24

「モルガーヌさま! モルガーヌさまッ!」

 私室の扉が激しく叩かれる。寝ぼけたままのモルガーヌは、寝台に横たわったまま煩い小蝿でも払うかのように寝返りを打ち、返事もせずに頭の上まで上掛けを引きずり上げた。昨夜は夜会だったのだ。今日の勤めは昼からでいい、とデジレさまには云われている。頼むからもう少し、あと少しでいいから寝かせてほしい。

「失礼いたします!」

 侍女の私室の扉は施錠することができない。デジレやツェツィーリアのように、主の機密に触れることもある上級侍女ともなれば話は別だが、有能とはいえいまだ歳若いモルガーヌにそのような贅沢は許されていない。

 日ごろはほとんど不便に感じたこともないその規律が、いまこのときばかりはひどく理不尽なものに思えてならないモルガーヌである。彼女はのろのろと寝台の上に身を起こし、寝不足に腫れた目蓋を擦りながら、いったいなにごと、と低い声音で尋ねた。

 モルガーヌを呼びに来たのは、下女の仕着せを纏った、まだ少女と呼んでも差し支えない年ごろの女で、よほど慌ただしく駆けてきたのか、大きく肩を上下させて激しい呼吸を繰り返している。

「デジレさまが、お呼びで、いらっしゃいますっ!」

「デジレさまが?」

 はい、と下女は頷いた。

「王太子殿下のご寝所へ、大至急いらっしゃるように、と」

「殿下の?」

 モルガーヌはややよろけながらもなんとか寝台を降り、身体を目覚めさせるために上半身を捻ったり腕を高く上げたりした。モルガーヌにとって厳しい上役であるデジレは、しかし理不尽な要求をすることはあまり多くない。午前中は休んでよいと云ったその口で、いますぐに駆けつけよ、と云うのであれば、なにかそれなりの事情があってのことなのだろう。

 モルガーヌは惰眠を貪ることを諦め、クロゼットの取っ手に手をかけた。仕着せに着替え、化粧をして髪を纏めなくてはならないからだ。

「おそれながら、モルガーヌさま」

 ようやくのことで呼吸を整えたらしい下女が一歩自分に詰め寄ってくるのを、モルガーヌはやや上体を引いて怯えたように見つめた。

「大至急、とのことでございますれば……」

「着替えるくらいいいでしょう。それともおまえは、この私に寝間着のまま人前に出ろとでも云うの?」

 下女はこくりと喉を鳴らした。下女はモルガーヌとともに働いたことはない。だが、まだ歳若いこの王太子付侍女の有能さが、ときに苛烈となって他者を責め立てることがあるということは知っていた。無意味に詰られるのはごめんだ、とばかりに、おそれながら、と彼女はもう一度云った。

「エリシュカさまがお倒れになり、侍医さまが呼ばれましたが、まだ意識がお戻りになりません」

 下女の言葉を聞いたモルガーヌの表情が一変した。眉間に深い皺が寄せられ、ただでさえ吊り上がり気味の黒い瞳にきつい険が乗せられる。エリシュカさまがお倒れになっただと?

「いったいどういうこと?」

「朝方、いつもの時刻になりましても、王太子殿下がエリシュカさまのお部屋からお出になられなかったのでございます」

 これまでのヴァレリーは、たとえ朝方までエリシュカとの蜜事に耽溺していようとも、刻限までには部屋を出て身なりを整えるのが常であった。云い方を変えるのであれば、そうやってヴァレリーが王太子としての自覚を失っていなかったからこそ、エリシュカに対する無体が黙認されてきたのだとも云える。

「控えの侍女さまがお部屋をあらためましたところ、エリシュカさまのお部屋におふたりのお姿はなく、それどころか寝台を使われた形跡もございませんでした」

「殿下のご寝所では……?」

 はい、そのとおりでございます、と下女は頷いた。

「おふたりは王太子殿下のご寝所にておやすみでございました。侍女さまが表よりお呼びかけいたしましたところ、たいそう取り乱された王太子殿下のお声で、侍医を呼べ、とご下命があったそうでございます」

