03
誰かとともにする食事は美味しいものだったんだな、とエリシュカはなにやらひさしぶりに人心地が着いたような気がしていた。
そして、ヴァレリーがまだ少しまともだった頃――彼が異常なほどの執着心を見せるようになる以前――に、ふたりで囲んだ食卓はあたたかく豊かだったことを思い出した。
それは、並べられる献立や使う食器が贅沢だったからではない。同じ時をわけ合い、同じ食べ物を血肉とする、その行為そのものが豊かだったのだ。
あのぬくもりはいつのまにか失われてしまった。ヴァレリーとともに過ごすということはすなわち、彼と身体を重ねるということと同じになり、ふたりは食事はおろか言葉を交わすことさえもなくなってしまっていた。
どんな言葉を紡ぐよりも先に唇を塞がれてしまえば、エリシュカにはそれ以上どうすることもできなかった。
いったいなんだってアランさまはあんなふうになってしまわれたのだろう、とエリシュカは思う。おやさしかったアランさまとはまるで別人――。
故国では常に卑しき存在とされていた事実を片時たりとも忘れたことのないエリシュカには、ヴァレリーが自分に執着する理由など、まるで見当もつかなかった。まさか、一国の国王ともなるべき男が、自分ごときつまらぬ女に本気を捧げているなどとは思いもよらなかったのである。
「どうしたんだよ、エリィ?」
ぼんやりすんなよ、と酔客で賑わう市場の通りを歩きながらジーノが云った。その声でわれに返ったエリシュカは、すみません、と自分の右側を歩く小さな背中に小声で謝った。
「エリィが謝ることではありませんよ。ただ、こういう場所ではあまり気を抜かないほうがいいですからね」
自分の左側から聞こえたシルヴェリオの声に、今度は顔を上げるエリシュカである。食堂からの帰り道、すっかり腹を満たした三人は、エリシュカが部屋を取った宿に向かって、のんびりと夜の街を歩いているところだった。
「すみません。あの……」
どなかたと食事をご一緒するのがひさしぶりだったものですから、とエリシュカは云った。
「連れのいない旅の気楽さといったところですか。けれど、たまにはこうした出会いもよいものでしょう」
シルヴェリオは美しい顔をやんわりと綻ばせてそう云った。
ジーノとエリシュカは食事をしただけだったが、シルヴェリオは火酒を嗜んでいた。わずかな酔いが回ってでもいるのか、あるいはともに過ごした時間のせいか、出会ったときの刺々しさが抜けたシルヴェリオは、彼が本来持つ妖艶な魅力を遠慮なく振り撒いている。
「俺たちも楽しかったですよ。男ばかりの旅は気楽ですが、華やかさがない。綺麗な女性と食卓を囲むなど、半年以上もなかったことです」
「なに調子づいてんだよ、色男」
「こどもは黙っていなさい」
仄かに頬を染めた美男子は、こども呼ばわりされて瞬時にむくれたジーノの頭を小突いてから、エリシュカに向かって、今日はありがとうございました、と微笑んだ。
シルヴェリオの笑顔に一瞬見惚れていたエリシュカは、突然告げられた礼の言葉によって、自分が取った宿の前に到着していたことに気づく。
あ、と慌てるエリシュカの前で、シルヴェリオは優雅な仕草で一礼してみせた。
「それでは俺たちはここで」
あ、はい、とエリシュカは慌てて頭を下げる。
「こちらこそありがとうございました。ご馳走さまでした」
頭を下げ合う男女のあいだで、んなに小難しい挨拶はいいんだよ、と云ったのはジーノである。
「楽しかったぜ、エリィ。またどっかでな」
こくん、と頷いてみせたエリシュカが、脇から不意に突き飛ばされたのはそのときである。小さな悲鳴を上げてよろけた身体をシルヴェリオがしっかりと支えてくれたおかげで倒れ込まずにはすんだが、エリシュカは突然のことに驚いて大きく目を見張った。
「なにをするんですか!」
シルヴェリオが上げた抗議の声はしかし、エリシュカの背後から聞こえた、盗人だよ、というしわがれた金切り声と、それによって引き起こされた騒動にかき消されてしまった。
捕まえとくれ、と叫ぶ声は、今夜の宿の女将のものではないか、と気づいたエリシュカは、親切なシルヴェリオの手をなかば振り捨てるようにして宿に向かって駆け出した。待って、エリィ、と焦ったような男の声は耳に届かない。
