第二部 旅路

01

 黄昏の街は慌ただしい気配に満ちている。

 エリシュカはその日の宿を決め、街が運営する厩にテネブラエを預けると、必要なものを買うために、このあたりで一番賑やかだという市場へと出かけてきた。

 いまのところ、路銀に困ることはない。ベルタが託してくれた大陸金貨は、大事に使えばひとりで半年以上は暮らせるほどの大金だった。日々の宿や食事、テネブラエにかかる費用を考えても、故郷まで帰り着くに不足はない。

 ベルタさまにはいくら感謝してもしきれない、とエリシュカは思った。

 故郷である神ツ国ディヴィナグラティスにいた頃から、ベルタ・ジェズニークはエリシュカにとってほとんど唯一と云ってもよい友人だった。本来なら神官を父に持つベルタを友人などと呼べるはずもないエリシュカであったが、ベルタは一度もそんなことを気にする素振りを見せたことがない。

 賤民、それがとうしたのよ、とベルタはよく口にしていた。私はあんたの友だちで、あんたは私の友だち。それでいいじゃない。

 人としての一切の尊厳を奪われた存在である賤民たちは、自分たちを虐げる神ツ国の民に決して気を許さない。エリシュカだって例外ではなかった。母や妹に馴れ馴れしく接しているベルタを見かけたときには、はっきりとした敵意とは呼べないまでも、苛立ちを覚えたりもしたものだ。

 だが、ベルタが誠意に満ちた態度を崩すことはなかった。母や妹はおろか、エリシュカや、彼女よりももっと頑なな父や兄までも、いつのまにかベルタに心を許していた。

 ベルタは決して己の力量以上の見栄を張らなかった。私にできるのはこれくらいしかないのよ、と云って彼女が持ってくるのは、本当にせいぜいがこどもの菓子程度の気休めでしかなく、だからかえって、こんなことで恩を売ろうなんて考えてないわ、という彼女の言葉を信じる気になれたのかもしれない。

 主にベルタの努力によって育まれた友誼は、いまもまたこうしてエリシュカを助けている。ベルタさま、とエリシュカは感謝の想いをこめて、友の名を噛み締めた。

「ちょっと、あんた!」

 パンの塊に薄切りの肉や野菜を挟んだだけの、少々乱暴なサンドイッチを売る露店の前でぼんやりしていたエリシュカは、不意にその露店の女主人に怒鳴りつけられて飛び上がった。

「買うの? 買わないの? どっち!」

 買わないんなら、そんなとこにいないどくれ、と捲し立てられて、エリシュカは戸惑いながらも、買います買います、と慌てて懐に手を突っ込んだ。

「おばちゃんよお」

 エリシュカが小銭の入った皮袋を掴み出すより前に、露店の女主人にそう呼びかける声が聞こえた。

「そんな云い方はねえんじゃねえの? ねえちゃん、びっくりしちゃってんじゃねえか」

 なあ、とエリシュカを見上げてくるのは、この国ではごくありふれた焦茶色の瞳である。

 あ、いえ、とエリシュカは快活そうな双眸を瞬かせる少年から目を逸らし、サンドイッチ売りの女に、ひとつください、と早口で云った。こんなところでぼんやりしていた自分が悪いのだ。少年に同調して女を責める気になどなれない。

「え、マジ……?」

 皮袋から小銭を数えて支払をしようとするエリシュカを、少年はあっけにとられて見上げている。

「こんなボッタクリの値段、なに、お人好しに払おうとしてんだよ」

 なあ、と少年は露店の女主人に向かって、にやりと笑いかけた。

「なにを人聞きの悪いこと云ってんだい! この性悪!」

「性悪はてめえだろ。屑みたいなメシ売りつけて荒稼ぎしてるクソ婆のくせに」

 なんだとこのクソガキ、と女は歯を剥き出しにして大声を上げた。

「商売の邪魔すると痛い目見せるよ!」

 当事者であるはずの自分をそっちのけにはじまってしまった激しい云い合いを前に、エリシュカはおろおろとするばかりだ。

「あの……もうやめてください」

 ようやく言葉を挟んだときには、女と少年は粗方の悪口雑言を尽くしたあとで、すでに双方とも肩で息をしているような有様だった。

「あの、ひとつください」

「あいよ」

「やめとけってば!」

 露店の女主人と少年は、またしても火花を散らさんばかりに睨み合う。エリシュカは困り果てて、あの、と言葉さえも失ってしまった。

「ほらよ」

 少年を睨み据えたまま、女が茶色っぽい紙に包んだサンドイッチをエリシュカに向かって差し出してきた。エリシュカはそれを受け取り、今度こそ皮袋からいくつかの硬貨を取り出した。

