15

 音を立てて爆ぜる炎を、ジーノはじっと見つめていた。あんまりじっと火を見すぎるのは目に毒ですよ、といまここにはいないシルヴェリオには云われていたけれど、ほかに見つめるものもないのだから仕方がない。

 野宿をするときの火の番は、旅のあいだのジーノに課せられている役割のひとつだった。翌日は眠くて仕方がないけれど、ペンナの背に揺られて転寝をしていても文句は云われないし、本当にしんどいと訴えれば早々に街で宿を取ることだって許された。

 養い親を名乗るエルゼオは善良な男ではないが、ジーノを虐げるような真似はしなかった。殴ったり蹴ったりするようなことも、大声で罵ったりするようなことも。

 小さくなってきた炎の中に薪代わりの乾いた小枝を放り込み、ジーノは膝を抱えて丸くなった。肩から羽織った外套の裾も合わせて抱え込み、まるで顔だけ出して袋に入れられた猫のような姿になる。

 ああ、厭だなあ、とジーノはふと思った。――だけど、どうしようもないもんなあ。

 街道から少しばかり逸れたところにある大きな木の下を、その日のねぐらに決めたのはエルゼオだった。ともに旅をしているシルヴェリオはなにか用事があるとかで、先の街にとどまっている。

 どういった用事があるのかはわからないが、そういうことはさほど珍しくなかった。野暮用があるのでね、と云って、月のうちで数えても幾日かのあいだいなくなることのあるシルヴェリオは、しかし、いつのまにかふらりと戻ってくる。

 東国のさる街で、衆道趣味の爺にかどわかされそうになっていたシルヴェリオを助けたのはほんの偶然のできごとだ。

 いつものように食堂で夕食を取っていたとき、近くの卓でやけに酒を勧められている若い美貌の男が目についた。それからもなんとなく気にかけていたら、いつのまにやら爺の手下らしい屈強な男ふたりに抱え上げられそうになっていてひどく驚いた。放っておけよ、とエルゼオは云ったけれど、なぜだかたびたび卓越しに目が合って、そのたびにふわっと微笑んでくれていたその男を見捨てることなんてジーノにはできなかった。

 だから大慌てで、ねえ、ねえってば、とエルゼオを説き伏せ、どうにかシルヴェリオを救出してもらったのだ。厳つい容貌のエルゼオは、見た目を裏切ることなく腕っぷしも強い。爺とその取り巻きを追い払うことくらいわけはなかった。ねちねちとした口説き文句からは想像もできないほどあっさりと逃げていった爺たちを嘲笑いながら、エルゼオはしかしシルヴェリオのことも莫迦にしていた。――男が男に手籠めにされるなんざ、どんだけ世慣れてねえんだよ。

 だが、心ばかりのお礼ですよ、と食堂で一番高い酒とその街一番の宿を奢ってもらったあとは、ころりと態度を変えたのだからいい加減なものだ。

 もちろん、そのあとすぐに旅をともにするようになったわけではない。訪れる先々で偶然に顔を合わせることが増え、いつのまにか同道するようになったのだ。よくよく尋ねてみればシルヴェリオの目的地も西国にあり、行く道を同じくするのは必然だといえた。

 そりゃあよく面を見かけるわけだぜ、と苦笑いをしたエルゼオだったが、饒舌で人懐こいシルヴェリオを嫌ってはおらず、ジーノ以外の話し相手ができたことを歓迎しているようでもあった。ジーノもまた、エルゼオがよんどころない事情で夜の街に出かけていくあいだ、傍にいてくれる誰かがいることはありがたかった。いくら街中のこととはいえ、安宿の部屋にひとりで残されるのは心細いものだったからだ。

 だが、そんなことよりもなによりも、シルヴェリオが同道するようになってよかったと思えることがあったのに、とジーノはため息をついた。ああ、厭だなあ、シルヴェリオがいないとやっぱりこうなっちゃうんだ。こんなことになるなら、シルヴェリオと一緒に先の街にとどまりたいと云えばよかった。

