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 さて、あの獣もようやくのことでお嬢さまの傍を離れたことだし、そろそろスープぐらいはお口に入れてもらわねば、とモルガーヌはひそかに腕まくりをした。王太子付侍女とはいえほとんど末席に近いモルガーヌが、王族が揃って出席するような正式な夜会への出入を許されているのには、きちんとした理由があった。

 エリシュカがヴァレリーの寵姫となって、すでにひと月近くが過ぎようとしている。嵐に翻弄される花びらのように王太子の腕のなかに閉じ込められてしまったエリシュカだが、最近になってようやく自分の立場に慣れてきたようだった。寵姫に相応しい教育を授けられ、さまざまなしきたりや習慣を理解し、歴史や文字を学び、礼儀作法を身につけたことによって多少の自信がついたのだろう。また、厩舎に通い馬の世話をすることによって、以前と変わらぬ己を知ることができたことも大きいはずだ。

 相変わらず口数は少ないし、すぐに俯いてしまう癖もあらたまらないが、それでもデジレやモルガーヌに対してであれば、己の希望をはっきりと伝えることもできるようになった。

 モルガーヌは王太子付侍女の地位はそのままに、しかし現状はもっぱらエリシュカの身のまわりの世話をして日々を過ごしていた。ヴァレリーもそのことは承知しており、万事不足のないように、という直々の命も受けている。

 今宵の夜会へも、世慣れぬエリシュカに万が一のこと――たとえば王太子妃をはじめとする迂闊な輩に害されるようなこと――がないように、とヴァレリー自身が特別にモルガーヌの随従を許したのである。

 万が一もなにも、殿下がそうべったりと貼りついていたら私の出る幕なんかありゃしませんよ、と先ほどまでのモルガーヌはそう思っていた。酒の飲めないエリシュカのために水でも用意してやろうとすれば、それよりも先にヴァレリーが柑橘水を手渡し、剥き出しの腕が寒かろうと薄物を手に持って歩み寄ろうとすれば、ヴァレリーがしっかりと抱き寄せて離さない。

 ヴァレリーのそうした振る舞いにモルガーヌが満足していたわけではない。飲み物で潤ったばかりのやわらかな唇を奪ったり、自ら暖めた華奢な肩に頬を寄せたりして戯れるのは結構だが、そのたびにお嬢さまが身を強張らせていることに気づかないのか、この阿呆、とモルガーヌはそのたびにグラスを叩きつけたり、薄物を投げ捨てたりしたくなった。

 もっとも、傍で同じように殿下の動向に目を光らせていたルクリュさまは、私以上に神経を尖らせていたみたいだけどね、とモルガーヌは思った。

 ときに議会の場よりも尖ったやりとりが交わされる夜会において、その先鋒に立つべき王太子が情人にすぎぬ女ごときに骨抜きにされていては、王室の威厳など木端微塵である。ヴァレリー本人の振る舞いもさることながら、彼の父である国王が後継者のみっともない振る舞いを笑って――彼の真の心中など誰にも推し量ることはできないが――許していることもまたオリヴィエの苛立ちを煽っていたようだ。

 殿下とその父親がなにを考えているかなど、いまの私には関係ない、とモルガーヌは思った。ヴァレリーは己の賢さを隠そうとはしていないが、それであっても周囲が思うよりもずっと切れ者の彼は、きっと幼馴染の側近などには思いもよらぬ思惑を抱いてこの場にいるのに違いない。

 それに、よしんばあの変態が可憐な寵姫にすっかり心奪われ、その脳内に極彩色の花が咲き乱れていたとして、それがいったいなんだというのだ、とモルガーヌは思う。いまさらではないか。不特定多数の娼婦に盛っていた獣が、いまは相手をひとりに絞ったという、ただそれだけのことだ。

 それよりも気の毒なのはあの幼気なお嬢さまだ。獣の悋気と周囲から注がれる好奇の視線にすっかり竦みあがっていらっしゃる。いまにも射殺さんばかりの王太子妃の眼差しにも身の置き所がないようで、先ほどから飲物のひと口も召し上がっていらっしゃらない。せめてこのモルガーヌがお傍におりますから、と安心させて差し上げなくては。

