていなければならないはず、とモルガーヌは思う。元王太子妃殿下とともにわが国へやってきた神ツ国の者たちはひとり残らず国へ帰せ、というのが、国王陛下からのご命令だったのではなかったか。

「私がここにいるのは、ちょっとした手違いでして」

 ベルタの表情はますます情けないものになる。わかってはいたが、私はやはりここにいてはいけないのだわ、と彼女は思っているようだった。

「なんとか国へ戻る方法を探しているところですの。ところで、おふたりはどうしてここに?」

 無邪気としか思えないベルタの眼差しを避けるように、クロエは思わずモルガーヌを見てしまった。元王太子妃殿下付侍女であり、エリシュカさまの友人でもあるというベルタさまが、あたしたちの旅の目的を知って平常心でいてくださるとは思えない。ここは騒ぎを起こさず、穏やかにお引き取り願いたいところなのだが、いったいどう云えば――。

「手違いとは、具体的にどういった事情がおありなのです? ベルタさま」

 事と次第によっては出るところへ出ますわよ、とモルガーヌは言外に云って、ベルタにだけ通じる鋭い笑みを浮かべてみせた。

 この人は相変わらずだわ、とベルタは思った。およそ侍女らしからぬ猛々しい振る舞いは以前からだったけれど、いまはそこに仄暗い鋭ささえ感じられる。ここはうまくやらないと、と彼女は気を引き締めた。

 モルガーヌの出で立ちもどうも妙だ。外套の裾から覗く黒い制服は侍女のものではありえないし、王都から遠く離れたこんな地にクロエとふたりきりでいるというのに、その表情にはなんのうしろめたさもない。つまり彼女は、なんらかの任務を背負ってここにいるということなのだろう。

 任務。そうか、とベルタは思った。あの黒い制服は噂にしか聞いたことのない、監察官のものだ。

 東国王城では、そこで働く者たちの仕着せや制服には厳密な決まりがあった。靴下一足自由な色を選べないと知って、侍女仲間たちが大袈裟に嘆いていたから覚えている。濃茶は侍女、濃灰は下女、濃藍は官吏、そして――、黒は監察官。

 モルガーヌさまはきっと侍女の任を解かれ、監察官となられたのだ。

 では、いったいなんのために。

 簡単だ、とベルタは思う。エリシュカを追うためだ。モルガーヌさまは城を飛び出したエリシュカを追ってここにいるのだ。ということは、やはりエリシュカは北に向かっていたということなのだろうか――。

 いや、違う。もしもそうだったならば、私が、この私がエリシュカを見落すはずがない。

「ベルタさま」

 モルガーヌに再度呼びかけられ、ベルタははっと意識を元に戻した。ああ、と彼女は軽く嘆息してみせる。

「姫さまが大切な装身具を失くされたとおっしゃって、一度通過した街まで探しに戻ったのです。その後単騎で、いえ、こちらのオリオルさまとともに姫さまの旅列を追いかけ、みなが要塞を越えるまでに合流するはずだったのですが、途中、騒ぎが起こりましたもので」

「騒ぎ?」

「学生たちによる叛乱ですわ、モルガーヌさま」

 よもやご存じないとは云わせませんわよ、とベルタは焦茶色の瞳を強く瞬かせた。

「存じております。災難でございましたわね」

 ええ、とベルタはにこやかに頷いた。

「それで、モルガーヌさまはいったい……?」

 云いながらベルタは、モルガーヌの足許へと視線を送った。あなたが身分を変えたことには気づいているのよ、という意思表示のつもりである。

「任務ですわ、ベルタさま。ですが、その内容についてはあなたさまにも明かせませんの。そういう立場になってしまいましたもので」

 ベルタの勘繰りに答える声は潔い。これがモルガーヌという侍女だった、とベルタは思い出し、でも、やっぱり妙だわ、と首を傾げた。あまりにも表情が晴れやかに過ぎる。

 モルガーヌ・カスタニエはとても優秀な侍女だった。よくも悪くも侍女とは彼女の天職であったはずで、たとえ監察官へと立場を変えたとしても、その心根までがそう容易く変わるはずもない。彼女にとって、王太子が絶対的な存在であることに変わりはないはずだ。

 つまり、とベルタは急いで思考を整える。モルガーヌが暢気な顔をしてこんなところにいるということは、彼女はまだ王太子の遭難を知らないのだ。

 これが私の切り札だ、とベルタは思った。早々に切ってしまわなくてはならない呪われた札ではあるが、閉塞したいまの状況――東国に留まることを許されない以上、北の要塞から離れることもできず、かといってひとりで冬山を越えることの無謀さを知っていれば、神ノ峰へと足を踏み入れることもできない――を打開する策はここにしかない。