 途端、少年の手がエリシュカの手から包みを奪い取る。呆気にとられるエリシュカの前で包み紙を剥いだ少年は、その中身を女に向かって突きつけて叫んだ。

「これが人間さまの食いモンかよ!」

 少年の手の中にあるのは、なにやら油じみた薄っぺらいパンに挟まった屑野菜と屑肉で、これ見よがしに店先に並べられているサンドイッチとは似ても似つかぬ代物だった。エリシュカは目を見開いて女店主と少年とを見比べる。

「このクソガキ……!」

 女店主が歯を剥き出して怒鳴り声を上げた。少年は、ふん、と鼻を鳴らし、女の目の前に包みを突きつけた。

「ねえちゃん。わかったら、その金さっさとしまってこっち来なよ」

 ぐうの音も出ない露店の女と眼差しを戦わせたまま、少年がエリシュカの手首をぐいと掴んだ。咄嗟に振り払おうとしたエリシュカの抵抗をものともせず、少年はそのままなんの前触れもなく歩き出した。このクソガキが、覚えておけ、と思い出したかのように喚く女主人の声があっというまに遠ざかる。

「あの……」

「ねえちゃんさあ」

 少年は、立ち並ぶ露店とそこを行き交う人々のあいだをすり抜けるようにして、ずんずんと歩きながら云った。

「あんなのに騙されるなんて、どんな世間知らずだよ。紙に包まれて中身の見えねえモンなんて、なにがあっても買うんじゃねえって習わなかったのかよ」

 いったい誰にそんなことを習うのか、少年はじつにたいした口ぶりで続ける。

「街中でなんか食うなら食堂が基本だろ。じゃなきゃ宿で食わせてもらえよ」

 そんなことはエリシュカにだってわかっている。だが、極力人目につくことを避けたいエリシュカは、街の酒場はおろか宿の食堂さえろくに利用したことがなかった。


 王城から逃げ出して五日めの夕刻である。

 誰に見咎められることもなく王都の街門を抜けたエリシュカは、その日の夜が来るまで、ほとんど休みをとることもなくテネブラエを駆って街道を進んだ。陽が落ちてから街道を脇に逸れ、川べりを探してねぐらとした。

 疲労困憊のテネブラエに飼料と水をやり、自分は適当に摘んだ果実や川の水で空腹を誤魔化してから、テネブラエの足許に丸くなって眠った。

 いま思えば無謀にもほどがある、とエリシュカは思う。人気のない川べりで眠り込むなど、夜盗山賊の類に襲われてもおかしくなかったし、正体のよくわからない果実を口に入れたり、沸かしもしない川の水を飲んだり、よくも命があったものだと思う。

 ただ、いまもまだどうにか捕まらずにいられるのは、闇雲に駆けたあの日のうちに三つもの街を抜けることができたせいだろう、とも思う。もしもあのときにぐずぐずしていたら、いまごろはとうに王城へと連れ戻されていたに違いない。

 東国オリエンスシヴィタの大きな街は、どこも高い防壁で囲まれているのが常である。盗賊などの不逞の輩から街の人々を守るため、あるいは街の中で悪さを働いた者を外へ逃がさぬようにするためであり、街に出入りする者は、定められた刻限までに街門を通らなければならない。

 街門には衛士が立ち、国が手配した罪人などが街を出入することのないよう、そこを通る者たちの身元を厳しく検めることがあった。

 テネブラエを連れたエリシュカは、ひとり旅にゃ気をつけろよ、と衛士に気を遣われることはあっても、身元を質されるようなことはなかった。でも、本当ならわたしはこんなふうに暢気にしていたらいけないのだわ、と彼女が気づいたのは、城を出て三日が経ったあたりの頃のことである。

