31

「この部屋にある書のいくつかは、おれも国で見たことがある。決して多くの者の目に触れることのない場所で、教師とともにひっそりとな」

 シュテファーニアは黙ったまま元夫を見つめている。

「ほとんどの書ははじめて目にするものばかりだが、ここにあるすべては、おれが知るのと同じような書物だと思って差し支えないのだろう。すなわち、禁書だ」

 ヴァレリーは夏空色の瞳を細く眇め、周囲の壁一面を埋め尽くす膨大な書を眺めまわした。まったくよくも集めたものだ、と彼は思った。古いものばかりではなく、ごく最近のものも少なくないところが不気味だ。

「それもただの禁書ではなく、歴史や政治、国の制度にかかわる発禁書ばかりだ。東国のものだけではない、西国や南国、数は少ないが他の大陸のものまであるな。もちろん、この神ツ国にまつわるものも」

 この部屋の価値がおれにはわからないとでも思ったのか、とヴァレリーはシュテファーニアに詰め寄り、顔と顔との距離をぐっと近づけた。

「使い方を誤れば国が亡ぶ。ここにある書物は、そういう類のものばかりだ」

 吐息が頬に触れるほどの距離にまで近寄ってきた男の顔を見返しながら、シュテファーニアは、ここが正念場か、と腹を括った。

 ツェツィーリアには叱られるかもしれない。お兄さまには見捨てられてしまうかもしれない。それでもいまのわたくしには、これよりもよい方法を思いつくことはできなかった。この国を変えるよい方法を。

 おかけになりませんか、殿下、とシュテファーニアは落ち着いた声でそう云った。

「立ったままするようなお話ではないことは、もうおわかりいただけているのでしょう?」

 ヴァレリーは屈めていた身を起こし、いったんシュテファーニアを睨み下ろしたあと、示された椅子におとなしく腰を落ち着けた。

 それで、とうながすまでもなく、シュテファーニアは手元の書物をそっと閉じる。わが国はいま存亡の危機に瀕しています、と彼女は静かに話しはじめた。

「固定された支配階級による硬直的な政治。民を圧する重税と信仰。そしてなにより、賤民という被差別階級を生み出す身分制度です」

 記憶にあるよりもずっと理知的な話し方をするシュテファーニアに驚いたのか、ヴァレリーは一瞬大きく目を瞠った。だが、すぐに気を取り直したのか、ああ、と相槌を打って先をうながす。

「これらはすべて神の御名のもとに許されてきたことではありますが、今後はそうはいきません。いまのままでは、わが国はいずれ立ち行かなくなる」

 東国のように暴動が起きるとは思えないが、病に侵されるように、少しずつ、しかし確実に滅んでいく。

「それに、いまのように賤民を虐げ続けることが本当に神の意志であるのか、わたくしにはそれも過ちであるような気がしてならないのです」

 東国で暮らした短い日々、そのほとんどを享楽的に過ごしてきたシュテファーニアが最後に掴んだのは、賤民もまた己と変わらぬ人である、という東国に生きる者たちにとってはあまりにもあたりまえにすぎる真実だった。

「わたくしは己の過ちに気づくと同時に、それを正したいと願いました。殿下の命令にひそかに背き、侍女のひとりを東国に残したのはそのためです」

「なんだと?」

 その話はあとにしましょう、とシュテファーニアは云った。いまはこの話を聞いていただきたいのです。

「ですが、わたくしひとりの過ちを正したところで、この国に生きる賤民たちにとってはなんの救いにもならない。わたくしは教主の娘ではありますが、民を導く立場に立つことは絶対にないからです」

 神ツ国における男尊女卑が徹底していることは、ヴァレリーも知っている。東国王太子としてなすべき事柄の中には、大陸における他国の制度や情勢を詳細に把握しておくことも含まれているのだ。

