56

 解熱のほかに抗炎症効果もある薬を日に二度飲み、それ以外の時間のほとんどを眠って過ごしたヴァレリーが、自力で立ち上がることができるほどまでに回復したのは、その二日後のことだった。

 だが、それでも歩いて旅を続けることはできない。先を歩むためにはテネブラエの協力が不可欠だった。

 テネブラエはそれが不満で不満で仕方がない。そんなやつを背に乗せるのは絶対にごめんだ、とばかりに歯を剥き出し、不快感を顕わにする彼だったが、困り果てたようなエリシュカが切々と頼み込んでいるうちに、なにかを諦めたようにおとなしくなった。

「ありがとう、テネブラエ」

 馬の首に抱きつくエリシュカの背後では、ヴァレリーがなんとも情けない顔をして、ひとりと一頭の絆を呆然と眺めていた。

「アランさま、どうぞ」

 エリシュカが穏やかな笑顔で騎乗をうながしてくる。曖昧な微笑みでそれに答えたヴァレリーは、頼むぞ、テネブラエ、と不機嫌な青毛に低声で囁きかけた。聞きたくない、とでも云うかのように耳を動かすテネブラエの首筋に手を当て、ヴァレリーはもう一度、頼む、と云った。

「力を貸してくれ」

 厭だ、と誰よりも主を愛する青毛は思ったのかもしれない。ここに置き去りにしてやるから、野垂れ死にでもなんでもしてしまえ、いっそいますぐに蹴り飛ばしてやろうか、とその黒い瞳が云っている。幸いにもエリシュカに蹄の手入れをしてもらったおかげで、脚の調子はとてもいい。

 けれど、獣の意地もそこまでだった。鼻面に額を押しつけてきたエリシュカが、お願い、と薄紫色の瞳を潤ませるようにして頼み込んできたからだ。

 テネブラエは不承不承鼻を鳴らした。乗れよ、莫迦、とばかりにヴァレリーを見遣る。

 そうして、ふたりと一頭は旅の道連れとなった。

 テネブラエの手綱を取るのは先を歩くエリシュカである。ヴァレリーはあばらの痛みを堪えて鞍の上でおとなしく揺られている。すべてをテネブラエに委ねてくださいませ、とエリシュカには云われていた。

 ただでさえ他人には懐かないテネブラエである。エリシュカに対し邪な――と黒い獣は思っている――思いを抱く男など、本当は視界に入れるのも厭なのだ。それでも背に乗せてやるのは、彼の愛しい主が必死になって頼み込んできたからである。だが、それでも背に乗せた彼に手綱を取られることだけは我慢ならなかった。

 先を行く主人の背を追うテネブラエは、時折わざとらしく身体を揺する。そのたびに背中に乗る男が、低い呻き声を漏らすのが楽しくて仕方なかった。

 ヴァレリーは獣の意図を敏感に察している。こいつは以前からおれに対して敵意を剥き出しにしていた。気に入らない。気に入らないが、いまはこいつを頼らねば先を進むことはできないのだ。

 ヴァレリーはひそかに歯噛みし、しかしどうすることもできずにいた。

 知らぬはエリシュカばかりなり、である。


 表面的には平和を保っていた一行が危機に直面したのはそれからすぐ、長い長い沢を登りきり、尾根道に出た直後のことだった。

 すでに根雪に覆われた白い道が、はるか遠くまで続いているのをエリシュカは不安げに見つめた。見晴らしがよく、道に迷う心配のない尾根道であるが、一方で水場はなく、風や雪を凌ぐ場所もない、厳しい場所でもある。

「空気が少し湿っていますね」

 エリシュカはぽつりと呟いた。

「天候が変わるのか」

 空気は冷たいが、風もさほど強くはなく、空も澄み切っている。ヴァレリーはエリシュカの不安を払うように、心配はなそうに見えるがな、と明るい声を出した。

「山の天気は変わりやすいのです。尾根道で嵐に遭えば、風も雪も避けることはできません。穴を掘って雪に埋まり、嵐が過ぎゆくのを待つしかないのです。でも……」

 テネブラエがその身を隠すことのできるほどに大きな穴を、エリシュカがひとりで掘ることは難しい。テネブラエはとても丈夫な馬だが、風雪に晒されればその無事は保障の限りではなかった。

