56

 テネブラエの歩みが止まった。先頭を行くヴァレリーと彼の騎乗する葦毛が、エリシュカの背後にいる案内人――彼の名はルジェクという――が送る合図に従ったせいだった。高音と低音を交互に繰り返す口笛は、その場で止まれ、という指示である。

「どうかしたか」

 ヴァレリーが問うと、ルジェクは、今日はここに寝床を作ろう、と答えた。

「まだ陽は高いぞ」

 時刻としてはまだ昼を過ぎたばかりである。いま少し距離を稼げるだろう、という王太子の言葉はもっともだったが、ルジェクはあっさりと首を横に振った。

「じきに嵐が来る。この先しばらくすると林が途切れる。風と雪とを凌ぐには、ここのほうが都合がいい」

 ルジェクの言葉はとても簡潔だったが、逆らうことのできない強い力を持っている。ヴァレリーも納得し、すぐに葦毛から降りて天幕を張る支度をはじめた。


 イエレミアーシュの用意した神ノ峰の案内人であるルジェクは、ヴァレリーよりもいくらか年嵩ではあるものの、まだ歳若い青年であった。案内人として独り立ちしてから日は浅いものの、同じく案内人を務めているという祖父や父、弟らとともに長らく山に親しみ、また幾度か貴人の護衛を務めたことがあるとも云っていた。

 深々と冷え、粉雪のちらつく夜更け、イエレミアーシュの指定した場所で彼と落ち合ったヴァレリーとエリシュカは、国境の門を越えるまで互いに言葉を交わしあわぬままでいた。静かにしていろ、というルジェクの目配せをふたりが正しく読み取った結果だった。

 門番に立つ神兵らとのやりとりは、すべてルジェクが行った。門を越え、山の入口である木柵を過ぎ、細い道をしばらく進み、互いのほかに誰の気配も途絶えたところでルジェクはようやく足を止めた。

「俺のことはルジェクと呼んでくれ」

 簡単に名乗った彼に、ヴァレリーは云った。

「可及的速やかに神ノ峰を越えたいと考えている。案内、よろしく頼む」

「西方神殿の神官長からも同じことを云われたが……」

 ルジェクはそう云って、肩を竦めるような仕種をした。厚く着込んだ外套のせいで体格がよくわからないが、決して鈍重に見えないのは、日ごろから山とともにあるその暮らしのせいだろうか、とエリシュカはぼんやりと考えた。

「速やかに、とはいったいどの程度を云うのだ」

「そなたに可能な限りの速さで、ということだ」

 ヴァレリーが応じると、ルジェクはひどく渋い顔をした。俺の足におまえたちが着いてこられるとは思えないが。

 エリシュカは黙ったままふたりのやりとりを見守っていたが、ルジェクがひと言、女もいるしな、と云い添えるのを聞き、わたしなら大丈夫です、と口を挟み、ますます厭な顔をされた。

「おまえたちは山のおそろしさをわかっていない。なにも知らぬ愚か者をふたりも連れて冬を行けという依頼だけでもうんざりなのに、謙虚も弁えていないとはとんだ命知らずだ」

 おれは東国の王太子だ、とヴァレリーは云った。

「おれが旅を急ぐのはそなたの与り知らぬ事情ゆえだ。つべこべ云わずに云われたとおりにすればよい」

「知っている。だが、それは俺には関係のないことだ」

「知っている、だと?」

 ああ、とルジェクは応じる。

「イエレミアーシュどのから聞いたのか」

「もちろんだ。俺たちは秘密を好まない。護衛する者の名、身分、立場、その事情、すべてを正直に話してもらうことにしている。なにもかもを聞いたうえでなければ、長がその依頼を受けるかどうか決めることができないからな。依頼者の語ったことにひとつでも偽りがあれば依頼は受けんし、旅の途上で嘘が明らかになったときはその場に置き去りにすることもある。われらの命を危険に晒した報復として」