人波を縫うようにして宿の入口に辿り着いたエリシュカは、自分を突き飛ばした男が腰に剣を佩いた、この街の衛士であったことに気づいた。
「なにがあったんですか?」
強盗だよ、と衛士は怒鳴るように答えた。
「宿に盗人が入った」
そう言葉を続けながらも、傍にいる同僚に向かって、広場のほうへ回れ、とか、街門を閉めろ、とか慌ただしく指示を出している。
ようやくのことでエリシュカに追いついたシルヴェリオとジーノは、エリィ、と心配そうに彼女の名を呼んだ。
「強盗が入ったみたいです。詳しいことはよくわからないんですが……」
「宿にですか?」
シルヴェリオの問いに、そうみたいです、とエリシュカは頷いた。シルヴェリオの形のよい眉がぐっとひそめられた。
「けが人は?」
わかりません、とエリシュカは首を振った。あたりをしばらく窺う素振りをみせていたシルヴェリオは、ジーノに向かい、エリィから離れないように、とだけ云い残し、自分はそばを離れていった。
あ、あの、とエリシュカが彼のあとを追おうとすると、やめとけって、とジーノが袖口を掴んで引き止める。
「この辺にまだ犯人がいるかもしんねえ。手口によっては危ねえんだから、オレの隣でじっとしてろよ」
「危ないって……?」
「いま、シルヴェリオのやつが状況を見に行ってる。盗られたもんとか、けがしたやつとか、いろいろ調べて戻ってくるから、少しのあいだじっとしてろ」
なんで、とエリシュカは云った。もしも強盗が客室に入ったのなら、それがどの部屋であるのかを早く確かめたかった。ベルタからもらった金貨はすべて身につけている。だが、部屋には家族との縁である螺鈿細工の小箱が置いてあるのだ。さほど高価なものではないが、繊細な作りのあの小箱は、売ればそれなりの値段になるだろう。目敏い盗人が見逃してくれるとは思えなかった。
エリシュカにとって小山ほどの金貨よりもずっと価値のあるあの小箱の中には、家族全員の――両親と兄、妹――の髪がひと房ずつ納められている。自身の命とテネブラエの次に大切な、家族との絆を示す唯一の品が無事であるかどうか、彼女の気がかりはそれだけだった。
「衛士も来ているみたいだし、大丈夫じゃないかしら」
強盗は怖いが、大切な家族の宝を失うことはもっと怖い。エリシュカは震えそうになる声を懸命に抑えながら、ジーノに向かってそう云った。
なに寝ぼけたこと云ってんだよ、とジーノは応じる。
「まだ人気の多いこんな時間から宿に押し入るようなやつらだぜ、一度入って手慣れた場所にまた戻ってこねえとも限らねえだろ」
「でも、戻ってくると決まったわけじゃないわ」
「シルヴェリオがそいつを見に行ってんだ。ぐだぐだ云わず、ここでおとなしくしてろってば」
エリィ、とジーノはこどもらしからぬ険しい口調で、でも、と粘るエリシュカを叱りつけた。
「殺されてえのかよ?」
そう云ってジーノはエリシュカを睨み据えた。その口調以上に、こどものものとは思えぬ厳しい眼差しに、エリシュカは、そんな、と俯いた。
「まったくそんなんで、よくここまでひとり旅なんかできたよな」
ものを知らないにもほどがあるぜ、とジーノは嘯き、あのな、と続けた。
「気づいてるか、エリィ。さっきからエリィみたいに焦って、脇目もふらずに宿に飛び込んでいくやつらがたくさんいる。大方ここに部屋を取ってる連中で、ついでに云えば金目のもんを持ってるやつらだ。部屋に置いてあるお宝が心配でたまらねえんだろ」
エリシュカは軽く眉をひそめてジーノを見下ろした。少年がなにを云いたいのか、よくわからなかったからだ。
「さっきここに押し入った連中がさ、すでになんかしらの収獲を得てるって云うんならあんまり問題はねえんだよ。でも、もしもなんにも手にしてないんなら厄介だ」
ジーノは、出会ってからはじめて向けてくる、どこか冷たい眼差しでエリシュカを見上げた。両の眉をひくりと跳ね上げてから、彼は先を続ける。
「もしかしたらさ、こうやって集めた野次馬の中に紛れ込んで、じっとこの宿を監視してるかもしれねえ。身なりや仕草やなんかから金の匂いがするやつに目えつけてさ、夜中にもう一度押し入るかもしれねえ。今度は、そいつの部屋に直接……」
エリシュカの背中にぞっと冷たいものが走った。
