55
エリシュカはきつく眉根を寄せて、倒れているその人を見つめた。仰向けになり、大きく胸を喘がせて荒い呼吸を続ける男の顔には見覚えがあった。
黄金色の髪。精悍な顔立ち。
――アランさま。
豊かな髪は泥と血に汚れ、整った顔も頬や額に無残な傷を負っている。
なぜ、こんなところにアランさまが、とエリシュカは思った。
彼はこんなところにいるはずのない人だ。
王城に暮らし、数多の人々に傅かれ、何不自由のない立場に立って傲慢に微笑んでいるはずの人だ。
人影もない山奥の洞窟の中、たったひとりきりで、こんなふうに苦しんでいるはずがない。
エリシュカは幾度も瞬いた。
こんなところに、いるはずがない。もう二度と、会うはずがない。
だけど。
それでも。
それでも、この人は、――アランさまだ。
エリシュカはヴァレリーのそばへと駆け寄った。テネブラエを洞窟の入口に立ち止まらせ、そこで待ってて、と声をかけた。賢い青毛はすべてを察してでもいるのか、鼻を鳴らすこともなくその場にとどまった。
瞳を閉じて横たわるヴァレリーに意識はないようだった。
エリシュカは彼の傍らに膝をついて、その顔を覗き込む。けがをしていないほうの頬に掌を添わせ、首筋で脈をとる。体温がひどく高く、脈も早かった。呼吸も荒い。このままでは衰弱する一方だ。
エリシュカはヴァレリーが身に着けている長套を剥ぎ、まずは彼の身を覆う鎧を脱がせることにした。いくら軽いものであるとはいえ、鎧は金属でできている。こんなものを着ていれば、いまよりもずっと気温の下がる夜にはそれだけで体温を奪われてしまう。
慣れない鎧の留め金を外すのに手間取りながら、エリシュカはヴァレリーの呼吸や傷の様子をたしかめた。目立つ外傷は少ない。顔や手など、衣服に覆われていない箇所に自然に止まるほどの出血を伴う程度のものがいくつか見受けられるだけだ。
だが、呼吸音が少し濁っている。もしかしたら肺に異常があるのかもしれない。
ようやくのことで鎧を脱がせた。肩当てと胸当てを取り除き、ぐったりとした身体の下から背当てを引っ張り出すだけで呼吸が乱れた。
心臓に耳をあて、鼓動を確認する。やはりとても速い。
次に呼吸をたしかめると、やはり濁ったような雑音があった。
――よくない。
エリシュカはヴァレリーの身体を彼の長套で覆い、いったんテネブラエのそばへと戻る。
「テネブラエ。今夜はここを塒にしましょう。日が暮れてしまうから」
そう云ってテネブラエの装備を解いてやり、飼葉と水とを与えた。
「アランさまのお世話をしてくるわ。いい子にしてて、なにかあったら教えてね」
テネブラエはエリシュカの言葉をひと言も聞き漏らすまいとするように、ひくりひくりと耳を動かしていたが、ヴァレリーの名を聞いた途端、不愉快そうに鼻を鳴らした。大切な主の敵だとでも思っているのだろう。
「大丈夫よ。いまはなにもなさらないわ」
というか、できやしないわ、とエリシュカは思った。意識が戻るかどうかも危ういもの――。
神ノ峰に入る前、もう二度と会えないはずだったヴァレリーのために幸いを願った。もしもまた会えたら、などとは思わなかったし、そんなことは考えもしなかった。
いまここで思いもよらぬ再会を果たし、しかし、エリシュカの心はひどく穏やかに落ち着いていた。ヴァレリーに意識がないせいかもしれないが、東国で暮らしていた頃のように、彼に怯えたりはしなかったのである。
エリシュカにはそのことがとても意外だった。
わたしの愚かさで、アランさまのお気持ちを踏み躙ってしまったことはとても申し訳なく思うし、もしもやり直せるならば、と思ったこともある。アランさまに幸あれと願ったのは本心からのことだし、心の奥底のどこかでは、彼の幸いが自分の幸いとともにないことを残念に思ったりもした。
けれど、――やはり、ヴァレリーのことはおそろしかった。
会いたい、とは思っても、いざ顔を合わせることを考えると、過去の記憶に身が震えた。
だから、やはりどうしたって、会うことはできないのだ、と思っていた。
家族との再会を諦め、故郷へ戻ることを諦め、東国王城へ戻ったところで、ヴァレリーをふたたび受け入れられるのかどうか、エリシュカにはまるで自信がなかった。