 ところが、モルガーヌが厨房まで温かなスープを取りに走っているうちに、事態は多少の変化を見せていた。息せき切って駆け戻ってみれば、モルガーヌの可愛いお嬢さまは、変態王太子の唐変木な従弟、エヴラール・ジェルマン殿下と舞踊の真っ最中でいらっしゃった。

 ラ・フォルジュの家の者たちは、みな押し並べて優れた容姿を誇っている。ヴァレリーの父である国王ピエリックも若かりし頃はさぞやという美丈夫であるし、母である側妃ルシール・ジラルディエールの輝ける美貌はいまだに衰えを知らぬ。王弟ギヨームもやや線の細い印象はあるものの、美しさだけでいえば兄をも凌ぐほどである。

 当然、王太子ヴァレリーも、その従弟エヴラールも両親の美貌を受け継いで、はっとするほど美しい容姿を誇っていた。

 日ごろ王城内の研究所にこもりきりで、たまに外出しても深々と帽子をかぶっての発掘作業に没頭するばかりのエヴラールは、自身の美貌になどいっさい頓着することなく、また、こうした夜会の席にも滅多に姿を見せない。

 とはいえ、そこは腐っても王族である。優雅な挙措においてはヴァレリーにさえ引けを取らない。落ち着いた褐色の髪に薄水色の瞳はともすればやや酷薄な印象を与えがちだが、いつも浮かべられている穏やかな笑みがその冷たさを拭い去っている。剣技は苦手で嗜む程度だと聞いているが、荒事には向かぬ優雅な物腰はこうした舞踊の折にはかえって引き立つものであるらしい。

 物慣れぬ様子のエリシュカをきちんと導きながら、しかもヴァレリーのように強引な振る舞いをしないエヴラールは、ごく短い時間でエリシュカを安心させてしまったようだった。ヴァレリーとともにあるときは強張ったきりだったエリシュカの表情が、いまはかすかに緩み、笑顔とまではいかないまでもだいぶ寛いだ表情を見せている。

 おやおや、とモルガーヌは思った。手にした盆に載せてきたスープが冷めてしまうことが惜しくはあったけれど、お嬢さまにとってはよかったのではないか、と思わず頬を綻ばせてしまった。

 美しく髪を結い上げ、上品な化粧を施し、豪奢な衣裳を纏って出席する、エリシュカにとっては生まれてはじめての夜会である。王太子の寵姫という非常に危うい立ち位置ゆえに、終始緊張を強いられ、寛ぐことなどできないと思っていた。お嬢さまには気の毒だが、それも役目だ、仕方がない、とモルガーヌは、エリシュカにこの夜会を楽しんでもらうことをなかば諦めていた。だがそれは、なかなかどうして早計であったらしい。

 あの偏屈者にあんな才能があったとはね、とモルガーヌは手にしていた盆をそっと近くのテーブルの上に置いた。エヴラール殿下のおかげでお嬢さまのお心が少しでも慰められるのであれば、云うことはないわ。

 儀礼的な親しさよりはほんのわずかに踏み込んだ笑みを浮かべたエヴラールは、いまだ緊張したままのエリシュカになにごとかを囁きながら、優雅に舞い踊っている。エリシュカがときおり小さく頷いたりしている様子が見て取れるから、彼はうまいことエリシュカの心をとらえたのだろう。

 あの獣には逆立ちしてもできない芸当だ、とモルガーヌは思い、同時にふと厭な予感を覚えた。おそらくはあの仕事熱心なルクリュさまにあちこち引っ張りまわされているに違いない王太子殿下は、それでも自身の愛する娘から目を離したりはなさらないはずだ。

 ということは、いまのエリシュカの様子は当然彼の知るところでもあるわけで、とそこまで考えたモルガーヌは、突如としてわたわたと動きはじめた。

 駄目だろう。あれは駄目だ。あんなに寛いで、ほら、いまにも自然な笑みを浮かべてしまいそうなお嬢さまの様子を周囲の者たちが目にしたら、口さがない者たちにどんな噂を立てられるか。――王太子殿下を誑かし、妃殿下から奪っただけでは飽き足らず、エヴラール殿下まで。可憐な形をして振る舞いのなんとえげつないこと。

