02

 エリシュカは名も知らぬ少年に腕を掴まれたまま、市場を抜け、娼館の建ち並ぶ歓楽街を抜け、いつのまにか食堂や宿屋が集まっているあたりまで戻ってきていた。

 露店の女主人との丁々発止のやり取りが嘘のように、少年はほとんど口をきかなかった。腹は減ってる、と訊かれたのが一度と、ひとり旅なわけね、と咎めるような口調で確認されたのが一度。それきりだった。

 やがて少年は一軒の食堂の前で足を止めた。

「あの、わたし……」

 人目が多い場所には近づきたくないエリシュカは、そのまま食堂に入って行こうとする少年に抵抗した。

「なんで? 腹、減ってんだろ」

「こういうところは、その……」

 大丈夫だってば、と少年は云った。

「連れがいれば絡まれたりしない」

 そんなことを心配しているわけじゃない、と反論する間もなく、エリシュカは少年に引きずられるようにして食堂の中へ連れ込まれてしまった。

 橙色のあたたかな光に満たされた食堂の中はひどく騒々しかった。ねえ、待って、と少年をとどめようとする声も、外にいるときよりもずっと張り上げなくてはならない。人を相手にそんな大声を上げたことのないエリシュカは、なすすべもないままにひとつの円卓の前まで連れられて行くことになってしまった。

「ジーノ!」

 大皿に盛られた肉のひとつにフォークを突きたてたまま声を発したのは、黒い髪を短く刈り込み、汗よけの布を額に巻いた大男だった。太く逞しい二の腕はエリシュカの腰回りほどもありそうである。

「なにやってたんだ、おめえは!」

 男は肉を口に突っ込み何度か咀嚼したあと、ごくんと飲み込んだ。

「ってか、なんだ、その嬢ちゃんは?」

 ん、とジーノと呼ばれた少年は、卓上の料理に素早く視線を走らせながら答えた。

「露店の婆に騙されそうになってたからさ、連れてきた。腹、減ってんだって」

 一緒にいいだろ、と云うジーノを、待ってください、とエリシュカは慌ててとどめようとした。

「ご迷惑でなければご一緒にいかがです?」

 大男には似つかわしくない涼しげな声が響く。エリシュカはおそるおそる男へと視線を戻した。

「旅は道連れ、袖擦り合うもなんとやらと申します。これもなにかの縁でしょうから」

「さすがシルヴェリオ、いいこと云うねえ」

 そう云ったジーノは、空いていた椅子に腰を下ろした。よくよく見てみれば、卓にいたのは大男だけではなかった。まるで彼の影に隠れるように細身の男がひとり、そこに座っていた。明るくあたたかな食堂の中だというのに長套の頭巾フードを深くかぶっており、その眼差しを窺うことはできない。エリシュカは軽く眉をひそめた。

「ああ、失礼」

 男は涼やかな声でそう云うと、片手で頭巾を払い除けた。

 そこに現れたのは、思わずぞっとするような美貌だった。首筋の中ほどまでかかる長さに整えられたまっすぐな髪は亜麻色、衒いのない眼差しは琥珀色、旅慣れていそうな割にはすべらかにすぎるように思える肌はやや黄味を含んだ象牙色。ややもすればきつい印象になりそうな切れ長の眼差しは、自身の魅力を十分に理解している者だけが浮かべられる種類の笑みを含んで、どこか色っぽい。エリシュカは思わず息を飲んだ。

「俺はシルヴェリオと云います。このゴツイのはエルゼオ、そのガキはジーノ。南国出身同士、なにかと気が合いましてね。いまは道連れだが、もとは他人です。あなたとジーノの出会いもなにかの縁だ。一夜の晩餐くらい、ご一緒できませんか」

 シルヴェリオはやけに饒舌な男だった。南国の男たちは女とみると口説いて回るというから、この美男もその類なのかもしれない。エルゼオという大男もジーノという少年も、シルヴェリオの長広舌などどこ吹く風といった様子で、卓の上の料理を勢いよく平らげていっている。

