27

「エリシュカッ!」

「ベルタさま!」

 ひしと手を取りあうふたりの少女のそれぞれを、モルガーヌはじつにわざとらしい咳払いで諌めた。

 モルガーヌを相手に一席ぶったベルタが、なんだかちょっと云い過ぎたかもしれない、と後悔しはじめたそのとき、自分の背後に迫る軽い足音に気がついた。この庭にはモルガーヌとベルタのほかに、物音や話し声を立てる者はひとりとておらず、とても静かだったせいだ。

 そんなことにいまごろ気づくなんて、とベルタは自分の迂闊さに顔を顰めたくなった。こんな話を神ツ国の侍女の誰かに聞かれでもしたら大ごとだ。ただでさえうだつの上がらぬ下級神官で、ぼんくらの誉れ高きお父さまが、いよいよ神殿を馘首クビになってしまわれるかもしれない。そうしたらわがジェズニーク家の大黒柱はこの私ということになるのかしら、とベルタがささやかな不安を抱いたところで、背後からやわらかな声で名を呼ばれたのだ。

「ベルタ」

 遠慮がちなその呼び方に勢いよく振り返り、そこにずっと案じていた友の姿を見つけたベルタは、彼女の立場も自分の立場も忘れて思わず走り寄った。

 エリシュカ、エリシュカ、と何度も名を呼び、ほっそりとした手を握りしめて、無事だったの、つらい目には遭わされていないの、と矢継ぎ早に尋ねれば、エリシュカは可憐な顔をくしゃくしゃに歪めて、はい、はい、と頷いている。

 モルガーヌが割って入らなければ、その場に抱きあって座り込み、声を上げて泣き出さんばかりの勢いだった。

「お嬢さま、こちらへいらして懐炉の上へお掛けになってくださいませ」

 モルガーヌはエリシュカを呼び寄せ、懐炉を下に敷いたクッションの上にエリシュカをそっと座らせた。さらに腰のあたりに懐炉をあて、下半身を足の先まで覆うように毛布でくるんだ。上半身は外套の上からさらに軽い羽毛入りの毛布を着せかけ、さらに自分が風除けとなるべく彼女の傍に立つという念の入れようである。

「少し暑いわ、モルガーヌ」

「では少しだけ寛げましょう」

 まだ本調子ではないのですから、と云いながらモルガーヌが甲斐甲斐しくエリシュカの面倒をみているあいだ、ベルタは腰を下ろすことも忘れ、ぽかんとしたまま一部始終を見守っていた。

「あの、ベルタ……」

 エリシュカの遠慮がちな呼びかけに、はっとわれに返ったベルタは慌てて頭を下げ、お嬢さまにおかれましてはご機嫌麗しく、と仰々しい挨拶をしてみせた。

 モルガーヌが満足そうに頷く隣では、エリシュカが非常に居心地の悪そうな表情で俯いている。

「あの……あのね、ベルタ、どうぞお掛けになってください」

 お嬢さま、とモルガーヌが注意をうながした。

「あの、掛けて、ベルタ」

 ぼんやりしていたベルタは、は、はい、と慌てて頭を下げ、失礼いたします、と元の場所に腰を下ろした。

「ベルタ。あの、元気、だった?」

 迂闊な言葉遣いをしないよう慎重に喋るエリシュカの口調は、もともとの口下手も相まってひどくたどたどしい。ベルタは思わず微笑んだ。

「私はなんの変わりもなく過ごしておりました。エリシュカさまは……?」

 おつらいことはございませんか、悲しかったり寂しかったりしておりませんか、とベルタは尋ねた。エリシュカは薄紫色の瞳をわずかに潤ませて、はい、と頷いた。

「大丈夫です。こちらのモルガーヌさま、いえ、モルガーヌやほかの方がとてもよくしてくれますから」

「王太子殿下は?」

 はい、とエリシュカは頷いた。もしもこのときのベルタがエリシュカの顔色を読み取ることばかりに必死でなかったなら、エリシュカの隣で番犬のように仁王立ちするモルガーヌの顔が、さながら悪鬼のごとく変化する瞬間を目撃してしまっていたことだろう。だが幸いなことに――それはモルガーヌにとっても、ベルタにとっても――、そうはならなかった。

