03

 厩舎から城内へ戻ったエリシュカは、地下にある広い食堂で下女たちと一緒に冷えた朝食をかき込んだ。今朝の食事は、椀一杯のパン粥にチーズと林檎。この献立メニューを粗末だと思う感覚は、エリシュカにはない。むしろ毎日きちんと食事を与えてもらえることに深く感謝していた。

 故郷である神ツ国において賤民と蔑まれて育ってきたエリシュカは、シュテファーニアに従って東国へ同道してきたほかの侍女たちと食事や寝起きをともにすることはない。王族や貴族と顔を合わせる機会のある侍女よりもぐっと身分の低い下働きの女たち――王城には、洗濯婦や縫子、掃除婦に厨房係と女たちの仕事が山ほどある――と同列の扱いを受けている。

 王城内に個室を与えられる侍女の身分を授けられていながら、実際は厨房や洗濯部屋と同じ区画に、ほかの下女たちと同じように四人部屋のひと隅を与えられて、そこで寝起きをしている。

 もっともそれであっても、故郷にいたときよりもエリシュカの待遇はずっとよくなっているのだった。

 神ツ国における賤民とは、家畜と同様の価値しか持たぬ存在である。自身の財産と呼べるものは己が身ひとつ、帰れる家も、寄り添いあう伴侶も、その日の糧を贖うための貨幣さえ自由に持つことさえ許されぬ身分。仕える主人の都合で売買され、使役され、稀にではあるがその命を奪われることさえある。

 賤民に生まれた者は生涯を賤民として過ごし、その呪われた身分から抜け出すことは適わない。生まれ落ちたその瞬間から死して果てるそのときまで、その生涯のすべてを主とされる者たちに捧げ続けることを強いられる、哀れな人々であった。

 どれほど真摯に勤めに励んでも給金など出ない。それでも生きるためには働かなくてはならず、そしてその勤めを選ぶこともできない身分に生まれたにしては、エリシュカはまだしも恵まれているほうだといえた。

 エリシュカの父が、教主の宮に仕える厩医きゅういであったからである。

 神ツ国に坐すとされる神は、他者の身体に触れることそのものを穢れとみなす。信仰の聖地である神ツ国においては、死者はおろか、生きた者の身体に触れる医師や薬師までもが穢れた生業とされていた。

 厩舎において馬の身体を診る厩医についても同様である。

 真夏でも氷に閉ざされる急峻な山々に国土を囲まれる神ツ国において、馬はもっとも重要な移動手段である。平地のほとんどない土地では馬車はあまり役に立たず、東国で発明された内燃機関を用いた車もたいした距離を走ることができない。

 ゆえに神ツ国の民は、教主に連なる貴なる人々も数多の平民も賤民すらも、歩けるようになるとすぐに乗馬を覚えさせられる。馬がいなければ神ツ国での暮らしは立ちゆかない。人も荷も、すべては馬を使って険しい道を往来するのである。

 それゆえに馬にかかわる仕事を担う者たちは、賤民とはいえども非常に大切にされていた。なかでも厩医はとくに厚く遇されることが多く、ときには仕える主を自ら選ぶことさえできた。腕のよい厩医はそれだけ稀な存在なのである。

 エリシュカの父は、自ら望んで教主の宮に仕えていたわけではない。彼の父――すなわちエリシュカの祖父――もまた厩医であり、その仕事を受け継いだだけのことだ。しかし教主の宮に仕える賤民は、ほかに比べればいささか人間的な扱いを受けることができる。彼は家族の安寧を願って教主の宮にとどまることを望んでいた。

 エリシュカは、歳の近い兄アルトゥルと妹ダヌシュカとともに、幼いころから馬の扱いに関する手ほどきを受けながら育ってきた。厩の仕事は肉体的に非常に厳しいため、女には向かないとされていた――現に妹は、途中で耐えかねて針子となった――が、幸いエリシュカには頑健といってもよいほどに丈夫な身体と、なによりも馬を愛する強い気持ちがあった。

 エリシュカは、父やその同僚たちの厳しい教えに耐えながら、厩舎の仕事をひとつひとつ覚えていき、やがて女としては珍しい厩番となることができた。父の跡を継ぐべく厩医を目指し、一足先を行く兄を追うつもりでいたエリシュカだったが、父はそのことにあまりよい顔をしなかった。