 外套にくるまったジーノが番をする炎を挟んだ向かい側には、同じように外套にくるまり横になった小さな塊が見える。

 ごめんよ、とジーノは小さく呟いた。――ごめんよ、エリィ。

 そして、そっと立ち上がると、それまで背にしていた木の反対側へと回った。自分が立ち上がると同時に、隣で横になっていたエルゼオが身を起こす気配を感じて、ジーノはぐっと奥歯を噛みしめる。

 ああ、――ごめんよ、エリィ。


 どこか遠くでテネブラエの嘶く声を聞いたような気がした。重たい目蓋を持ち上げようとエリシュカは眉間に力をこめる。

 抉じ開けたはずの目蓋は、なぜか思うように動かなかった。頬と耳の下に引き攣れるような痛みがある。なにが起きているのか、急いで確かめようと顔に触れるべく動かそうとした手は自分の身体の下にあって、なぜかこれまた思うように動かない。無理に動かそうとすれば、肩から二の腕にかけて鈍い痛みが走った。思わず上げた声は口の中にくぐもって、まるで響かない。

 ――いったいなに。なにがわたしに起きているの。

 幅のある布で目隠しをされ、猿轡をかけられたうえに腕まで拘束されたエリシュカは、おおいなる混乱に叩き落され、状況を把握しようと必死になった。

 しかし、もがけどもがけど身体は思うようにならず、声も上げられない。

「暴れんじゃねえ」

 低く押し殺した声が耳を打った。ぴたりと動きを止めたエリシュカに、声は云った。

「じっとしてりゃ、痛い目には遭わせねえよ」

 いっぱい気持ちよくしてやるからよ、と下卑た言葉を吐く声には聴き覚えがある。

 ――エルゼオ。

 言葉にならない声を上げ、エリシュカはまたもがいた。

 嘘。こんなの、嘘。

 厭。こんなの、厭。

 逃れようと捻った喉元に重たい力がかかった。頑丈な掌で押さえつけられているのだということはわからなかった。

「静かにしてろ。ジーノに聞こえるだろ」

 うう、とエリシュカは唸る。そうだ、ジーノ。ジーノはどこ。

「シルヴェリオはなあ、気前も好くて気のいいやつなんだが、こういうときには邪魔でいけねえ。あいつがいなくなるのをずっと待ってたんだが、やっと留守にしてくれた」

 どこか楽しげに言葉を重ねながら、エルゼオの手がエリシュカの身に着けているものを剥がしていく。やさしくもあたたかくもない手は、しかし乱暴ではなかった。だからと云ってなんの救いにもなりはしないのだが。

「おめえ、油断しすぎだぜ、エリィ。あんな立派な青毛を連れてよ、しかもおめえ自身もえれえ別嬪ときた。街門くぐってくるのを見かけてよ、こりゃあ高く売れると思ったのはオレだけじゃねえはずだぜ」

 くぐもったエリシュカの声が一際高くなる。

「どこかの金持ちに高あく売ってやるからよ、その前に味見くらいさせろや。な?」

 厭だ、と暴れようにも腕は縛られ、目と口は塞がれ、身体の上にのしかかられてはエリシュカにできることはなにもない。見えないのでわからないが、衣服もあらかた剥がれているようだ。下品な歓声を上げてエルゼオがエリシュカの肌に触れた。