 いや、もっと悪いのはあの獣だ。自分が尽くしに尽くしても見せなかった笑みを、エリシュカがエヴラールに投げかけでもしたら、それこそ血の雨が降るがごときの大騒ぎになるかもしれない。

 モルガーヌは精一杯に優雅な挙措を心掛けながら、静かに広間を歩きまわった。濃茶色の侍女の仕着せはこういうときに便利だ、と彼女は思う。多少忙しなく動いていても、誰にも咎められることがないからだ。

 探していたヴァレリーの姿を遠目に認め、モルガーヌは足を止めた。そして、ちょうどうまい具合に柱と大きな花瓶の狭間に入り込み、ごく目立たない場所を確保することに成功した。


 そのときのヴァレリーは、数日後には北方騎士団に合流すべく王都を発つ五名の若者と酒を酌み交わしながら談笑しているところだった。

 オリヴィエの気働きによって、めぼしい者たちへの挨拶はあらかた済ませることができた。この者たちとの語らいが最後だとオリヴィエは云っていたから、これでようやくエリシュカの元へと戻れる、とヴァレリーは思っていた。

 男たちと酌み交わす酒は不味くはない。北方へ赴く騎士たちは、これからあのトレイユの配下に就くことになっている。せいぜい心証をよくしておくに越したことはない。

 先ほど顔を合わせたばかりのトレイユは、王太子たるヴァレリーにせめて表面的な敬意を払うという最低限の防御も忘れて、あからさまな敵意を振りかざしてきた。攻撃は最大の防御というが、肝心の攻撃が鈍らなだけに粗ばかりが目立つ。

 殿下は盗人女がお好みであらせられるようで、というトレイユの無礼な云い草を冷笑で流しながら、こいつはそろそろ本格的に駆除にかからねばなるまい、とヴァレリーは心を固めていた。

 それはなにも愛しいエリシュカを揶揄されて腹が立ったからではない。今後のことを考えれば、くだらない身内争いなどにかまけている時間などありはしないのだ。

 これからの王室は一枚岩にならねばならぬ、とヴァレリーは考えていた。そのために邪魔になるのなら、たとえ叔父上といえども容赦はしない。その走狗であるトレイユもまたしかりである。

 雪と氷に閉ざされた北方は、それでも火酒ばかりは王都のそれよりもずっと美味いらしい、ではそいつを楽しみに一度はおいでください、などと云い交わしながら、ヴァレリーはふと視線を上げてエリシュカの姿を探した。

 ジェルマンがそばについているなどと云っていたが、ひとりきりにさせてしまってさぞや心細い思いをさせているだろう。こうも人目のある場所で、妃や勘違いをしたどこぞの貴族女が悪さを仕掛けるとも思えないが、知った者なくひとりとり残される賑やかな宴の席ほど孤独を思わせる場所もあるまい。少しでも早く戻ってやらねば可哀相だ。

 そうやって暫し視線を彷徨わせ、だがエリシュカの姿を認めた途端、ヴァレリーの頭にカッと血が上った。グラスを持つ手がわなわなと震えだし、彼を囲んでいた者たちが咄嗟に口を噤むほどに険しい表情になる。

「殿下」

 傍らに立つオリヴィエが、どうにかしてヴァレリーの注意を惹こうとするが、側近の声など耳に届くはずもなかった。

 ヴァレリーの視線の先では、エヴラールの腕に導かれて音楽に合わせ踊るエリシュカがうっすらと微笑んでいた。やわらかく自然な心からの笑顔。

 ――あんな顔、おれには見せたこともないではないか。


 落ち着いて思い返してみれば、エリシュカのその笑顔はヴァレリーにも覚えがあったはずだった。

 卑怯きわまりないやり方でエリシュカを手に入れる以前――厩番頭のアランとして彼女に接していたころ――には、彼女があんなふうに微笑みかけてくれることは決して珍しくなかった。

 厩番として働く男たちの多くは口下手で不器用だ。物云わぬ馬の心を読む鋭い感受性を備えている一方で、言葉さえ口にすればある程度の思いを伝えあうことのできる人間に対しては、どうしてもぶっきらぼうになりがちである。