 あの獣が取り乱すとは、お嬢さまの身にいったいなにがあったのだ、とモルガーヌは己の身支度を諦めた。とりあえずは、と手早く髪を纏め、盥に汲んでおいた冷たい水で顔を洗い、仕着せよりはだいぶ着替えやすい平服ワンピースを身につけた。下女の説明はそのあいだも続けられる。

「侍女さまはすぐにデジレさまをお呼びになり、さらにデジレさまのご指示ですぐに侍医さまが呼ばれたそうでございます」

「それでお嬢さまのご容態は?」

「脈、呼吸ともに弱くなられておいでです。体温も低く、意識がありません。お呼びかけしても、おそれながらお身体を刺激しても呻き声ひとつお上げになられない状態です」

 鈍色の平服の上に丈の長いガウンを羽織りながらモルガーヌは、眉間の皺をいよいよ深くした。

「昨夜のうちにいったいなにがあったの?」

 申し訳ありません、と下女は云った。

「私は存じません。侍医さまがエリシュカさまのご容体を確認したのち、モルガーヌさまをお呼びするようにと申しつけられ、すぐにこちらへ参りましたゆえ」

 わかったわ、とモルガーヌは答えた。

「待たせたわね」

 歩き慣れた廊下を、不作法にならない程度の早足で歩きながら、モルガーヌは昨日一日のエリシュカの様子を回想する。

 いつもどおり殿下と朝までお過ごしになられ、午前中は厩のお世話、午後は早くから湯浴みをしていただき、お支度を調えられた。夜会前には軽いお食事を召し上がられ、定刻より前には広間に入られた。夜会では緊張もされたし、お疲れもあったようだが、お顔の色がとくに優れないということもなく、お足許もふらついたりはされていなかった。ご衣裳の締め付けなどにも細心の注意を払わせたつもりだし、ご本人もとくに不快は訴えておられなかった。

 つまり、とモルガーヌは思う。あのケダモノ殿下が夜会の席からお嬢さまを強引に連れ出したそのあとで、彼女が人事不省に陥るようななにかがあった、ということだ。

 いったいなにをしてくれたのだ、あの変態め、とモルガーヌは自らの主を心中で罵る。

 エヴラール相手に悋気を滾らせ、あまつさえ彼を殴り飛ばしたうえでエリシュカを連れ出したヴァレリーが、そのあとどのような行動に出たかを予想できないようなモルガーヌではない。どうせひどい無体を強いたのだろう、とは思うが、云ってみればそれはいつものことである。


 とにもかくにも駆けつけぬことには、と廊下の角を曲がったモルガーヌは、ヴァレリーの寝所の前で足を止め、同行してきた下女を振り返った。

「おまえ、名前は?」

「クロエと申します」

 では、クロエ、とモルガーヌは云った。

「おまえの仕事は?」

「清掃係でございます。本日の持ち場はここのお廊下と階段、それから……」

 けっこうよ、とモルガーヌはクロエの言葉を遮ってから、こう告げた。

「おまえはしばらくこの場で控えていなさい。人手が必要になるかもしれませんから」

 自分の云いたいことだけを云い終えたモルガーヌは、あの、と戸惑いを見せるクロエにかまわずに扉を開けるべく取っ手を掴む。そして思い出したように付け加えた。

「下女頭には私から申し伝えておきますから、安心なさい」

 慌てて深く頭を下げるクロエを一顧だにせず、おざなりなノックひとつでヴァレリーの寝所へと足を踏み入れたモルガーヌだったが、そこに彼女を咎める者はひとりとしていなかった。それもそのはず、部屋のなかは騒々しい混乱に満ちていたからだ。

 エリシュカ、エリシュカ、と幾度も悲痛な声を上げるヴァレリー。至急手当をせねばならぬ患者の身体に取りすがる王太子が邪魔で仕方がないが、そうは云えずに苛立ってうろうろする侍医とその助手である医官。険しい表情で三者を見守るデジレ。