「別嬪は触り心地も最高とくらあ、なあ。あっちもいいのかね」

 ひひひ、という厭な笑い声とともに素肌を這い回る指先に、強い吐き気と眩暈を覚えた。

 厭だ、とエリシュカは動かない身体を必死に捩って抵抗する。あまりの嫌悪感に気が遠くなるが、かすかに聞こえるテネブラエの嘶きが、かろうじて意識を繋いでくれる。

「おめえの青毛はおめえと違ってずいぶんと賢い。おめえの危機に必死で助けを呼んでやがる。まあ、このあたりにゃ誰もいないがね」

 そんなこたあ確認ずみさ、とエルゼオは嗤った。

「ジーノには邪魔をしないよう云い聞かせてある。あのガキも賢い。おめえだけさ、阿呆なのはな」

 エリシュカは口を戒める轡ごと奥歯を噛みしめた。

「こどもや優男の口車に乗って、見ず知らずの人間を信用するからこういうことになるんだぜ。端っから騙されてることにも気づかねえでよ」

 下履きを取り払われた感触に、エリシュカは太腿にぐっと力を入れる。エルゼオの喉がごくりと鳴った。

「街門を入ってきたおめえに目をつけて、市場でジーノにひっかけさせた。メシを食わせてやってるあいだに、おめえのとった宿に忍び込んだのはこのオレよ。わかるか?」

 親切ごかしで部屋を譲ってやってよ、ジーノ使って誑し込んで、結構手間かけてんだぜ、これでも、とエルゼオは云った。

 エリシュカは頭を殴られたような衝撃を覚え、なにも考えられなくなった。――そんな。なにもかも全部、最初から全部、仕組まれていたことだったの。

 あの街に入ったときから目をつけられていた。露店の女主人とのやりとりにジーノが割り込んできたことも、宿に盗賊が押し入ったことも、なにもかも偶然なんかじゃなく、すべてはこのために仕組まれていたことだった。

 なんで。なんで。――なんで。

 わたしがあなたになにをした、エルゼオ。なにもしていない。なにもしていないのに。ジーノまで。シルヴェリオまで、わたしを騙していたなんて。

 なんで、――なんでわたしがこんな目に。

「だから阿呆だってんだよ、おめえは。自分の価値も馬の価値も知らねえで、用心もせず、疑いもせず、素性の知れねえ男どもについて行くなんてよ」

 エルゼオの手がエリシュカの太腿を撫で回す。エリシュカはくぐもった悲鳴を上げ、抵抗にもならない抵抗を示した。

「ま、全部おめえが悪いんだ。諦めておとなしくしろや。じっとしてりゃ痛い目には遭わせねえよ」

 厭だ、とエリシュカは絶望と嫌悪の暗闇の中で、もう何度めになるかもわからない悲鳴を上げた。


 大木の影に蹲ったジーノは強く目を瞑り両手で耳を塞いで、どうにか悲鳴を押し殺そうと、必死に自分と戦っていた。

 エルゼオに圧し掛かられているエリシュカの姿は、ジーノにひとりの女の姿を思い出させるものだった。

 ――母さん。

 ジーノはもともと母親とともに旅をしていた。南国で生まれ育ったジーノは、放蕩で怠惰な母親のせいでひどく貧しい旅暮らしを強いられていた。

 ジーノの母親は娼婦だった。それも娼館に部屋を持つこともできない、流しの女だった。街から街を流れ歩き、その日その日の日銭を稼ぐために男を誘惑して回る。そんな女にこどもは邪魔になりこそすれ、助けにはならない。

 だが、ジーノの母はジーノを捨てたりはしなかった。可愛い息子だと思っていたからではない。ただ関心がなかったからだ。

 ジーノの母親はジーノの面倒をいっさいみようとしなかった。食事の世話もしなかったし、着替えも与えなかった。ジーノは物乞いをしたり盗みを働いたりして、自らの食い扶持を自ら稼いで生きてきた。

 ジーノがそれでも母親から離れようとしなかったのは、どんなにひどい母親であっても、彼にとって傍にいるべき存在は彼女ひとりであったからだ。それだけが理由だった。いつか愛してもらえるようになるかもしれないなどと、浅はかな希望を抱いていたわけではない。愛されることを知らぬこどもは、愛など願わない。

 なんの疑問も抱かず、しかし母親とともにありたいと願う。愛もなく情もなく、それでもともにありたいと思う。ほかに行くところなどありはしない。

 ジーノはそんなふうに母親とともに流れ暮らし、ある日、エルゼオと出会った。

 エルゼオは、本人の弁によるとおり、南国の商人である。

 南国には、西国で農産物や種苗を、東国で工業製品を買い付け、両国を行き来して財を成す者が多い。生まれた土地に大きな店屋敷を構え、手広く商いを営む者もいれば、生涯を旅に暮らし、己の糊口を凌ぐ程度の稼ぎで満足する者もいるが、商売の基本はほとんど変わらない。