 エリシュカの顔が知らず知らずのうちに強張った。では、ルジェクはなにもかも承知しているというの。アランさまのご身分も、わたしの立場もなにもかも――。

 エリシュカは、神ノ峰を越える際に護衛につく案内人という者たちについて、ほとんどなにも知らない。もっともそれはエリシュカに限ったことではなく、じつは神ツ国の中に彼らの実態について把握している者はひとりもいないのである。

 おまえたちは、とヴァレリーが無意識のうちにエリシュカを背後に庇うようにして立つ。

「いったい何者なのだ」

 神ツ国の神官とまるで対等であるかのような口をきき、国から独立した存在であるかのように云うが、と彼は低い声でルジェクを問い詰めた。

「われらは山ノ民と呼ばれている。狩ノ民と名乗ることもあるな」

 ルジェクはあっさりと答えた。

「われらは山に生き、山に死ぬ。国は持たない。財も土地も持たない。神官や商人らと取引をするのは、彼らがわれらの力を必要とするからだ。引き換えにわれらが得るものは多くはないが、山を荒らされたくはないからな、仕方のないことだ」

「山ノ、民……」

 エリシュカは思わず長套の上から腰袋を掴んだ。そこには、オルジシュカからもらった古い地図――彼女とヴァレリーを神ツ国まで導いた命綱――が納まっている。

「われらの名に聞き覚えがあるのか」

 ルジェクはどこかおもしろそうな表情でエリシュカを見た。エリシュカは慎重に頷き、わたし、あなた方の先祖が描いたという地図を持っています、と答えた。

「地図?」

 ルジェクの顔に不審の色が浮かぶ。われらは地図など、と呟いた彼は、しかしすぐに、ああ、と得心の声を漏らした。なんだ、そういうことか。

「そういうこと?」

「娘。その地図はわれらの地図ではないな。里ノ民のものだ」

「里ノ民?」

 そう、とルジェクは頷いた。どこか遠い目をした彼は、なにかを思い出すようにしながら訥々と語った。

 山ノ民とは、古くからこの地に住まう者たちを総称する名だ。われらにはもともと名などなく、この山や裾野に広がる里や林などに散らばって暮らしていた。やがて多くの林が切り拓かれ、いくつもの里が炎に飲まれ、われらはだんだんに暮らしの場を奪われていった。山ノ民などと呼ばれ出したのもそのころのことだ。

 だがそうはいっても、山は深く広く、恵みも多く、われらが身を匿うにはもってこいだった。われらは相変わらず、しかし少しずつ深い山の奥へと隠れ住むようになり、里に落ち着きたい者は里の暮らしを、山に生き続けたい者は山の暮らしをそれぞれに選んで、穏やかに暮らしていた。

 山の中に国が築かれた折には、そのあたりに里を置いて暮らしていた者たちはだいぶひどい目に遭いもしたようだが、しかしわれらの大半は相変わらず山の中に暮らしている。里の暮らしには大陸中のさまざまな品々が流れ込むようになってだいぶ豊かになったとも聞くし、われらも神官や商人らと日々取引をして生きているくらいだから、以前とまったく同じというわけにはいかないが、それでも、われらは相変わらずどこの国にも属さぬし、どこの王にも諂わない。

「山ノ民はいくつもの顔を持っている。神ツ国では賤民と呼ばれ、里に暮らせば里ノ民と、山に暮らせば狩ノ民と呼ばれている。だが、もとはと云えばみな同じ民よ」

「同じ、民……」

 エリシュカの声が大きく戦慄いた。

「同じ民だと、あなたたちはわたしたちが賤民と虐げられていることを、知っていたと……?」

 ん、とルジェクは首を傾げた。エリシュカは、突然知らされたあまりの理不尽に身を震わせる。

「あなたたちはわたしたちが神ツ国でどんな目に遭わされているか知りながら、なんの助けも差し伸べてくれなかったのですか。賤民と呼ばれ、蔑まれ、虐げられていることを知りながら、その国と取引までして……」

