26
王太子妃付侍女の末席に連なるベルタ・ジェズニークが、王太子付侍女モルガーヌ・カスタニエから内密の呼出しを受けたのは、王太子妃シュテファーニアが王妃エヴェリーナに対し、正式な離縁を申し入れてから数日後のことであった。
神ツ国からの正式な書状を盾にした王太子妃による離縁の申し入れは、東国王室によって即座に受け入れられ、必要な手続が迅速に進められることとなった。
春が来たらすぐにでも帰郷の途に就くことになると知らされて、異国での暮らしに心細さを感じていた王太子妃付侍女たちは、みな一様にその知らせを喜びあった。
ベルタとて例外ではない。仕事は厳しく、娯楽の少ない王城での暮らしは窮屈で退屈だ。はじめのうちこそ豊かで進歩的な東国の暮らしが物珍しくもあったけれど、すっかり慣れてしまったいまでは、郷愁ばかりが募ってくる。
故郷よりはだいぶ温暖とはいえ、東国王都の冬も身に堪える厳しさであることに変わりはない。とくに今年は去年に比べ、寒さが厳しいような気がしているベルタである。それが単純に気候の違いによるものなのか、あるいは自身の心の投影であるのかはよくわからない。
王城の敷地内にある木立や芝には冬枯れが目立ち、ベルタがほとんどの時を過ごす侍女の控えの間から見える外の風景もすっかり様変わりしてしまった。そんな最中にあって、帰郷の報に浮かれ立つ侍女たちの熱気はいささか過剰なほどだった。
だから、モルガーヌからの呼出しを受けたときのベルタは、あまり冷静であったとは云い難い。食堂や廊下ですれ違ったときに挨拶をする仲であるとは云え、王太子妃付侍女であるベルタと王太子付侍女であるモルガーヌに、ふたりきりで顔を突き合わせてするような話などあるはずがないのだ。
けれどもベルタはそうした違和感に気づくより前に、モルガーヌが寄越したクロエという下女に導かれるままに、王太子の庭の奥にある東屋へと歩みを進めてしまっていた。
なにかがおかしい、と気づいたのは毛皮の縁飾りのついた外套をしっかりと着込んでさえ身に沁みる寒さのなか、東屋でモルガーヌと対面したときのことである。
「お呼び立てして申し訳ないわね」
モルガーヌは開口一番そう云って、やわらかく微笑んだ。厭味なほどに優美なこの微笑みが、じつは苛烈な彼女の性格を偽るためのものであるとベルタが知っているのは、エリシュカがヴァレリーの寵姫となって以来、彼女に会わせてほしいとどれだけ頼み込んでも、頑として撥ねつけられ続けているせいでもある。
いったいなにごとだ、とベルタは身構えた。顔を合わせれば、エリシュカに会わせろ、と詰め寄るベルタにすっかり嫌気がさしたのか、最近のモルガーヌはあからさまにベルタを避けるようにさえなっていたのだ。
それなのに、とベルタは思う。わざわざ人目につかぬよう、王太子の庭まで呼びつけるとは、いったいどんな込み入った話を持ちかけられるのか――。
「ご用件は?」
そのままでは冷えるからと云われ、薄い懐炉入りの暖かいクッションが敷かれた石の椅子に腰を下ろしたベルタは、挨拶ひとつもないままにそう尋ねた。
まあ、そう焦らずに、とモルガーヌは云った。
「熱いお茶でもお飲みになって、もう少しだけお待ちくださらないかしら」
「モルガーヌさまほどではございませんけれど、私もそれなりに忙しい身です。姫さまの晩餐のお支度もありますし、それとは別にご帰郷のご準備も進めなければなりません」
ええ、ええ、とモルガーヌは頷いた。
「もちろん存じておりますわ。ですからご無理を承知でお願いいたします、と申し上げましたの。クロエはそうは申しませんでしたかしら?」
云ったかもしれないが、とベルタは憮然とした。正直なところあまりよく覚えていない。帰郷を知らせる手紙を涙ながらに家族に宛てて認め、それを使者に渡したばかりのところで呼び出されたのだ。自分を呼びに来た下女のくどくどしい話など、半分も聞いていなかった。
「いったいなんなのです?」
不愉快そのものの表情を浮かべたベルタが語気鋭くそう尋ねても、口許の笑みを深くするばかりのモルガーヌはなにも答えようとしない。そのくせ、この茶を飲み干したら帰ろう、とベルタがカップを手に取ると、そのさまをじっと観察するように見つめてくるのだ。