「父や兄たちに理を説くこともむずかしいでしょう。云ってみれば、彼らはこの国そのもの、神そのものであるのですから」

「そうであろうな」

 ヴァレリーは夏空色の瞳をゆっくりと瞬かせた。それで、おまえはそこで諦めるつもりなのか。

「それでもわたくしは諦めたくないと思いました。この神ツ国を、賤民も民も、神官も巫女もなく、虐げる者も虐げられる者もいない国にしたいと、そう思いました」

 シュテファーニアの紫色の双眸は炯々として輝き、ヴァレリーに忘れがたいほどに強い印象を残した。

「容易いことではないでしょう。父も兄たちも納得はしない。もちろん数多の神官たちも同じことです」

 それに、とシュテファーニアの声が陰鬱なものに変わる。

「わたくしたちの罪は、賤民たちを虐げてきたわたくしたちの罪は、いまさら償えるようなものではありません。彼らから奪ってきたものは、あまりにも多すぎる。傷つき、損なわれ、失われてしまったものを取り戻すことは、二度とできません」

 命、尊厳、心、誇り、――貴く、ほかのなにものにも代えがたいすべて。

「ですが、たとえそうであったとしても、わたくしは諦めたくないのです」

 書物の上でシュテファーニアの拳が固く握られた。小さく頼りない掌が、それでも必死に掴もうとしているものはなんだろう、とヴァレリーは思った。

「方法はいくつもない。しかも、そのどれも実現にするにはむずかしいものばかりです」

 そうだろうな、とヴァレリーは頷いた。国を変えることは容易くない。それがたとえ、その国を体現する一族に連なる者の意志であったとしても、一度作り上げられてしまった仕組みはそう容易く崩れることはない。そこに、いかな誤謬があろうとも。

「だがおまえは、その方法を思いついた。そういうことか」

 ええ、とシュテファーニアは躊躇いなく頷いた。揺らぐことのない書灯に照らされた表情にはいっさいの迷いがない。

「おそらくは、これがたったひとつの方法であろうと思います」

「いったいどんな方法だ」

 いまはまだ、とシュテファーニアは首を横に振った。

「いまは、だと?」

 ヴァレリーの瞳が眇められる。

「おまえはおれに協力を求めるつもりだろう。もったいぶらずにさっさと云え」

 シュテファーニアはヴァレリーの脅しになど屈したりはしなかった。鮮やかに微笑み、もったいぶっているわけではございませんわ、と云う。

「わたくし、殿下をまるっきり信用しているというわけではありませんの。なにしろ、大国の王太子でいらっしゃいますからね。妙な色気を出されでもしたらことですから」

「色気?」

 こんな貧相な国になんの用がある、とヴァレリーは失礼極まりないことを云い捨てた。

「頼まれても統治など御免こうむる」

 ええ、とシュテファーニアは大輪の花が咲くがごとくの笑みで応じた。

「そのお言葉が欲しかったのですわ、殿下」

 協力はしてほしい。されど、余計な口出しはするなと、そういうことか、とヴァレリーはもう一度舌打ちをした。

「おれは神の国になど興味はない。くだらん心配はするな」

「神はいなくなりますわ」

 思いもよらぬ言葉を聞いたヴァレリーは先ほどとは異なる意味で、しかしふたたび、なんだと、と目を見開いた。

「古い神はいなくなる、と云ったのです」

「そんな莫迦な……」

 少しも莫迦ではありませんわ、とシュテファーニアは答える。

「おまえたちは神の威を借る宗教国家だろう。この国を支えるのは、他国から流れ込む巡礼者どもと連中が落とす財貨だ。神を信ずる者は少なくないからな。わが国からもさぞや多くの金が流れ込んでいるはずだ」

 それでも富が足りずに、民に重税を課し、さらには賤民という名の奴隷の手を借りてどうにか生きながらえている。それが神ツ国という国の貧しい実態だ。

「それをみすみす捨てると、そう云うのか」

 この方にかかると、尊い神もまるで金を集めるための仕組みのようだわ、とシュテファーニアは思う。こんな男が神ツ国の巫女姫と結婚しようなどと、それがたとえ政略によるものであったとしても、よくもまあ決意したものだ。