 エルゼオは、そういったごくありきたりな南国の男のひとりだった。彼にほかの商人たちと違うところがあるとすれば、それは、彼がまっとうな商人であったならば決して手を出さぬ品を、平気で扱っているところである。

 ――人売りのエルゼオ。

 薄気味の悪いふたつ名のとおり、エルゼオは街中や街道で目をつけた女を攫い、高値で売り飛ばす柄の悪い商いに手を染めていた。攫う相手は誰でもいい。街娘でも商売女でも貴族の娘でも。神も悪魔も信じていないエルゼオは、敬虔な巡礼者の女さえも商品とした。

 攫ってから売り飛ばすまでのあいだは自分の相手をさせる。成人してから罹った性質の悪い病のせいで子を残すことのできないエルゼオは、女の扱いには容赦がなかった。

 ジーノの母もまた、街道をふらついているときにエルゼオに目をつけられ、売り飛ばされたひとりである。もっとも彼女の場合は、半分は自ら望んでのことだったのかもしれない。

 ジーノはときどきこんなふうに考えることがある。自らの力では生きる場所を見つけることのできなかった母親は、それがたとえ身売りという最悪の形ではあっても居場所をあてがわれることを望んでいたのかもしれない、と。

 どれほど考えても、もう母の本当の心を知ることはできないけれど、そうでなければ売られゆく自分の身の上を知ってもなお、エルゼオに縋りついていたことの説明がつかない。

 生きるためなのか、慾を満たすためなのか、ジーノの母は自ら進んでエルゼオに身を任せていた。商売女であった彼女にとってそれがごくあたりまえのことだったのか、攫われるときにも手籠めにされるときにも、さしたる抵抗を見せなかった。

 ジーノはそんな母の姿を嫌悪した。同時にエルゼオのことも憎悪した。

 けれど、母がエルゼオとともにあるようになってから、ジーノは盗みを働くことも物乞いをすることもしなくてよくなった。贅沢ではないにしても十分な食事を与えられ、身体を清潔にする時間を与えられ、身体の丈に合った衣服を与えられた。

 母はジーノを罵らなくなり、金切り声も上げなくなった。エルゼオはジーノに対し、親切でも慈しみ深くもなかったが、冷淡でもなかった。

 母と男、そして自分。狭く歪んだ世界ではあっても、そこにはジーノがそれまで知らなかった平穏があった。

 やがてジーノの母は、南国のある商人の家に買われていった。ジーノは否も応もなくエルゼオのそばに取り残され、そこから奇妙なふたり旅がはじまったのである。

 ジーノとふたりで旅をするようになってからも、エルゼオは人売りをやめなかった。麦や螺子でまともな飯が食えるか、というのがエルゼオの持論で、それはある意味では真実を突いていた。

 大きな需要のある穀物や工業部品などは、大商人たちがその市場を寡占し、取り仕切っている。力のないそのほかの者たちは、それぞれに自らの特性を生かした独自の商品を仕入れ、売り捌くことで小口の需要を満たすことになる。

 もちろんエルゼオも数は少ないなりに得意客を持っていて、彼らのために特別な品を仕入れに行くこともある。自ら目利きした珍しい品が大当たりし、仲間内から羨ましがられるほどに儲けたこともある。

 だが、それは常のことではない。普段の商いでは好きな酒をたらふく飲むこともできない。

 物心ついたとき両親はすでになく、大商人の小間使いとして長くこき使われてきたエルゼオは、その商人のもとを逃げ出すことで自立の道を得た。誰かに使われることも誰かを使うこともまっぴらだと一匹狼を貫いてきたが、いかんせん商売における孤立は圧倒的に不利である。なにか実入りのよい商品はないかと探すうち、人売りに手を出すようになったというわけだった。

 人身売買を外道と忌み嫌う者は多いが、反対にそれを身入りのよい商売と割り切る者もまた多い。エルゼオは後者の代表のような男だった。しかも彼は、商品とする人間を金で贖わず攫ってくることで手に入れ、売り飛ばす。そこそこの質の女が割安で手に入ると、その筋では評判も悪くないのだった。

