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 艶やかな銀色の髪を綺麗に結い上げて若草色の衣裳を纏う、可憐な寵姫を腕に抱いた王太子ヴァレリーの姿は、王妃の誕生を祝う夜会における注目の的だった。楽師たちが奏でる典雅な音楽に合わせ、ふたりはじつに優雅に舞い踊り、注目する者たちの溜息を誘った。

 もともとヴァレリー自身、非常に見目のよい男である。緩く波打つ黄金色の髪は夜を彩る灯りに輝き、夏空色の瞳は甘く煌めいている。なんとも美しい男だ、とばかりに数多の貴婦人たちの溜息を誘う彼の眼差しは、しかしいまは新しい恋人ひとりに注がれ、片時たりとも逸らされることはない。

 誰ひとりつけいる隙もないほど完璧にふたりの世界だな、とヴァレリーの姿を遠目に見守るオリヴィエは、苦虫を噛み潰したような顔でグラスを満たす火酒を飲み干した。

「浮かない顔だな、ルクリュ」

 黒髪を乱して背後を振り返ったオリヴィエは、声の主の姿を認めるなり取り澄ました笑顔を浮かべ、軽く頭を下げた。

「ああ、かしこまったことはいい。無礼講の夜会の最中だ」

「おそれいります、殿下」

「どうした、珍しいいきものでも発見したような顔だな」

 自分で自分の云った言葉に笑うのは、エヴラール・ジェルマン・ラ・フォルジュ。その心に謀反の芽を育む、王弟ギヨーム・ジャン・ラ・フォルジュを父に持つ、ヴァレリーの従弟である。

「殿下がこうした場にお顔を見せられるとは珍しいではありませんか」

 まあな、とエヴラールはグラスに口をつけた。中身は水か茶か。エヴラールは酒をいっさい嗜まない男である。火酒をひと樽空けてもけろりとしているような蟒蛇うわばみ王太子の血縁とはとても思えない。

「私の社交になど無関心でいらっしゃる従兄どのから、是非に、と誘われては断るのも野暮だろう」

 エヴラールは薄い水色の眼差しを人垣のほうへとふと流してみせた。途端にオリヴィエの顔に苦味が走るのをどこかおもしろがっているようでもある。

「殿下が?」

「可愛らしい恋人をよほど見せつけたかったとみえる。地面をほじくり返しての陰気くさい懐古趣味に浸るのはせいぜい明るい昼間のうちにすませればよい、たまには輝く夜に現世うつしよの花を愛でにくるべきだと、こうだ」

 さようでしたか、とオリヴィエは無難に応じた。

 父親であるギヨームとは違い、エヴラールに邪な野心はない――と云われている。

 王城学問所において地質学の研究に没頭して生涯をまっとうすることを願っているらしいエヴラールは、恋ひとつ知らぬ朴念仁との呼び名を恣にしており、夜会や晩餐会といった華やかな場に姿を見せることも少なかった。

 そうした世慣れない従弟をヴァレリーが今宵に限って引っ張り出したのは、文字どおりひとり残らずすべての王族に対し、エリシュカの存在を知らしめたかったからにほかならない。今後、自分の子を産むのは妃ではなく、寵姫エリシュカであるという強烈な顕示である。

 ヴァレリーの意志は、今宵の夜会を訪れた者のすべてがあまねく理解したことだろう、とオリヴィエは思う。そして、先ほどからの彼にひどく苦い顔をさせている理由もそこにあるのだった。

 ヴァレリーがエリシュカを手に入れてからというもの、オリヴィエが苦言を呈さなかった日はない。午後も早い時間からそわそわと落ち着かぬ気配を漂わせ、その日最後の書類の署名も乾かぬうちにペンを投げ捨てて女の元に走ろうとするヴァレリーに、なんとかして己の愚行を悟らせねばならぬとばかりに縋りつく側近の姿は、最近では王城内における夕刻の名物になりつつある。

 オリヴィエとて別に好きこのんでそんな真似をしているわけではない。変態王太子とともに王城内の住人たちの見世物になりたい臣下がどこにいるのだ、とオリヴィエは思う。頼むからいつもの冷静さを取り戻してもらいたいと、生涯の忠誠を誓った相手に対し強く願っているだけである。