「ここを越えねば神ノ峰は越えられないのだろう?」

 ヴァレリーは穏やかな声でエリシュカを励ました。

「行こう、エリシュカ。それしかあるまい」

 はい、とエリシュカは頷いた。ヴァレリーの云うとおりだ。いつまでもここにとどまっているわけにはいかない。

 だが、エリシュカの不安は的中した。

 一行が尾根道を歩みはじめて半日後、嵐はやってきた。

 突如として吹きつけてきた強い風にエリシュカが顔色を失くすまもなく、その風が暗雲を連れてきた。雷鳴が轟き、稲光が走り、すぐに乾いた雪が舞いはじめた。

 身を凍えさせる冷たい風にヴァレリーは激しく咳き込んだ。

 エリシュカは急いでヴァレリーをテネブラエの背から降ろす。長套の下の身体に毛布を巻くように云い、自分はそのあいだにテネブラエの背に乗せていた荷物を積み上げて、簡素な風除けを築いた。その傍らにヴァレリーを座らせ、ぶ厚い毛布で彼の身体を覆う。

 風と雪が身体に当たらなくなっただけで、呼吸までもが楽になるような気がしたヴァレリーである。

「できるだけ風に当たらないよう、お身体を小さくしておいてください。雪に覆われても息が苦しくならなければ、そのままに。わずかでも眠気を感じたら、身体を動かして決して目を瞑らないようになさってください」

「そなたは?」

「テネブラエの装備を外してきます」

 その頃にはすでに伸ばした腕の先もよく見えないほどの激しい吹雪になっていた。間近から覗き込んでくるエリシュカと自分のあいだにさえ雪が舞うのを見たヴァレリーは、突然激しい恐怖に襲われた。

「エリシュカ……!」

 自分よりもずっと華奢で頼りない身体に縋りつきたくなる心細さを、しかしエリシュカは斟酌してはくれなかった。

「大丈夫です。そばにおりますし、すぐに戻ります」

 白い闇にエリシュカの背が消えていく。ヴァレリーの喉が引き攣ったような声を漏らした。

 吹きつけてくる雪が目に入らないように目蓋を伏せたエリシュカは、風に煽られよろめきながらもテネブラエの傍に辿り着いた。豪胆な獣も突然の嵐に怯えを隠せないのか、耳や尾を頻りに動かしている。

「あんまり動いちゃだめよ、テネブラエ。ここでじっとしてて」

 テネブラエの背から鞍や鐙などの装備をすべて外したエリシュカは、黒い獣の首筋を何度も撫でてやった。

「わたしはアランさまのそばにいるわ。嵐はすぐに過ぎ去る。じっとして、動かないでいて」

 いい子、とエリシュカはテネブラエの鼻先にくちづける。そして、身を翻してヴァレリーの傍へと戻った。

 ほんのわずかの間にヴァレリーの姿を隠してしまっていた雪を払い除け、エリシュカはヴァレリーと同じ毛布の下に身体を滑り込ませた。青褪めたヴァレリーの顔が間近に寄せられる。

「……エリシュカ」

 大丈夫です、とエリシュカは云った。

「こうした嵐は来るのも突然ですが、去るのも突然です。東国へ向かう途中にも、何度か遭いましたから」

「いまだ秋にもならぬ頃だと云うのに……」

「山の季節は早いのです。それに今年は寒い夏でしたから」

 このような難路を越えて、そなたたちはわが国へとやってきたのだな、とヴァレリーは呟いた。そして、一度たりとも心を交わすことのなかった元妃シュテファーニアを思い出した。

 ヴァレリーの心を感じ取ったのか、エリシュカが云う。

「神ノ峰の道はとても険しいものです。ここでは誰ひとりとして特別な者は存在しません。姫さまといえども、もっとも険しい道を行かれるときにはご自身の足で歩いてそこを越えられたのです」

「あの、妃も……」

 ええ、とエリシュカは頷いた。

「そして同じ道を辿って、国へと帰られました。容易いことではないと思います」

「そこまでして、わが国を……おれを拒みたかったのか」

 わたしには姫さまの心などわからない、とエリシュカは思う。なにを思ってわたしをアランさまのもとへと送り、なにを思ってわたしを置き去りにされたのか。

 わからないけれど、いまのわたしには――他者の心を想像することを知ったいまならば――姫さまのお心が、ほんの少し感じられるような気がする。

 姫さまはきっと、ただご自身を守ろうとなさっただけなのだ。ご自身を守ることが、なによりも大切だっただけなのだ。

 ご自身を守り抜き、そして国へ戻りたかったのだろう。

 それは必ずしも御身可愛さばかりが理由ではない、といまのわたしにはそのこともなんとなく理解できる。わたしやアランさまを傷つけたいわけでもなかった。きっと姫さまはご自分の身を守ることが、ほかのどなたかの幸いにも繋がると、そう信じておいでだっただけなのだ。