「殿下はたいそうやさしくしてくださいます」

 長い睫毛を伏せるエリシュカの表情を恥じらいと受け取ったのは、ひとえにベルタが王太子の真の姿を知らぬせいである。

 悋気に己を見失ったヴァレリーに怪しげな媚薬を飲まされ、一時ひどく衰弱したエリシュカは、医師の看病とモルガーヌやデジレの献身のおかげで徐々にではあるが、確実に快復しつつあった。

 ヴァレリーが無体を働いたせいで、数日間身を起こすこともままならぬ状態で過ごしていたエリシュカがようやく起き上がれるまでに快復したのは、ほんの一昨日のことだ。

 エリシュカが寝台の上に起き上がれるようになるまで、モルガーヌは彼女の可愛いお嬢さまのそばを片時たりとも離れようとしなかった。――だって、私がここを離れたら、殿下はまた碌なことをなさいませんもの。

 ヴァレリーは、どうにかしてエリシュカとふたりきりになりたい、とさまざまな策を弄したものの、今回ばかりはどうにも分が悪すぎた。侍医を脅そうが、デジレに泣きつこうが、あなたさまが悪い、とことごとく退けられ、結局、夜中に眠りに就くまでモルガーヌの監視の目を逃れることはできなかった。

 それでも、とヴァレリーは、これまでどおりに夜と朝とをエリシュカのそばで過ごすばかりか、執務の合間を縫って彼女のもとを訪れ、心を尽くして詫びるとともに溢れんばかりの恋情を縷々語って聞かせた。

 エリシュカとて、ヴァレリーに対し複雑な想いがないではない。

 だいたいヴァレリーは最初からやさしくなどなかった。自分の慾望を押しつけるだけ押しつけて、エリシュカの意志などまるでないもののように扱った。愛しているという彼の言葉は、おれの云うことを聞け、という命令以外のなにものでもなかったのだ。

 淡い想いを寄せていた男から、あまりにもひどい仕打ちを受けて、エリシュカは深く傷ついていた。どん底まで叩き落された夜には、二度と心を寄せたりはしないとまで思うほどだった。

 それでもエリシュカは、ヴァレリーを憎みきることはできなかった。

 それは、エリシュカが体調を崩したのちのヴァレリーが、それはもう必死であったせいかもしれない。花と甘い菓子を携えて部屋を訪れ、他愛のない話を終えたそのあとは名残惜しそうに去っていく。指先を絡めたり、ほんの時折は額にくちづけを落としたり、ささやかな触れあいだけはなくならなかったが、一度として閨を求めたことはなかった。

 最近のエリシュカは、だから自分からヴァレリーの手を取ることもある。美しい花の礼の代わりに、美味しい菓子の感謝の代わりに。

 無骨な指先をそっと握り締めてやると、ただそれだけのことでヴァレリーの頬はほんのりと赤く染まる。幾度も閨をともにしたとは思えぬ初々しさは、モルガーヌをして驚かせるほどであった。――あの変態にも人の心があったのか。

「でも、少し痩せた?」

 やわらかく微笑んだエリシュカに向かって、ベルタはそう尋ねた。エリシュカは頬にかすかな笑みを浮かべ、少しだけ、と答えた。

「大丈夫なの?」

「はい」

 本当に、と問えば、モルガーヌがいてくれますから、とエリシュカは答えた。

 ベルタはエリシュカの手を握ったままモルガーヌを見上げた。彼女の有能さは、ともに働いているわけでもないベルタの耳にも届いている。それにいまの様子を見る限り、彼女はエリシュカのことを本当に大事に思ってくれているのだろう。

