23
美しく磨かれた広間の床に無様に転がったエヴラールを助け起こしたのは、血の気が失せ青褪めた顔をしたオリヴィエとモルガーヌのふたりだった。オリヴィエはエヴラールの手を取り腰に手を添えて立ち上がらせ、静まり返った広間の床を蹴って駆けつけたモルガーヌはその場に恭しく膝をつき、エヴラールの衣裳の裾を叩いてついてもいない埃を払う。
「いいんだよ」
曲がってしまった襟を正そうとするモルガーヌの手をやんわりと押し退け、殴り飛ばされた頬をさすりながらエヴラールは云った。周囲の者たちは、まいったなあ、とでも云いたげな彼の表情に、一片の偽りもみつけ出すことはできなかった。
「私が悪かったんだ」
従兄どのの恋人に気安く触れたりするべきじゃなかった、そうだろう、とエヴラールは云って、頭を下げたままのオリヴィエの肩に触れて、彼の顔を上げさせようと試みた。
「ジェルマンッ!」
騒ぎに気づいた王弟ギヨームが駆け寄ってきたのは、オリヴィエとモルガーヌが深く腰を折りエヴラールに陳謝を続けている、まさにその最中だった。
「……父上」
「おまえ、いったいなにを……!」
「見てのとおり、ちょっと転んだだけですよ。慣れない夜会になど出てくるものではありませんね」
アランのやつが、とギヨームは王太子を呼び捨てにして声を荒らげた。
「おまえを殴ったではないか!」
「まさか」
エヴラールは肩を竦めて、首を振った。
「アランの恋人の手を離す
だからおまえたちも、とエヴラールはオリヴィエとモルガーヌを穏やかな顔で見つめた。
「そんなふうに頭を下げる必要なんかないんだよ。これは私の不注意による事故なんだから」
「エヴラール殿下」
「おまえたちがそんな顔をしているとみなが誤解するだろう。エヴラール・ジェルマンは夜会ひとつまともに楽しめぬぼんくらだと」
不用意な謝罪などして王太子の顔に泥を塗るつもりか、とエヴラールは云っているのだ。そのことに気づいたオリヴィエはすぐに姿勢を正し、いえ、そのようなことは、と薄く笑ってみせた。
モルガーヌは腰を折ったままでいる。騎士であるオリヴィエと侍女であるモルガーヌはそもそもの立場が違う。モルガーヌの恭順の姿勢は、その場にいる数少ない侍女としてのものであって謝罪ではない。むしろ彼女がここで顔を上げてしまうと、いままでの彼女の態度が謝意を込めてのものであると言外に知らしめてしまうことになり、かえって不都合なのである。
「……ジェルマン」
「父上もそのように大袈裟に。誰かに怪我をさせたわけではなし、王弟ともあろう方がそんなふうに軽々しく動きまわってはなりません」
ほら、あちらでお待ちかねのご友人がいらっしゃるようですよ、とエヴラールは云った。ギヨームは憤懣やるかたないといった表情で息子を睨む。
「まったくおまえときたら……!」
「父上」
エヴラールは穏やかに微笑んだまま、声音だけを冷たいものに変えてみせた。息子の些細な変化に気づいたギヨームがどこか慌てた風情で口を噤む。
頭を下げたままでいたモルガーヌは、おや、と思った。小煩いギヨーム殿下をひと声で黙らせるとは、どうやらこの唐変木殿下には知られざる一面があるらしい。
むろんオリヴィエも同じことを考えた。もっとも彼の思考はより攻撃的だ。土くればかりに興味があるような顔をしているが、エヴラールという男はじつは油断のならない相手なのかもしれない、と認識をあらためたのである。
公衆の面前で息子に軽率を窘められたギヨームは、どこか寂しげな背中を見せて、その場を去って行った。
「すまなかったね、父が」
いえ、とオリヴィエは首を振った。やわらかそうな褐色の癖毛が落ちかかって影を作るエヴラールの水色の双眸には、穏やかな光だけがある。それにしても、と彼は視線を父親の背中に据えたままなんでもないことのように呟いた。
「アランはよほどあのお嬢さまに夢中なんだね」
どう答えるべきか、とオリヴィエはほんの一瞬躊躇いを見せた。王太子の忠実なる側近の心に芽生えた警戒を過たず感じ取ったエヴラールは、つい苦笑した。
「アランは未来の国王だ。彼が愛する女性は将来の王妃になる可能性もある。どんなお嬢さまだろう、と気になってしまうのは臣下としては当然のことだと思うけどね」
「臣下……?」
そうだよ、とエヴラールは頷いた。
「彼が王位を継げば私は彼の臣となる。王族といえども、王以外は王に非ず」
「王以外は、王に非ず」
「そう。私はね、オリヴィエ。アランになら膝を屈してもかまわないんだ。おまえが、いや、おまえたちがどう思っていようとも、それが私の本心だよ」
王弟ギヨームが兄である国王に対し邪心を抱いているのは、王城内の誰もが知るところである。幼いころから心より慕ってきた兄のやり方を受け入れることができず、それならば、と王位の転覆を図っている――。