ベルタは苛立ちのこもったため息をつき、茶を口に含んだ。仄かに甘い香り高い茶が冷えた身体にわずかなぬくもりをもたらした。
午後も早い時刻だというのに、凍てつくような冷気にすべての音を吸い取られたかのようにあたりは静まり返っている。モルガーヌとベルタがそれぞれにカップを上げ下げするかすかな音だけがひそやかに響き、まるで秘密を囁きあっているかのように聞こえる。
「モルガーヌさま」
不意にベルタは目の前に座る食えない相手に話しかけた。はい、と返事をしたモルガーヌは黒い瞳をわずかに撓め、まっすぐにベルタを見つめてくる。
「エリシュカさまはお元気でお過ごしですか」
「……ええ、もちろんです」
わずかに空けられた間には気づかぬふりをしながら、ベルタは続けた。
「ツェツィーリアさまから伺いましたわ。先に開かれた夜会では、それはそれは可憐な若草色のご衣裳をお召しになっていらしたとか。この目で拝見することが叶わず、とても残念です」
「ごくわずかなお時間で舞踊も大変お上手になられ、立居振舞も堂々となされて、大変ご立派でいらっしゃいましたよ」
「そのようですね」
モルガーヌさま、とベルタはそこで口調をあらためた。
「やはりどうしても、エリシュカさまに会わせていただくことは叶わぬのでしょうか」
モルガーヌは頷くこともせず、じっとベルタを見つめる。
「ほんの短い時間でもかまわないのです。ただ、エリシュカさまの口から、直接お聞かせいただきたいだけなのです。その……」
つらい目には遭われていないということを、とベルタはだんだんに俯きながらそう云った。
シュテファーニアの身代わりとなってヴァレリーの部屋へ出向くエリシュカを見送って以来、ベルタはただの一度も彼女の姿を目にしていない。ツェツィーリアに尋ねても詳しいことはわからないと云われ、モルガーヌに尋ねてもはぐらかされ、それでは、と侍女のあいだを駆けまわって噂話を集めても、どうやらエリシュカの身のまわりの世話を仰せつかっている侍女はごく限られた者たちであるらしく、エリシュカの近況を知ることはほとんどできなかった。
ベルタの耳に入るのは、公に知らされる情報にほんのわずかな憶測が混じった程度のものでしかなく、突然にその身を王太子に囚われてしまったエリシュカが日々をどのように過ごしているのかについては、まったくわからないままだったのだ。
ベルタは心の底からエリシュカの身を案じていた。王太子の寵を得て幸せに暮らしているのならそれでいい。心穏やかに、身を健やかに、そしてついでにこれまで知らなかった贅沢を知って幸福に包まれているのなら、それでいい。
東国の王城に来てからはそういう機会を得ることも少なかったが、神ツ国の教主の宮にいたころのベルタとエリシュカはたびたび顔を合わせては、ベルタが家から持ち出してきたり、侍女仲間から分けてもらったりした菓子や茶を摘まんで息抜きをしていた。
午後のひと時など、人目の少ない時間にちょっとでも仕事の空きができると、ベルタは厩舎に駆けて行ってはエリシュカとともにいろいろな話をした。厩舎にはエリシュカの父と兄もいて、ほんの少しのお喋りくらいならば、とほかの誰かに見つからぬようにそっと庇ってくれたものだ。
ベルタはともかくエリシュカは朝起きてから夜寝るまで、座るひまもないくらいに働きづめなのだ。友だちが訪ねてきたときくらい大目に見てやろうじゃないか、という厩舎の仲間たちの暗黙の了解にふたりは素直に甘えて、決して短くはない時間をともに過ごした。
ベルタが実家で仕入れてきた世間話や侍女のあいだで囁き交わされる噂話を面白おかしく披露すれば、エリシュカは小さな声を立てて笑った。可愛らしい顔が楽しげに笑み崩れるさまをずっと見ていたくて、ベルタはついつい話を盛り上げてしまう。するとささやかな冗談を真に受けたエリシュカが不意に真剣な顔に変わる。それをからかったり、またさらに冗談を云ったりすると、とうとう頬を紅く染めて怒り出したりする。