「それならいいの」

 指先に力をこめれば、掌のなかのエリシュカの指先から同じだけの力が返される。ただそれだけのことに、ベルタはつい緩んでしまう頬を抑えることができなかった。


「モルガーヌ」

 しばらくのあいだベルタと手を取りあい、他愛のない話――ツェツィーリアさまが最近になって眼鏡を新調されただの、この寒さであっても神ツ国から連れてきた馬たちはびくともしないだの――をしていただけだったエリシュカが、不意にかすかに強張った声で傍らに控える侍女の名を呼んだ。お嬢さま、と答えるモルガーヌの声には、どこか咎めるような響きがある。

「どうしても、とおっしゃるのですか……?」

「ええ、お願い」

 エリシュカの眼差しにつられるようにして、ベルタがモルガーヌの顔を見上げれば、そこにはあからさまな渋面があった。短い言葉のやりとりからはふたりが云いあう内容を推し量ることのできないベルタは、黙ってふたりを見守ることにした。

「短い時間でかまわないの」

「ですが、お嬢さま……」

「お願い」

 お願いよ、とエリシュカは云った。モルガーヌはベルタとエリシュカを交互に見つめ、やがて深いため息をついた。

「お嬢さまにはかないませんわね」

 かしこまりました、とモルガーヌは云った。

「私はお茶の替えを取りに厨房へ参ります。そういうことでよろしゅうございますか」

 ええ、とエリシュカは頷いた。ベルタは驚いて目を見張る。侍女が主をひとり残して傍を離れるなどあってはならないことだ。

「ベルタさま」

 きっぱりとした口調で名を呼ばれ、ベルタは慌てて姿勢を正し、はい、と返事をした。

「お嬢さまのことを頼みましたよ。私はすぐ戻ってまいります。少し離れたところにクロエもおりますから、なにかご用があればなんなりとお申し付けくださいますように」

 はい、とベルタは頷いた。元の身分がどうあれ、いまのエリシュカは王太子の寵姫である。もし万が一にもエリシュカの身になにかあれば、私はただではすむまい、とベルタは思った。

 ベルタとエリシュカをふたりきりでこの場に残すことは、どう考えてもモルガーヌの本意ではないのだろう。彼女はいかにもしぶしぶといった態でそばを離れていった。

 穏やかな笑みを浮かべてモルガーヌの背中を見送っていたエリシュカの態度が豹変したのは、モルガーヌが刈込トピアリーの向こう側へと姿を消したその直後のことである。

「ベルタさま」

 抑えた声にははっきりとした焦りが滲んでいる。

「姫さまが王太子殿下との離縁を申し出られたというお噂は、事実でございますか」

 え、とベルタは一瞬戸惑う。

「湯浴みを手伝ってくれる方が口を滑らせたのです。みなさまは、次の春には神ツ国へ向けて出立なされるとか」

 事実ですか、とエリシュカはもう一度尋ねた。ベルタは咄嗟に返すべき言葉を見つけることができずに喉を鳴らした。

「このことをどうしてもお尋ねしたかったのです。事実なのでございますか」

 ベルタは思わずあたりを窺うように左右を見まわした。

 シュテファーニアが王妃エヴェリーナに対してヴァレリーとの離縁を申し出たことは、すでに王城中の者があまねく知る事実である。エリシュカばかりが知らぬということはないだろうに、なぜこのように必死になるのか。

「ええ、事実よ。私たちも家族に書状をしたためたわ」

「そうなの、ですね……」

 エリシュカは唇を噛みしめて俯いた。ねえ、と今度はベルタが問いかける番である。エリシュカ、と呼べば、薄紫色の瞳がまっすぐにベルタへと向けられる。

「大丈夫なの、エリシュカ。王太子殿下と姫さまのことは、この城にいる者ならばみんな知っていることよ。誰も隠していない。なのに、あんたは知らなかったの?」

 エリシュカはこくんと頷いた。

 ベルタはしばし考えをめぐらせる。モルガーヌさまの態度やエリシュカの様子からかんがみるに、王太子殿下が本心からエリシュカを寵愛していることは間違いがない。姫さまと離縁したのちは、エリシュカを娶るつもりでいる可能性もある。つまり王太子は姫さまが帰国したのちも、エリシュカだけはこのまま東国にとどめる心積もりでいるのだ。

