55

 王太子ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュの無事が伝えられて以来、エヴラール・ジェルマン・ラ・フォルジュの周囲はにわかに賑やかになった。

 それまで、――監察府長官ガスパール・ソランが提案したように――あくまでも形ばかりであった彼の取調べに実が伴うようになり、日に幾度もエヴラールの私室を監察官らが訪れるようになったせいでもある。また、エヴラール自身がオリヴィエ・レミ・ルクリュやエドモン・マルケをはじめとする者たちと積極的に接触を図るようになり、ことあるごとに彼らと会談を持つようになったせいでもある。

 いずれにしても、エヴラールの傍仕えを――しぶしぶ――務めるベルタにとってはいい迷惑である。忙しいったらないのよ、と彼女は思っている。

 エヴラールの傍らに仕えることを許されているのは、現在のところ、神ツ国神官の娘ベルタ・ジェズニークひとりきりである。彼のそばにはほかにも人がいないことはないのだが、彼らはほかにも大事な務めがあるとかで、来客の取次をしたり、茶を淹れたり、はたまた図書室への遣いをしたり、衣装を整えたり、朝昼晩の食事の給仕をしたりはしない。エヴラールに自由な外出が許されていないため、先触れの役目がないだけいいのだと思わなくちゃいけないのかしら、とベルタは思った。

 エヴラールはものわかりもよく、親切な主であるため、仕えにくいということはない。だが、それでも、東国王位継承権第二位にある男の傍に四六時中控えているというのは、肩の凝ることだ。休みが欲しいわ、とベルタは思った。上司に直訴しようにも、彼女と顔を合わせる暇すらもないのだからお手上げだ。

「どうしたの、ベルタ」

 主の薄青の瞳にごく間近から覗き込まれて、彼女は思わず仰け反った。

「浮かない顔して、なにかあった?」

 休みをくれ、いますぐに、と思わず口にしそうになったベルタは、しかしどうにか踏みとどまった。訴える相手が間違っている。この方は悪くない主ではあるけれど、ご自身の身すら自由に処すことのできないお立場なのよ。おねだりなどしている場合ではないわ、ベルタ。

 身のまわりが賑やかになったとはいえ、エヴラールはその立場を変えたわけではない。監察府による取調べは相変わらず続いているし、外出の自由がなく、顔を合わせることのできる相手が限られていることも以前と同じだ。

 そうしたエヴラールの身辺にまつわる一切を取り仕切るのは、オリヴィエ・レミ・ルクリュである。彼のもとにエヴラールの側近であるポール・シャルリエが怒鳴り込む姿は、ベルタにとってはもはや見慣れた光景となりつつあった。

 なぜ貴様がよくて俺がだめなのだ、とシャルリエが振られた男の負け惜しみのような台詞を吐きながらオリヴィエに詰め寄る。すべては王太子殿下のご意志です、とオリヴィエが答える。そんなもの知るか、知るかではありませんよ、と不毛なやりとりが続いたのち、邪魔だ、帰れ、と云われたシャルリエが諦めて退散していく。

 まったくあの方も懲りない、とベルタは思っている。毎回毎回同じことの繰り返しで、違うのは、シャルリエ自身が諦めるまでの時間ぐらいのものである。

 つまり、そのようにしてエヴラールの身辺につき絶大な権力を擁するオリヴィエが、エヴラールの傍近くまで寄せる侍女をベルタひとりと決めたのであれば、それを覆すことはいまのところ誰にもできない。たとえ、暫定的上司であるところのデジレ・バラデュールに訴えたところで、結果は目に見えている。――いまは堪えてください、ベルタ。

 ええ、ええ、堪えますとも、とベルタは心中で自棄を起こす。主の旅列からはぐれ、ひとり東国に取り残されてしまった自分が生計を立てる手段は、いまの立場にしがみつく以外にないのだということは、彼女自身が一番よく理解していた。

 いいえ、なんでもありませんわ、とベルタは答えた。

「なんでもないっていう顔じゃないけど」

「いいえ、本当になんでもありません」

 あくまでも云い張るベルタに、エヴラールはかすかな苦笑いを向けた。

「おまえからすると、私はずいぶんと頼りない男に見えているようだね」

 なかば囚われの身であるあなたのどこに頼り甲斐が、とベルタは思ったが、口にはしなかった。気をつけていないと顔に出てしまう自覚はあるので、ついでに表情も引き締めておく。

