25
姫さまが寝台から起き上がっていらっしゃらない、と報告を受けたツェツィーリアは暗鬱とした面持ちでシュテファーニアの寝所を訪れた。
扉を叩くまではよかったものの、誰も入ってこないで、と叫ばれ、思わず傍らに控えていた侍女を振り返る。
「お目覚めからずっとこの調子でいらっしゃいまして……」
無理に扉を開けましたところ、水差しを投げつけられましたわ、とそれなりに勤めの長いその侍女は憤然とした表情でそう云った。
そう、とツェツィーリアは頷いた。
昨夜の今朝である。姫さまの癇癪も多少は無理からぬところではあるが、そうそうのんびりしてもいられない。正妃を招いておきながら、寵姫にばかりかまけていた昨夜の夜会における王太子の振る舞いに正式な抗議をし、早々の離縁を申し入れねばならないのだ。
シュテファーニアとヴァレリーの縁組が政治ゆえに定められたものである以上、ふたりの関係の解消には高度に政治的な判断が必要である。シュテファーニアには自身の感情よりも、時勢を見きわめる冷静さを優先してもらわねばならない。
とはいえ、昨夜の王太子殿下の仕打ちは姫さまの誇りをさぞや深く傷つけたことだろう、とツェツィーリアは思う。
シュテファーニアが東国に嫁いで以来、ヴァレリーは常に誠実な夫として妻に接してきた。婚儀の直前になって白い婚姻を押しつけるような不躾を働こうと、それが儀礼に必要であっても握手のひとつも許さぬ頑なさを貫こうと、ヴァレリーはシュテファーニアに対し、穏やかで紳士的な態度を崩したことはなかった。
失礼きわまりない言葉で幾度断られても夜会へは必ず同伴を申し入れたし、早々機会のあることではなかったがシュテファーニアが夜会へ姿を見せれば、どれほど酷い言葉を――あなたと踊る気はないの、誤解があると厭なので近寄らないでくださるかしら――返されることになろうとも、一曲お相手願えますかと微笑みかけることも忘れなかった。誕生日には花を贈り、折々には菓子や茶の差し入れも欠かさなかった。
そうしたすべてが心からのものではなくただの儀礼であったとしても、また本人ではなく侍女の采配によるものだとしても、ヴァレリーが非の打ちどころのない夫として振る舞おうと努めていたことは事実である。
それに対するシュテファーニアは無礼で不躾な妻だった。
王城内におけるシュテファーニアの評判は、もちろんのこと芳しいものではない。国庫を潰すほどの浪費をするわけではないが、務めを果たさぬ妻でありながら、シュテファーニアは、豪奢な衣裳や貴重な宝石を当然のように求め、華美な調度や高価な花々で部屋を飾り、珍しい菓子や茶で暮らしを彩った。数多の王族や貴族、城内で働く者たちからの厳しい風当たりを和らげていたのは、これもまたヴァレリーである。
まあ、よいではないか、とヴァレリーは云っていたそうだ。慣れぬ土地に呼びつけ、慣れぬ暮らしを強いているのだ。多少の我儘は大目に見てやらねばならぬ。このおれでさえ手をつけることを許されぬ、大事な預かりものなのだからな。
最後のひと言は精々の厭味であったのだろうが、それはともかくとして、シュテファーニアがこの異国の王城において己の心の赴くままに振る舞うことができたのは、ヴァレリーの気遣いによるところが大きいのだ。
どれほどつれなくそっけなく接しても、決して自分への気遣いを怠ることのなかった夫に、シュテファーニアが満足していなかったはずはない。同伴を断ってひとり出向いた夜会であっても、ひとたび広間に入れば夫がそれなりの気遣いを見せてくれる。その気遣いを踏み躙ることに快感を覚えていなかったと云えば、それは嘘であろう。
これまではそれでよかった。自分に尽くそうとする夫をそっけなく退けて彼を貶めることに満足していれば、それでよかった。
だが、昨夜は違った。
夜会への招待は同伴の申し出ではなく、出席を求める堅苦しい書状でなされた。いざその夜となっても、いつもは訪れる案内のための侍従も姿を見せなかった。広間へ足を運んでも、ヴァレリーはシュテファーニアに眼差しを寄越すことさえしなかった。
シュテファーニアは徹底的にその存在を無視され、矜持を踏み躙られ、正妃としてあるまじき辱めを受けたのである。