 この夜会だって、とオリヴィエは小さくため息をついた。そもそもの主賓は王妃であるし、挨拶のひとつやふたつ交わしておかねばならぬ相手が、ヴァレリーにはごまんといるのだ。夜会とは男にとっても女にとっても政の場である。王太子ともあろう者が好いた女と踊り狂ってばかりいるわけにはいかないのだ。そんなことくらい、いまさら俺に云われるまでもなかろうに、とオリヴィエは思う。

「おまえも苦労性だな」

 エヴラールに気づかれぬようこぼしたはずのため息は、どうやらしっかりと聞かれてしまっていたらしい。オリヴィエは渋面をさらに顰めて、大変失礼いたしました、と頭を下げた。

「アランにはアランの考えがあってのことだろう。おまえがそう気に病むことはない。おまえの忠義はアランもよくよく承知のことであるし、わが従兄どのはそこまでの莫迦ではあるまいよ」

 茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってエヴラールはそう云った。

「ただ、いまはまだ、アランが自身の考えをおまえに明かす時期ではないと考えているという、ただそれだけのことであろう」

 そりゃ、エヴラール殿下、あなたは王太子殿下の完璧な仮面に隠されたもうひとつの顔をあまりよくご存知ないですから、とオリヴィエは思った。

 ヴァレリーは王太子として申し分のない資質を備えて生まれてきた男である。そして彼は同時にその天賦の才をあますところなく活かすための努力も惜しまない。

 高貴な生まれの者にありがちな鷹揚さや傲慢さと無縁ではないが、己の身が己ひとりのためにあるものではなく、民に尽くすためにあるのだということをよく弁えている。己の言葉の重みも振る舞いの影響力もよく知っていて、その場に応じた正しい言動を選ぶことのできる賢さも備えている。

 ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュは、王からも臣下からも民からも期待される王太子の姿を体現した、ある意味では理想の男なのだ。そしてヴァレリーはそうした便利な仮面を、滅多な相手の前で脱ぎ捨てるような真似はしないのである。

「ルクリュの男をわれわれが粗雑に扱うはずがない。アランだってそうだ。わかるだろう」

 エヴラールはオリヴィエを宥めるようにそう云った。オリヴィエの心中とはまるで噛みあわぬその言葉に、それでもオリヴィエはほっとさせられてしまう。血縁に縛られるなど時代錯誤もはなはだしいところだが、穏やかなばかりで、さしたる迫力もないエヴラールの言葉に頷いてしまう自分は、やはりラ・フォルジュの者には逆らえないのだ、と思ったりもする。


 ルクリュ家は遠く遡れば王家ラ・フォルジュの血脈にも連なる、古くからの貴族である。代々ラ・フォルジュ家を護衛する近衛騎士団の副長を務めており、現在の近衛騎士団副団長はオリヴィエの叔父にあたる人物が務めている。副団長とは、名誉職である団長――こちらは代々王室の者がその地位に就くことが習わしとなっている――に代わり、騎士団を実質的に取り仕切る要職である。

 そうした由緒ある家系の長男として生まれたオリヴィエは、生まれ落ちたその瞬間から従うべき主を定められていた己の人生を、とても幸福なものだと考えていた。

 ヴァレリーとオリヴィエは偶然にも近い年に生を受けた。幼いころよりともに育ち、両親の手を離れて幼年学校に通うようになるころには、オリヴィエは自分よりも歳下のヴァレリーにすっかり心酔していたと云ってもいい。

 オリヴィエにとって親しい友でもあるヴァレリーは、なにごとにつけ周囲を凌駕し圧倒し魅了した。剣を持たせれば誰よりも果敢に、馬を駆らせれば誰よりも速く、筆を持たせれば誰よりも聡い。そんなヴァレリーをオリヴィエは崇拝し、敬愛している。

 己が仕えるべき主君が暗愚であるほど不幸なことはない。勇敢で聡明なヴァレリーは、それだけでオリヴィエの誇りなのだ。

 だが、そんなヴァレリーにも欠点はある。それは異様なまでの女好きだ、とオリヴィエはため息をついた。

 血脈を繋ぐ義務に背かぬよう、王侯貴族の男子にはしかるべき年ごろになると閨の手ほどきがなされる。オリヴィエ自身も、不幸にして寡婦となった親族に丁寧な教えを授けられたし、ヴァレリーも高貴な血を受け継ぐ口の堅い未亡人にあれやこれやと仕込まれたらしい。