 なんとなく逃げられないような雰囲気を察したエリシュカの背を押したのは、ちょうどパンを食いちぎったところで視線を合わせてきたジーノだった。

「なにぼけっとしてんだよ。なくなっちまうぜ」

 エリシュカは意を決して、空いていた最後の椅子に腰を下ろした。シルヴェリオの美しい顔にやわらかな笑みが乗せられた。

「ようこそ、俺たちの最初の晩餐へ」

 気障ったらしくそう云ったシルヴェリオは、そこで、ああ、そういえば、と軽く眉をひそめた。そんな表情さえも絵になる美貌は、落ち着いて見てみればまるで別物であるはずなのに、どこかヴァレリーと重なるような気がして、エリシュカの心を乱した。

「お名前をまだお訊きしていなかった」

「え……」

 エリシュカ、と咄嗟に名乗りそうになってしまい、エリシュカは慌てる。

「え?」

「……エリィ」

「エリィ?」

「はい、エリィと云います」

 咄嗟に思いついた偽名はあまり出来のよいものではなかった。案の定、シルヴェリオは人好きのする笑みにわずかな棘を覗かせた。だがなにも云わなかったのは、あるいは自身にもなにか含むところがあるせいなのだろうか。

 せっかくですからね、とエリシュカから視線を逸らすことなくシルヴェリオは云った。

「なにか身体のあたたまりそうなものを追加しましょう」

「腹に溜まるもんもな」

 ジーノが口を挟むと、仕方ないですね、とシルヴェリオは笑った。

「あの、そんな、いまあるもので……」

「どうせ足りやしないんですから、いいんですよ」

 ベルタがエリシュカに残してくれた金貨は多い。それでも、思いがけず長い旅路を行かねばならなくなってしまったエリシュカは、一番節約しやすい食事にはあまり金をかけたくなかった。遠慮のように聞こえた言葉は、じつはエリシュカなりの抵抗だったのだ。

 だが、シルヴェリオもジーノもそんなこととは気づかない。ひたすら食事に没頭しているらしいエルゼオについては云わずもがなである。

 それ以上強く云えないエリシュカは、男たちに押し切られるようにして食事をはじめた。

 シルヴェリオとジーノは饒舌だった。次々と移り変わる話題に頷いているうちに、エルゼオとジーノがもともとの連れで、そこにシルヴェリオが合流したらしいことがわかってきた。

 エルゼオは自分のことを商人だと云った。いまは西国で収穫された綿花を東国で大量に売り捌いた帰りだとかで、このあともう少し進んだ先にある街で、質のよい螺子を買い付けて西国へ戻る予定だという。彼はそうやって買い付けの品をときどきに変えながら、一年のうちに数度も、東国と西国を往復して暮らしているのだそうだ。

 エルゼオの養い子のようなものであるジーノは、オレもいよいよ商いを学ぶために今回はじめてエルゼオについて旅をしているんだ、と云った。

「オレ、もうじき十三だからな。いつまでもエルゼオの脛を齧ってもいらんねえわけよ」

 エリシュカが頷くのも待たず、ジーノはこんがりと焼かれた鶏の腿肉にがっぷりと齧りつく。なんとも悪びれるところのないジーノの云い種に、エリシュカは濃鼠色に染めた髪を覆うように布を巻きつけてある頭を揺らして笑った。

 なんだか懐かしいな、と彼女は思っていた。

 神ツ国にいた頃、同じ教主の宮で働く賤民の中に、ちょうどジーノと同じ年ごろの少年がいたことを思い出したのだ。あの子も――たしか、ツィリルという名だった――、このジーノと同じように目端が利いて、調子がよくて、ちゃっかりしていた。