「さっきから見てるとさ、どいつもこいつも考えなしに部屋に飛び込んでいきやがる。悪いのになると、その辺で部屋札まで出してさ。襲ってくださいって云ってるようなもんだよな、ありゃ」
ジーノは唇の片端を持ち上げて、にやりと笑ってみせた。
「エリィなんかいい鴨だぜ。ひとりで宿に駆け込む可愛い顔した若い女、健康そうで、清潔そうで、おまけにいい脚まで持ってる。おれが賊なら真っ先に狙うね」
「……ジーノ」
エリシュカの怯えたような声を聞いて、ようやくジーノは冷たい眼差しを緩めた。
「わかったろ。エリィはさ、どんだけ警戒したってしすぎることはない。オレたちがずっと一緒にいることはできねえけど、せめていまくらいはさ、頼りにしてくれたっていいんじゃねえのか」
あなたたちの親切はとてもありがたい、とエリシュカは答えた。けれど、行きずりの親切にしてはいささか行き過ぎであるような気もする。正直にそう云うと、ジーノは、へへへ、とばつの悪そうな声で笑った。
「そりゃあさ、オレだってシルヴェリオだって男だもんよ。可愛い子を見りゃ格好つけたくなるってもんだよ。甘えてもらえりゃ嬉しくなる」
騎士気取りがって笑ってもいいぜ、と大人びた少年は云った。
「所詮はオレたちの自己満足みたいなもんだ。だから、エリィはおとなしく云うこと聞いてくれればいいんだよ」
照れたように頬を赤くして云い切ったジーノに、エリシュカは思わず微笑んでみせた。幼いとはいえ、ジーノも男なのだ。ここは彼の矜恃を立ててやるべきだろう、と彼女は思った。助けられていることは事実なのだから。
エリシュカの笑顔にジーノがおおいにあてられた頃になって、ようやくシルヴェリオが戻ってきた。遅かったじゃねえかよ、と脂下がる顔を必死に引き締めようとして失敗しているジーノに反し、シルヴェリオの顔色はすぐれなかった。
「どうかしたのか」
「宿の者に様子を訊いてきたんですがね……」
シルヴェリオはなにかを躊躇うように、そこでいったん言葉を途切れさせた。エリシュカの胸に妙なざわつきが生まれる。
「賊が忍びこんだのはたしかなようですが、盗られたものはとくにないそうなんですよ。帳場や客室が荒らされていたので、すわ盗っ人かと大騒ぎしたらしいんですが、よくよく調べてみたところ、盗られたものはなにもない。衛士も首を傾げていました」
シルヴェリオの言葉にジーノは顔を強張らせた。ひとり事情に疎いエリシュカはふたりの様子に首を傾げながらも口を開いた。
「被害がないのならなによりです。もう賊も去ったことですし」
「被害がないからまずいんですよ」
シルヴェリオの琥珀色の瞳が、厳しい光を浮かべてエリシュカを見つめてくる。
「悪行とはいえ賊だって商売です。いえ、悪行だからこそ、やつらは無駄なことはしない。危険を冒して宿に押し入り、なにも盗らずに去るには、それなりの理由があるはずです」
「理由?」
ええ、とシルヴェリオは頷いた。
「めぼしい金目のものがなかったか、簡単に持ち去れるようななにかがなかったか」
あるいは単純に下手を打っただけかもしれませんが、とシルヴェリオは瞳を眇める。
「いずれにしても危険であることに違いはありません」
「危険?」
いままでの話を聞いてなかったのかよ、とジーノが脇から口を挟んだ。
「盗っ人が手ぶらで帰ったんだぜ。普通に考えりゃ、もう一回忍び込んで、なんとしてでもお宝を奪いたいって、そう思うもんだろうがよ」
シルヴェリオは軽く頷いた。エリシュカは首を捻る。
「え、でも、今夜はさすがに……」
衛士だって警戒しているでしょうし、と続けると、甘いですね、とシルヴェリオは鼻で笑った。
「この界隈にどれだけの人がいて、一晩にどれだけの小競り合いがあるか、わかってますか。衛士だってそう大勢いるわけじゃない。どこかで騒ぎが起これば、ここを離れざるをえないんです。離れた場所でわざと騒ぎを起こし、手が薄くなったところを狙って忍び込めば、むしろ仕事はやりやすいくらいでしょう」
「そんな……」
では、いったいどうしろというのだ、とエリシュカは思った。こんな時間に新しい宿を探すことなんかできるはずもないし、そうなれば、ここ以外に寝める場所はないのだ。
そうだ。どうしたって旅に危険は付き物だし、どうしても怖くなったなら厩に行ってテネブラエの傍で眠ればいい。腹を括ったエリシュカが毅然と顔を上げたところで、シルヴェリオが穏やかに言葉を繋げた。