想いは彼の上にあるはずなのに、彼の幸いを願っているはずなのに、それでも、あの手が自分に触れることを思うと、とてもおそろしく感じてしまう。
慈しまれるだけではないと知っているからだ。
愛されるだけではないと知っているからだ。
わたしを幾度も苛み、苦しめ、傷つけた手。――その手が、おそろしくてたまらない。
だから、もしも、――いえ、もしもなどということは決してないのだけど――もしも、もう一度アランさまにお会いすることがあっても、わたしはきっと彼のことをおそろしく思ってしまい、また彼を傷つけてしまうだろう。
エリシュカはそんなふうに思っていた。
だけど、違った――。
いまのわたしはアランさまをおそろしいと思うどころか、傷つき弱りきっている彼をどうにかして救って差し上げたいと思っている。自分の身を守ることさえ危ういこの山深き地で、この方の命を守りたいと思っている。
なぜなのだろう。あれほどおそろしく感じていたのに、いまはもうその片鱗もない。
必要なものを手に、ヴァレリーの傍らに戻ったエリシュカはまず
血で汚れた顔を拭き、傷を薬草と布で覆う。無事であるらしい足には、いったん靴を脱がせたうえで凍傷を予防する薬を塗りこみ、新しい布を巻きつけてからふたたび靴を履かせた。手指にも同じ処置を施し、手袋をつけさせる。頭には防寒と、さらなるけがの予防のために布を巻きつけ、顔は呼吸を妨げない程度に頭巾で覆った。衣服はかけられる
そうこうするあいだも、ヴァレリーはまるで意識を取り戻さなかった。ときおり低い呻き声を上げはするものの、きつく寄せられた眉根が解けることもない。
すべてを終えたあと、エリシュカはヴァレリーの顔色を見ながら、彼の傍らで簡単な食事を摂った。自分が水を飲むついでに彼の唇も湿らせてやり、ほんのわずかだが蜂蜜も分けてやった。
表ではごうごうと風の鳴る音がする。あたりはすっかり暗くなった。
洋燈の灯りでヴァレリーの顔色を確かめ、さっきよりも少しだけよくなったような気がする、と思いながら、エリシュカはヴァレリーの隣、同じ毛布の中にもぐりこみ、あっというまに眠りについた。
翌朝になってもヴァレリーは目を覚まさなかった。
荒い呼吸は幾分落ち着いているように見えたが、相変わらず熱が高い。このままでは数日も持たないな、とエリシュカは冷静に考えた。
洞窟の外へ様子を窺いに出てみれば、辺りはすっかり白一色に覆われている。沢の水が凍りついていないことは救いだったが、それも時間の問題であるような気がした。
エリシュカは思わず舌打ちをした。海猫旅団にいるあいだ、ともに働いていた厨房長ロレッタから移ってしまった、あまりよろしくない癖だった。
厳しい様相を呈する景色をいつまでも眺めていたところで、状況が好転するわけでもない。エリシュカは洞窟の奥へと戻り、テネブラエの朝食を用意してやった。さらに昨夜かけてやれなかったブラシをかけてやり、蹄鉄の調子を確かめた。
「蹄、少し削っておいたほうがいいかもしれないね」
馬の蹄の手入れはとても難しい。馬は脚が命のいきもので、蹄の削り方ひとつで脚が腫れたり、ひどいときには走れなくなったりしてしまうこともある。それゆえ、蹄鉄師でないエリシュカが蹄の手入れをするとなると半日仕事、山の中ではその日一日を潰してしまう覚悟が必要だった。
でも、ちょうどよかったかも、とエリシュカは思った。
「今日、手入れをしようね」
どのみち、ヴァレリーの意識が戻るまではここを動くことはできないのだから、十分に時間をかけてテネブラエの面倒をみてやれる。テネブラエは、しっかり頼むよ、とばかりに尾を動かしてみせた。
「アランさまのお加減を先に見てくる。食事をしたら戻るから、待ってるのよ」
エリシュカはヴァレリーの様子を窺いながら、ひさしぶりに火を起こした。スパイスを何種類も使った刺激的な味わいのスープを作り、時間をかけて味わう。癖のある味だが、身体はあたたまる。こんなふうにゆっくりと時間を過ごすのは、本格的な山道を歩み出してからはじめてのことだった。
揺れる炎の灯りでヴァレリーの様子を観察した。