「神は死ぬ。残るのは人です」

 太古の昔、この世は神のものであったという。神の御使いである天使、精霊、神と対立する悪魔、悪霊、人ならぬものたちが入り乱れ、相争い、尽きることのない戦いが繰り返されていた。力を持たぬ弱い存在であった人は、そうした戦いに倦んだ神が愛でるために作られた。弱く、愚かで、ただ愛されるためだけの存在。

 だが人は、やがて神の手を離れ、自立した存在となっていく。精霊や悪霊を駆逐し、天使や悪魔を遠ざけて、やがて神にさえ背中を向けた。敬い、尊び、しかし決してそれ以上のものは捧げなかった。

 神は怒り、悲しみ、慟哭したが、それでも愛でるために生み出した人を滅ぼすことはできなかった。わずかに残った天使を連れ、天国へと還り、そこから人の世を見守ることにしたのだという。

「なんだ、その神話じみた与太話は」

「いま読んでいる西国の歴史書にある一節です」

「西国の?」

「彼の国では秘術と呼ばれる不思議な技が、いまもなお受け継がれているのだそうですね。ほとんどの者が生涯目で見ることも耳で聞くこともないそうですが、それでもたしかに存在するのだとか」

 きっとこの世界に神はいたのでしょう、とシュテファーニアは云った。

「ですが、神は国など作らなかった。この神ツ国は西国で迫害を受けた巡礼者たちが築いた、人の手による人のための国です」

 まやかしの神から国を取り戻さなくてはなりません、とシュテファーニアは続ける。

「そうでなければ、この国は滅ぶ。そう遠くないうちに、誰にも看取られず、惜しまれることもなく」

「そうなる前に、というわけだな」

 ヴァレリーの言葉にシュテファーニアは小さく頷いただけだった。

 ヴァレリーはしばし沈黙し、思考する。神威を盾に政略結婚を繰り返して生き延びてきた神ツ国が神から離れ、どうやって生き延びるというのだろうか。その手がかりがこの図書庫だと元妻は云うが、こんな書物がいったいなんの役に立つ。

 たしかにこの大陸中どこを探しても手にしようのない貴重な書ばかりではある。だが、書は書だ。火をつければ燃えて灰となり、時が過ぎれば朽ちて果てる。剣にはならぬ。銃にもならぬ。国を守る砦にもならぬ。

「それで、おまえはおれになにをさせたい?」

 シュテファーニアは唇だけで薄く笑った。冷たい美貌が冴え冴えとして、どこか酷薄ささえ漂う迫力を纏った。

「わが国を去る前に一度、父と会っていただきたいのです」

 父、とヴァレリーは訝しげに問い返した。

「教主とか。先ほどは会うなと云ったはずだが」

「会うな、とは申しておりません。父はお会いにならない、と云ったのです」

「同じことだろう」

 いいえ、とシュテファーニアは首を横に振った。全然違いますわ。

「ご自身の帰国についての協力を乞うためではなく、これから先、東国は神など必要としないと、そう宣言するために会っていただきたいのです」

 なに、とヴァレリーは今度こそ大きく目を見開いて身体を強張らせた。元夫の驚愕をよそに、シュテファーニアは、いずれは西国の皇帝や南国の元首にも同じことを宣言してもらうつもりでおりますわ、と続ける。

「ですが、まず手始めに、わたくしの元夫である殿下にお願いしたいのです」

「そんなことは……」

「できませんか?」

 シュテファーニアの口調はどこか挑戦的だった。

「さほど信心深いお方だとは思っておりませんでしたが、わたくしの思い違いだったのでしょうか」

「信心だとか、信仰だとか、そういう問題ではない」

 呻くようなヴァレリーの言葉に、シュテファーニアはとくに頷きもしなかった。ヴァレリーは強張った表情で元妻を問い詰める。

「そんなことはおまえが一番よくわかっているのではなかったのか」

 東国王太子であるヴァレリーがシュテファーニアを正妃に迎えたのは、純粋に政治的な理由からのことだ。

 争いの絶えなかった西国とは和親条約を締結し、南国とは通商条約を結んでいる。剣と炎による外交は言葉と文字によるそれへと変わり、大陸には平和が訪れた。

 だが、火種はまだそこかしこにある。三国の均衡が崩れれば、ふたたび大きな争いが勃発する可能性もなくはない。大陸を二分するふたつの大国は、互いに相手が他の強大な勢力――たとえば南国や他の大陸の強国――と結びつくことをおそれている。