 いえ、あの、と彼女は云った。この気まずい空気を追いやるための、なにか適当な話題はないものか。

「そ、そういえば……」

 ん、とエヴラールは軽く首を傾げた。王太子のように人目を惹く美形というわけではないけれど、穏やかな容貌の彼がこういうしぐさをすると、まるで幼いこどものようで、放っておけない雰囲気になる。そこがまた腹立たしい、とベルタは思う。

「王太子殿下からは、その後なにかお便りはあったのでしょうか」

「アランから?」

 はい、とベルタは頷く。なぜ、と云わんばかりに、しばし訝しげな表情で眉根を寄せていたエヴラールは、やがて、ああ、と大きく頷いた。

「エリシュカどののことか」

「え、ええ、まあ……」

「気になる?」

 それはもちろん、とベルタは答える。

「もう二度と会うことは叶わないかもしれないと思った友人の消息です。気になるのは当然かと」

 そうか、とエヴラールは頷いた。そして、お茶を淹れてくれる、ベルタ、と云った。

「おまえのぶんもね」

「殿下、それは……」

 ベルタが拒めば、そういえば、アランからは無事を知らせる書簡のあと、さらにもう一度便りがあったそうだよ、とエヴラールはどこかからかうような表情になって云う。

「まあ、正確に云えば、神ツ国教主の息子からのものらしいんだけどね。その話、聞きたくない?」

 ぐ、とベルタは奥歯を噛みしめた。彼女の仮初の主はときどきこういう意地の悪さを発揮する。ラ・フォルジュの血は性悪なんだろうか、とベルタは心中で呟きつつ、かしこまりました、と返事をした。


 神ツ国教主の息子イエレミアーシュ・ヴラーシュコヴァーの名で、東国国王ピエリック・ロラン・ラ・フォルジュに宛てて送られてきた書簡には、貴国の王太子殿下は、昨夜遅くにわが国を出立し、帰国の途に就かれました、というごくごく簡単な内容が、素気ないと云ってもいいほどに飾り気のない文章で綴られていたという。

 むろん、エヴラールが実際にその書簡を目にすることはできない。あくまでもオリヴィエから伝え聞いたことである。

 その書簡にはいくつかの不審な点があった。

 まずは、昨夜、というひとことである。もしも、書かれている内容を文字どおりに受け取るのであれば、この書状がしたためられたのは、ヴァレリーが神ツ国を発ったあとということになる。にもかかわらず、なぜ、当の王太子よりも早くこの書が王城まで届けられたのか、ということがひとつ。

 いまひとつは、王太子の同行者として、彼の国の娘エリシュカの名があったことである。ヴァレリー・アラン殿下はわが国の娘をひとり、伴って行かれました。彼の娘に幸あらんことを切に願います、と書簡には記されていた。

 エリシュカは賤民の娘である。己が身ひとつ自由に処することを許されぬはずの娘がなぜ、ヴァレリーとともに国を出ることができたのか。

 また、このことは神ツ国教主も承知のうえである、とイエレミアーシュは書き添えてきた。これを、賤民の娘が国を出ることを彼の国の元首が認めた、とそう素直に受け取っていいのかどうか。もし、それが事実であるのならば、そこに含まれた意図――神ツ国がエリシュカに自由を与えた意味――はなんなのだろうか。

 そして最後に、そもそもこの書簡の送り主がイエレミアーシュである理由がわからない。なぜ教主でもなく、元王太子妃であるシュテファーニアでもなく、彼女の兄イエレミアーシュが差出人となっているのだろうか。彼は西方神殿の神官長として彼の国ではそれなりの地位にある人物ではあるが、これまで東国とのかかわりは絶無である。突如として国王に宛てて書簡を送りつけてくる意味が――権限の有無は別として――わからない。

 ともかく、イエレミアーシュからの書簡はその短くあっさりとした内容の割に、わからないことが多すぎた。書を持参した使者は国内で雇われた民間の伝令便の者で、詳しい事情はなにひとつ知らない。どんな者がどのように依頼したのだ、と問い詰めても、北の国境の街にある支店に何者かによって持ち込まれ、そのあと何人かの手を経てここへ届けられたようだ、ということまでしかわからなかった。