顔色は相変わらずよくないが、異様に早い呼吸と鼓動は少し落ち着いたように見える。手で触れる額や首筋の熱も少し治まってきていた。沢の水を汲んで来た桶に手拭いを浸し、幾度も取り替えることで熱を取り除く。意識が戻れば、痛みを訴える箇所を聞き出すこともできるのだけど――。
エリシュカが、そんなことを思いながらヴァレリーの顔を覗き込んだときだった。
ヴァレリーの目蓋がひくりと動いた。
遠くで誰かが名を呼んでいる。
――アランさま。アランさま。
目蓋を持ち上げようと意識を凝らしたが、
どうにかこうにか薄目を開けて首を動かそうとすると、胸のあたりに激痛が走る。思わず呻き声を上げるほどの痛みで、それ以上動くことができなくなった。
「アランさまっ!」
やけにはっきりと名を呼ばれ、ヴァレリーは唸り声で返事をした。意識がはっきりしてくると、痛みの正体もわかってくる。これは、骨を折ったときの痛みだ。折れているのは――、胸か。
「アランさま」
目の前で揺れていた灯りを遮るようにして、ぬっと顔が現れた。
夢にまで見た――最近では夢でしか見ることのできない――薄紫色の瞳。
「アランさま!」
「エリ、シュカ……」
なんだここは天国か、とヴァレリーは思った。崖から落ちたおれは、一緒に転がり落ちたあの男を緩衝材代わりにしぶとくも生き延びたのかと思ったが、違ったのか。それにしても天国とはえらく気の利くところのようだ。会いたい顔をした天使が迎えに来てくれるとは。
自分が天国へ行けるのだと端から信じ込んでいる図々しい男は、いまわの際だと云うのにもかかわらず、にこりと微笑んでみせた。もうこの際、死んでいてもいい。エリシュカに似た顔がおれにやさしくしてくれるというのなら、甘んじて受け入れようではないか。
「……アランさま」
エリシュカはあきれたような声を出し、お加減はいかがですか、と尋ねた。
「お加減……?」
お花畑へ飛翔してしまったヴァレリーの思考は、なかなか現実を見ようとしなかった。彼を天国から引きずりおろしたのは、彼自身の痛覚である。
痛い、とヴァレリーは云った。
「胸が痛い」
比喩ではない。本当に痛いのだ。
エリシュカの顔をした天使は、胸ですか、と呟き、いきなりべろりと衣服をまくり上げた。ひやりとした空気が腹に触れ、ヴァレリーは呻いた。
「このあたりですか」
触れてくる指先はひやりとして気持ちがよいが、触れ方は少しもやさしくない。ぐいぐいとあちこちを押さえられ、ヴァレリーはあられもない悲鳴を上げた。
「
その頃になると目の前にいるエリシュカの顔をした人物は、天国から遣わされた出迎え要員などではなく、本物のエリシュカなのだということが理解できるようになっていた。
ヴァレリーは怠く重たい腕を動かし、自分のそばに片膝をついて蹲っているエリシュカの手首を掴んだ。
「エリシュカ」
はい、とエリシュカはさもあたりまえのように返事をした。ここに自分がいることは当然で、ヴァレリーがなぜ驚いているのかわからない――。
たしかにエリシュカはそこにいるはずなのに、この手で触れているはずなのに、やけにふわふわとして現実味がなかった。それは肋骨の骨折による高熱のせいなのだが、ヴァレリーにはそんなこととはわからない。そこでますますエリシュカを捕まえる手に力をこめることとなってしまった。
「アランさま」
エリシュカは窘めるように云って、ごくやんわりとした仕草でヴァレリーの指を外した。思っていたよりも頼りない自分の手を恨みながら、ヴァレリーは、なぜ、と問うた。
「なぜ、そなたがここに、エリシュカ」
そのお話はあとにしませんか、とエリシュカは答えた。
「きっと長くなると思いますし、いまはそれよりもお訊きしたいことがありますので」
記憶にあるよりもずっと凛とした表情のエリシュカを、ヴァレリーはぼんやりと見上げる。
「胸のほかにはどこが痛みますか」
尋ねられたヴァレリーは首を横に振った。
「ほかは……よく、わからない」
エリシュカはぴくりと片眉を吊り上げた。王城にいたときには見たこともない表情だった。本当にわからないのだ、とヴァレリーは云った。
「とにかく右胸がひどく痛む。息をしても響く」