 国同士の結びつきに手っ取り早いのは政略結婚である。それゆえ、東国は西国の皇家の婚姻に、西国は東国の王家のそれに、非常に神経を尖らせている。迂闊な相手との結びつきを許せば、それはいずれ自国を脅かすことになると考えているためだ。

 ともに血統主義を戴く東国と西国は、しかしそうやっていつまでも睨みあいを続けているわけにはいかない。当主の血脈を引き継ぐ者を残し、次代へと繋げていかなくてはならないのだ。

 そこで結婚相手に、と双方から望まれたのが神ツ国の巫女姫たちだった。

 少しずつ薄れつつあるとはいえ、神に対する信仰は大陸内ではいまだに健在である。国王、皇帝それぞれの婚姻相手として巫女姫を求めることは、対外的に不自然なことはなにもなく、おまけに神ツ国は政治的弱小国家であるために、自国を脅かされることもない。そうやって、東国と神ツ国、西国と神ツ国のあいだの政略結婚は長いあいだ、繰り返されることとなった。

「おまえとおれとの結婚は政治だ。信仰ではない」

 理解しております、とシュテファーニアは頷いた。

「だからこそ、お願いしているのです」

「神などいらぬと、そう宣言しろと云うのは、この国などいらぬ、そう云えと云っているのと同じことだぞ」

「そのとおりですわ、殿下」

 そんなことをしてみろ、とヴァレリーは思わず拳で書卓を叩く。

「この国は本当に亡んでしまうぞ」

 いいのか、それで、とヴァレリーは返事をしない元妻に迫った。シュテファーニアは紫色の瞳をわずかに伏せて、いいえ、と首を横に振った。

「亡びはしません」

 そして昂然と顔を上げると、両腕を広げ、高く掲げた。

「わたくしたちは滅亡などしない。ここにある書のすべてが、わが国を守ってくれる剣となり、砦となるのです」

「莫迦な……」

 元妻の気迫に刹那飲まれたヴァレリーは、数度の瞬きのあいだに己を取り戻すと首を横に振った。

「書は書だ。敵を屠る剣にはならぬし、国を守る砦にもならぬ」

「では、こう云い換えればよろしいですか。ここに書かれ、集められた人の叡智こそが、わが国を守るのだと」

「どういう、意味だ?」

 シュテファーニアは立ち上がった。ごく狭い史料室の扉を開け、一歩表へと歩み出る。その背中に続いたヴァレリーは、広い図書庫の高い天井を見上げる元妻の隣に立って、同じように視線を上げた。

「史料室にある書ばかりではなく、この図書庫に納められている書のすべてがわが国を守ってくれます。ここにある一冊の本、そこにある一枚の地図が、わが国の剣であり、砦であるのです」

 昨晩、図書庫の話をしたとき、殿下はすぐに行ってみたいとおっしゃった、そうですね、とシュテファーニアはひそめた声でヴァレリーに問いかけた。ヴァレリーは頷くことで問いかけに応じた。

 シュテファーニアは扉をくぐり、史料室の中へと戻る。あとに続いた元夫に扉を閉めるよううながすと、もとのとおりに書卓に向かって腰を下ろした。

「さほど勉学に熱心であるとは云えない殿下でさえ、そのようにおっしゃるのです。学ぶことに熱心な学生や学者がここのことを知ればどのように考えるか、おわかりにはなりませんか」

 ヴァレリーの脳裏に従弟であるエヴラールの顔が浮かんだ。地質学に熱意を傾けるあの唐変木ならば、ここで何か月でも何年でも書物を漁ることに喜びを覚えるだろうな、と思う。