「エリィ。宿を移りませんか」
エリシュカは思わず眉をひそめた。
「ここは危ない。俺たちが泊まっているところに掛け合えば、ひとりくらいならなんとかしてくれるかもしれない」
「いいえ、大丈夫です」
エリィ、と眉間に皺を刻むシルヴェリオに向かって、エリシュカは首を振って拒否の意を示した。
「わたしがここに泊まるのは今夜だけですし、大金を持っているわけでもありません」
「でも……」
「ご親切には感謝しています。でも、そこまでしていただくわけには」
「下心を疑ってでもいるんですか?」
シルヴェリオは、不意にひどく冷たい声でそう云った。
エリシュカは身を竦ませ、それでも投げかけられた言葉を否定しなかった。ジーノやシルヴェリオの親切を疑いたくはなかった。けれど、まったく見ず知らずの彼らの言葉を頭から信じることもできない。
まあ、仕方のないことですがね、と俯くエリシュカの頭上から、やがてため息交じりの苦笑いが降ってきた。エリシュカが顔を上げると、シルヴェリオはさらに苦笑いを深くした。
「簡単に人を信じるな、と云ったのは俺ですし。でも、困りましたね」
なにがだろうか、とエリシュカは首を傾げる。
「シルヴェリオは本気でエリィが心配なんだってば。オレだってそうだよ、物騒だってわかってる場所にひとりで置いてなんか行けない。だけど、エリィはオレたちのことが信用できねえんだろ」
だから困るって云ってんだ、とジーノが云った。エリシュカは眉根を寄せた渋い表情で少年を見下ろす。
「エリィの気持ちもわかるしな」
無理強いはできねえよ、とジーノはどこか寂しそうな笑顔を見せた。養い親であるというエルゼオについて旅をはじめたばかりとはいえ、それでもジーノはエリシュカよりもよほど旅慣れているはずだ。露店の主人や食堂の給仕のあしらいひとつにも、そのことははっきりしている。
ジーノはだからきっとよく知っているのだろう、とエリシュカは思った。旅の途上で知り合った者たちが通わせ合う情が、濃やかでありながらひどく儚いものであることを。
長く続く関係ではない。みな帰る場所を持ち、行くべき場所を定め、ただその道がほんの一刻、たまさか重なったというだけのことだ。それでも言葉を交わし、心を通わせるのは、ときにひとりで歩むことが、どうにもたまらず寂しくなることがあるせいに違いない。
旅に出てまだ日の浅いエリシュカだが、いつか自分にも堪えきれないほどの心細さが訪れるのだろうということは、なんとなく理解できる。それはきっと、家族を想っても、テネブラエに支えてもらっていても、拭い去ることのできない圧倒的な寂しさなのだろう。
ジーノはもう、その狂暴なまでの寂寥を知っているのだろうか、とエリシュカは思った。
「エリィ」
黙り込んでしまったエリシュカに、シルヴェリオが少しばかりあらたまった口調で呼びかけた。こうしてはどうでしょう、と彼はうっすらと微笑んだ。
「エリィは俺たちが取っている部屋に泊まってください。俺たちは別の宿を探します。この街はそれなりに広いし、人も多い。別々の宿に泊まれば、二度と出くわすこともない。どうです?」
「そんなことは……」
「エリィはなにも気にすることはありませんよ。俺の気がすまないという、ただそれだけのことです。一度は食事をともにした可愛い女の子が、賊の押し入った宿に泊まるなんていう自殺行為に走ろうとするのを見逃すわけにはいかない」
でも、とエリシュカはなおも食い下がった。
「そんなことまでしていただく理由がありません。ジーノには助けてもらいましたし、食事も美味しかった。もうそれだけで十分すぎるくらいなのに」
「旅は過酷なものです。互いに助け合わねば、目指す場所には辿り着けない。もし、エリィが俺たちに感謝をしてくれるのなら、いつかエリィは誰かに同じことをしてやればいいのです。そうやって親切と感謝は巡り巡って、いつか俺たちを助けるかもしれない。厚意を受け取るのも、助け合いなんですよ」
シルヴェリオの琥珀の瞳はおそろしいほどに澄んでいた。衛士の持つ篝火がいくつも映り込むその瞳を見つめているうちに、エリシュカはどこか気の遠くなるような心地がした。くらり、と頭の芯が揺れる。
「わかり、ました……」