 人は、自分のためだけに残酷になることはできない。誰かのために、と思うから、その誰かではない、ほかの者を踏み躙ることができる。

「姫さまにはきっと、アランさまのおそばにいることよりも大切なことがおありだったのです。そのためならば、幾度の嵐も越えていかれるほどに」

「それは、そなたも同じだったのだな、エリシュカ」

 エリシュカは間近にある夏空色の瞳をそっと見上げた。ヴァレリーの顔色は悪い。それでも美しく光る青の輝きは失われていなかった。

「おれはそれを、わかってやれなかった」

「……わたしはなにもお話しいたしませんでしたから」

 ヴァレリーはそっと眼差しを伏せた。

 神ノ峰の厳しさは話に聞いて知っていた。知っていたつもりでいた。けれど、本当のところ、おれにはなにもわかっていなかったのだ、とヴァレリーは思った。

 元妃が、エリシュカが、どれほど厳しい旅の果てに自分のもとへ辿り着いたのかということを。そして、同じ厳しさを、否、それ以上を乗り越えてでも故郷へ帰りたいと願っていたのかということを。

 元妃の話をもう少し聞くべきだったのだな、とヴァレリーは思った。彼女がなにを思って白い婚姻を望んだのか。なにを思って離縁を願ったのか。

 この自分を拒むなどどんな理由があっても許さない、とヴァレリーは思っていた。それが傲慢であることは百も承知だったが、王族として、あるいはそれに準ずる家格に生まれた者として、そうした傲慢さを受け入れていくことは、ある種の務めであるとも思っていた。

 だから自分との婚姻を拒んだシュテファーニアに腹が立った。そこにどんな理由があるとしても、許せないと思った。

 自分だって彼女を受け入れていたとは云い難いのに。

 いや違うな、とヴァレリーは自嘲する。自分だって、受け入れたくもない務めを――娶りたくもない妻を――受け入れようとしていたのに。

 自分が甘んじて従おうとしていた運命に、ひとり抗おうとした元妃が気に入らなかった。だから、あれほどまでに腹を立てたのだ。

 エリシュカを知って、求めることを知って、元妃のことなどどうでもよくなったと思っていた。けれど、どうでもよくなどなかったのだ。

 でなければ、あんなふうにエリシュカに無体を強いたりはしなかった。

 元妃と同じように、自分に、宿命に逆らおうとするエリシュカが憎かった。はっきりとした態度と言葉で自分を拒んだ元妃とは違って、エリシュカは服従と沈黙で、しかし自分を拒んでいた。

 そのうえ、おれは自身の心を取り違えてもいた。まつりごとと想いとを混同し、オリヴィエに指摘されるまでそのことに気づきもしなかった。

 おれはなにもわかっていなかったのだ、とヴァレリーは思った。エリシュカのことも。シュテファーニアのことも。そして、――自分自身のことも。

 おれはもっと自分を知るべきだった。自分を拒まれたことに腹を立てるのは、そのあとでもよかったのだろう。

「……愚かであったな、おれは」

 吹きすさぶ風の音に紛れて囁かれたヴァレリーの声は、しかしはっきりとエリシュカの心に届く。エリシュカはふたたびヴァレリーの瞳を見つめた。

「それは、わたしもです。アランさま」

 ヴァレリーはエリシュカの言葉を否定するように首を横に振った。

「そなたはなにも間違ったことはしていない」

「いいえ、アランさま」

 いいえ、とエリシュカは繰り返した。

「わたしはアランさまに自分の気持ちをお話しすべきでした。アランさまのお話をもっときちんとお聞きするべきでした。おわかりいただけないことも、わたしが理解することのできぬお話も、すべてを言葉にしてお伝えし、お伺いするべきだったのです」

 ただ、自分の望みばかりを口にするのではなく、とエリシュカは云った。

「……そうなのか」

 いつのまにかふたりを覆うように雪が降り積もっていた。エリシュカは腕を延ばし、雪を払う。風は少しずつ弱まってきているようだった。ふたたび毛布を頭からかぶり、ヴァレリーのぬくもりをたしかめる。雪はどうだ、と問う声に、まだしばらくは動けそうにありません、と答えた。