 たしかにおまえならば、厩医となっても十分にやっていけるはずだ、と父は云った。物覚えも悪くはないし、体力もある。なにより、馬に対する愛情が深いからな。

 だが、これ以上目立たぬほうがいいだろう、というのが最終的な父の意見だった。女の厩番というだけでも珍しいのに、厩医など聞いたことがない。いくらわれらが教主の宮に仕える身であるとは云っても、あまりに人の噂になれば、角が立つこともある。物珍しさからおまえを欲しがる者が現れないとも限らない。家族と離れ離れになるのは、おまえだって厭だろう。

 父や兄と同じく厩医になることを夢見てきたエリシュカはひどくがっかりしたが、父に逆らうようなことはしなかった。

 父と兄、それから同じ教主の宮で針子をしている母と妹だけがエリシュカにとっての世界のすべてで、守るべきもののすべてであったからだ。家族と離れて生きるなど、死を賜るよりもつらいことだと、エリシュカは本気でそう思っていた。

 その厳しくも穏やかなエリシュカの暮らしに突然の変化をもたらしたのは、シュテファーニアの輿入れである。教主さまの末娘さまが東国へお輿入れなされるそうじゃないか、と教主の宮に仕える下働きたちが云い交わす噂を知らないではなかったが、まさかそれが自分の身の上にまで影響してくるとは思っていなかった。

 ある日、エリシュカは父とともに厩番頭から呼び出しを受けた。厩番頭の大男は、賤民であるエリシュカたちにもごく気さくに接してくれる気のよい平民だった。

 厩番頭は眉間に深い皺を刻んで、ハヴェル、と父の名を呼んだ。彼の眼差しがなぜか自分に注がれていることに気づいたエリシュカは、不意にわけもなく不安になって父の袖に縋った。

 厄介なことになっちまった、と厩番頭は唸った。厄介なこととは、と父はごく冷静な声で訊き返しながら、エリシュカの手をそっと握ってくれた。きっと父には予想がついていたのだ、とエリシュカはあのときのことを思い出すたび、そう考えずにはいられない。――父はきっと、こうなってしまうことをずっとおそれていたのに違いない。

 厩番頭は、あのな、ともごもごと云い澱んだ。今度、末の姫さまが東国の王太子に嫁ぐことは知っているだろう。

 もちろんです、と父は答えた。

 そのお輿入れにあたって厩舎からも人を送ることになったんだ、と厩番頭は続けた。馬たちを二十頭ばかし連れて行かれるそうで、その世話係が必要なんだよ。

 エリシュカの手を握る父の手に強い力がこもった。ああ、とエリシュカは悟る。馬の世話係として姫さまのお輿入れに同行するのは、このわたしなのだ、と。

 女の厩番はとても少ねえから、と厩番頭は申し訳なさそうに云った。宮の外で探してもエリシュカほど腕のいいのはいなかったんだ。姫さまはお輿入れだろ。男の使用人を連れて行くわけにはいかねえから。

 承知いたしました、と父は頭を下げた。エリシュカも慌てて父に倣った。そんな親子を痛ましげに見ていた厩番の顔は、だからエリシュカの記憶には残っていない。

 でもな、悪い話ばかりでもないんだ、と厩番頭は内緒話でもするみたいに、父に顔を寄せて囁いた。父はエリシュカとよく似た色合いの銀の髪をわずかに揺らして、厩番頭の顔をじっと見た。

 出発の前にな、教主さまがエリシュカに会いたいと仰せだ、と厩番頭は云った。なんでも、エリシュカと姫さまは髪と眼の色がそっくりらしい、ぜひ会ってみたい、と教主さまが仰せになられているそうだ。

 そう聞かされた父はなおいっそう顔を青褪めさせた。エリシュカが東国に嫁すシュテファーニアに同行させられると聞いたときよりもずっと怖い顔になり、それでも口を開かなかった。ただ掌に強い力を込めて娘の手を握っただけだった。