気づけばそう答えていた。やった、と弾けるジーノの声に、エリシュカははっとわれに返る。
「よかった。そうと決まれば早速移動しましょう。ここに長居は無用です」
シルヴェリオはにっこりと微笑んで、あろうことかエリシュカの手を取ろうとした。エリシュカは慌てて彼の手を振り払い、あの、と声を上げた。
「なんです?」
「部屋に荷物が」
ああ、とシルヴェリオは頷いた。
「ジーノに取りにやらせましょう」
「いえ、それは……」
「なんだよ、シルヴェリオのことは信用しても、オレのことは違うっての?」
そうじゃなくて、とエリシュカは慌てた。
「自分の荷物だもの」
「そんなのいまさらだろ」
「でも……」
「なに、結構散らかしたりしちゃってるの?」
そうじゃないけど、とエリシュカは唇を噛んだ。部屋に置いてある荷物など、その重さも量も知れたものである。城を出るとき、庭師のジスランからもらった麻袋のひとつに、いまだ捨てることのできていない部屋着と家族の宝である螺鈿細工の小箱、それに幾何かの着替えが入っているだけだ。
あの絹の部屋着をジーノに――ジーノだけではなく、ほかの誰にであっても――見られるのは非常によろしくない、とエリシュカは思った。切り落とした銀髪はこの街に入る前に海に捨てることができたのだが、いかにも値の張りそうな豪奢な部屋着を一緒に捨てることはできなかった。どこか人目のつかないところで小さく切り裂いてからでないと処分することは難しいだろうと思ったからだ。
「荷解きはしてないけど……」
「じゃ、なに?」
オレが部屋に入っちゃまずい理由でもあるわけ、とジーノはむくれてみせた。
「オレ、なんにも盗ったりしないし、荷物を覗いたりもしねえって」
「わかってる」
エリシュカは急いでジーノの言葉を遮った。シルヴェリオは黙ったまま、ふたりのやりとりを見守っている。彼の澄んだ眼差しは、まるでわたしを検分しているかのようだ、とエリシュカは思った。――俺たちのことを信用できますか。
本当のことを云えば、自分の荷物には誰にも触れてほしくなかった。王城から追われている可能性があることを気づかれたくなかったし、不相応に贅沢な品を持っていることを知られたくもなかった。
ジーノを信用しないわけじゃないのよ、とエリシュカは心の裡で云い訳をする。だけど、ジーノはまだこどもだし、こどもは好奇心が旺盛なものだもの。厩にいたツィリルだってそうだった。
もしもジーノが、ほんの些細な好奇心からわたしの荷物を覗き込んだらどうなるだろう。あるいはそれが彼の意志ではなく、ただの偶然によるものだったとしても、絹の部屋着を見逃すほど彼は愚かでも鈍くもなさそうだ。
だけど、だけど、――だけど。
そうして結局エリシュカは、ジーノの純粋な眼差しとシルヴェリオの透徹した威圧に負けたのだった。わかったわ、とエリシュカは云った。
「お願いする」
「そうこなくっちゃな!」
しぶしぶ口にした言葉だったのに、ジーノの天真爛漫な笑顔を見ていると、これでよかったのだという気になってくるから不思議だった。
エリシュカはジーノに部屋の場所を教え、部屋札を渡した。ジーノは、じゃ、ちょっと待っててくれよ、と答えてすぐに駆け出していった。
まだ小さな背中を見送っていたエリシュカに、では、行きましょうか、と声をかけたのはシルヴェリオである。エリシュカは驚いて彼を振り仰いだ。
「え、でも……」
「急がないと俺たちの部屋を確保できなくなってしまうのでね」
あ、とエリシュカは頬を染めた。そうだった。彼らは自分たちの部屋をわたしに譲ってくれると云っていて、であれば、彼らは自分たちのための部屋をこれから探さなくてはならないのだ。夜が更ければ更けるほど、部屋を見つけることは難しくなっていくだろう。そんな簡単なことも思いつかなかった自分が恥ずかしい、とエリシュカは俯いた。
「それに、万が一後をつけられでもしていたら、俺たちの善意が無駄になってしまいますからね」
「後を、つける……?」
誰が誰の、とばかりに首を傾げるエリシュカに、シルヴェリオは、あなたのですよ、と苦笑いした。
「わたしの、ですか」
そうですよ、とシルヴェリオはエリシュカの背中を軽く押し、歩き出すよう促しながら頷いた。