「それのなにが悪いのだ」

 どうも俺を責めているようだが、とルジェクは云った。

「虐げられることに甘んじているのはおまえたちだろう。いまの立場が気に入らないなら、国など出ればいい。もともと自分たちのものでもない国にしがみつき、勝手に虐げられたの痛めつけられたのと、そんなことを俺たちのせいにされてもなあ……。困るよ」

「ルジェクとやら」

 そのあたりにしておいてもらえぬか、とヴァレリーが口を挟んだ。エリシュカの肩を抱く腕にやわらかく力を込めながら彼は続けた。

「そなたたち狩ノ民が誰にも従わぬ、まつろわぬ、ということはよくわかった。だが、そのことを理由に、虐げられている者たちをさらに貶めるような言葉を並べることは許されない。それにいまは、そんな話をしている場合ではないのではないか」

 立ち止まり、長々と言葉を交わしているあいだにも、粉雪は深々と降り続いている。三人の肩はそれぞれ白く凍りつき、このぶんでは身体の芯まで冷えきってしまいそうだった。それぞれが連れている三頭の馬たちも、みな身震いしたり足踏みをしたりして主たちに抗議しているような風情だった。

 そうだな、とルジェクは呟いた。わずかな沈黙ののちのことだった。

「申し訳なかった。では、先に進みながら、話を元に戻すとしよう」

 そう云って彼は自身が騎乗する薄墨毛の手綱を引きながら歩きはじめた。感情の治まらぬエリシュカを宥めながらヴァレリーは彼に続く。しばらくのあいだ沈黙が続いた。

 粉雪が静かに舞い降りる風のない晩、月明りもない山道を、ルジェクは迷いのない速度で進んでいく。彼の掲げる灯だけが、ヴァレリーとエリシュカにとっては唯一の目印となっていた。

「先ほどの地図の話ではないが」

 不意にルジェクが口を開いた。ヴァレリーは顔を、エリシュカは視線だけを上げて彼の言葉の続きを待った。

「この山の中には、われらだけが知る道が数多ある。エリシュカが持っているという地図にあるのが、そのうちのひとつだと云えば理解できるか」

 エリシュカが返事をしなかったため、ヴァレリーが代わりに、ああ、と応じた。

「そうした道の中には、非常に厳しくはあるが、普通なら十四、五日はかかる道のりを五日で踏破できるものもある」

「五日……!」

 ヴァレリーが驚いたような声を上げた。

「そう、五日だ」

 岩場をよじ登り、絶壁を駆け降るような悪路だがな、とルジェクは云う。

「まあ、そなたらの足でも七日、といったところだろうか。見れば、ずいぶんとよい馬を連れているようだし」

 神ノ峰とは、本当におそろしいほどに豊かな場所なのだわ、とエリシュカは少しずつ憤りの静まってきた頭の隅で、そんなことを考えた。

 オルジシュカからもらった地図にあった道は、起伏の少ない道をゆったりと歩むためのものだった。老人やこどもなど体力のない者や病人や怪我人のために必要とされていた道だったのかもしれない。そういえばオルジシュカにこの地図を渡したのは、妊婦や産後まもない女を相手にする産婆だったはずだ。

 一方ではしかし、ルジェクの云うように急ぎ山を抜けるための道もあるのだろう。さらに、姫さまのお輿入れの際に通ったような、一度に大勢が進めるような道もある。

「どうしても、というのであれば、俺はその道を行こうと思う。ただし、いったん行くと決めれば、道を変えることはできないし、引き返すこともできない。こちらから進んだ道を逆に辿ることはできないのだ」

 ヴァレリーは傍らのエリシュカの顔を覗き込んだ。己ひとりであれば、迷うことなくルジェクの云う道を選ぶが、いまの彼にはエリシュカがいる。急ぐ道行ではあるが、彼女に無理を強いたくはなかった。

「わかりました」

 エリシュカの声はとてもはっきりしていた。

「ルジェクの云う道を行きましょう」

 ヴァレリーとルジェクはともに眉根を寄せ、険しい表情でエリシュカを見た。

 そんな簡単に、とヴァレリーが云えば、もう少し慎重に考えろ、とルジェクも云う。だが、エリシュカにしてみれば、簡単も慎重もない。いま優先されるべきはヴァレリーの都合であると、そう考えているだけなのだった。