ようするにベルタは、エリシュカのことが可愛くてたまらなかったのだ。一人娘であるベルタは兄弟姉妹を知らないが、妹がいたらこんな感じなのだろう、といつも思っていた。
エリシュカもまたベルタを慕っていた。つらいことの多い暮らしのなかにあっても、エリシュカは滅多に愚痴をこぼしたり泣言を云ったりすることはなかったが、可愛がっていた馬が死んだり、走れなくなった馬を処分したりするときにはどうしたって気持ちが沈むし、厩舎で働く仲間たちが理不尽な扱いを受けたときには憤りもする。
そういうときのエリシュカはいつもよりもずっと抑えた低く小さな声で、それでも自分の気持ちを正直に吐露した。ベルタは安易な同情を示すことはできなかったが、ときにともに嘆き、ときにともに憤り、エリシュカを慰めた。
そうやって丁寧に築いてきた友誼を、あの日の私は自らの手ですべてぶち壊してしまった、とベルタは悔やんでいる。
王太子殿下が姫さまを求め、姫さまがエリシュカを身代わりにと差し出した、あの日。
命令に逆らうことはできないと思った。現にベルタは、ツェツィーリアの言葉をすべて鵜呑みにし、エリシュカの支度を調え、黙って送り出した。あまつさえ、彼女の手を握り同情を示しさえして。
偽善に満ちた自分の振る舞いを、いまのベルタは激しく後悔している。もしもあのときに戻れるなら、と彼女は思った。王太子妃の庭にいたエリシュカをツェツィーリアの元へ連れて行ったりなどせず、誰か――たとえば、人のよさそうなあの庭師――に託してでも、彼女を城の外へと逃がそうとしただろう。そうでなければ、はじめからツェツィーリアの言葉に従うことなく、エリシュカを探しに行ったりなどしなかった。
きつい咎めを受けようと、ひどく折檻されようと、それだけのことで友が守れるならば、私は喜んで理不尽な打擲――幼い自分が実家の掃除婦にそうしてしまったような――を受け止めたに違いない。
ツェツィーリアやベルタの想像に反し、エリシュカは王太子の寵を得た。殺されることなく部屋を与えられたと聞かされて動揺したツェツィーリアとは裏腹に、ベルタは心の底から安堵した。これでもうエリシュカが虐げられることはない。
ただ、ベルタはどうしてもエリシュカ本人の口から、彼女の言葉を聞きたかった。自分はいま幸せでいる、という言葉を。
それを聞くまではなんとしても国に帰ることはできない、と思ったりもする。――あるいはエリシュカに仕えて、一生をこの国で過ごすのも悪くはないのではないか。
帰郷できるという報せに泣きながら喜んだくせに、そんなことを思う自分もたしかに存在することを自覚しているベルタである。
「意外ですね」
顔を上げたベルタは、そこにひどく険しい顔をしたモルガーヌを見て困惑することとなった。私の云ったことのなにが、こんなにも彼女の気に障ったのだろう。
「あなたがた神ツ国の方々は、お嬢さまのことを蔑んでおいでだと伺っていたものですから」
そうなのでしょう、とモルガーヌは、彼女自身が神ツ国そのものを蔑むような笑い方をしてみせた。
「みながみな、そうだというわけではありません」
ベルタは咄嗟にそう云い返していた。
「わが国の制度をないものだと云い張るつもりはありません。事実ですから。だけど、私はエリシュカのことを大切な友人だと思っていますし、蔑んだりもしていない」
「でもあなたは、王太子妃殿下のお振る舞いを止めなかったのでしょう?」
「主のすることに口出しできる侍女がいると思いますか」
私はするわよ、と王太子の襟首をその手で引っ掴んだこともあるモルガーヌは突き刺すような口調で云った。
「主だろうが誰だろうが、間違っていると思えばそう云うし、やめさせようとするわ」
ベルタはぐっと喉を詰まらせ黙り込んだ。
「それに私なら、友人だと思う子に犠牲を強いたりなんかしない。自分が身代わりになってでも助けようと努力する」
とは云っても、とモルガーヌはそこでようやく蔑むような笑い方を止め、いかにも有能な侍女らしい平素の無表情を取り戻した。
「もしも妃殿下の代わりにあなたがいらしたら、王太子殿下は迷うことなくその場で首を刎ねておしまいになったのでしょうけれど」