「エリシュカ。ひとつ訊いておきたいことがあるのだけど」

「はい」

 薄紫色の瞳に真摯な色が宿る。あのね、とベルタは云った。

「あんた、姫さまと一緒に国に帰るつもりでいるの?」

「もちろんです」

 ベルタは息を飲んだ。

「なぜ?」

 短く問えば、エリシュカは、なぜ、とベルタの言葉をそのまま返し、首を傾げた。

「ええ、なぜ帰るつもりでいるの?」

「姫さまがお帰りになるのなら、わたしも……」

「帰れると、本気で思ってるの?」

 ぐ、と喉を詰まらせ、エリシュカが黙り込んだ。

「思わないわよね、エリシュカ。あんた、王太子殿下の寵姫になったのよ。私がこんな口をきくなんて、本当なら許されないお方になったの。わかってるでしょ、帰れないことくらい」

「でも、わたしは姫さまの侍女です、神ツ国の……」

「いまは違います」

 ベルタは口調をあらためた。このままではいけない、と思ったからだ。エリシュカをこのままにしておいてはいけない。

「違いませんッ!」

 悲鳴のような声を上げてエリシュカはベルタの手に縋った。

「わたしは神ツ国の民です。賤民です。帰らなければ……」

「家族のために……?」

 エリシュカの顔が大きく歪み、しかし彼女はそこでなにを云うこともなく俯いた。ベルタはもう一度あたりを窺う。そろそろモルガーヌが戻ってきてもおかしくない頃合いだ。こんな話を彼女に聞かれでもしたらとんでもないことになる。

「駄目よ、エリシュカ。そんなことを考えては駄目」

「なぜですか?」

 エリシュカは銀色の頭を小さく振りながら云った。

「帰りたいのです、ベルタさま。帰らなければ……!」

 家族が待っているのです、とエリシュカはベルタの手を両手で握りしめたまま、その上に突っ伏してしまった。まるで糸の切れた人形のようだ、とベルタは思った。

 姫さまの帰国の噂を聞いてから、誰にも相談することのできない想いを抱えてここまで耐えてきたのだろう、とベルタはエリシュカの心を思い遣る。エリシュカにいまの己の立場がわからないはずはない。帰れるはずがないこともきっとわかっている。

 それでも、とベルタは思った。エリシュカは帰りたいのだ。家族のいる神ツ国へ。

 エリシュカに対し、決してやさしくはないはずの故国。それでもそこに家族が待っている以上、エリシュカはなにがどうあってもそこへ帰りたいと願うだろう。

 エリシュカの心を思うと、ベルタは――たとえそれが無理なことだとわかっていても――どうにかしてエリシュカを故国へ連れて帰ってやりたくなる。

 賤民であるエリシュカにとって、家族は特別な存在だ。厳しい暮らしのなかで互いに互いを唯一の支えとすることを常とする彼らは、家族の縁に恵まれる機会も少ない。だが、ひとたび縁にめぐり会えたときには、それをことのほか大事にする。たとえ生涯二度と見えることのない距離に引き裂かれようとも、異なる主に仕えていようとも、彼らの血の絆は絶対だと云われるほどに。

 エリシュカ、とベルタはエリシュカの薄い肩にそっと触れた。エリシュカは身を震わせて顔を上げ、ベルタをじっと見上げる。滅多に目にすることのないエリシュカの泣き顔に、ベルタの胸がひどく痛んだ。