 年ごろが年ごろだけに閨房のことに興味関心がないではない。いや、はっきりと興味津々だと云うべきか。経験したくとも相手に困るごく一般的な男子と違って、ヴァレリーは最初から相手を宛がわれていた。経験豊かな未亡人をもってして、もう教えることはなにもないという段になり、彼女が大任を解かれたのちも、ヴァレリーはその地位や容姿ゆえに遊び相手に困るようなことは一度もなかった。

 それが災いしたのだ、とオリヴィエは思っている。心を重ねることを知らぬままに身体の快楽だけを覚えた男というものの性質の悪さは、古今東西みな同様である。教育係を廃したのちのヴァレリーは、文字どおり遊びまくった。己の地位に対する矜持と自覚は人一倍あるだけに、下手な相手には手を出さなかったことだけが救いである。

 ヴァレリーの遊び相手は娼婦たちであった。

 王都の娼館のうち、およそ高級と云われる店に、ヴァレリーの顔を知らぬ娼婦はいない。それどころか、下手に気に入られようものなら夜を徹して抱き潰されるので、娼婦にとってははた迷惑な客として有名だった。おまけにヴァレリーはひとりでは遊ばない。食欲も精力も旺盛な騎士団の連中を数多引き連れ、それはもう徹底的に遊ぶ。酒蔵も厨房も空になるほど飲み食いされ、娼婦たちも疲労困憊、たしかにその夜はいい儲けになるのだろうが、翌日は商売あがったりで娼館もいい迷惑である。

 もちろんオリヴィエもさんざんつきあわされた。物心つくころには幼馴染の可愛らしい姫と初々しくも固い絆で結ばれていたオリヴィエである。ヴァレリーに連れまわされる遊興など、迷惑以外のなにものでもない。いまでは妻となった愛しい姫に自分のはじめてを捧げられなかったことをいまだに悔やんでいるほどに純情なオリヴィエにとって、ヴァレリーの振る舞いは獣以下としか思えなかった。

 ほどほどになさってください、と口を酸っぱくして云い立てても、ほどほどだと、そんなつまらないことができるか、と答えるときのヴァレリーは放蕩王子以外のなにものでもなかった。いったいなんだってそんなに女の身体を――身体だけを――求めるのだ、と問い詰めても、おまえは本当に無粋なやつだな、と鼻で嗤われるのだ。

 王太子付の侍女たちが陰で――実際のところはかなりあからさまに――自分を変態扱いしていることを知っても、ヴァレリーはまったく気にしなかった。うっかり云い寄られても鬱陶しいだけだ、ちょうどよいではないか。

 なにがちょうどいいんですか、男と女とはそんなふうに即物的なものではありませんよ、とオリヴィエがいくら諭したところで、どうせそのうち面倒くさい女が妻として送り込まれてくるんだ、それまでおおいに楽しんだって罰は当たるまい、と云い返されてしまえば、愛しく思う相手を妻に迎えることのできた幸運な男は黙り込むしかできなかった。

 神ツ国から嫁いできた王太子妃シュテファーニアは、オリヴィエの目から見ても頑なで可愛げのない、そのくせ自分が粗雑に扱われることには我慢ならない――いわゆる面倒な――女だった。

 彼女は、敬意を払って自ら出迎えに立った夫とその部下たちを前にして堂々と白い婚姻を迫り、ヴァレリーの矜持を踏み躙ったばかりか、その後もいっさいの接触を――指先に触れることや婚儀における儀礼的なくちづけでさえ――許さなかったという。

 そんな妻を迎えたヴァレリーが、いつまたあの性質の悪い遊びをはじめるのか、彼に従う侍女たちと同じようにオリヴィエが戦々恐々としたのはいうまでもない。独り身だった彼の放蕩には目を瞑った王族貴族たちも、さすがに正妃を迎えてからの度を越えた遊興には声を荒らげるだろうと思ったからだ。