 それはともかくとして、とモルガーヌが云うのへ、ベルタは軽く首を傾げて応じる。

「ベルタさまも、いつまでもここにとどまっているわけにもまいりませんでしょう?」

「ええ、それはもうそのとおりですわ」

 オリオルさまも一刻も早く王都へ戻らなくてはなりませんでしょうし、と同行する騎士を気遣うベルタに、モルガーヌはやわく微笑んでみせた。

「お国への使いはお立てになったのですか?」

 手違いでこちらに取り残されてしまったのであれば、シュテファーニアさまがいかようにも取り計らってくださるのでは、とモルガーヌは云う。

「冬の迫る神ノ峰を越えられる者はごく限られておりますのよ、モルガーヌさま。私などが探そうとしても、容易に探せるものではありません。であればこそ、王太子殿下の捜索も難航しているのだと思いますわ」

 ベルタはなんの前触れもなくいきなり切札を切った。

「捜索?」

 モルガーヌの眉間に深い皺が寄せられた。捜索とはどういう意味です、ベルタさま。

 やはり、とベルタは思う。モルガーヌさまは王太子殿下の行方不明をご存じなかったのだ。

「詳しい経緯は存じ上げませんけれども、王太子殿下は叛乱勢力の残党狩りの最中、過って崖から転落なされて、そのまま行方不明になっているそうでございます」

 声を上げることもできないほどに驚いたモルガーヌの身体が、ぐらりと傾いだ。彼女の身体を咄嗟に支え、喘ぐような声で問いかけたのはクロエである。

「崖からですって……?」

 ええ、とベルタは頷いた。

「北の要塞が大混乱に陥っているのはそのせいです。おまけにいまは要塞の主であるアドリアン・トレイユ将軍も不在にしておられる。私の処遇が定まらぬのも、オリオルさまが足止めを受けているのも、致し方のないことなのかもしれません」

 心にもないことを云ってベルタは口をつぐんだ。

 モルガーヌの顔色は蒼白だ。見開かれた黒曜石の瞳にはなにも映っていない。――殿下が。王太子殿下が。まさか、そんな。

 モルガーヌさま、クロエが低く抑えた声で何度も名を呼んでも、モルガーヌはなかなか正気に返らなかった。なにも考えられないといった態で首を振るばかりのモルガーヌから目を逸らし、クロエはベルタをじっと見据えた。

「ご存じないとは思いませんでしたわ、モルガーヌさま」

 違う、とクロエはベルタの嘘を本能的に感じ取る。ベルタさまは知っていた、あるいは気づいていたはずだ。あたしたちが王太子殿下の行方不明を知らなかったことを。そしてそのうえで、わざとああいう云い方をした。あたしたちを、否、モルガーヌさまを動揺させるために。でも――、いったいなんのために。

 失礼ながらモルガーヌさま、とベルタは続けた。

「いまのモルガーヌさまは監察官でいらっしゃる。そうですわね」

 クロエに支えられたままのモルガーヌはベルタを睨み据えるように顔を上げたが、白く色を変えた唇から言葉が紡がれることはなかった。ベルタは畳み掛けるように続ける。

「あなたのお役目は、エリシュカを捕らえることだったのではありませんか」

 なんでそれを、とクロエは思う。ベルタはまるで支えあうように立つモルガーヌとクロエに歩み寄ると、声を潜めて先を続けた。

「姫さまはエリシュカの出奔を王太子殿下から知らされておいででした。万が一にもエリシュカが姫さまを頼ることがあれば、すぐにでも王城へ報せを寄越すように、と」

 ですが、姫さはその言葉を退けられた、とベルタは云う。

「もちろん表向きは承諾のお返事をなされました。ですがその裏で、私に別行動を取らせ、エリシュカと合流するように命じられたのです」

「……なんのために?」

 ベルタの打ちこむ連撃にすっかり打ちひしがれ、掠れた声で問い返すモルガーヌに向かい、ベルタはにっこりと微笑んでみせた。

「むろん、故郷へとともに帰るためにですわ」

「それは……!」

 抗議の声を上げようとするモルガーヌの口許に、ベルタはそっと人差し指を向け、かすかに首を横に振った。

「王太子殿下と離縁された姫さまが、殿下の要請をすべて受け入れる義理はありません。ましてやエリシュカはわが神ツ国の民。おかしなことはなにもありませんでしょう?」

 モルガーヌは小さく喉を鳴らした。平凡な能力しか持たぬ侍女だとばかり思っていたベルタ・ジェズニークに、こうも一方的に押しまくられるとはカスタニエの名が廃る。なんとしても一矢報いてやらなくては、どうにも腹が治まらぬ。

 ベルタさま、とモルガーヌは自分を落ち着かせるために一拍を置いたのちに問いかけた。

「私たちにそんなお話をなさるのはなぜですか?」

 取引がしたいのです、とベルタは落ち着き払った声で答えて、モルガーヌをなおも青褪めさせた。

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