「そのとおりです、殿下。ここは大陸でもっとも多くの蔵書を抱える図書庫です。珍書、奇書、禁書、あらゆる分野のあらゆる書物が古いものから新しいものまで、ときには偽書を含めて、じつに多彩に取り揃えられている」

 存在することさえ知らなかった書物を前に、学者たちはどれほど知的好奇心を刺激されることでしょうね、とシュテファーニアは云った。

「きっと多くの者がここで学びたがることでしょう。知識を得るため、深めるため、大陸中から多くの者がここを目指すことになる。彼らはみな、多くの知を携えてここを訪れ、互いに知っていることを交換するようになるでしょう。ここは大陸でもっとも大きな学び舎となるのです」

 知は知を呼び、書は書を呼ぶ。われら神ツ国の民は書を守る民となり、知を守る民となる。

「そうやって、神を挿げ替えるというわけか」

 ヴァレリーの言葉に、シュテファーニアはかすかに笑った。

「わが国は変わる。他国との関係もいずれ変わっていくことになる。気が遠くなるほど長い時間がかかるでしょうが、決して夢物語ではないと、わたくしは思っています」

「教主、神官、巫女どもはどうする。長いこと特権を貪ってきた連中だ、そう容易くおまえの提案を受け入れるとは思えない。神を挿げ替えても、連中が変わらなければこの国は変わらないだろう」

 わかっています、とシュテファーニアは俯いた。

「犠牲は覚悟しています。もう神はいらぬと、殿下から告げていただいたとしても、父とわたくしが折り合うことはできないでしょう」

「いくら神の国とて、迂闊な真似をすれば命を落とすぞ。神官が聖人とは限らないのだからな。理で説いて納得する相手ばかりではないはずだ。気持ちはわかるが、たったひとりでなにができる?」

 自死の手伝いをするような後味の悪い真似はごめんだ、とヴァレリーは首を横に振った。

「ひとりではありません。ツェツィーリアがいる。お兄さまもいます。ほかにも話せばわかる者もいるでしょう。いまはことを起こさぬ理由を考えるときではない。どうにかして手段を見つけることを考える、そういうときだと思うのです」

 迷いがないはずはないだろうに、とヴァレリーは元妻の顔を痛ましげに見つめた。血の繋がった家族を裏切り、幼いころから信じてきた神を屠るというのだ。なにを考えているかさっぱりわからず、一度として愛しいなどと思ったことはないが、その心情を思えば胸が痛む。

「少しでも多くを学びたい者、ひとつでも多くの知恵を手にしたい者、そうした者すべてに、わたくしはこの図書庫を開放するつもりです。そしてそれはもちろん、賤民に対しても同じことです」

 わたくしは賤民に教育を施そうと思うのです、とシュテファーニアは云った。

「いまの彼らは読むことを知りません。書くことも知らない。エリシュカがそうであったように、彼らはみな総じて文盲です。もっともエリシュカは、殿下のご配慮によって教師について文字を学んだようですが」

 ああ、まあ、それは当然必要だろうな、とヴァレリーはごく曖昧に返事をした。エリシュカに対し施された寵姫としての教育の内容は、そのすべてをデジレ・バラデュールが取り仕切っていて、ヴァレリーは具体的なことをほとんど知らないのだ。

「だが、それよりもまずは、いまの身分から解放することが必要なのではないのか。使役されるために生きているような状態では、教育もへったくれもないと思うのだが?」

 もちろん、とシュテファーニアは頷いた。身分制度の改革と、彼らの待遇の改善は急務です。

「ですが、いまのままに賤民を自由の身分へと解放したところで、彼らがその意味を理解するとは思えない。かえって仕事を失い、生活に困窮するだけに終わるのではないかと思うのです」

「なぜだ」

 自由な職に就き、好きなところに暮らし、想う相手と寄り添えるのだぞ、とヴァレリーは云った。

 いいえ、とシュテファーニアは悲痛な表情でヴァレリーの言葉を否定した。

「そうはならない。きっと、そうはならないと思うのです」

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