「わたしはアランさまをお慕いしていたのです」

 ヴァレリーは息を詰めた。大きく見開かれた瞳には喜びではなく驚きがある。思いがけない告白を喜びに変えるには、彼は過ちを犯しすぎていた。

「けれど、ただの一度もお伝えすることはできませんでした。許される想いではないと、そう思っていたからです」

「賤民という身分ゆえ、か」

「そのときはそう思っていました。でも、違ったのかもしれません」

 どういう意味だ、とヴァレリーは尋ねた。

「アランさまのお言葉を、信じることができなかったから、なのかもしれません」

「信じる?」

「わたしなどに、とそう思っておりました。どんなお言葉もお振る舞いも、すべては気まぐれなのだろうと。姫さまが、ご自身の代わりに、と差し出されたわたしをおもしろがって、戯れを仕掛けられているのだろうと」

 ヴァレリーはなにも云わずにゆっくりと瞬きをした。エリシュカを求める理由さえ偽った愚かしさが、結局は自分の首を絞めていたのだと気づき、言葉もなかったのだ。最初からそなたを求めていた、といくら言葉を重ねたところで、主の命令に従うしかなかったエリシュカにしてみれば、そんなもの信じられるはずもない。エリシュカの云うことは、当然の道理だった。

「……無理もない」

 絞り出すように云ったヴァレリーに、エリシュカはかすかに笑ってみせた。

「あるいは、はじめのうちならばそうだったかもしれません。けれど、そのあとわたしはアランさまとともに長い時間を過ごしました。にもかかわらず、わたしはただの一度もあなたのことを信じようとはしなかったのです」

 わたしはなにも見ようとしなかった。なにも聞こうとしなかった。俯いて目蓋を閉じ、自分の手で耳を塞いで、なにひとつ信じようとしなかった。

「……だから、愚かなのはわたしも同じなのです、アランさま」

 ひとつの毛布にくるまり、体温をわけ合い、ふたりは同じ想いを抱えていた。――自分はなんと愚かだったのか。

 それは後悔か。あるいは自嘲か。

 そしてそれきり、ふたりのあいだに言葉は途絶えてしまった。


 尾根道は長く続いた。

 相変わらずヴァレリーは馬上の人であり、エリシュカはテネブラエの手綱を取って歩みを進めた。

 見晴らしのよい尾根道は、道に迷う心配こそしなくてもよかったが、危険がないわけではなかった。凍りつき、緩む気配のない根雪の上は歩きづらく、突然の強風に煽られることもあれば、知らないうちに雪庇へと踏み込んでしまうこともある。

 嵐が来るたび、ふたりでひとつの毛布にくるまり、荷物を盾にして凌いだ。

 道を選び、装備を工夫し、簡素ながら食事を調え、ヴァレリーの手当をし、テネブラエの世話をするのは、すべてエリシュカの役目である。長距離を自力で歩けるほどに回復していないヴァレリーは、そのことをひどく申し訳なく思っていたが、云うことをきかない身体で動き回ることもできず、忸怩たる思いを抱えていた。

 最初の嵐を凌いだとき以来、ふたりのあいだに必要以上の言葉が交わされることはなかった。

 云うべきことはすべて云ってしまった、と思っているふたりにとって、言葉に意味はなかったからだとも云えるし、たびたびの嵐に見舞われる尾根道の旅は過酷で、それどころではなかったせいだとも云える。

 そして、やがて、――長い嵐がやってきた。

 長くても数刻ほどで去っていく暴風雪が、半日、一日と続く。ただひたすら毛布にくるまり、窒息することのないよう自分たちに積もる雪をときどき払い除けながら、嵐が過ぎゆくのを待つしかない。

 懐炉に燃料を足したり、ときどきテネブラエの様子を見に行ったり、なにかと甲斐甲斐しく動き回っていたエリシュカの様子がおかしくなったのは、嵐の過ぎるのを待って一日と半分が過ぎようとした頃のことだった。

 ヴァレリーとエリシュカのあいだに挟み込まれていた懐炉が冷えてきた。ヴァレリーは、そろそろ燃料を足したほうがいいのではないか、とエリシュカに声をかけたが、返事がなかった。