 エリシュカもまた口数の多いほうではない。故国での厳しい暮らしが彼女に寡黙を強いているのか、あるいは生まれもっての性質がそうであるのか、ともかくもエリシュカは女にしては珍しいほど言葉数が少なかった。

 王太子妃として嫁してきたシュテファーニア付きの侍女であるエリシュカが、連れてきた馬たちの世話をするためにと厩舎に姿を見せはじめたばかりのころ、厩番たちは彼女を素直に受け入れることができなかった。

 今度来た新しいお妃さんは馬の世話さえオレたちのやり方ではお厭らしい。まったくもって高貴な方のお考えになることはわからねえな。馬の世話に関しては一家言を持つ男たちは、シュテファーニアが国から連れてきた厩番――つまり、エリシュカ――に対し、当初相当に冷たく当たった。

 悋気は男のものである、とは昔の歌にもあった名言である。嫉妬といえば女の振る舞いだと思われがちだが、男たちとて嫉妬はするし、それゆえの厭がらせだってする。

 厩番たちとて例外ではなかった。飼料の袋を積んだ荷車をわざと遠い場所に停めておいたり、道具の置き場所を教えなかったり、井戸から汲んできたばかりの綺麗な水の入った桶に襤褸を落とし込んでみたり――。

 器の小さな厭がらせをされるたびに悲しげな顔を見せていたエリシュカだが、なにかを云い返したり、ましてや仕返しをしたりといったことはしなかった。ただ黙って馬の世話をし続けたのである。

 毎日続く小さな厭がらせにもめげることなく厩舎に通い続ける可憐な少女を前に、男たちはだんだんと自分たちの心の狭さに嫌気がさしはじめていた。なんだかオレたち、あまりにもみみっちいんじゃねえのか。

 そしてちょうど同じころ、厩舎でちょっとした事件が起きた。

 産気づいた母馬の介助に当たっていた男が犯したささやかな処置の過ちを、エリシュカが指摘したのである。その母馬はヴァレリーが可愛がっているうちの一頭で、顔だちの美しい葦毛だった。格別な俊足でも怪力でもなかったが、優美な走りがヴァレリーの気に入っていて、腹に子を宿したことがわかったときにはひどく喜んだ。

 出産の介助に当たっていた男は、まだ経験の浅い厩医だった。独り立ちしてまもなく、それだけに、この大きな仕事をひとりでやり遂げなくてはならない、という妙な意地に凝り固まってもいた。

 初産の馬に、経験の浅い厩医に、妙にぎくしゃくとした厩舎。すべてが出産にとってよくない方向に働いてしまったといえば、それはそのとおりなのかもしれなかった。

 妊娠中の母馬は神経質になりやすいが、この葦毛もまたそうした一頭だった。食が細くなったせいで体力が落ち、いざ産気づいてから産道が開き仔馬の姿が見えるまでに相当な時間がかかってしまった。

 出産がはじまってから厩舎のなかは落ち着かない雰囲気で、いつもならば自分の仕事が終わればさっさと姿を消すエリシュカも、この日ばかりは厩舎に残っていた。逆子だ、と誰かが叫んだ。男たちが母馬の傍に駆け寄り、顔色を変えた。エリシュカもまた、運んでいた藁の塊を床に投げ捨てて母馬の傍へと駆けつけた。

 産みの苦しみにもがく母馬の尻から仔馬の脚が覗いている。見れば母親の胎はだいぶ小さくなっているように見えた。破水してから時間が経ち、羊水が失われているのだ。このままでは母も子も危ない、と男たちが顔色を変える。

 どうする、とひとりが厩医に向かって叫んだ。このまま引きずりだすのか、一度母体へと押し込んでから胎内で仔馬の身体を返すのか。厩医は焦った。このままではこの葦毛は助からない。王太子の愛馬を死なせた自分の末路を一瞬で想像し、そのせいでひどく動揺した彼は、致命的な判断ミスを犯す。仔馬を一度母体へ押し込み、その身体を返して出産させる、と云ったのである。

 それは逆子の出産において、通常よく取られる手法だった。わかった、と厩医の言葉を受けた男が叫び、仔馬の身体に触れようとしたそのとき、エリシュカが叫んだ。そんなことしたら二頭とも死んでしまう。そのまま引きずりだして。