「急ぐ旅なのです。いまのわたしたちは、一日でも半日でも早く、東国へ辿り着くことだけを考えるべきです」

 ヴァレリーの瞳が大きく見開かれた。――わたしたち、とエリシュカは云った。

 わたしたち。

 こんなときだというのに、ヴァレリーはその言葉を心から嬉しく思った。思わず笑みを浮かべてしまった男を、胡乱なものを見るときとまったく同じ目で見遣ったルジェクは、小さなため息をついて、わかった、と応じた。


 ルジェクの云ったとおり、道のりはたしかに厳しいものだった。氷と雪に閉ざされた世界を風に煽られるようにして進むのだ。身は凍え、気は塞いだ。

 エリシュカの心に呼応するように、テネブラエもどこか元気がないように感じられた。もっともそれはただの気のせいで、彼は慣れぬ道にいつもよりもずっと慎重になっていただけなのかもしれないが。

 荒れた岩場を半日も進むこともあれば、灌木の茂みの中を数時間歩むこともあった。急な崖をテネブラエの背に跨ったまま、一息に駆け降りたこともある。

 ルジェクの指示はいつも的確で、旅は常に彼の言葉に沿って進められた。ヴァレリーでさえ、ルジェクの云うことには逆らわなかった。エリシュカなど、その日一日、ひと言も口をきかないこともあったくらいだ。

 やがて道は徐々に歩みやすくなってきた。岩場を行くことは少なくなり、背の高い樹々が増え、そのうちに林の中を歩むことが多くなってきた。代わりに、一日のうちに進む距離が増え、ときには夕刻になっても松明を灯して先を急ぐこともあった。

 エリシュカやヴァレリーの疲れまでも正確に見抜くことができるのか、ルジェクはいつも絶妙な加減で休憩を設け、泊まる場所を決めた。彼の頭の中には、この山のあらゆることが完璧に記憶されているのかしら、とエリシュカは思った。それを云うと、ルジェクは、いいや、と首を横に振った。山は日々変わっていくんだ。記憶なんか役には立たない。ただ、わかるんだよ。

 山とともに生き、山とともに暮らし、いずれは山に斃れる者たちはきっと、山をおそれ、敬い、きっとなによりも愛しているのだろう。そして、山もまた彼らを慈しんでいる。わかる、というのは、きっとそういうことだ。

 ヴァレリーとルジェクが宿泊用の天幕を張っているあいだに、エリシュカは火を起こし、夕食の支度を手早く整える。食事はいつもほとんど同じものだ。旅のはじめにルジェクが狩った鳥や兎の肉と木の芽や茸をたくさんの香辛料とともに煮込んだものに、硬く焼いたパンを浸しながら食べる。スープが残れば鍋にしっかり蓋をして、次の食事にまわす。

 食事を作るのはエリシュカの役目で、男ふたりは天幕を張ったり水や食糧を確保したり、各々の役目はそれなりに忙しかった。なにかを考えている暇なんてないくらいに。

 でも、とエリシュカは思った。目の前の道を歩むことにばかり気を取られているのは、わたしだけなのかもしれない。だって、アランさまは日に日に王太子の顔を取り戻していく。

 嵐に倒れ、ヴァイスの庵で目を覚ましてからというもの、エリシュカはヴァレリーの立場をほとんどすっかり忘れてしまいかけていた。彼が王太子で、いずれは国王になる立場にある男だということを――。

 それくらいにアランさまはアランさまであったのだわ、とエリシュカは思った。地位を持たず、立場を背負わず、責務も矜持も忘れた――、ただのアランさまだった。

 わたしはそんな彼にだからこそ、心を打ち明けることができた。すべてを赦し、受け入れることができた。臆面もなく許しを乞い、愛を願う彼を抱きしめることができた。

 とても幸せだった。

 だけど――。

 そんな時間はもうじき終わるのだと、ほかならぬアランさまご本人がそうおっしゃっているかのようだ。ヴァイスの庵で目を覚まして以来、ほとんど目にすることのなかった、冷たく厳しい横顔で。