どういう意味だろう、とベルタは思った。王太子は身代わりに差し出されたエリシュカをたまたま気に入ったのではないのだろうか。気まぐれに寵姫に据えたのではないのだろうか。
「なんだか不思議そうなお顔をなさるのね」
あ、いえ、とベルタは云った。
「ただ、いまのモルガーヌさまのおっしゃりようですと、王太子殿下ははじめから姫さまではなく、エリシュカさまを望まれていたように聞こえたものですから」
ベルタの美点は正直と明朗である。まっすぐな問いかけに、モルガーヌは思わず和やかな気持ちになって口元を緩めてしまった。王城のなかにもまだこんなふうに素朴な子がいただなんて。
モルガーヌの笑みを目にしたベルタは和むどころの騒ぎではない。血相を変えて食ってかかった。
「まさかそれが真相なのですか? モルガーヌさま」
「真相だなんて大袈裟な……」
「モルガーヌさま!」
なにをいまさら、とモルガーヌはため息をついた。
「王太子殿下はそれほど甘いお人ではないのですよ、ベルタさま。もしも殿下が真実妃殿下をお求めで、その身代わりにお嬢さまがいらしたのだとすれば、お嬢さまはあの夜にお命を落とされていたはずです。王太子殿下はそうした侮辱に黙って耐えられるようなお方ではありませんから」
「では、私たちを謀ったのですか」
「謀った?」
モルガーヌの声に険がこもった。
「はじめに謀ったのはどちらです、ベルタさま。妃殿下ではありませんか。本来であればご自身がなすべき務めを侍女に押しつけ、ご自身はのうのうと贅沢三昧。あげく、差し出した娘が殿下に気に入られたとお知りになれば、それが気にくわないとたいした荒れようであらせられたとか」
いったいどれだけ人を莫迦にすれば気がすむのです、とモルガーヌは抑えようもなく激した声音でそう云い放った。
ベルタは目を見開いたまま蒼白になって言葉を失った。
「王太子殿下ははじめからお嬢さまをお迎えするおつもりでした。妃殿下の企みをご存知のうえで、あえてあのようなやり方を選ばれたのです」
ベルタの身体が小刻みに震えはじめたのは怒りのためだ。王太子は私たちの企みをすべて知っていた。そのうえでエリシュカを手に入れるためになにもかもを利用した――。
なんという――狡猾。
「……やはり、謀ったのではないですか」
低い声でなされたベルタの反撃を、いいえ、とモルガーヌの冷たい声が打ち砕く。
「妃殿下のお心の裏をかいただけですよ。王太子殿下ははじめからなにもかもをお見通しでいらっしゃった。お嬢さまを見初められ、もっとも波風の立たぬやり方でお手許に置こうとなさっただけのことです」
「でも、それは、あまりにも卑怯な……」
「卑怯?」
モルガーヌは渇いた笑い声をあげて、ベルタを嘲った。
「それは妃殿下のためにある言葉ですわね」
己の主を嘲られてさえ、ベルタの怒りは収まりようもなかった。たとえそうだとしても、とベルタは云った。
「王太子殿下のなさりようはあまりにも非道です」
どういう意味です、とばかりにモルガーヌの黒い瞳が眇められる。ベルタは怒りに蒼褪めながらも、懐から掌にすっぽりと収まってしまうほどの大きさの小瓶を取り出し、白い石のテーブルの上にそっと載せた。
モルガーヌは訝しげに眉をひそめ、紅く輝くその小瓶とベルタの顔とを何度も見比べた。
「神ツ国の娘はみな、物心つくころにはこの薬を持ち歩くようにと教えられます。わが国でしか採取できぬ種類の植物から抽出した神経性の猛毒です。さほど匂いもなく味もなく、たったこれだけの量であっても、口に含めばその場で昏倒するほどの効き目があると云われています」
皮膚に触れてもほとんど害毒は及ばぬのに、粘膜に触れた途端に強烈な毒性を発揮するその特殊な薬は、神ツ国の娘ならば誰もが身に携えている品であった。
「私たちがそれほどの毒薬を持たされているのは、なんのためだと思いますか」
モルガーヌは口を噤んだまま、首を横に振った。ベルタは重々しく言葉を繋ぐ。
「わが身の純潔を守るためです。万が一にも身を穢されたり、あるいはその危険を感じたときには躊躇わずに口に含むよう教えられているのです」