 モルガーヌは状況を素早く見て取ると、足音も高らかに寝台近くまで歩み寄り、なんの前触れもなくいきなりヴァレリーの襟首へと手を伸ばした。

「ご無礼のほど、なにとぞお許しくださいませ」

 モルガーヌが力任せに高貴な男の身体を引きずる時機に合わせ、わずかにできた彼とエリシュカの身体との隙間に侍医が身体を滑り込ませた。助手が素早く聴診器を手渡し、ようやくのことで本格的な診察がはじめられる。

「なにをするかッ!」

 額に青筋を立てて怒鳴るヴァレリーを前に、モルガーヌは負けじと立ちはだかる。

「お静かになさいませ」

 侍医さまの診察の障りになりますわ、と続けるモルガーヌを突き飛ばしたヴァレリーが懲りもせずにエリシュカに取りすがろうとするのへ、床に突き転がされたモルガーヌがそのままの姿勢で、殿下、と冷たい声を投げかけた。

「魔女の蜜をお使いになられましたね?」

 ぎくり、とヴァレリーの全身が強張る。侍医が振り返り、厳しい眼差しで王太子を見つめた。わけがわからずなりゆきを見守るしかできないデジレと医官は、物音ひとつ立ててはならないとでも思っているかのように身を強張らせている。

 モルガーヌはゆっくりと立ち上がった。

「覚えがございますよ、この甘ったるく神経に刺さる匂い。桜桃楼でしたか……」

 王都のなかでもとくに有名な高級娼館の名を聞いた途端、これ以上険しくなりようがないと思われたデジレの顔にさらに険悪な棘が加わった。モルガーヌは続ける。

「性質の悪い薬でございますよね。女性に使うとまるで神経を剥き出しにされたかのようにどこもかしこも敏感になり、おまけにその効果が延々と続くとか。男性には機能を長持ちさせる効果があるんでしたか。常習性はなくとも、あまりに強い快楽ゆえに、たった一度の使用で魂を飛ばす者もいるとかいう西国製の劇薬でございますわね」

「殿下!」

 デジレの声は冷たく硬く尖って、自らの手で恋人を危機に陥らせてしまったせいで惑乱したままのヴァレリーにとどめを刺した。

「お嬢さまに、そのようなものを……?」

 ヴァレリーがきつく奥歯を噛みしめる厭な音が部屋に響いた。それほどまでにその場は静まり返っていたのだ。

「……殿下」

 デジレによる再三の問いかけに、ヴァレリーがかすかに頷いた。なんということを、と叫ぶデジレにかまわず、モルガーヌは侍医に駆け寄った。媚薬に含まれる薬剤を正確に挙げ、中和剤はないかと問う。

「使われたお時間は?」

「昨夜の夜会が終わってすぐでしょうから、一晩はゆうに」

 侍医は聴診器をひっこめ、顔を青褪めさせたまま眠り続けるエリシュカの胸元を直すと、傍らの医官に薬師に中和剤の処方について指示を出し、すぐに調剤させるようにと命じた。医官は急ぎ足で寝所を出て行く。