傍仕えとして夜会への同席を許されていたツェツィーリアは、シュテファーニアが癇癪を起こし、いつ憤然として会場を出て行くと云い出してもいいように、片時たりとも主のそばを離れなかった。
姫さまはよく耐えられた、とツェツィーリアは思う。とはいえ結局は、シュテファーニアの堪忍袋の緒が切れるよりも先に、居並ぶ王侯貴族の面前で従弟を殴りつけたヴァレリーがエリシュカを連れて広間を出て行ってしまったのだが。
遠目にしか様子を窺うことのできなかったシュテファーニアとツェツィーリアには、あの場でいったいなにが起きていたのか、詳しいことを知る術はない。シュテファーニアはただ、夫であるヴァレリーが自分ではない女のために無様な振る舞いをしたせいで、彼が受けるべき嘲笑をその身代わりとなって一身に浴びただけである。
ヴァレリーが広間を出てすぐに、シュテファーニアもその場を去った。とてもではないが身の置き所などなかったからである。部屋へ戻る道すがらも、湯浴みをしながらも、寝台にもぐりこんだそのあとも、シュテファーニアは真っ青な顔を強張らせてひと言も口をきかなかった。
よほど堪えたのだろうな、とツェツィーリアは思う。自分の身を守るためにと差し出した女が、夫の並々ならぬ寵を授けられる身となり、それはそれは大事にされている姿を目の当たりにしたのだ。己の手で己を貶めた現実にあらためて直面させられた姫さまが荒れずにいられようか。
「姫さま。私でございます。ツェツィーリアでございます。お部屋へ入れていただいてもよろしゅうございますか」
しばらくの無言ののちに、やがて、いいわ、とか細い声で返事があった。
「ただし、ツェツィーリアだけよ」
「ありがとうございます」
あからさまにほっとした顔つきになる侍女に向かって、ここで待機なさい、とツェツィーリアは低声で命じた。
「私が声をかけるまで、決して誰も通してはなりません。姫さまはご気分が優れぬのだと云い張るのですよ」
わかりました、と侍女は頷き、それを見届けたツェツィーリアは、自らの手で扉を開けて部屋のなかへと足を踏み入れた。
寝台にいるとばかり思っていたシュテファーニアは、ツェツィーリアの予想に反し長椅子の上に身を横たえていた。ただし夜着は乱れ、目蓋は泣き腫らされている。
姫さま、とツェツィーリアは痛ましげな眼差しを主に向けた。シュテファーニアはぼんやりと空を見つめたまま、なにか用、と問いかけた。
「お時間でございますれば、お手水を使われ、着替えられたうえで朝餉を召し上がられませんと」
「いらないわ」
「……姫さま」
「気分が悪いのよ。今日はここを出ないわ。着替えもいらない」
なりません、とツェツィーリアは厳しい声を上げた。
「姫さまには急ぎ書状を認めていただきます。教主猊下と神官長に宛て、離縁のご意志をはっきりと申し伝えるのです。早馬が出ましたら、今度は王妃陛下にお目通りを願い出たうえで、はっきりと離縁を申し出られるのです」
「王妃陛下に?」
なぜ、とシュテファーニアは呟いた。
「王太子に、ではないの?」
「王城の奥向きのことを取り仕切られるのは王妃陛下でいらっしゃいます。まずは王妃陛下に申し上げるのが筋かと」
王太子殿下に離縁の意志を申し出ることは得策ではない、とツェツィーリアは考えている。昨夜の様子をかんがみるに、いま姫さまが離縁を申し出れば、王太子殿下にとっては渡りに船と大歓迎であろう。
冷静さを欠いたあの男は喜んで離縁を承諾し、エリシュカを正妃に、などと云い出しかねない。それはツェツィーリアにとって非常によろしくない展開である。エリシュカのことは――姫さまの感情はまた別の問題として――どうにかして無事に故国へと連れ帰ってやりたいからだ。
王妃を通して離縁を申し出れば、厭でもことは大きくなろう。離縁の理由――王太子のあからさまな不貞――も問題とされ、わずかながらに交渉を有利に進められる可能性も出てくる。エリシュカのこととて、そう簡単には進められなくなろう。
そもそもヴァレリーとの実質的な婚姻を拒んだのはシュテファーニアであり、不実はこちら側にある。それを少しでも五分へと近づけ、最終的には平和的に離縁をなすことが、いまのツェツィーリアにとっての最優先課題なのだ。