 その話があった数日後、地面にひれふすエリシュカを露台から見下ろした教主は傍らに控えていた神官に向かって小さく頷いてみせ、やがて人を介して言葉を伝えてきた。わが娘によく仕え、己の立場を忘れることなく、よく励むように。

 もとより賤民であるこのわたしが、国に残してきた家族を見捨て、自分ひとり逃げ出そうなどと思うはずがないのに、教主さまはいったいなにがなさりたかったのだろう、とエリシュカには、あの謁見の意味がいまだに理解できていない。

 日ごろ、賤民はおろか、平民の前にさえ容易には姿をお見せにならぬ教主さまが、いったいなんだって自分ごときに直接の目通りなどお許しになったのだろう。たとえ国の外に出たからといって賤民である己を忘れるな、とでも云いたかったのだろうか。

 わたしたちが己の身分を忘れたりなどするはずがないというのに。


「エリシュカ、なにをぼけっとしてるんだい」

 午前中は王太子妃殿下のお庭の手入れに行くんだろう、と顔なじみの洗濯婦であるソフィに声をかけられ、椀を片づけ終わってもぼんやりとしていたエリシュカは、はっとわれに返った。

「いけない……!」

 侍女の仕着せに身を包んだ彼女がここで食事をとっていることに、下女たちは不審な眼差しを寄越したりはしない。

 王太子妃であるシュテファーニアに従って神ツ国から同道してきた、このまだ稚い少女のような侍女が、彼女の故郷においては卑しく蔑まれる身分であることは、いくらもしないうちに下女たちのあいだにすっかり浸透してしまっていた。

 お高くとまった侍女たちから常に用事を云いつけられ、こまねずみのように走りまわっているエリシュカの存在は下女たちの目を引き、そして口さがない彼女たちはかしましい噂話にとどまらず、エリシュカ本人に自分たちの疑問をぶつけてくることを躊躇わなかった。

 なんであんたばっかりきつい仕事をまわされてんのさ、苛められてんのかい、あんた可愛いからねえ、なに、身分が違う、どういう意味だい、そりゃ。

 東国には賤民という身分はない。エリシュカがいくら自身の身分について説明しても、あたしらとお貴族さまの違いならわかるよ、でもそれ以外は農家も職人もみんなおんなじだろ、あたしらとあんたとなにが違うんだい、と彼女たちはまるで納得しなかった。でも故郷では違うんです、と答える声に涙が混ざりはじめてようやく、その場にいた一番年嵩の女が、ま、なんだかよくわかんないけど、あんたはよくやってるよ、とその場を納めてくれたのだった。

 エリシュカは一度脱いだ外套を急いで羽織り直し、裏口から今度は王太子妃の庭――異国から嫁いでくるシュテファーニアの心を慰めるため、彼女のために設えられたという庭――へと急いだ。

 王太子妃の庭には神ツ国から多くの草花が持ち込まれている。故国を離れた王太子妃の心を慰めるために、と急ぎ整えられた庭は美しかったが、東国の庭師は寒冷地の植物の生態をあまりよく知らなかった。

 エリシュカは王太子妃付第一侍女ツェツィーリアに命じられ、数日に一度ほどの頻度で庭師の助手を務めていた。厩医としての彼女の知識は、神ツ国に特有の植物――その対象は主に薬草であったが――にも及んでいたからである。

 外套のボタンを首元までしっかりと止め、分厚い手袋を手に持って、エリシュカは王太子妃の庭へと走りこんだ。そこではすでに庭師のジスランが、弟子のクレマンを伴って作業をはじめていた。

「申し訳ありません。遅くなりました」

 気温は早朝からほとんど上がることもなく、身を切るような寒さは相変わらずだ。白皙の頬を紅く染めたエリシュカが頭を下げると、庭師は人のよさそうな笑顔を浮かべて、メシはゆっくり食えたのか、と尋ねた。

「大丈夫です」

 華奢な指先を分厚い手袋に通し、小さく芽を吹いた苗の入った籠を抱え上げながら、ここの人たちはなんと親切なのだろう、とエリシュカは思う。

 故郷ではエリシュカの、否、賤民の体調や都合を気遣う者など存在しなかった。一日の食事は基本的に二回、ただしそれさえも、朝は凍りついたパンや薄いスープ、夜は野菜やくず肉を煮込んだだけの冷めたスープをもらえる程度の貧しいものだった。賤民の働き口としてもっとも恵まれているとされる教主の宮でさえそうだったのだから、別の場所ではもっと過酷な扱いを受けることが常である。