「で、エリィはなんでひとり旅なんかしてんの?」

 素直に頷きかけたエリシュカだが、すぐに顔を強張らせる。――理由など云えるはずもない。

 エリシュカの戸惑いを敏感に察したのか、ジーノはすぐに次の問いを投げかけてきた。

「どこまで行くの?」

「西国まで」

 しばらく躊躇ったあとのエリシュカの返事に、へえ、とジーノは云った。

「そりゃ奇遇だね」

 そうね、とエリシュカは頷き、しかし、本当の目的地が神ツ国であることは云わずにおこうと思った。人と神とを隔てるような急峻な峰を越えて神ツ国に出入りする者は、商いに熱心な南国の商人か、とくに信仰に篤い巡礼者くらいのものなのだ。エリシュカはどう見ても商人ではないし、巡礼者にも見えないだろう。

「エリィ、あなた、気をつけたほうがいいですよ」

 たっぷりと野菜の入った、湯気の立つスープを取り分けてくれたシルヴェリオが不意にそう云ったので、エリシュカは首を傾げた。瞬きを数度するあいだ考えてみても、シルヴェリオの言葉の意味はよくわからなかった。

「知り合ったばかりの男に、自分の話をぺらぺらとするもんじゃありません。連れがいないとか、目的地だとか、悪い連中に聞かれたらどうするんです?」

 それに、と彼は琥珀色の瞳にふと翳りを見せた。

「俺たちが性質の悪い連中ではないとも限りませんしね」

「そんな……」

「そんなはずがないと、どうしてわかるんです。あなた、俺たちのことをなにも知らないでしょう。名前も素性も、本人の云うことなんか鵜呑みにしちゃいけない」

 エリシュカは奥歯を噛みしめて俯いた。――シルヴェリオの云うとおりだ。

 これまでの自分の暮らしが、決して気楽なものだったとは思っていないエリシュカである。それでも、王城を抜け出したあとの彼女は、己がいかに世の中を知らずにいたのか、そのことを強く強く思い知らされていた。

 エリシュカとて、嘘や誤魔化し、欺瞞や詐欺と無縁に暮らしてきたわけではない。無意味な虐待から自分を守るための嘘――それはおもに沈黙による――や、仲間に与えられる罰を少しでも軽くするための誤魔化しは、神ツ国にいた頃の彼女にとっては日常茶飯事だった。

 東国王城で暮らし、やがてヴァレリーのもとに囲われてからは、己がここにあることはアランさまのためだ、という自己欺瞞の中に生きた。そして最後は、モルガーヌやクロエをはじめとする大勢を欺いて城から逃げ出してきたのだ。

 そうよ、わたしだって綺麗な生き方をしてきたわけじゃないんだわ、とエリシュカは思っていた。人は騙すし、裏切るのよ――。

 だが、いくらそんなふうに自分に云い聞かせていても、やはりエリシュカは世間知らずだった。

 店頭に並べられていたものとは似ても似つかぬ残飯の寄せ集めのような弁当を売りつけられたときには、こんなものか、とため息ですませることもできたが、テネブラエのために麻袋にいっぱいの飼料を買い求めたはずが、砂で嵩増しされていたときには本気で泣けた。わたしがこんなふうに情けないままでは、テネブラエにまで可哀相な思いをさせることになってしまう。どうにかしなくては。

 騙されたり、莫迦にされたりしながら、それでも自分なりにあれこれと学んできたつもりでいたエリシュカは、シルヴェリオの穏やかながらも厳しい言葉にすっかり意気消沈してしまった。俯くエリシュカの頭上で、シルヴェリオの莫迦野郎、とジーノの声がした。

「おまえがそんなこと云ったら、まるでオレが悪者みたいじゃねえかよ」

「なんでです?」

「市場で目えつけて、あとで身ぐるみ剥ぐために親切にしてやってるみてえな」

「誰も俺たちがそうだとは云ってないでしょう」

 そう聞こえるんだよ、なあ、エルゼオ、とジーノは云った。

「聞こえるな」

 それまでずっと食事に夢中でいたエルゼオが、ようやくひととおりの食欲を満たしたのか、会話に加わる気になったらしい。厳つい顔つきの割につぶらな瞳がエリシュカに向けられた。