「無理よ」

 わかるでしょう、とベルタは低い声で云った。

「王太子殿下があんたを手離すはずがないわ」

 エリシュカは激しく首を横に振った。厭です。――置いて行かれるのは、厭。

 落ち着いて、とベルタは云った。

「そんなに興奮しないで。モルガーヌさまが戻っていらして不審に思われるわ。いい、エリシュカ。落ち着いて」

 エリシュカは手の甲で頬を拭った。その乱暴な仕種をやめさせようと、ベルタは慌ててエリシュカの手を掴む。

「そんなにしたら顔が腫れちゃうわ」

「ベルタさま……!」

 王太子殿下はやさしくしてくれると云ったではないか、とベルタは思った。なのになぜ、そんなふうに帰りたがるの。

 これまで家族しか守ってくれる者のいなかったエリシュカに、はじめて愛してくれる男が現れた。ベルタはそれを喜ばしいことだと思う。つらいことの多い故郷へ帰るよりも、恵まれたこの地で生きるほうが、エリシュカにとっては幸いなのではないか――。

「帰りたいのです」

 エリシュカはベルタに縋るように細い声を上げた。

「父さんと母さんに、兄さんとダヌシュカに会いたい」

 もしかしてエリシュカはちっとも幸せでなどないのかもしれない、とベルタは不意に気づかされる。エリシュカの声はそれほどにせつなく、悲痛なものに聞こえた。

 賢く、強く、見目麗しく、ついでに云えば大きな権力までも持ち合わせた、うっかりすると笑い出したくなるような完璧な男に愛されて、それでも幸せではないとはにわかには信じがたかったが、己の幸福がどこにあるかは人それぞれだ。エリシュカの幸せはヴァレリーの愛を受け取ることではなく、家族を愛することなのだろう。

「それが、すごく難しいことだっていうのは、わかってるのよね?」

 ベルタが問うと、エリシュカはこくんと頷いた。

「だから私に会いたいって云ったの?」

 しばらく迷った末に、エリシュカはまた頷いた。幼子のようなその仕草に、ベルタは胸が熱くなる。

 なんとしても力になってやらなくては、とベルタは思った。王太子殿下の寝所にエリシュカを送り出した日のことを後悔しているのなら、今度は、今度こそはエリシュカの力になってやらなければ。エリシュカを助けられない理由ばかりを探してどうする。どうにかして助けるための方法を探さなくては。

 わかったわ、とベルタは云った。安請け合いをするな、と自らを戒める思いと、今度こそエリシュカを犠牲にしたりしない、という思いとが綯い交ぜになり、ベルタは無意識のうちにエリシュカの手を握る手に力をこめた。――いい、エリシュカ、よく聞いて。

「いまのままでは、あんたがこの城を出ることは許されない。理由はいくつかある」

 まずは王太子殿下の寵愛が深く、彼が手放さないということがひとつ。それから、とベルタは云った。

「ふたつめは、姫さまのお嘆きが深い、ということ」

 エリシュカは、なぜだ、とでも云いたげに目を瞬かせた。姫さまはアランさまのことがお嫌いだったのではないのだろうか。だからこそわたしが身代わりに立てられたのではなかったのだろうか。

 たとえ心許しあわぬ夫婦であったとしても――そうあることを望んだのが、ほかならぬ己であったとしても――、夫がほかの女に心を奪われれば、それをおもしろくないと感じるのが女の常なのだ、とベルタは云わなかった。エリシュカが知る必要のないことだと思ったからだ。

 そして三つめ、とベルタは三本の指をぐいと立てた。

「王族のどなたかと契った者は誰であれ、半年は王城を出ることが許されない。意味は、わかるわよね……?」

 エリシュカは無意識のうちに掌を己の腹に強く押し当てた。そうよ、とベルタが頷く。

「女ならばお胤を宿している可能性が、男ならば父親である可能性があるから」

 いまのままでは、あんたは決して姫さまの列には加えてもらえない、とベルタはふたたびエリシュカの手を握った。

「私はどうにかしてツェツィーリアさまにあんたのことを頼んでみる。姫さまはご帰郷が迫ればお忙しくなられて、端々にまで目が行き届かなくなられるだろうし、侍女の仕切りはツェツィーリアさまに任されているはずだから、もしかしたらあんたひとりくらいならどうにかなるかもしれない」