誰もが知る噂は、だが、どこまでが真実なのだろう、とオリヴィエは思うことがある。
むろん、ギヨームの周囲にきな臭い話や胡散臭い人物が数多転がっていることは事実だ。自身が調べ上げたことでもある。
だが一方で、王弟はなにひとつ決定的な行動を起こしてはいない。腹に企みの刃を呑んでいるような人物を周囲に侍らせ、王のとる政策にはことごとく反意を見せるが、いまのところそれ以上の振る舞いは決してなさらない。
いまだって、とオリヴィエは思う。己の大事なひとり息子が、兄の息子であるヴァレリーに公衆の面前で殴り飛ばされたところだというのに――しかも理不尽きわまりない動機で――、大声を張り上げる以上のことはなにひとつしなかった。いったい、ギヨームはなにを考えているのだろう。そして、この唐変木を装った曲者は――。
「どうもだいぶ注目を集めてしまったらしいね」
己に注がれる好奇の眼差しに居心地の悪さを感じたのだろう、エヴラールがふと苦笑いをこぼした。
「なんだかんだでアランの恋人に挨拶をするという目的は果たしたわけだし、私はそろそろ引き上げることにするよ」
「殿下」
「騒がせてすまなかったね」
オリヴィエはふたたびエヴラールに向かって頭を下げた。いいからいいから、と鷹揚な仕草でオリヴィエをいなしたエヴラールは、その足で広間を出るべく踵を返した。
おかしな誤解を招かねばよいが、とオリヴィエの杞憂を知ってか知らずか、エヴラールはため息をついた。彼に深い政治的思惑があるわけもない。父にまつわる噂も、それを真に受けてすり寄ってくる有象無象も、エヴラールにとっては鬱陶しいばかりである。
新しい発見を求めて国のあちらこちらへと出かけることも多いエヴラールは、あくまでも王城を中心に世界を見るほかの王族――そこには国王や自身の父である王弟、それにヴァレリーまでも含まれている――とは異なる視点を持っている。
こんな狭い場所に閉じこもって、なにが世のため民のためだ、とエヴラールは思っていた。世界は広く、民は多い。王城にいては到底見聞きしきれるはずもないほどに――。
真の政をなしたいと考えるのであれば、まずは城から出るべきだ。そして己の目と耳とでこの世界を知るがいい。世界を知って恥じるがいい。自分たちが思っていることのあまりの小ささと醜さとを恥じるがいい。
そうでなければ、真に豊かな世界を築くための政などできるはずがない。
そしてそれは、いまひとつ考えの足りない伯父上にも、息子のひと睨みにすら抗わぬ気弱な父上にもできないことだ、とエヴラールは思った。だが、あるいはあの賢く勇敢な従兄にならできるかもしれない。生まれながらの王でありながら、どこか人臭く、憎めないあのヴァレリーになら。
ただ、あの苛烈だけはどうにかせねばな、とエヴラールは殴られた頬を軽くさすった。為政者とは強く、そしてその強さのうちにやさしさを持っていなければならない。
あれをやさしいとはとても云えないからな、とエヴラールは、衆人環視のなか、己の立場も省みずに拳を振り上げたヴァレリーの愚行に眉をひそめずにはいられない。政治的な拙さはさておくとしても、可憐なばかりの彼の娘にあの烈火のごとき激情が向けられているのなら、彼女はいまごろたいそう気の毒なことになっているに違いない、というため息だけは堪えたくとも堪えようがなかった。
「もう大丈夫だ」
オリヴィエにそう声をかけられて、それまでずっと頭を下げたままでいたモルガーヌは、ゆっくりと姿勢を元に戻した。誰よりも王太子に近しいはずの男の、眉間と両肩に重たい疲労を滲ませた情けない姿がそこにあった。
失礼いたします、とモルガーヌはその場を立ち去ろうと軽くお辞儀をしてみせた。
「そなたはあのお嬢さまについている侍女だろう、たしか……」
「モルガーヌ・カスタニエと申します」
「そう、カスタニエ」
モルガーヌの家名に聞き覚えのあったオリヴィエが問い返す。
「辺境の山奥にわずかばかりの領地をいただいております末席にございます。ご放念くださいませ」
名門だな、とオリヴィエは指先で眉間を軽く揉みながら頭を振った。
「しかも現当主どのは希代の名君と聞いている。領民を慈しみ、領地を富ませる辣腕だとか。あまり表舞台には出ていらっしゃらないようだが」
カスタニエ卿のご息女か、とオリヴィエは苦笑いを含んだ声で問いかけた。
「おそれおおいことでございますわ」
モルガーヌは不躾にならない程度の親愛を含ませた笑顔で問いに答えた。はっきり云えば、侍女の身分に家名は不要だ。とはいえ血縁を隠すことはできないし、父や母を切り捨てることもできない。自身の家格について問われたとき、モルガーヌは、だから余計な謙遜をいっさいしないことに決めている。
「カスタニエのお嬢さまが王城で侍女勤めとは、お父上もさぞお嘆きだろう」