 疲れているのだろう、とヴァレリーは思った。自分の身ひとつを保つことですら難しいこの山道で、彼女はおれの面倒まで見てくれているのだ。

 これまでさまざまなことにずっと気を配り続けてくれていたエリシュカが、懐炉が冷えてくるまで燃料の補充に気づかないなんて、やはり相当に疲労が溜まってきているのだな、と彼は思い、彼女が許してくれたら、燃料の補充は自分がやろう、と考えた。

「エリシュカ?」

 もう一度呼びかけながら、ヴァレリーは自分に凭れかかるようにして蹲っているエリシュカの顔を覗き込む。途端、寒気のせいではなく背筋が冷えた。耳の奥で心臓が大きく跳ね、そのあとぴたりと止まってしまったような気がした。

 エリシュカの目蓋は固く閉じられ、銀色の睫毛は凍りついていた。

「エリシュカッ!」

 ひさしぶりに大声を上げたせいで喉と肋が痛んだが、そんなことにかまってはいられない。毛布の中で身を捩り、エリシュカの頬を何度もさすった。冷たく、硬いその感触にヴァレリーは恐慌状態に陥った。

「エリシュカ!」

 いつからだ、とヴァレリーは思った。いつからエリシュカは――。

 ヴァレリーは肋の痛みなど忘れたかのようにその場に立ち上がった。ふたりの上に降り積もっていた雪が割れ、途端吹きつけてくる冷たい風に身が竦む。

「テネブラエッ!!」

 近くにいるはずの獣の名を何度も呼びながら、ヴァレリーはエリシュカの身体を毛布で包み込む。こんなところで蹲っているわけにはいかない。

 テネブラエが鼻を鳴らす音がすぐ傍で聴こえた。

「おまえの主人が大変だ。こんなところでじっとしてはいられない。すぐに火を起こせるところを探さなければ」

 先を進むのは無理だ、とばかりにテネブラエが鼻を鳴らした。

「そんなことはおれにだってわかっている。だけどここは風が強すぎて火を起こせない。火が起こせなければエリシュカは死ぬぞ!」

 云いながらヴァレリーは雪のなかから荷物を掘り起し、テネブラエの背に積んでいく。遅ればせながら主人の危機を感じ取ったテネブラエが、落ち着きなく足を踏み鳴らすのを諌めながら、ヴァレリーは異様なほどに自分の神経が研ぎ澄まされていくことを感じていた。いまならばこの嵐の中でも道に迷わぬ自信がある、と彼は思った。

 ヴァレリーは最後に壊れ物を扱うようにエリシュカの身体を抱き上げ、己の背に担ぎ上げた。折れているはずの肋は、なぜか痛みを訴えてはこなかった。

 ヴァレリーはテネブラエとともに嵐の尾根道を歩みはじめた。やたらに冴える視覚と聴覚とが、吹きつけてくる雪の向こうに正しい道を見つけ出す。

 おそるべき勘のよさは、愛しい者の命の危機を感じ取った己の本能のなせる業だと、そのときのヴァレリーにはよくわかっていた。

 早く――、と身体の奥深くから野生が叫ぶ。急がなければ、おまえはおまえの愛を永久に失うことになる。

 ヴァレリーはゆっくりと、しかし確実に生きる道を求めて歩き続けた。

 尾根道を登り切り、下る。また登り、下る。

 歩み続けるそこは、白に染まった死の世界だった。

 己の呼吸と背中の重み、隣を歩く獣の気配。

 命あるものは、自分たちだけ。

 急に拓けた視界に、尾根道を登りきったことを知る。深い息をつき、見下ろした先もまた、――白。

 ヴァレリーは強い眩暈を覚え、思わず蹌踉よろめいた。

 自分の身体が限界を迎えたことがわかった。

 けれど、だからなんだというのだ。ここで諦めるわけにはいかない。エリシュカを死なせるわけにはいかない。

 ヴァレリーはエリシュカの身体を担ぎ直し、その冷たい重みにおそれ慄いた。自らを励ますように、掠れた声で隣を歩く獣に声をかける。

「行こう、テネブラエ」

 だが、次の一歩を踏み出すことは適わなかった。

 ヴァレリーの身体がその場に崩れ落ち、吹きつける雪があっというまに彼の身体を覆っていく。

 ――エリシュカ。

 どうにかこうにか伸ばした腕の中に、愛しい存在を強く抱きしめる。

 とうに朦朧としていたヴァレリーの意識が、完全なる闇に飲まれたのは刹那ののち。

 白い闇の中にひとりとり残された漆黒が、高く、長く、哀しく――、嘶いた。

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