「いかほどの量を使われたのでございますかな」

 侍医の問いかけはしごく冷静だった。

「た、たいした量ではない……」

「いかほどかとお尋ねしております、殿下」

 侍医の揺らがぬ眼差しに、うしろめたいばかりのヴァレリーはふたたび俯き、低い声で答えた。口移しにひと口ほどと、あとは掌にとったほどだ。

 なるほど、と侍医は頷き、たいした量ではございませんなあ、と呟いた。

「そうだろう、むしろ少なすぎるくらいだ」

 侍医の言葉を援軍と心得て勢い込んでそう云ったヴァレリーに、デジレの厳しい眼差しとモルガーヌの苛烈な言葉が襲いかかった。

「王太子殿下はお嬢さまのことを、本当に、なにひとつとして、ご存知なくていらっしゃるのですね」

「なに?」

 侍女のものとは思えないあまりの言葉に、思わず目を剥いたヴァレリーの前で、モルガーヌはさらに、まるでせせら笑うように鼻を鳴らした。

「そんなふうでいらっしゃるから、いつまでたってもお嬢さまのお心が殿下に傾かないのですよ」

「モルガーヌっ!」

 やめなさい、と低声で制したのはデジレである。愛しくてたまらない女との閨に異国で作られた妖しげな媚薬を使うような非道な男でも、相手はこの国の王太子である。言葉ひとつで不興を買えば、あっさりと首を刎ねられることもある。いくらモルガーヌがそれなりに長く勤める有能な侍女であっても、主を貶めたとあっては無事ではすまない。

「なんだと……?」

 案の定ヴァレリーは、先ほどまでは青褪めさせていた顔を真っ赤に染めてぶるぶると震えている。

 殿下、とデジレは慌ててヴァレリーとモルガーヌのあいだに割って入った。

「少々言葉は過ぎましたが、モルガーヌはお嬢さまのことを……」

 心配するあまり取り乱しているのでございます、とデジレは最後まで云うことができなかった。デジレの身体をぐいとばかりに押し退けたモルガーヌが、ヴァレリーの胸元に人差し指を突きつけてこう叫んだからだ。

「首を刎ねたきゃ刎ねるがいいわ! この大莫迦殿下!」

 王太子付筆頭侍女として、いかなるときも冷静さを失わないよう、自らを律することにかけては相当な自負を誇るデジレだが、このときばかりは声を限りに叫び出したい気分だった。――やめなさい、モルガーヌ、やめなさいと云っているのが聞こえないのッ。

「いったい殿下はお嬢さまのなにをご覧になってきたんです? 愛らしいお顔と殿下好みのお身体があればそれで十分だというのなら、なにもお嬢さまでなくともよいではありせんか。銀色の髪と紫色の瞳がお好みでいらっしゃるのなら、この私が国中を、いえ大陸中を駆けまわってでも、殿下にふさわしいお相手を探してまいります」

「ふさわしい……?」

「健康で丈夫で、ついでに淫乱な」

 モルガーヌ、と声を揃えて叫んだのは、怒りに震えるヴァレリーと恐怖に震えるデジレである。

「言葉が過ぎる!」

 頭上から放たれる凍てつく声音をものともせず、モルガーヌはまっすぐに顔を上げてヴァレリーを睨み据えた。

「お嬢さまは神ツ国の賤民の出でいらっしゃる。それがどういうことか、殿下はお考えになったことはございますか」

「おまえなぞに云われるまでもない!」

「彼の国の賤民は、ときに家畜よりもひどい扱いを受けているとか。怪我をしても手当さえしてはもらえず、病を得ても放っておかれる。場合によってはその場で放り出されたり、殺されたりすることもあるそうでございます。医術や薬剤は賤民に使うようなものではないと考えられているのでしょう」

 ヴァレリーの顔がまたもや青褪めた。

「お嬢さまは妃殿下のお住まいでいらした教主の宮にお仕えになっていらしたと聞いております。怪我や病ですぐに命を取られるようなことはなかったのでしょうが、それでも当時のお立場は察してあまりあるものがございます」

 わが国よりも貧しい彼の国では薬剤は非常な貴重品です、とモルガーヌは続けた。

「お嬢さまはおそらく、これまでに薬というものをお召しになったことがないはずです。ですから、わが国のどんな民よりも薬剤に対して耐性がない。慣れていないのです。飲んだことがないのですからあたりまえです。そんな方に対し、殿下は慣れた者でさえ敬遠するようなきつい媚薬をお使いになった。量が少なかろうが、悋気ゆえの浅慮であろうが、そんなことは関係ありません」