 エルゼオは自らの商いに下手な云い訳をしない男でもあった。人買いの中には、これは人助けだ、などともっともらしいことを嘯く輩も少なくないが、彼はそういった欺瞞とは無縁である。

 美味い飯が食いたい、美味い酒が飲みたい。だからオレは女を攫って売り飛ばす。――なにが悪い。

 ジーノとともに旅をするようになってからもしばらくは、エルゼオはこどもに商いを手伝わせなかった。無駄飯食らいのジーノが、自ら商売を覚えたいと云いだすまで、エルゼオは決して無理強いはしなかったのである。

 ジーノがエルゼオに向ける気持ちの中には、当然穏やかでないものも含まれている。ひどい母であったとはいえ、それでもたったひとりの身内を金に換えた憎むべき男。自分の目の前で、夜ごと母親を女に変えた男。

 だが、彼は紛うことなく己の庇護者でもある。

 いつかはエルゼオのもとを離れなければならないと考えたジーノは、同時に彼から商いのすべを学ぼうと考えた。母を利用したエルゼオを今度は自分が利用し、生きていくための踏み台とするのだとジーノは決意したのだ。

 この世の酸いも甘いも知るエルゼオは、ジーノの心などお見通しだった。それでもエルゼオはジーノの頼みを聞き入れた。

 いいことばっかりじゃねえぞ、とエルゼオは云った。オレから商いを学ぶってことがどういうことか、おめえにはわかってるはずだ、ジーノ。それでもいいのか。

 わかってる、とジーノは頷いた。

 以来、ジーノはエルゼオについて商いを学んだ。商品を買い付け、値を決め、売り捌く。顧客の要望を叶え、ときに新しい提案をする。長い付き合いの顧客の満足を維持しつつ、新たな客を捜し、開拓する。しなければならないことは山ほどあった。

 同時にジーノは、エルゼオの裏の商売の手伝いをもまたするようになっていった。

 女を知るのはまだ早い、とエルゼオはジーノに直接的なことはやらせようとはしなかった。だが、エリシュカをひっかけさせたように、こどもであるジーノを最大限に利用することは平気でやってのけた。

 海沿いのあの街で、街門をくぐってくるエリシュカがエルゼオに目をつけられたのは、彼女がひいていた青毛があまりにも立派だったせいである。他を圧するような見事な体格も、艶やかに光る毛並みも、利発そうな瞳も、テネブラエはなにもかもが規格外だった。

 反して、深々と頭巾をかぶり、俯きがちに歩くエリシュカの容姿にはさほど期待していなかったと云ってもいい。遠目に見るだに華奢で小柄なエリシュカは、労働力としても女としてもさほど魅力的に映らなかったのだ。

 エルゼオの気が変わったのは、ジーノが性悪な露店の女主人の口車からエリシュカを救い、食堂に連れて行ったあとのことである。無関心を装った意地汚い目つきでエリシュカを検分したあと、エルゼオはジーノにだけわかるようにうっすらと嗤ってみせた。それが、商品として申し分ない、という意味であることを知っていたジーノは、その時点ですでにこのあとエリシュカに訪れるであろう悲劇をきちんと悟っていた。

 シルヴェリオの加勢のおかげもあって、エリシュカを自らの道連れとしたあと、エルゼオは虎視眈々と今夜のような機会――シルヴェリオが留守をする野宿の夜――を狙っていたのだった。

 ジーノは両腕で自らの膝を強く抱きこみ、身体を丸めた。膝頭を目蓋に押しつけるようにして俯けば、聞いていたくない悲鳴はわずかばかり遠くなる。そうやってジーノは、これまでに何人もの女がエルゼオの毒牙にかかっていくのを見過ごしてきた。

 ごめんよ、エリィ、とジーノは小さな声で呟いた。――でも、オレは悪くない。悪くないんだ。

 ジーノはそうやって小さな闇に閉じこもり、自らの心を守ろうとした。

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