 東国は、北を要に扇を広げたような形をした大陸の東側に、広い国土を有している。

 エリシュカが暮らしていた王城がある王都は、東側の海岸をずっと南へ下り、ちょうど扇の縁と縁が角を作るあたり、そのやや内陸寄りに位置していた。王都から放射状に広がる街道沿いには、大小いくつもの町や村があった。その中でもとくに大きな街にはその中心に領府が置かれ、当地の領主が住まう公邸が構えられている。

 エリシュカの目的地、すなわち神ツ国の都は、王都から東の海岸沿いに伸びる街道をほぼまっすぐに北上し、途中でやや西寄りに進路を変え、北の要塞――東国と神ツ国との事実上の国境――を越えた先にある神ノ峰の向こうにある。

 東国王太子ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュと離縁し、故国へ帰らんとする神ツ国教主の娘シュテファーニア・ヴラーシュコヴァーの一行は、嫁してきたときと同様に、いままさにその道を辿っているはずだった。

 エリシュカも、当初はシュテファーニアと同じ道を行こうと考えていた。正確には、どうにかして姫さまの一行に追いつき、同道することはできないだろうか、と考えていたのである。

 だが、それは無理な相談だということに、ここにいたってようやく気づこうとしていた。

 街門に立つ衛士たちは、そこを出入りする人々を笑顔で出迎え、笑顔で送り出す。街への訪いを歓迎する一方で、しかし、じつは厳しい眼差しで道行く人々を監視しているのだ。

 エリシュカがそのことを知ったのは、ほんの偶然のことからである。

 城を逃げ出してから二日後に抜けた最後の町は、それほど規模の大きくない、ある港町だった。小さな漁港がひとつあるきりのそこは、人の出入も人口もさほど多くない。大きな青毛馬を連れたエリシュカは、女のひとり旅ということもあって、街門でごく短い時間ではあったが、衛士の足止めにあってしまった。王都からできるだけ遠ざかっておきたいからと、日没間際の黄昏どきに街門を抜けようとしたことが原因だった。

 もう暗くなる、危ないから町にとどまれ、と人のよさそうな衛士は云った。焦茶色の髪や髭に白いものが多く混じった彼は、エリシュカの父よりもずっと年嵩であるに違いなかった。急ぐ道行きだから、とエリシュカがいくら云い張っても、その衛士はなかなか首を縦に振ろうとしなかった。

 黄昏どきの陽はどんどん傾いていき、じきにあたりには紺色の闇が迫るようになる。エリシュカは焦れはじめていた。街門の見張りの塔に灯りが入ってしばらくすると、門はぴたりと閉じられてしまい、翌朝まで開くことはない。

 城を抜けてからずっとテネブラエを駆けさせてきたから、王都からはだいぶ道のりを稼いでいるけれど、それは、城から早馬を飛ばせばあっというまに追いつかれてしまうほどの距離でしかない。エリシュカの不在はとうに城中の者たちの知るところとなっていようし、場合によっては、すでにヴァレリーの知るところとなっているかもしれない。

 もしかしたら今夜中に手配書が届けられることもあるかもしれない。そう考えたエリシュカは、なんとしてでもこの街を抜けておかなければならない、と気を焦らせた。

 髪の色は染粉で誤魔化しているとはいえ、テネブラエの背にある麻袋の中には、与えられていた部屋着と切り落とした銀髪が詰め込まれたままだ。荷物を検められることなどそうはあるまいが、万が一ということもある。この町を出たあとすぐに海に捨てるつもりだったそれらを、もっと早く手離しておけばよかった、とエリシュカは後悔した。

 こんな娘っこを夜の街道に放り出すわけにはいかん、と衛士がまたもや難しい顔をして見せた直後、エリシュカの背後で鋭い叫び声が上がった。――そいつ、人殺しだ。

 エリシュカはびくりと背中を震わせ、慌てて振り返った。門を出ようとしていた数人に紛れ、まっとうな旅人にしては荒っぽい雰囲気を纏わりつかせた男がひとり、足早に歩き去ろうとしている。エリシュカの傍らに立っていた衛士が合図をし、数人が男を追いかけていった。