 だが、オリヴィエや侍女らの不安は杞憂に終わった。いまオリヴィエのすぐ傍で目立たぬように控えている王太子付侍女のひとりとは、ふとしたことからそんな話をしたこともある。――殿下もすっかりおとなしくなられて、おまえたちも少しは気が落ち着いただろう、侍女どの。あら、なんということをおっしゃいますの、ルクリュさま。いや、いままでの行状が行状だけに、いざ妻を目の前にして枯れたなどということでなければいいのだが。厭ですわ、ルクリュさま、私どものあいだでは、殿下は馬を相手に盛られているに違いない、ともっぱらの噂ですのよ。


「従兄どのの美しい花に、私もご挨拶申し上げてこよう」

 一曲ぐらいお相手願っても罰はあたるまい、とエヴラールは人懐こい笑みをオリヴィエに投げかける。

「おまえはその隙にアランに仕事をさせてはどうだ」

 年がら年じゅう土と埃にまみれた朴念仁、などとヴァレリーには散々な云われようのエヴラールだが、彼の細やかな気遣いが、こうして自らを助けてくれているのだということを殿下はご存知なのだろうか、とオリヴィエはふと思った。

 現国王ピエリックとその弟ギヨームの確執は、貴族たちのあいだにもあまねく知れ渡っている事実ではあるが、その息子同士までもがいがみあっているわけではない。表面的には文句のつけようのない後継者であるヴァレリーと、権力欲がなく穏やかな気質のエヴラールは、今後も良好な関係を維持していけるのではないか、とオリヴィエをはじめとする家臣一同は強く期待――エヴラールが人畜無害を装っているのでなければ、の話ではあるが――している。

 エヴラールとオリヴィエは、広間を埋め尽くす人波のなかにヴァレリーの姿を捜した。

 慣れない夜会にひどく緊張しているに違いない寵姫を腕に抱いたヴァレリーは、いまにも倒れそうな彼女を少し休ませようと、広間の隅にある長椅子に向かって歩き出したところだった。

 どうにかこうにか人波を抜けてヴァレリーの傍へ歩み寄ったふたりの男は、そこでひどく甘ったるいふたりの世界――それはもっぱら寵姫に夢中な王太子が作り出しているものだ――を見せつけられることとなってしまった。

「草臥れただろう、エリシュカ」

「いいえ、アランさま」

「なにか飲むものを持ってこさせよう」

「いいえ、大丈夫です」

「それとも部屋へ戻るか、あまり顔色がよくない」

 いいえ、と首を振ったエリシュカが、そこでようやくエヴラールとオリヴィエの姿に気づき、アランさま、と声を上げなければ、ふたりは永久に続くヴァレリーの睦言に付き合わされていたに違いない。なんでもない言葉が睦言以外のそれに聴こえないのは、あれやこれやとエリシュカを気遣いながらも、ヴァレリーの手や唇がひっきりなしに愛する女の指先や頬に触れていたせいだ。

 そのお嬢さまの顔色が優れないのは殿下のせいですね、とオリヴィエは云わなかった。代わりに口を開いたのはエヴラールである。

「今夜はご招待いただき礼を云わねばなるまいね、従兄どの」

「来ていたのか、ジェルマン」

「招んでくれたのはきみだろう、アラン」

 夏空色の瞳になにかを探るような色を浮かべて、ヴァレリーはエヴラールを見つめた。ヴァレリーのそれよりもだいぶ色の薄い瞳に笑みを滲ませ、エヴラールはヴァレリーの背後へと視線を向けた。

「なんとも可憐なお嬢さまだね。紹介いただいてもいいかな、従兄どの」

 エヴラールにそう云われたヴァレリーはエリシュカを振り返り、立てるか、とそのほっそりとした腰に腕をまわして立ち上がらせた。

「ジェルマン、エリシュカだ」

 エリシュカ、とヴァレリーは、立ち上がっても自分の胸元までしか背丈のないエリシュカの顔を覗き込むようにして続けた。

「おれの従弟のエヴラール・ジェルマン。王城内の研究所で地質学とやらを学んでいる陰気な男だ」

 ついでのように額に落ちてきたヴァレリーの唇に戸惑いを見せていたエリシュカは、そこで慌てて深く腰を折った。

 数多の王族貴族たちの名は、ヴァレリーに部屋を与えられてから受けるようになった淑女教育によって頭に叩き込まれている。エヴラール・ジェルマン・ラ・フォルジュは王太子の従弟であり、その王位継承権は王弟に続く第三位。王太子殿下に優るとも劣らぬ雲の上の人。