モルガーヌの目が見開かれ、唇が引き結ばれた。たったこれだけのことで、私がなにを云いたいのかわかるのか、とベルタは軽い驚きに見舞われる。
この大陸に住まう多くの者が信仰する神は、身の純潔を――ことに女性のそれを――重視する。他国でも多少その傾向はみられるが、神ツ国は特別だった。女性は婚姻関係にある男性以外との性交渉を禁忌とされ、たとえそれが己に非のない行為であったとしても、万が一にも身を穢されれば、それは自身の罪とみなされた。その罪を贖うには死をもってなすよりほかになく、不幸にして暴行を受けた女性がその場で服毒することは彼の国ではさして珍しくはない。
「お嬢さまもこの薬を……?」
いいえ、とベルタは首を振る。
「賤民に自害する自由はございません。主の決めたとおりに生き、そして死ぬよう定められておりますから」
けれど、とベルタは云った。
「たとえ卑しき身とはいえ、神の教えは平等です。身を穢されることはすなわち魂を穢されることであると、エリシュカさまもお小さいころから教え込まれております」
モルガーヌは黙り込んだ。ヴァレリーは正妃ある身であるにもかかわらずエリシュカを求めた。それはエリシュカにとってみれば、死をもって購うに等しい不貞を強いられているのと同じことだとベルタは云っている。それゆえ、ヴァレリーの振舞いをあまりにも非道だと、そう非難しているのであろう。
だが、そもそも非道なのはいったいどちらだ、とモルガーヌは思った。
「おかしいと思ったことはないの?」
「おかしい、とは?」
「女ばかりがそうやって咎を負うことが」
「女は穢れた存在ですから」
賤民という制度も、とモルガーヌは吐き捨てるように云った。
「そうやってあなた方が思考停止をしてきた結果です。教義だから仕方がない、制度だから仕方がない」
神も国も所詮は人が作ったものでしょう、とモルガーヌは云った。
「人の手で変えられないはずがない。あなた方はそれをしなかっただけです。戦わなかっただけ。そうして哀れな者たちを見殺しにしてきたんです」
「エリシュカもそうだと……?」
「そう、とは?」
「哀れだと、そうお思いですか」
思いのほか強く響くベルタの言葉の続きを、モルガーヌはただ首を傾げることで促した。
「エリシュカは哀れな娘なんかではありません。生まれた身分は気の毒ではあるけれど、彼女はいつだって必死に生きて、笑って、泣いていました。つらいことはたくさんあるし、今度のことだって絶対に許しちゃいけないことですけれど、あの子は決して哀れなんかじゃない」
「搾取され、虐げられることのどこが哀れでないと云うの?」
「哀れなのは私たちです」
モルガーヌは思いもよらぬことを云われ、黙り込んだ。
「誰かを差別することを是としなければならないような、そんな情けない国しか作ることのできなかった私たちです。間違いを間違いと認めることもできず、このままではわが国は大陸のなかで孤立するしかない。そのことがわかっていながら、自らの行いを正すこともできない」
真実哀れなのは私たちです、とベルタは云った。
「あなたは、それを自分で……」
いいえ、とベルタは正直に答えた。
「私にそう教えてくれたのは父です。このままではいけない、と父は云いました。わが国が真に神の坐す国であるのならば、いいえ、これから先もそうありたいのならば、すぐにでも身分制度をあらためなくてはならない、と父は云いました。この薬のことも……」
ベルタはテーブルの上の赤い小瓶をじっと見つめる。
「こんなものを女たちに持たせなくてはならないことを恥じねばならぬ、と」
ベルタは表情を変えぬままモルガーヌをじっと見つめた。モルガーヌもまたしばしのあいだベルタの顔を黙って見つめていたが、やがてふと破顔した。
「あなたでよかった」
は、とベルタは片目を眇める。
「お嬢さまが是が非でも会いたいとおっしゃった相手が、あなたでよかった、と云ったのよ」
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