「いいえ」
モルガーヌは朗らかかつ滑らかに答えた。
「私には兄が三人、姉が四人もおりますの。お恥ずかしいことに無駄に兄弟が多うございまして、跡取りの長兄を除けば、残りはみなお荷物以外のなにものでもございません。ふたりの兄たちは王都でそれぞれ武官と文官として奉職いたしましたが、姉たちに関しては、教師となりましたひとりを除いて、ほかの三人の嫁入り先を見つけるだけでも父は大変な苦労をしたのです。そのうえ私まで、さして広くもない屋敷のなかに嫁がず後家となって残っておりましては、ただただ邪険にされるばかりでございます」
オリヴィエは思わずぽかんと口を開け、モルガーヌの長広舌に聞き入ってしまった。
「こうして王城に職をいただいておりますことは、私にとりましても、家族にとりましても幸甚の極みにございます」
それは、ととうとうオリヴィエは声を上げて笑い出してしまった。
「なによりだな」
「ええ、なによりでございますわ」
なおもこみあげる笑いを噛み殺しながら、オリヴィエは、それはそうと、と口調をあらためた。
「そなたは殿下付きの侍女であったと記憶しているのだが、最近ではお嬢さまについておられるのか」
はい、とモルガーヌも生真面目な口調で応じた。
「王太子殿下より直々にご下命賜りまして、いまはお嬢さまにお仕えしております」
そうか、とオリヴィエは頷いた。
「それはいろいろと気苦労も多かろうな」
「ルクリュさまほどではございませんわ」
オリヴィエは口許を皮肉げに歪めて、まったくだ、と軽いため息をついた。
「そなたはもう勤めて長いのだろう。何年になる?」
「まだほんの七年ほどでございます。デジレさまのご紹介で王城に上がりましたのが、十八の歳でございましたから」
年齢だけで申しますと、とうに立派な嫁かず後家でございますわ、とモルガーヌは云った。
「そなたのような娘が七年も真面目に働けば、侍女のあいだではすっかり顔なのではないか」
ふたりはつかず離れずの距離を保ったままゆったりと広間のなかを移動していたが、周囲からふと人気が途絶えた折を見計らい、オリヴィエはふと思いついたようにそう云った。
「顔だなんて……」
そんな、とモルガーヌは相変わらずの朗らかな調子で応じる。
「滅相もないことでございます」
黙ったままこちらの肚のうちを探るようなオリヴィエの視線に、モルガーヌはなおもにっこりと微笑みかけた。
「それでも、領地におりましたころに比べれば親しい友人も増えましたし、無理を云ったり云われたり。家にじっとしておりますよりは、ずっと楽しく過ごさせていただいております」
たったあれだけの言葉で俺がなにを云いたいのかわかるのか、とオリヴィエは軽い驚きを隠せなかった。
「つい最近の休暇の折には、ひさしぶりに王都を歩きましたのよ。最近流行の珍しいお菓子をお嬢さまに召し上がっていただきたくて、そのお菓子のことを教えてくれた若い侍女とふたりででかけましたの。とても楽しゅうございましたわ」
アニエスといいましてね、さきほどのエヴラール殿下付きの子なんですが、なかなか気働きがよくて殿下の覚えもめでたいとか。
ほう、とオリヴィエはさして深い関心を抱いたとは思えぬ口調で頷いた。
「あら、私としたことがルクリュさまになんという無駄口を。ご無礼をお許しくださいませ」
これだからいつまでたってもデジレさまのお小言が途切れないのですわ、とモルガーヌは笑った。厭になります、本当に。
「いや、私も楽しかった。つまらぬことで引き止めたな」
また話を聞かせてくれ、とオリヴィエは云った。そなたの話はなかなかおもしろい。
「おそれいりますわ」
「殿下に苦労させられる者同士、たまには息抜きも悪くなかろう」
厭ですわ、とモルガーヌは悪戯っぽく微笑んだ。
「近衛騎士団のルクリュさまとお近づきになれたのだと、アニエスに自慢してやらなくてはなりませんわ」
そうか、とオリヴィエも笑った。
「そなたたちが買い求めたという珍しい菓子を、うちの妻にもぜひ食べさせてやりたい。もし今後も機会があったら届けてくれないか」
ええ、もちろんです、とモルガーヌは頷いた。
「ルクリュさまは有名な愛妻家でいらっしゃいますものね。きっとお届けいたしますわ。奥さまのお気に召すとよろしいのですが」
「妻は甘いものには目がないんだ」
それにじつは私もだ、とオリヴィエは云った。
「男にあるまじき味覚だと妻には窘められているのだけどね」
ともに忠実に王太子に仕えるふたりは、篤い忠義に通ずるある思いをともに腹に呑み、意味深長に笑み交わしたのち、それぞれ右と左に分かれてそれぞれの場所に戻っていった。
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