「悪く思わねえでくれ。こいつ、こんなツラしてるもんで、あっちこっちでいろいろと痛い目見てきてるらしいんだよ。あんたみたいに綺麗なお嬢さんを見ると、どうしても心配になるんだろ」

 悪気はねえんだよ、とエルゼオは云った。シルヴェリオはまるで不貞腐れたようにそっぽを向いている。エリシュカは、いえ、と首を振った。

 わかってくれりゃあいいんだ、とエルゼオはにかっと歯を剥き出して笑う。

「オレあよ、ちょっと用があるんで消えるがよ、シルヴェリオの云うとおり、これもなんかの縁だ。ここにあるもんしっかり食って、明日からに備えろや」

 な、とエルゼオはなおも豪快に笑った。エリシュカは小さな笑みを返し、頷いた。

「悪かったですね、きつい云い方をしてしまって」

 あらためて食卓に向かい、顔を上げたエリシュカにシルヴェリオが云った。綺麗な顔に苦笑いを浮かべている。

「あなたのような娘さんがあまりに不用心だと、他人事ながら心配になっただけなんですよ」

 いいえ、とエリシュカは答えた。

「こちらこそ申し訳ありません。ご親切だと知りながら……」

「でも、本当に気をつけたほうがいい。若い娘というだけでも価値があるのに、あなたはとても美しいから」

 衒いのない褒め言葉にエリシュカの頬が赤く染まった。

「どさくさに紛れて口説いてんじゃねえぞ」

「そんなつもりはありませんよ」

 細かい鶏の骨を吐き出しざまのジーノにそう笑われて、シルヴェリオが憮然とする。

「ガキのくせに大人をからかうんじゃありません」

「エリィもさ、遠慮しねえで食えよ。な?」

 一端の男を気取るジーノの隣にいたはずのエルゼオは、用事があるとの言葉どおり、いつのまにか姿を消していた。少年に促されたエリシュカは、小さなパンと鶏肉のかけらを皿に取り、ちまちまと口に運びはじめた。

「スープも召し上がって」

 シルヴェリオがエリシュカの傍らに置いた腕を示す。はい、とエリシュカは頷いて薄く微笑んでみせた。

「それがいけないと云うんですよ」

 え、とエリシュカは目を見開く。ジーノが、よせっての、と舌打ちをした。

「そうやって誰にでも開けっぴろげににこにこするもんじゃありません。自分を安売りするんじゃない」

「シルヴェリオ」

 ジーノの尖った声がエリシュカを困惑から救い出す。

「あのな、そんなふうに次から次へと説教されてたら、エリィだってメシが不味くなるだろ。ちょっとは考えろよ、ほんとにおまえは顔だけの野郎だな」

 シルヴェリオはぴくりと片眉を釣り上げたが、反論はしなかった。ジーノの言葉に偽りはないらしい。

「だいたいなんだよ、偉そうに。自分だって、どっかの衆道趣味の爺にかっ攫われそうになってたところを、エルゼオとオレに助けられたんじゃないか」

 エリシュカは思わず目を見開いた。シルヴェリオは剣呑な眼差しでジーノを睨みつけている。どうやら触れられたくなかった過去であるらしい。

「ほらな。エリィのことをとやかく云えるような立場じゃないんだからさ。メシは楽しく食おうぜ」

 な、とジーノはにやりとしてみせた。シルヴェリオは深いため息をつき、今度こそエリシュカに向かって深々と頭を下げた。

「本当にすみません。自分がこんなだから、あなたのことも心配なのだと云ったら許してもらえますか」

 いえ、その、とエリシュカは慌てる。

「お顔を上げてください。わたし、そんな謝っていただくようなことはなにも」

 シルヴェリオは琥珀色の双眸を気弱に眇め、気まずさを隠そうとするかのように卓の上を示してみせた。

「せめてものお詫びになりますか、どうぞ気兼ねなくたくさん召し上がってください。俺の奢りですから」

 そう云われてしまえば遠慮もできない。エリシュカは頷いてスプーンを手に取り、食事に集中することにした。

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