好いた女に向かって弱味を見せるなどあまりにも無様だが、いまはそんなことを云っている場合ではない。ヴァレリーはできる限り冷静を装ってそう云った。本当は、のたうち回って喚き散らしたいくらい、痛い。
「失礼します」
エリシュカはふたたびヴァレリーの衣服を手早く捲り上げた。腹に冷たい空気が触れ、痛みが増した。思わず呻くと、エリシュカの手が額に触れた。
「楽にして差し上げられなくて申し訳ありません。でも、まだ意識を保ってください。どこをけがしているか、教えてください」
エリシュカがこういうはっきりとした物の云い方をするのがどんなときか、ヴァレリーはよく知っている。馬の世話をするときだ。
おれは馬か。そう思うと、急におかしくなった。大声で笑い出したいほどだ。気分が明るくなったせいで、意識もさっきよりはっきりしたようだ。
ヴァレリーは、ああ、と返事をして、自分の胸やら腹やらをまさぐるエリシュカの手の感触を追いかけた。右脇に彼女の手が触れたとき、叫び出したいような痛みを感じた。
「ここですね」
ごめんなさい、少し痛むと思います、とエリシュカは云った。
その後に襲ってきた激痛は、エリシュカがこれまでの意趣返しでも企んでいるのではないかと疑いたくなるほどに強烈なものだった。額には脂汗が吹き出し、食い縛った歯は痛み、腹の底からなにやら冷たいものが込み上げてくる。
「アランさま」
意識を保たせようとしているのか、エリシュカがたびたび名を呼んでくる。
「肋が二本か、あるいは三本折れていると思います。皮膚を突き破ったりはしていませんし、肺腑も無事のようですが、呼吸が少し濁っているのが気になります。高熱のせいならいいのですが」
云いながらエリシュカは傍に置いてあった大きな袋の中を探り、洗いざらした布を取り出した。
「いまから身体を捻ったりしても骨がずれないように固定します。お身体を起こせますか」
ヴァレリーは苦心して上体を起こした。身につけていた衣服をエリシュカの手で剥がされ、そこにいささかの躊躇いもないことに苦笑いした。彼女は、本当におれのことを馬かなにかだと思っているみたいだ。何度も抱き合ったことなど、すっかり忘れてしたったかのように恥じらいもない。
一方のエリシュカはそれどころではない。馬の手当てですら見様見真似だというのに、人のそれなどしたこともない。けれど、ヴァレリーを放っておくことはできないし、手を出す以上、いい加減なこともできない。
ひどく痛むはずの胸に布を固く巻いて固定すると、元どおりに服を着せてやった。発熱の原因が骨折だとわかったので、熱を冷ます効果のある薬草を煎じることにした。
ヴァレリーがここにいることは、どうやらあまりよろしくない偶然によるものであるらしい、とエリシュカは考えた。彼は己の身体ひとつのほかにはなにも持っていなかったし、冬の迫る神ノ峰へ立ち入るような格好でもなかった。
けれど、エリシュカは深くを尋ねることを躊躇した。自分が同じことを尋ねられたくはなかったからだ。
いまはこの窮地を乗り切ることだけ考えよう、とエリシュカは思った。まずはアランさまが動けるようになること。それから、この先のことを。過ぎたことに思いを馳せるのは、そのあとでいい。
「アランさま」
身を起こしたままぼんやりとしていたヴァレリーに、エリシュカは、横になるように、と云った。起き上がっている体力があるのなら、回復にまわしてもらいたい。
ヴァレリーは素直に身を横たえた。胸以外にも身体のあちらこちらが痛みを訴えてくる。
水を火にかけるときのかすかな音と、エリシュカが薬草を刻む単調な音がヴァレリーの心を落ち着けた。あたりの空気はしんとして穏やかだ。
「エリシュカ」
彼女のほうへと首を傾け、小さく呼びかけると、どうなさいました、とエリシュカは俯けていた顔を上げた。
「そなたがおれを助けてくれたのか」
しばらく沈黙があった。どう答えたものかと迷っているようだった。
「おれのそばにもうひとり、男がいなかったか」
エリシュカは驚いたように目を見張った。
「いたのだな」
ヴァレリーはゆっくりと瞬きをした。
シャニョンの護衛についていた男が短銃を手にしていたのを目にしたとき、ヴァレリーが考えたのは、自死だけは阻止せねばならない、というその一点のみだった。