「ことは迅速を要しております。冬はもうはじまっております。今後は、たとえ早馬の使者とて、山越えも困難になってまいりましょう。離縁を成立させるには、教主猊下のお認めが必要なのです。姫さまはこれから、猊下に宛てて正式な離縁を早急に申し出てくださるようにお願いをされるのです。猊下はすぐにお聞き入れくださるでしょうから、早馬は折り返しのその足で書状を持ってまいることでしょう」
ですが、とツェツィーリアは云った。
「昼夜を問わずに馬を乗り継いで駆けたところで、東国のほぼ最南端にあるこの王都からわが神ツ国の都までは二十日以上はかかります。往復には最短でも四十日。山の冬が本格的に深まるまではそう猶予がありません」
ツェツィーリアの真剣な口調に押されたように、シュテファーニアは身を起こした。姫さま、とツェツィーリアはシュテファーニアの傍に膝をつき、主を見上げる。
「鉄は熱いうちに打て、と申します。昨夜の王太子殿下のお振る舞いが、王妃陛下をはじめとするみなさま方のご記憶に新しいうちに行動を起こすのです。姫さまが離縁を申し出られるのも仕方のないことであると、そう思っていただかなくてはなりません」
「そんなの、見ればわかることじゃないの」
いいえ、とツェツィーリアはきっぱりと告げた。
「それは違います。婚儀の直前になって白い婚姻を申し出られ、結婚後も王太子殿下の厚意を無碍にし続けた、飾りばかりの王太子妃。それがこの王城内における姫さまへの評価です」
シュテファーニアの細く白い喉がこくりと上下した。
「務めを果たさず浪費ばかりをなさる王太子妃殿下のままでは、離縁の交渉にあたっても不利に立たされるばかりです。姫さまにとってはお辛いことでしょうが、これから先は哀れまれることをお厭いになってはなりません」
ツェツィーリアは、力の抜けたシュテファーニアの指先を痛ましげに見つめる。
「王城のなかからもあるいは外からも、姫さまへの評価は真っ二つに分かれることでしょう。夫を蔑ろにし続けた報いを受けただけ、あるいはそれにしてもあまりにも惨めではないか、と。いずれにしろ姫さまにおかれましては、不本意きわまりないものとなるはずです。ですが憐みも同情も値千金とお考えになり、ただ耐えるのです」
「国へ帰るため……」
「さようです」
シュテファーニアは目蓋を閉じ、深く息を吸い込んだ。
わたくしがいったいなにをしたというのだろうか。貴き身に生まれ、神のために必死に学び、清く生きると思い定め、その矢先に嫁がされることになった。慣れぬ異国で、心の伴わぬ夫に形ばかりの儀礼を授けられ、それを拒めば、ただひとりの味方すら得ることはできなくなった。
すべてを諦めればよかったのだろうか。学んだことも、志した道もなかったものとして、政治の道具として嫁した相手に心を尽くせばよかったのだろうか。身を捧げ、心を捧げ、それでも相手はわたくしにはなにひとつ許そうとはしないというのに。
わたくしはただ、わたくしが思うように生きたいと、そう願っただけなのに。
なにが間違っていたのだろう。己の志を、これまで積み上げてきたすべてを諦めなかったことの、なにが罪だというのだろう。
女に生まれた身であれば、志を抱くことさえも罪だと神はおっしゃるのだろうか。ただ女に生まれたというだけですべてを受け入れよというのなら、神はなぜ女に意志などお与えになるのだろう。
すべてを受け止めることは容易い。惨めな妻と囁かれようとも、高慢で愚かな王太子妃と罵られようとも、すべてを赦すことはできる。
だが、心は痛む。わたくしは決して、決してそのように生きたいと願ったことはないのに、と――。
「姫さま」
目を閉じたきり動かなくなってしまったシュテファーニアを案じて、ツェツィーリアは遠慮がちに声をかけた。
「わかりました」
シュテファーニアは目蓋を合わせたまま静かに答えた。
「お父さまに手紙を
かしこまりました、とツェツィーリアは答え、素早く立ち上がった。