 国王がこの書の存在を明らかにし、内容を公表したのは、先だっての朝議の場でのことだったという。その場にはオリヴィエも居合わせていた。

 無事を知らせる便りに続く書簡に、当初、一同はみな安堵の息をついたのだという。だが、その内容は先のとおり、単純に受け止められるようなものではなかった。

 そもそもこれは本物なのか、と大臣のうちの何人かはそう云った。疑う理由はない、と答える国王の声は苦かった。

 イエレミアーシュからの書は蝋印にて封緘されたうえで届けられた。捺されていた印は、間違いなく神ツ国ヴラーシュコヴァー家所縁の者の印であると、王城の印章部の官吏は鑑定している。そして、国王自身の目で見ても、その印が偽造であるとは思えなかった。なにしろ、と国王は云ったそうだ。彼の国とはアランの婚姻の際、厭というほど書を取り交わしているのだ。己の印よりも見慣れたそれを見間違えるものか。

 では、この文面はどう説明するのです、とは別の大臣が云った言葉だ。昨夜、とここには書かれている。もしこの書簡が本物で、また、書かれていることが事実に相違ないとすれば、この書を届けた者は、先に出立した王太子殿下を途中で追い抜いたということになる。この真冬に、あの神ノ峰の中において。

 ありえない、と一同は険しい声を上げた。――ありえてはならない。

 神ノ峰は峻厳な岳の連なりと地形の複雑さゆえに、これまで長らく神の住まう山とおそれられてきた。おいそれと立ち入ることのできないその場所は、人々を遠ざけ、街の発展を阻み、産業の発展の妨げとなってきた。しかし一方では、天然の要塞となって、各国を守る役割も果たしてきたのである。

 彼の山を冬に越えるすべはないと云われています、と口を開いたのは朝議への出席を許されている官吏のひとりだった。現に彼の国との交易はすべて夏のあいだにのみ行われ、そのほかの季節には北の山門が開くことすらない。

 ですが、と彼は慎重に続けた。南国の商人の中には、冬にも神ノ峰を越える者があると云います。また、熱心な巡礼者たちは、わが国からも西国からも季節を問わずに聖地へと旅立っていく。そしていま、ヴラーシュコヴァーを名乗る者からの書状が、こうして陛下に宛てて届けられた。ここにはなんらかの意図が含まれていると解釈するべきです。意図、つまり、彼の国にはまだわれわれの知らぬ力があるのだと、そう云いたいのではないのでしょうか。

 険しい山々に囲まれ、狭い土地にへばりつくように暮らす貧しい国。神を戴く聖地で以外にこれといった強みはなく、理不尽な身分制度や厳しい戒律などの旧弊に蝕まれ、いまにも瓦解しそうな弱小国家。王家が代々にわたって彼の国の教主一族と婚姻を結んでいるのは、そのすべてを踏まえたうえでの、いわば宗教的な慣習にすぎない。

 それが、東国に暮らす者たちが理解する、ごく一般的な神ツ国の印象である。

 だが、そうではないのではないか――。

 官吏の発言を機に、その場にいた者がみな国王ピエリックへと視線を向けた。

「なにかがある、とみなが気づいたのだろうね」

 エヴラールはベルタの淹れた茶を美味しそうに飲みながら、やや上目遣いになって正面で申し訳なさそうに縮こまっている侍女を見つめた。

「なにか、とは?」

 ベルタは乾した果物の小さな欠片を口に含み、必要以上に言葉を発してしまわないように用心する。うん、とエヴラールは頷いた。

「そこをね、おまえに訊いてみたいと思っていたんだよ」

「私に、ですか?」

「そう。おまえの父親は神ツ国の神官なのだろう」

 ごくごく位階の低い、数多のうちのひとりにすぎません、とベルタは答えた。

「そんなわけはないよね、ベルタ。おまえは仮にも王太子妃殿下付侍女だったのだろう。そんな男の娘が教主の娘の侍女になどなれるものではない」

 嘘などついていない。ジェズニークの家は、代々出世をしないことで知られる家系なのだ。彼女がそう答えると、エヴラールは、ふうん、と長い指先で自身の唇を弄ぶように摘まんだり離したりしはじめる。なにか深く考え込むときの、これが彼の癖なのだと、ベルタはすでによく知っていた。