叛乱の首謀者ユベール・シャニョンはなんとしてでも生きたまま捕らえ、厳しく尋問せねばならない。その動機、組織の全容、協力者の正体、そして、エヴラールのこと。
なんとしても死なせるわけにはいかなかった。護衛からシャニョンを引き離しはしたものの、短銃は飛び道具だ。撃たれたらかなわない。
そう考えて護衛を取り押さえようと、彼に飛びかかった。自分が切り立った崖の縁にいるのだということなど、すっかり失念していた。
護衛の男とともに宙に投げ出され、おそらくはふたりともすぐに気を失ったのだろう。地面に叩きつけられたとき、彼が自分の下敷きになったのは偶然だ。
ヴァレリーが意識を取り戻したとき、男はヴァレリーの身体の下でまだ生きていた。無我夢中で彼の身体を担ぎ上げ、崖から離れたところで助けを呼ぼうと考えた。
崖の真下にいては、上から姿を見つけてもらえないと思ったのだ。痛む身体を無理矢理に動かして、ほんの少しの距離を移動したところで力尽きた。ひどいけがを負って人ひとり担ぐなど、もともと正気の沙汰でない振る舞いだが、男の身体が急に重たくなったことで、彼の死に気づいたせいもある。
名も知らぬ護衛の身体を地面に下ろした。自分もまたその場に蹲って荒い息をつきながら、ヴァレリーは己の愚かさを噛みしめていた。
なぜ、自ら彼らに飛びかかったりしたのだろう。
周りを確かめることもせず、部下を待つこともなく、ただ闇雲に。
王太子として、およそふさわしくない行動だ。己の危機は国の危機だと、幼い頃からさんざんに云い聞かせられて育ったくせに、そして十分に自覚してもいたくせに、いざとなるとこの体たらくだ。
あげくに高い崖から落ち、ひどいけがをして、無事に戻れるかどうかもわからない。
きっと崖の上に残されたフーリエらは、いまごろ激しく動揺していることだろう。
――この高さから落ちたのだ、助かるまい。
――安否を確かめるまでは、迂闊なことは云えない。
――探せ。とにかく、殿下をお探しするのだ。
叛乱勢力の蜂起の鎮圧や、叛乱にかかわってしまったエヴラールの処遇とで、王城はいまごろ大混乱に陥っていることだろう。そこへさらに、自分の行方不明が加わればどうなるか、ヴァレリーは思わず声を上げて笑い出してしまった。
エリシュカと出会ってからのおれは、まさに愚かのひと言に尽きたが、ここへ来てそれも極まった。父上も母上もきっと呆れ果てていることだろう。オリヴィエのやつも。
しばらく笑ったあと、噎せ返った。われに返るとともに押し寄せてくる凄まじい痛みと倦怠感、それからひどい悪寒。
おれはこのまま死ぬのだろうか。
国のために、なにもなさぬまま、なにも残さぬまま、なにも――。
厭だ、とヴァレリーは思った。死にたくない。おれはまだ、なにもしていない。
それに――。
どうしても死ぬというのなら、その前にひとめ、エリシュカに会いたい。
ひどい目に遭わせてしまった。つらい思いをさせてしまった。
謝りたいのではない。赦されたいのではない。
いや、それもあるが、いまはただ、伝えたかった。
好きだった、と。愛していた、と。否、――愛している、と。
迷いもなく疑いもなく、いまならば云える気がした。
立場もなく
過ちを償わせてほしい。許しを乞わせてほしい。
そばにいてほしい。隣にいてほしい。
愛しているから。大切にするから。だから、どうか、そばにいて。
そうやって伝えることができたならば、きっと受け止めることができるだろう、とヴァレリーは思った。
嫌悪も、罵りも。――どんな拒絶も。
己が彼女にしてしまったことが、許されることのない罪だとわかっている。どんな想いも、愛情も、もうエリシュカには届かないだろう。
それでも。
どうせ死ぬのなら、最後にそのことを確かめたかった。
償わせてくれるかもしれない。許してくれるかもしれない。
そんな希望を抱いたまま死ぬことはできない。
たとえどれほどわずかであっても、そこに希望があるのなら生きて確かめなくては。
ヴァレリーは這うようにして再び動きはじめた。