 夜会が始まってからこれまでに、エリシュカは国王ピエリック・ロラン・ラ・フォルジュとその側妃ルシール・ジラルディエール――ヴァレリーの父と母――、王妃エヴェリーナ・ヴラーシュコヴァー、それから数多の王族たちにひっきりなしに引き合わされた。ヴァレリーの饒舌の傍らで身体を強張らせて俯くエリシュカに、彼らは明らかな敵意や蔑みを見せたりはしなかった。

 エリシュカの艶やかな銀色の髪や珍しい薄紫色の瞳を褒め、豪奢な若草色の衣裳を褒め、そして一様に彼女の出自にはひと言も触れなかった。興味がないという意味ではない。広間の片隅で退屈そうにグラスを傾ける王太子妃シュテファーニアに遠慮してのことでもない。みな、とうに事実を――あわせて少々刺激的な意地の悪い噂話を――知っているだけのことである。

「陰気とは失敬だな。アラン自慢のお嬢さまに、少しのあいだおつきあいいただけないかと思って挨拶に来たのに」

「断る」

 ヴァレリーは悋気を隠そうともせずに云い放った。寸の間も空けぬ返答に、エヴラールが苦笑いする。

「こんなに余裕のない従兄どのを見るのははじめてのことだね。ますます興味が出てきたな、なあ、ルクリュ」

 殿下、とずいとばかりに前へ進み出たオリヴィエが、声を尖らせてヴァレリーに迫る。

「あちらにトレイユ閣下がお見えです。ギヨーム王弟殿下にもご挨拶がまだだとか」

 ヴァレリーが露骨に厭な顔をしてみせた。オリヴィエ、おまえはいったい誰の味方だ。

「これから北方騎士団に合流する五名の騎士たちもみな、殿下とお話しする機会を望んでおります。今宵を逃せば、彼らは殿下へのお目通りなく……」

 わかった、とヴァレリーは低い声で答えた。

「エリシュカを部屋へ送ったら……」

「その必要はないよ、従兄どの。きみがいないあいだは、この私が責任を持ってきみの可憐な花を守ると約束するから」

 なんだと、とヴァレリーは唇のなかで呟いた。これまで一度たりとも夜会で女を伴ったことなどないこの朴念仁が、いったいなにを考えている。

「せっかくだが」

「殿下」

 忠義に篤い側近は首がもげるのではないかと思うほどの勢いで、頭を振り立てている。

「オリヴィエ……」

「お嬢さまのことはエヴラール殿下にお任せになり、どうか一刻も早く閣下にご挨拶を」

 ただでさえ剣呑な肚を持つアドリアン・トレイユのことである。女に現を抜かす王太子を、いったいどう捻り潰してくれようかと手ぐすね引いて待っているに違いないのだ。姿を見せるのが遅くなればなるほど、彼の舌鋒は鋭くなり、あるいはそれだけで戦が起こせるほどになるかもしれない。

 エリシュカを寵姫に据えたことで、王太子ヴァレリーの周囲はどことなく騒がしい気配を漂わせている。いまのところ正妃シュテファーニアの生国からはなんの音沙汰もないが、いずれやかましい事態になることは容易に想像がついた。同時にふたつも三つも争いごとを抱え込むような事態だけは避けたいオリヴィエである。

「わかった」

 オリヴィエの心中を察したヴァレリーはしぶしぶ頷いた。エリシュカをひとりにするのは不安だ。どこかの愚かな男に攫われるかもしれないし、阿呆な女の嫉妬に傷つけられないとも限らない。

 とはいえ、このエヴラールであれば完璧な虫除けとして役立ってくれよう。彼は、王太子の従弟という申し分のない身分を持ちながら、堆積した土砂以外に興味を持たぬつまらない男なのだから。

「手を出すなよ」

 念のため云い添えれば、エヴラールはからからと笑って答えた。

「私にそんな器量があるわけないだろう。早く仕事をすませて戻って来い」

 笑いさざめく人々の合間を、オリヴィエに先導されながらヴァレリーは歩き去っていく。その広い背中を、ひとり取り残されて不安を募らせるエリシュカと、苦笑いを頬に浮かべたエヴラールは仲良く並んで見送ることとなった。

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