「おまえの父の役職を教えてくれないか、ベルタ」

 ベルタはふたたび乾した果物を口へと放り込んだ。おかしい、と彼女は思っていた。先に質問したのは私のはずなのに、いつのまにか問い詰められる側に追いやられている。

「わ、私はエリシュカのことをお尋ねしたはずですが……」

 うん、とエヴラールはわざとらしい笑顔で頷いた。

「だから教えてやっただろう。彼女はアランとともにわが国へと向かっているところだと」

 では、お話はもう終わりでは、とベルタは云い返すことができなかった。エヴラールが明かしてくれたヴァレリーとエリシュカの動向が、いまの東国にとっては、ほとんど最重要といってもいいほどの機密事項であることをちゃんと弁えていたからだ。――行方不明になっていた王太子がいまどこでどうしているかを知りたい者が、この国の内外にどれほど大勢いることか。

「ベルタ。私に教えてくれないか。おまえの国の秘密を」

 あれはいったい秘密と呼べるようなものなのだろか、とベルタはしばし考えた。父が教えてくれたあれは――。

 迷うベルタの背中を、彼女の仮の主が強い力で押した。

「ベルタ」

 有無を云わせぬ声音にベルタは慌てて頷き、日ごろの快活さを欠いた声で訥々と話しはじめた。

「私の父は中級の神官で、役職は司書。わがジェズニークは代々、神ツ国中央神殿にそのお役目を拝命しております」

「司書?」

 エヴラールの眉間に深い皺が寄せられた。ベルタは、はい、と慎重に頷く。

「わが国には特別に大きな神殿が五つあります。東西南北の各神殿と中央神殿。このうち中央神殿には、おそらくこの大陸随一であろうと云われるほどの蔵書量を誇る、広大な図書庫があるのです」

 ほう、とエヴラールの瞳に知的好奇心の光が灯った。こんなときにでさえ学者の血が騒ぐのだろうか、とベルタは思う。

「ここを管理するお役目が司書。父はその司書の副長を務めているのです」

「それで、その父上はおまえになにを教えてくれたのだ?」

 賤民の娘とも仲良くするようにと、それだけであったか、とエヴラールの口調はからかうようでありながら、ベルタを決して逃がさぬように追い込んでいく。やっぱりラ・フォルジュってのは性悪の家系なんだわ、とベルタは悔しげに唇を噛んだ。

「父は云っていました。どう足掻いても貧しく、長らく閉ざされ、時の止まったようであるわが国が、他の国に唯一誇れるもの。それがこの中央神殿の図書庫である、と」

「その理由は?」

 蔵書の量のことだけを云っているのではあるまい、とエヴラールは畳み掛けた。

「父は云っていました。図書庫にはこの大陸のあらゆる歴史が納められている、と。わが神ツ国は云うに及ばず、西国、南国、島ツ国、そして東国。そのすべての歴史が眠っているのだ、と」

 卓の上に置いた茶の器をじっと見つめ、ほとんど俯きながら話すベルタは気づかなかったが、このときのエヴラールはひどく険しい顔をしていた。

「すべての、歴史……」

 はい、とベルタは小さく頷いた。

「あらゆる国、あらゆる為政者、あらゆる宗教、あらゆる秘術。いまあるものも、すでに滅んだものも、なにもかもを知ることができると」

「莫迦な……」

 エヴラールは思わず口走っていた。莫迦な、そんなことができるはずがない。山に囲まれ孤立した、貧しく小さな一国家に、そんなことができるはずがない。

「父は嘘は申しません。私は巫女でも神官でもありませんので、この目で見たことはありませんが、それはたしかにあるのだと思います。わが国の始祖が、国家の礎とともに歴史を納める術を築いたのだと、そう云われています」

「始祖?」

「教主ヴラーシュコヴァーの祖先は、西国での迫害を逃れて大陸を彷徨い、やがて現在のわが国のある地へと流れ着いたのだと云います。その途中、隠者として山に住まう魔女に知恵を授けられたのだとか。魔女はこう云ったそうです。歴史を集めよ、知恵を集めよ、さすれば国は必ずや保たれよう、と」