 叫び声を上げたのは、街門を入ってやって来る旅人に、水やら果物やらを売りつけようとしてあたりをうろうろしている少年たちだった。エリシュカは唇を引き結び、焦る自分を諌めることに必死だった。あんなこどもでさえも罪人の手配書には敏感なのだ。ましてや大人であればなおさら――。

 いずれ自らも追われる身となることを覚悟しはじめたエリシュカは、そのときはまるで無関係であるはずの捕り物にひどく怯えた。こんなところにとどまっていてはいけない。

 衛士の注意が自分から逸れたわずかな隙に、エリシュカはテネブラエを引いて歩き出した。あ、おい、と焦ったような衛士の声が聞こえたが、かまわずに進み続けた。

 なにもないときであれば、すぐに追いつかれ、足止めされていたに違いない。

 だがそのときの衛士は、捕り物に苦心する仲間のところに駆けつけなければならず、ただ先を急ごうとしているばかりの、とりたてて怪しいところもない娘にかかわりあっているひまはなかった。

 エリシュカは混乱に乗じて街門を抜け、街道に出るなりテネブラエに跨った。そして、ごめんね、もう少し走ろう、と青毛を急かしながら、この先の旅路についてちゃんと考えなくちゃいけないわ、とあらためて思ったのだった。

 わたしが城を抜け出したことを知ったアランさまはどうなさるだろう、とエリシュカは考えた。

 アランさまにとってのわたしは、それほどまでに価値のある存在だっただろうか。分不相応なまでの情けをかけてやったというのに、恩を仇で返すような薄情な女のことなどとっとと忘れ、新しい恋人を見つけようとなさるのではないだろうか。

 いいえ、と即座にその考えを否定することができたのは、自分を求める男の瞳――希求と恋情の底に見え隠れしていた、狡猾で硬質な色――を思い出したせいだ。ふと脳裏を掠めていった身勝手な感情のことは、ひとまず忘れることにする。

 きっと、とエリシュカは思った。ひとつ部屋に閉じ込めたのと同じ狂気を募らせ、あらゆる手を使ってわたしを追い詰め、捕えようとなさるに違いない。いずれ数多の罪人と同じく手配書が配られ、街々の衛士たちが懸賞金目当てに血眼になってわたしを探しはじめる――。

 エリシュカはおそろしくなって首を竦めた。やはり一刻も早く王都から遠ざかり、少しでも早くこの国を抜けてしまわなければ。

 そうやってしばらくのあいだ、無心でテネブラエを駆けさせているうちに、エリシュカはふと忘れようとした己の身勝手を思い出し、口許を歪めた。

 あの大きな手をあれほど厭がったはずなのに、ヴァレリーが自分を忘れるかもしれない、もう二度とあの手に抱かれることはないかもしれない、という考えに至った刹那、ふと胸を過ぎっていった感情に苦い笑いが込み上げる。――寂しい。

 エリシュカはヴァレリーに忘れ去られる自分を思い、たしかにそう感じたのだ。――寂しい、と。

 なんとも身勝手なことだ、とエリシュカは思った。髪を切り落とし、モルガーヌやクロエを裏切り、衛士を欺いてここまで逃げてきたというのに、ヴァレリーの心変わりに寂しさを覚えるなど、どこまで勝手なのだろう。

 アランさまがわたしを忘れてくれるのなら、それこそ喜ぶべきことではないか。このままなにごともなく、家族のもとへと帰れるのだから。

 いずれにしても、とエリシュカは思考を邪魔する複雑な感情を振り切らんとして小さく頭を振った。姫さまの一行を追うという、当初の考えは捨てたほうがいいだろう。これからは、常に最悪を――己が追われる身になるという――念頭に置いて行動するべきだ。

 姫さまの一行は大きな街道を選んで進まれるはずだ。途中立ち寄る街々ではことさらの歓迎はなくとも、手厚くもてなされることだろう。姫さま以外の者たちはみな徒歩で付き従うことになっているから、道行には時間がかかる。