王太子たるヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュが遭難したのだ。国王は――父は――なんとしても自分を探すように命ずるはずだ、とヴァレリーは思った。どれほど険しい場所であっても、どれほど多くの人手を使おうとも、どれほど長い時間がかかろうとも、父は必ずおれを探し出すはずだ。
助けるために。――否、その死を、確かなものにするために。
そして、先へと進むために。
それが国王たる父の務めなのだ、とヴァレリーにはわかっている。国を継ぐべき王太子が行方不明となり、第二位の王位継承権を持つエヴラールは前代未聞の不祥事に身を投じた。第三位以下の王位継承権保持者は、王城で暮らしたことすらない遠縁の者だ。
このままでは、ラ・フォルジュの未来が危うい。
国王であり、ラ・フォルジュの長であるピエリックがなすべきことは、息子ヴァレリーの生死を早急に確認し、必要があれば新たなる王太子を立てることである。
そう、だから父はなんとしてもおれを探し出そうとするはずだ。その生死にかかわらず。
ならば、生きてやる、とヴァレリーは思った。こんなところで死んでたまるか。
沢まで下りたのは水を求める本能からだ。洞窟の中へもぐりこんだのは少しでも寒さを避けようとしたのだろう。
そして、そこで力尽きて倒れていたところをエリシュカに発見されたのである。
あれから何日経っているのか、まるでわからない、と話を結ばれ、エリシュカは、そうだったのですか、と吐息混じりの答えを返した。
「アランさまのおっしゃる男性は、ここから少し離れたところにたしかにおられました。ですが、わたしが見つけたときにはもう……」
「……やはり、そうだったか」
痛ましいことです、とエリシュカは云った。
「でも、アランさまが生きていらしてよかった」
ヴァレリーは大きく目を見開いた。そうなのか、エリシュカ。おれが生きていてよかったと、そう思ってくれるのか。
驚きは少しずつ喜びに変わっていった。
抱きしめたい、とヴァレリーは思った。エリシュカのことを抱きしめたい。欲望を思い知らせるように乱暴にするのではなく、この喜びが伝わるようにやわらかく、静かに。
もしも身体が自由に動いたなら、そうしていただろう。だが、実際には、ぴくりと指先が揺れただけだった。
ヴァレリーに大いなる動揺を与えたことになど気づかないエリシュカは、薬草を煎じる手を止めずに、ところで、と話を変えた。
「アランさまはこの先どうなさるおつもりなのですか」
「この先?」
はい、とエリシュカは頷いた。
「わたしたちがいまいる場所は、神ノ峰の最奥、連峰の中でももっとも高い山へと続く沢の底です。この沢を登りきった先には、長い尾根道が続き、その後最高峰のなかばあたりを大きく回りこむように続く道を進めば、神ツ国へと至ることになります。わたしはこのまま進み、国へ入りますが、アランさまはどうなさいますか」
来た道を引き返せば、東国へ戻ることもできると思いますが、とエリシュカは云った。道はご存知なのですか。
「残念ながら、わたしは地図をひとつしか持っていないうえに、これをお渡しすることはできないのです。もしも戻られるのであれば……」
「そなたとともに行く」
そなたとともに神ツ国へ行き、そこから王城へ便りを出す、とヴァレリーは云った。迷う余地などなかった。
「え、でも……」
「そなたの手当のおかげで、身体はだいぶ楽になった。あと数日、無理をしなければ少しは動けるようにもなろう。冬の迫るこの時期に時間を取らせることになることは申し訳ないが、一緒に連れて行ってはくれないか」
エリシュカは返事を躊躇った。だが、いくら考えたところで、答えは決まっているようなものだ。こんなところにヴァレリーを放り出していくわけにはいかない。ならば、連れて行くしかないではないか。
エリシュカは薬を煎じていた鍋を火から下ろした。布を使って何度か濾し、しっかりと搾る。できあがったばかりの解熱薬をヴァレリーに差し出した。
お飲みください、とエリシュカは云った。
「ご一緒するのであれば、せめてご自分の足で立てるようにはなっていただかないと」
ヴァレリーは不安そうにしかめていた顔を綻ばせ、微笑んで頷いた。
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