ねえ、ツェツィーリア、とツェツィーリアが自分を呼び止める声を聞いたのは、外で待機しているはずの先ほどの侍女に、シュテファーニアの支度を急ぎ調えさせようと扉に手をかけた、そのときだった。
「あの子は……あんな顔をしていたのね」
囁くような主の声音に、ツェツィーリアは振り返った。
「わたくし、知らなかったの。あんな、娘だったのね……」
「エリシュカ、のことでございますか……?」
不審げな眼差しを向けるツェツィーリアに向かって、シュテファーニアは、そう、と答え、ふわりと微笑んでみせた。
「エリシュカ、という名前なのね」
はい、とツェツィーリアは主に向き直った。
「姫さまと同じ髪と目の色をした、稀有の娘にございます」
知らなかったわ、とシュテファーニアはもう一度呟いた。わたくしだけが、なにも知らなかった。
シュテファーニアにとって自らの純潔を守ることは、己の志を守ることと同義である。男を受け入れた身では巫女となることはできないからだ。たとえ嫁したとしても白い婚姻を守り、清い身のまま故郷へ帰ることは、彼女にとって使命にも等しいことだったのだ。
そのために賤民の娘を身代わりに差し出すことは、教主の娘であるシュテファーニアにしてみればごくあたりまえのことであり、この自分の役に立って命を落とすその娘は重畳であるとさえ考えていた。使い捨てにできる命としてのエリシュカは、シュテファーニアにとって便利な道具のひとつにすぎず、当然彼女の顔立ちも素性も名前さえもどうでもよかった。
自分の役に立ってくれるのならばそれでよかったはずの娘が、形ばかりとはいえ自らの夫と情を交わし、あまつさえ寵姫にとりたてられるなど、シュテファーニアにとってはまさに青天の霹靂だったのである。
己の矜持に疵をつけられたと腹を立て、どうせ失われるはずの命だったのだから、と彼女の命を奪うための薬まで用意させたけれど、実行に移す前にツェツィーリアに阻まれた。それならば徹底的にその存在を無視してやろうと思っていたけれど、昨夜の夜会では夫に愛される彼女の姿を見せつけられた。
悔しくてたまらなかった。どうでもいいと思っていたはずの夫が見せる彼女への執着が羨ましくて、けれど羨ましいと思っていることを誰にも悟られたくなくて――。
わたくしはあんなふうに愛されたことなど一度もない、とシュテファーニアは思った。わたくしはいつだって必死になって、自分の居場所を、存在意義を探し続け、求め続けなければならなかった。お父さまは努力し続けるわたくしを褒めて下さった。お母さまは強請ればちゃんと抱きしめてくださった。
けれどわたくしは、ただの一度も、誰かのいちばんになったことはなかったように思う。
お父さまには神様が、お母さまにはお父さまが、お兄さま、お姉さま方にもそれぞれにいちばん大切な方がいらっしゃった。わたくしではない、ほかの誰か。――ほかの、誰か。
そう、わたくしは寂しかったのだ、とシュテファーニアはため息とともに微笑んだ。
「姫さま……」
案じるように己の名を呼ぶ侍女に向かって、ツェツィーリア、とシュテファーニアは答えた。
「大丈夫よ」
大丈夫、とシュテファーニアはもう一度云って、小さく頷いた。
「なにもかもおまえの云うとおりね。おまえの云うとおり、わたくしが間違っていたのだわ」
「姫さま」
「わたくしはなにも知らない愚かなこどもでした。エリシュカという娘のことも、殿下のことも、わたくし自身のことも、わたくしはなにも知らなかった。エリシュカにも殿下にも、わたくしと同じように血の流れる身体があり、痛みを知る心がある」
そんな簡単なことを、わたくしは知ろうともしなかった、とシュテファーニアは云った。
「あの子はとても綺麗でした。殿下もとても幸せそうだった」
シュテファーニアはゆるりと目蓋を閉じた。
「国へ帰るとき、あの娘は、エリシュカはここへ残していきましょう。殿下のそばにあったほうが、彼女は幸せになれるはずですから。お父さまにはそのことも併せて伝えます。すべてはわたくしの意思であるとそう云えば、きっと大ごとにはならずにすみましょう」
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