「あなたはね、自分で考えているよりもずっと目立っているんです。もう少し自覚したほうがいい。ひとり旅の女性など昨今は珍しくもないが、あなたのように若くて綺麗な娘さんがひとりでいるとなれば、よからぬことを企む輩はいくらでもいるんです。どれだけ用心してもしすぎることはない」
本当はね、とシルヴェリオは眉根を寄せた。美しい顔が険しく歪む。
「誰か道連れを見つけるのが一番いいんですけれどね。なかなか難しいことだとは思いますが」
エリシュカは言葉を返すこともできずに俯いた。王城に追われる身を明かすこともできない自分には、道連れなど見つかるはずもない。
シルヴェリオは、なんだかすみません、と続けた。
「俺、さっきからあなたを責めるようなことばかり云っている気がします」
「いいえ」
エリシュカは顔を上げて慌てて首を振った。
「シルヴェリオの云うとおりだと思うんです。それに、とても親切にしていただいて……」
その、とエリシュカは云い澱んだ。ありがとうございます、というありきたりな言葉ではとても足りないような気がしたからだ。
「いいんですよ」
さっきも云ったように、と美しい男は微笑んだ。
「俺は、誰かに親切にしてあげた、という自己満足が欲しいだけです。あなたが気にすることはない。それに、俺たちはもう二度と会うこともない仲です。旅の途上ではね、その縁は刹那のものと考えて、貰えるものは貰っておくのが賢いやり方です。たまさか、運命が捩れ、縁が重なることもありますが、そんなことは本当にごくごく稀なことですから」
そう思えば気も楽になるでしょう、と云われて、エリシュカは小さく頷いてしまった。
こういう身軽さはそれまでのエリシュカの周りにはなかったものだ。なにかを貰うときにはなにがしかの――それは大抵の場合において、貰えるものよりもずっと多くの――対価を相手に渡さなければならなかった。
それは、故郷である神ツ国でも、東国王城でも同じだった。生きるために、その身を、その自由を、――すべてを差し出さなくてはならなかった。ただ受け取るだけでいいなんて、これまでそんなやさしさに触れたことはなかった。
家族や友人ではない誰かから受け取るはじめての善意に、エリシュカは涙ぐみそうになる。
泣き出しそうなエリシュカの眼差しに、唇の端を持ち上げて微笑みを返したシルヴェリオが不意に足を止めた。ここですよ、と云ったとき、エリシュカは彼の顔にぼんやりと見惚れていて、あまりよく周囲を見ていなかった。
ふたりが立っているのは、街の中でも一、二の規模を争う大きな宿だった。エリシュカが部屋を取っていたような場末のそれではない。エリシュカは目を丸くして、そんな、と呟いた。
「どうかしましたか?」
「こんな立派な宿だなんて」
「見てくれだけですよ。さっきのところとそうは変わらない」
でも、とエリシュカは小さく首を振った。わたしやっぱり、と云いかけた言葉は、しかしシルヴェリオの鋭い口調で遮られてしまう。
「話はついたはずでしたよね。もう一度話を蒸し返すつもりですか。はっきり云ってそれは、気分が悪い」
「ごめんなさい」
これまでずっと――それこそ苦言を呈するときでさえ――やわらかな口調を崩さなかったシルヴェリオが吐き捨てた言葉に、エリシュカはみっともないほど動揺した。
「ごめんなさい」
謝罪を繰り返すと、シルヴェリオは琥珀色の瞳を細め、まるで睨み据えるようにエリシュカを見下ろしてきた。
「同じ話を二度するつもりはないんです。今夜のあなたの宿はここです」
はい、とエリシュカは神妙に答えた。
「中に入ってジーノを待ちましょう。すぐに追いつくと思いますよ」
一瞬の刺々しさが嘘のように微笑んで、シルヴェリオはそう云った。エリシュカはほっとすると同時に、奇妙な寂しさを覚えてどきりとした。
二度と会うこともない仲。ふと感じたこの寂しさが、シルヴェリオにそう云われたことによるものだと気づいてしまったからだ。
おかしなわたし。エリシュカは自分を戒める。会ったばかりの、交わした言葉の数さえ数えられそうな、そんな相手にいったいなにを求めるつもりでいるの。しっかりしなくちゃ。
だが、そうやって自分に云い聞かせれば云い聞かせるほど、心が自分を裏切るような気がしてならないエリシュカだった。
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