 エヴラールはなにも云わずに双眸を細めた。ベルタはおそるおそる顔を上げ、またすぐに俯いてしまった。

 歴史を集める、とエヴラールはベルタの言葉を脳裏で反芻する。いったいどういう意味だ。しかも自国のものだけではなく、他国のものまで集めるとは、いったい――。

 歴史とは、否、歴史に限らず学問とは為政者のものだ。仮にも学問を修めるエヴラールにはそのことがよくわかる。為政者にとってまず重要なのは自国、ゆえに自国の歴史を重要視するなら理解もできるが、他国のそれも、となると――。

 国は栄える、つまり権力をより強固にするためか。

 いや、そうではないだろう、とエヴラールは考えた。権力者は自己の正当性を示すための歴史を必要としているが、そこに他国は――踏み躙るための存在として以外は――必要ない。

 それに、集めるとはいったいどういうことなのだろう。為政者にとって歴史は集めるものではない。作るものだ。ときの権力者にとって都合のよいことは明らかに、そうでないことは闇に葬って――。

 そうか。

 そういうことか、とエヴラールは大きく目を見開いた。稲妻のような閃きだった。

 神ツ国にはすべての歴史が集められている。

 すべて。

 よいことも悪いことも、すべて。

 為政者にとって都合のよいことも悪いことも、すべて。

 なんということだ、とエヴラールは握った拳をさらにきつく固めた。

 なんということだ。

 ベルタはさっきなんと云った。西国、南国、島ツ国、そして東国、そのすべての歴史が眠っている、とそうは云っていなかったか。

 つまりそれは、神ツ国がこの大陸のすべての国の秘密を――為政者が闇に葬ってきた、暗く澱んだ歴史を――握っているということではないか。

 あの国が戴いているのは姿なき神などではない、とエヴラールの背中がひやりと冷たくなった。この大陸にいくらでも争いをばらまくことのできる、――火種だ。

 なるほどそのための政略結婚か、とエヴラールは握り込んだ拳を震わせながら思考した。神の威を借りた彼の国は、信仰が薄れつつある昨今になってもなお、娘たちを各国へ嫁がせている。彼女たちは国と国とを結ぶ絆であると同時に、各国の歴史を故国へ送る間諜の役割も果たしているのだろう。

 エヴェリーナ陛下もそのひとりか、とエヴラールは思った。そしてまた、あの元王太子妃シュテファーニアもそうした役割を背負っていたのに違いない。

 国が保たれる、とはそういう意味かとエヴラールは思う。厳しい気候、資源はあれど、それを生かすすべを育むこともできぬであろう狭く荒れた土地、しかし、それでもそこに生きねばならなかった者たちのために、魔女は強大な力を授けた。歴史、そこから読み取ることのできる叡智だけではなく、そこに潜む闇をも彼の国に集めさせたのだ。

 いつか必ず役に立つときがくるだろう、神ツ国の危機を救うときがくるだろう、と。

 魔女の予言は的中した。

 賤民制度という、理不尽ではあっても彼の国の存続に欠かせなかった仕組みが崩壊しつつあるいま、神の国は滅びの淵に立っている。

 その危機を救う――、叡智の集積。

 神ツ国に暗部を握られているわれわれは、どうあってもあの国には逆らえない。血の流れぬ歴史などありはしないが、しかし、強奪者だ、簒奪者だと糾弾されて怯まぬ為政者などいない。揺らがぬ支配者などいない。

 怯み、揺らいで、民に阿るか――。

 怯み、揺らいで、民を弾圧するか――。

 それはおのおのの為政者の性質によるであろうが、しかし、いずれにしても無傷ですむはずはないのだ。

 エヴラールは不安げなベルタの眼差しに気づくことなく考え続ける。

 厄介なことを知ってしまった、と王太子の従弟は思った。彼の国から戻るアランは、このことを知っているのだろうか。彼らの握る秘密、その力を封じる手段を考えているのだろうか――。

 エヴラールの思考は、いまはまだとりとめもない。

 だが、こうして真実を知った彼は、やがてある未来図を思い描くことになる。それは、エヴラール自身のこれからをも指し示す道しるべともなるのだが、いまの彼はまだそのことを知らずにいるのだった。

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