 厳しすぎる暮らしのなかでは、たとえ賤民同士であっても互いを気遣う余裕などなかなか生まれるはずもない。誰もが自分が生き残ることに必死で、食事を残しでもしようものなら、食べられないぶんを奪われることはあっても腹具合を心配されることなどあるはずもなかった。

 それがここでは一日に三回の食事、労働の合間には短いながらも仮眠が取れるほどの休憩、数日に一度の休暇、それになりよりもともに働く人たちからのあたたかな気遣いがある。言葉遣いこそぶっきらぼうだが、下女たちも、厩番たちも、そしてこの庭師もエリシュカをともに働く仲間と認め、ときにお節介とも取れるほどの気遣いを見せてくれる。

 小柄で華奢、おまけに東国では目にすることのない銀色の髪に薄紫色の瞳を持つ美少女が、大の男でも音を上げるような重労働を文句のひとつも云わずに日々こなしているのだ。そんな姿を目にすれば、誰だって同情的にもなる。

 いまも、ジスランに弟子入りして数年になるクレマンが、重たい肥料の袋を担ぎ上げようとしたエリシュカをとどめて、自分が運んでやる、と申し出たところだった。

「大丈夫です、わたしが運びます」

 誰かに仕事を代わってもらうなど許されたことのないエリシュカは、袋を取り上げようとするクレマンを必死になって躱している。

「エリシュカ。その袋はそこの大男に任せて、ちょっとこっちに来てくれ」

 それみたことか、という顔で大柄なクレマンがひょいと肥料の袋を取り上げた。エリシュカは彼に向かって丁寧に頭を下げたあとで、ジスランの呼ぶほうへと走っていった。

「そろそろ寒さ避けに藁を用意しようと思うんだが……」

「藁、ですか?」

 まだほっそりとした若い木の幹を愛しげに撫でながら、ああ、とジスランは云った。

「ほかのやつらはもうとっくに終えとるんだが、こいつらにはまだいらないとエリシュカが云ってたからな。だがもうそろそろ寒さも本格的になってきた。そろそろ必要なんじゃないかと思うんだが、どうだろう」

 この国はとても暖かいですね、とエリシュカは云った。

「この程度の寒さであれば、真冬の備えは必要ないです。吐いた息がすぐに凍るほどの寒さでも、この子たちはろくな備えもなしに春を待って芽を吹きますから」

「そうなのか」

 吐いた息が凍てつくほどの寒さを知らぬ庭師は目を丸くする。ときおり霙がちらつく程度のいま時分でさえ、冷たい水に指先を凍らせる自らの仕事が恨めしくなるときがあるのだ。

「でも、もしもできるなら寒肥を施しておくと病気になりにくくなると思います」

 あとは虫除けも、とエリシュカは云った。

「寒さにはとても丈夫ですが、暑さには弱いので」

 そうか、とジスランは頷いて、なら、その虫除けに必要な薬剤を教えてくれ、と付け加えた。こっちですぐに用意できるものかどうか調べないとならんし、ないものは代わりを探さなきゃならん。

 はい、と素直に頷いてエリシュカはすらすらと薬剤の名前を挙げはじめる。

「待った待った」

 覚えきれんよ、とジスランは悪戯っぽく笑い、立てた親指でひょいと庭の片隅にある小屋を指差した。庭師たちの詰所である。

「苗の選別はあとでもかまわないんだろう。茶を用意するよ。暖かいところでゆっくり教えてくれないか、」

「え、でも……」

 そう云って詰所に向かって歩き出しながら、クレマン、とジスランは弟子を呼んだ。肥料の袋を運び終えてしまい、手持無沙汰そうにしていた不肖の弟子は、ジスランが顎をしゃくる合図ひとつで詰所に向かって駆け出していった。

「ほら、あいつなんぞ、いっつもサボることばっかり考えとる」

 そう云って歯を剥き出して笑った庭師に連れられて、エリシュカは暖房の効いた詰所に迎え入れられた。

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