 モルガーヌの言葉を肯定するように侍医が小さく頷いている。殿下、とモルガーヌはずいとばかりに一歩を踏み出した。

「殿下は御自らの手によって、お嬢さまのお命を奪おうとなさったのでございますよ」

「そんなつもりは……」

「私ごときにさえ思いつくような簡単なことを、なぜお考えになられなかったのですか。嫉妬に任せて無体なことをなさる前に、なぜお嬢さまのお気持ちをお考えになられないのですか。この広い王城のなかで、お嬢さまが頼りにされるのは殿下ただひとりなのでございますよ。殿下がそのように仕向けられたのです。妃殿下に仕え、それなりに穏やかな日々をお過ごしでいらしたお嬢さまを、無理矢理に手元にお囲いになったのは殿下です。あらゆることに気を配り、あらゆるものから守って差し上げなくては、お嬢さまがお気の毒すぎる……」

 いつのまにか近くまで歩み寄ってきていたデジレに、モルガーヌ、とやさしく名を呼ばれたモルガーヌは両手で顔を覆って俯いた。デジレがそっと若い部下の肩を抱く。

「この者の無礼をどうかお許しくださいませ、殿下。彼女は殿下の次にお嬢さまのお幸せを願う忠義者なのです。罰ならば私が……」

「……罰などと」

 ヴァレリーは呻くようにそう云った。彼は自身を深く恥じていた。

 エリシュカが故郷でどのような暮らしをしていたのか、じつのところヴァレリーはおぼろげにしか想像したことがなかった。朝から晩まで、生まれてから死ぬまで働くだけ働いて使い捨てられる哀れな暮らしをしているのだろう、とそれは想像ですらない、ただの思い込みだったのかもしれない。

 主の都合によってその身を売り買いされることの屈辱や、尊厳を粗末に扱われることへの憤り、自身の居場所さえ自ら定めることのできぬ悲しみや、思ったことを言葉にすることのできぬ苛立ち。教育もろくに受けられず、医療からも遠ざけられるほどに、その命は蔑ろにされている。

 なんとひどいことだろう、とヴァレリーはエリシュカのために憤りはした。これからは決してそんな目には遭わせぬ、と心に誓い、慈しんできたつもりだった。

 だがおれは、とヴァレリーは拳をきつく握りしめた。エリシュカに、彼の国で彼女がどんな暮らしをしていたのか、一度として尋ねたことはなかった。悲惨な話をさせたくなかった。悲痛な思いを蘇らせたくなかった。

 それが彼女を想うゆえの遠慮であったとしても、裏を返してみればそれは、己自身が彼女の苦しみを見つめようとしなかった、ということでもある。

 どんな苦境にあろうとも、人は笑顔ややさしさを忘れることのない存在だ。厳しい暮らしのなかには、たとえごくわずかであろうとも喜びがあり、慈しみがあり、楽しみがあったはずだ。その証にエリシュカは故郷に帰りたいと云った。家族に会いたいと云った。たとえそれが、戻らなければ家族が無事ではいられない、という思い込みゆえの短慮であったとしても、ただ苦しみばかりが待つ場所に戻りたいとは思わないであろう。

 エリシュカのささやかな幸せは、おれが目を逸らし続けた厳しい場所にこそあったというのに――。

 ヴァレリーは深いため息をついた。

 おれといれば幸せなのだ、とさんざんに云い聞かせた。おれから離れるな、傍にいろと腕のなかに閉じ込めた。なにかを云いたそうにしていることには気づいていたくせに、わずかばかりも拒まれることが怖くて、やわらかな唇を塞いでばかりいた。

 見つめなくてはならなかった事実からそうやって目を逸らし続けた挙句に、取り返しのつかぬ過ちを犯したおれは真の阿呆だ、とヴァレリーは思った。

 寝台に横たわるエリシュカに近づく。穏やかな顔をしているが、呼吸は浅く、その数は少ない。ヴァレリーは侍医と相対するように反対側へまわり込み、床に膝をついてエリシュカの手を握った。ひんやりと冷たく、力のこもらぬ小さな手。

「エリシュカ……」

 名を呼んで額にそっと触れれば、しっとりと冷たい感触がした。

「すまなかった」

 意識を取り戻していないエリシュカに聴こえるはずもないのに、ヴァレリーは幾度も幾度もそう囁きかけた。己の掌で握りこんだほっそりとした指先にくちづけを落とし、焦がれんばかりの眼差しで見つめ続ける。