 音に聞こえた姫さまの美貌をひとめ拝もうとして集まるはずの民の目も気になるところだが、より厄介なのは姫さまの護衛についているはずの騎士たちのほうだ。アランさまの正妃であった姫さまは、離縁したといえども、この東国にとって損なうことのできない大切な御身である。故国へ帰る途中の彼女になにか不測の事態があれば、東国と神ツ国とのあいだに深刻な諍いが生じかねない。それゆえに東国は姫さまの旅列に大仰なまでの護衛をつけている。

 もしもアランさまが、王城から逃げたわたしを捕らえるよう手配なされば、その知らせは間違いなく姫さまや、姫さまの護衛についている騎士たちにももたらされる。わたしはこの国に頼る者のひとりもいない異国の賤民だ。逃げ込む先は同郷の者たちのところくらいしかない。そんなこと、アランさまはとうにお見通しのはずだ。

 彼らの中にはわたしの顔を見知っている者も少なくない。迂闊に近づけば、必ず捕えられる。姫さまの列に近づくことはできない。

 もし仮に、とエリシュカはふと考えを逸らせた。わたしが姫さまのもとに逃げ込んだあと、アランさまからの知らせが届いたら、姫さまはどうなさるだろうか。わたしを庇ってくださるのだろうか。それとも、いつかのようにわたしをアランさまに差し出すのだろうか。

 間違いなく後者だろう、とエリシュカは眉根を寄せる。

 いまのシュテファーニアにとって一番大切なことは、自身が無事に故郷へ帰り着くことである。ただでさえ厳しい旅路を歩まねばならぬときに、東国に追われる罪人を一行の中に匿ったりするはずがない。

 ましてや追う者はかつての夫、東国王太子ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュであり、追われる者は、その夫の情人であり、自らに隷属すべき存在であったエリシュカなのだから。捕えられればエリシュカに幸いはないとわかっていても、自らの懐に彼女を庇う理由はシュテファーニアにはない。

 やはり姫さまのもとへ向かうことはできない、とエリシュカは悟る。

 これからはこれまでのようにはいかない。云われたことに従順であるばかりでは、故郷まで辿り着くことはできない。どんなことも自分で考え、なにをするにも自分から動かなければ。

 エリシュカはテネブラエの手綱を緩め、歩調をゆったりとしたものに変えた。そろそろ塒も定めなくてはならない。

 昨夜までのように都合よく川べりに出ることはできなかった。大木の陰に身を寄せ、皮袋に汲んでおいた水と飼料をテネブラエに与えた。馬具一式を外してやり、身体にブラシを当てて寛がせたあと寝ませてやった。それから同じ水で自分の喉を潤し、とっておいた果物を齧って空腹を凌ぐ。

 姫さまの列に加わることができなくなったからには、いまのままの進路をとることはできない。酸味のある果実をじっくりと噛み締めながら、エリシュカは考えを巡らせた。

 そして、翌朝から西へと進むべき方向を変えたのである。

 現在は内陸の地を南へ下っており、遅くとも明日の日中には、ちょうど扇の縁にあたる海岸線に出られるはずだった。そこからさらに西へ西へと進めば、南国オーストラムスを抜け、西国オシデンスシヴィタへと至ることができる。西国に入ったらその先はふたたび進路を変えて北上し、神ノ峰を越える道を探し、神ツ国へ入る。

 ――気が遠くなるような道のりだ。

 神ツ国から東国までやってきたときは、ただ姫さまの旅列に従ってきたばかりだったし、旅のあいだは、下女としてのさまざまな仕事に追われてもいたから、自分で旅をしたとはとても云えない。

 おまけにエリシュカの世界は、神ツ国にいた頃は教主の宮、東国にいたときは王城と非常に限られたものだった。だからエリシュカは、苦労の割に世間を知らない。安全な宿や食堂の見分け方も、道ゆく人たちとの挨拶の交わし方も知らない。

 だが、どんな困難が待ち受けているとしても、王城から逃げ出してしまったエリシュカには、旅を続けるしか選択肢はない。家族の待つ故郷へ辿り着く以外に、彼女の安息はありえないのだ。

 エリシュカは、そんなふうに引き返す場所のない自分を誰よりもよく承知していた。だから目の前に続く道をひたすら進み、そして、いまいるこの街まで辿り着いたのだった。

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