 エリシュカが力強く頷くのを確認してから、ベルタは続けた。

「で、あんたは、どうにかして王太子殿下のお召しを拒むのよ。わかるわね?」

「拒む……?」

 ええ、そう、とベルタはあたりを見まわしながらいっそう声を低めた。まったく、こんなことを口にしたことが誰かに知れればただではすまない。王室の繁栄を害する謀反人として首を刎ねられてしまう。

「姫さまのご出立は、春が来てすぐの吉日とされるはずよ。この国の冬は短い。あと四か月も経たずに雪も解けはじめるでしょう。山の雪解けを待つにしても五か月もあれば十分。いまからでもぎりぎり間に合うかどうか」

 真剣な顔で頷くエリシュカを見つめ、ベルタは続けた。

「エリシュカ、あんたは王太子殿下のお胤を宿す可能性があるたったひとりの存在なのよ。最後の夜伽から半年は、どんな建前があったとしても、殿下は、いえ、この国は、あんたを王城から出さない」

 春が来るまでずっとヴァレリーの手を退けろ、とベルタは云っている。エリシュカは唇を噛みしめて俯いた。そんなことができるだろうか。

 ここしばらくはエリシュカの身体がひどく弱っていたために――そしてその原因が、ほかならぬヴァレリーその人であったために――、同じ寝台に眠ろうとも、身体を繋げることはなかった。だが、これからはそうはいかない。こうやって外にも出られるほどにエリシュカが快復したことを知れば、ヴァレリーは必ずや彼女を求めるだろう。

「難しいことを云っているのはわかるわ」

 ベルタはエリシュカの手を強く握る。

「簡単ではないでしょう。だけど、帰りたい、っていうあんたの望みを叶えるためにはそうするしかないの。わかるわね?」

「わかり、ます……」

「やるのよ、エリシュカ」

 小枝を踏むような足音がふたりの緊張を引き裂いた。

 ベルタははっとしてエリシュカの手を離し、慌てて元の姿勢に戻ると茶を満たしたカップを手に取った。エリシュカはベルタに強く握られて赤くなった手を誤魔化すために、寒さ避けにと腰のあたりに巻かれた毛布のなかに両の手を突っ込んだ。

「お嬢さま」

 新しいティポットを乗せた銀の盆を手にしたモルガーヌが、常緑の刈込の影から姿を見せた。

「そろそろお戻りになりませんか。陽が落ちるにはまだ時間があるようですが、だいぶ冷え込んでまいりましたし」

 そう云いながらモルガーヌは、素早くベルタとエリシュカの前に置かれたカップに目を走らせた。思ったよりも茶が減っていない。よほど話し込んでいたのだろうか――。

「そうね、そうするわ、モルガーヌ。ベルタをあまり引き留めてもいけないし……」

 やわらかな毛布のなかに両手を隠したままエリシュカが云った。ベルタは、賛成だ、とばかりに深く頷いてみせた。モルガーヌはやわらかく微笑み、クロエを呼んだ。

 モルガーヌの命により東屋の片づけをはじめたクロエを置いて、三人は城のなかへと歩みを進めた。

 それではこのあたりで失礼いたしますわ、とモルガーヌがベルタに向けて優雅に腰を折ったのは、城に入ってすぐ、まだ番所の騎士がすぐ近くに立っているような場所でのことだ。

 人目のない王太子の庭でならばともかくとして、城内に入ったいまは誰のどんな目があるかわからない。王太子の寵姫であるエリシュカと王太子妃付侍女であるベルタが同席している場面など、誰の目にも触れさせるわけにはいかなかった。ことに王太子妃殿下のご帰国が決まったいまは時期が悪い、とモルガーヌは思う。

「では、ごきげんよう、ベルタさま」

 優雅ながらどこか慌ただしい足取りでエリシュカを促して歩き出したモルガーヌは、だからその場に置き去りにしたベルタが、どこか思い詰めたような眼差しで己の背をじっと見つめていることにはまるで気づかずにいた。

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