「許してくれ、エリシュカ」

 自らの手で害した女に許しを乞う愚かな王太子の姿に、デジレは深いため息をついた。身体ばかり大きくなった不器用なこどものようだこと。

 自らの欲望のままに女性と接することしか知らなかったヴァレリーは、愛しい相手を慈しむ方法をよく知らない。金のかかった贈物で気を引こうとするのは、そういうものでしか女を喜ばせたことがないからだ。身体ばかりを強引に求め、繋がることで想いを伝えようとするのは、女の心がどこにあるかわからないからだ。

 デジレが見る限り、エリシュカはヴァレリーを慕っているように思える。言葉数の多い娘ではないし、表情もあまり豊かではないが、丁寧に紡がれる言葉やヴァレリーを追う眼差しにはやわらかな思慕が滲み出ている。

 そう不安がることはありませんよ、とデジレは彼女にとっての小さな王子さまに胸の裡で語りかけた。あなたはちゃんと愛されていますから。

「先ほどお伺いしました薬剤ですがな」

 やや唐突とも思える時機タイミングで、不意に侍医が言葉を発した。

「ほとんどが植物性の精油やら果実水やらで、それだけで人の身に害を及ぼす中毒性の強いものは含まれておりません。幻覚剤に似た成分がないこともありませんが、毒性はごく弱いものです。どちらかといえば強壮剤に似た働きをするような薬剤ばかりですなあ」

 のんびりとして聞こえる侍医の言葉は、張りつめていた部屋の空気をわずかに緩める。

「お嬢さまのお身体がいかに薬剤に慣れていないとはいえ、わずかな使用ですぐにどうこうなるということは考えにくい。含まれる薬剤のなかに、お嬢さまに合わぬ成分が紛れ込んでいたのでしょう」

「中和剤が効くのですか」

 俯いたままのモルガーヌや、反省に忙しいヴァレリーに代わって、そう尋ねたのはデジレである。

「薬剤の毒性を中和することはもちろんできる。ですが、薬剤が引き起こした症状については、より診察を進めたうえでないとなんとも申し上げられない」

「エリシュカはこのままなのか……?」

「そうならぬように相努めます」

 年嵩の侍医は、ヴァレリーに向かって媚びるような、慰めるような、曖昧な笑みを浮かべたのちに、中和剤を手に駆け戻ってきた医官を近くへ呼び寄せた。

「殿下」

「なんだ」

 青褪めた顔色は、まるでヴァレリー自身が病を得たかのようだ。

「おそれいりますが、施療の差支えになりますので、しばしお外しいただけませんかな」

 施療のためのあれこれに立ち会うには、いまのヴァレリーにはゆとりがない。またぞろ癇癪でも起こされてはかなわない、と侍医は思ったのだろう。ヴァレリーの身体を診てもいる彼は、遠慮のない言葉でヴァレリーをエリシュカから引き離そうとした。

「そんな顔をなされなくとも大丈夫でございますよ。さあ、デジレさま、殿下をお部屋の外へ」

「邪魔はしない、せめてそばに……」

 殿下、とデジレが厳しい声を上げた。悪戯を仕掛けては叱られていた幼いころを思い出しでもしたのか、ヴァレリーは咄嗟に首を竦める。

「殿下には殿下のお務めがございましょう。朝議をすっぽかすおつもりですか。そろそろ議場に向かわねば、ご遅刻でございますよ」

 言葉に詰まったヴァレリーはエリシュカの顔を見下ろし、デジレを見上げ、もう一度エリシュカに眼差しを注いだあと、想いを振り切るように立ち上がってエリシュカの手をそっと放した。

「時間ができたら寄る。エリシュカを頼んだ」

「御意にございます」

 そんなときばかり侍医が礼儀正しく頭を下げ、デジレもそれに倣う。モルガーヌだけが俯いたまま身体を強張らせ、身じろぎひとつしようとしなかった。

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