 莫迦野郎、そんなことできるか、前脚がひっかかって窒息死するぞ。顔面蒼白の厩医に襟首を掴み上げられたことにも構わず、エリシュカはなおも云い募った。産道に手を突っ込んで引きずりだすの。裂けたら縫えばいい。早くしないと仔馬が持たない。

 勝手なことを云うな、と厩医は叫んだ。余所者女のくせに余計な口出しをするんじゃない。

 エリシュカは日ごろの無口が嘘のように強い口調で云い返した。そんなこと、馬になんの関係があるの。命がかかっているときにくだらないこと云わないで。

 言葉を失った厩医が必要な指示を出せないでいるのを見て、老練の厩番が声を上げた。その娘が正しい。早く彼女の云うとおりにするんだ。でないと、死ぬぞ。アランさまの葦毛も仔馬もな。

 かくして葦毛は無事に出産した。産道がわずかに裂けた箇所はエリシュカが手早く縫ってことなきを得た。出産の介助から母馬の処置に至るまで、素早く的確な指示を出し続けたエリシュカは、その必要がなくなると同時にまた寡黙な侍女へと逆戻りした。

 しかし男たちはそのときのことを忘れなかった。

 翌朝から彼らの態度は一変した。エリシュカが、馬に対する深い愛情とそれに見合う深い見識を持ち合わせていることを認め、仲間として受け入れたのである。掌を返したような親しさを見せる男たちに、はじめのうちこそ戸惑ったエリシュカだったが、彼女とて冷たくされるよりは温かく迎え入れられるほうがよいに決まっている。

 やがてエリシュカはすっかり厩舎に溶け込み、その知識や技術をあてにされるようにもなった。エリシュカは力を惜しまず仕事に励み、彼らの期待に応え続けたのである。

 ヴァレリーはそんな彼女をずっと傍で見守ってきた。出会ったばかりのころの寂しげな無表情がゆっくりと綻び、まるで花が咲くような微笑みを浮かべるようになるまでを見守りながら、しだいしだいに強く惹かれていくようになったのだ。


 あの笑みはおれのものだ、とヴァレリーは手にしていたグラスを強く握りしめた。

 エリシュカを強引に手に入れたあの夜からこちら、彼女はあの笑みをおれに向けてはくれなくなった。どれほど強く抱き寄せても、深くくちづけても、激しく抱いても、ただひたすらに茫洋とした哀しみを湛えた瞳で見上げてくるばかり――。

 心を慰めるために庭師に命じて調えさせた庭へ連れ出しても、かすかな声で礼を述べるばかりで、決して微笑んではくれなかった。豪奢な衣裳を贈っても、珍しい宝石を贈っても、大輪の花を贈っても、それは変わらなかった。

 この夜会で少しは気晴らしになるかとも思ったのに、先ほどまでのエリシュカは強張った顔を一度も崩さず、ともすれば俯いてばかりだったのだ。

 それが――。

 それがなんだ、あれは。ジェルマンに向けるあの笑みはなんだ。

 楽師たちが奏でる典雅な音楽を遮る高い音――グラスを握り潰すときの耳に障る厭な音――が、ヴァレリーの掌のなかで鳴り響いた。

「殿下っ!」

 オリヴィエの引き止める声をものともせず、ヴァレリーは足音高く部屋の中央で踊るふたりに歩み寄った。

 エヴラールの肩を掴んでエリシュカから引き剥がすと、なんの前触れもなく殴り飛ばす。なにが起きたのかさえもわからないままに床に転がるエヴラールを振り返りもせず、ヴァレリーはエリシュカの二の腕をきつく掴んだ。

 痛みに小さく叫んだ上げたエリシュカは、自分の腕を掴むヴァレリーの掌が血に塗れていることに気づき、もう一度悲鳴を上げた。

「殿下、お手が……」

 凄まじい怒りの形相でエリシュカを睨み下ろしたヴァレリーは、そのままエリシュカを引きずるようにして歩き出した。わずかな物音もしなくなった広間に、高らかな足音とそれに従わされる軽い足音が響く。

 その場にいた誰もが立ち竦み、口を閉ざし、目を見開いて事態のなりゆきを見守るなか、怒れる王太子とその寵姫はそのまま華やかな広間をあとにした。

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