 本当にこれでよかったのかしら、とエリシュカはふとスープを掬う手を止めてぼんやりと焚火を見つめた。近くにいたいと、隣に立ちたいと、ほとんど衝動的にこうしてアランさまに着いてきてしまったけれど、本当にこれでよかったのかしら。だってアランさまには、ほかにもっとふさわしい女性がいるのでは――。

「エリシュカ」

 揺れる炎を映した夏空色の瞳が、気遣わしげにエリシュカを見つめている。

「どうかしたか」

 いえ、とエリシュカは急いで首を横に振った。

「なんでもありません」

「エリシュカ」

 ヴァレリーの眉間には深い皺が寄せられている。

「云いたいことがあるなら、云え」

「云いたいことなど……」

 不意にルジェクが立ち上がった。ヴァレリーに詰問され、おどおどするエリシュカにかまうことなく、彼は空になった椀に火にかけられていた鍋から湯を注ぎ、手早く洗うと、先に寝む、と天幕の中に入っていってしまった。不器用で無愛想な、それがルジェクなりの気の遣い方だということは、山に入ってすぐ知ったことだった。

 ヴァレリーは、今度こそ遠慮なくエリシュカに詰め寄った。

「なんでもないなら、なぜそんなふうに不安そうな顔をする?」

「不安?」

 ああ、とヴァレリーは頷いた。それでは以前と同じではないか。

「以前と、いや、それでも以前よりはましか。かつてのそなたは不安さえおれに見せようとはしなかったのだからな」

 それを考えればたいした進歩か、とヴァレリーは自嘲する。エリシュカはどう答えたらいいのかわからずに俯いた。なあ、エリシュカ、とヴァレリーはそんな彼女の手にそっと触れながら、やわらかな口調で続けた。

「おれは東国王太子だ」

 エリシュカは大きく目を見開いた。こんな顔を見せれば、いまのいままで自分がなにを考えていたのか、すべてヴァレリーに伝わってしまうというのに、彼女は驚きを隠すことができなかった。

「そのことはどうやっても変えられん。おれがおれであるように、おれでしかないように、おれは東国王太子で、それはどうやっても変えることはできない」

 変えたいとも思わない、とヴァレリーは苦笑した。

「もうすべて放り出してしまおうかと思ったこともある。そなたとともにいられるならばそれでもいいと、そんなふうにな」

「そんな……」

「できなかった。結局は捨てられなかった。自分のすべてと引き換えにしても足りぬほど愛しいそなたを失うかもしれぬと思っても、それでもおれはおれを、王太子であることを捨てられなかったのだ」

「それで、よいのです、アランさま」

 エリシュカはかすかに震える声で呟くように云った。アランさまはアランさまでなくては――。

「ルジェクが云うには、もう明日にも東国の北の国境へと辿り着くことができるそうだ。国境の門をくぐれば、おれは王太子ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュに戻らねばならん。いかなるときにも、いかなる場所でも、だ」

 はい、とエリシュカは頷いた。

「そなたに厳しくあたることもあるかもしれない。己が考えを、この心を、そう容易く言葉に換えることはできなくなるかもしれない。秘密や嘘で、そなたを傷つけることもあるかもしれない。すべてを赦せとは云わぬ。受け入れろ、とも」

 けれど、とヴァレリーはエリシュカの手を握る掌に力をこめた。

「どうか忘れないでいてくれ。おれの心はそなたのものだ。なにもかもすべて、強さや美しさだけではなく、弱さや醜さも、全部、そなたのものだ。王太子であるおれを信じることができなくなる日がいつか来るとしても、ここにいたおれは、そなたの前にいたおれは本当なのだと、そのことだけは忘れないでいてくれないか」

 エリシュカはぎゅっと目蓋を閉じた。心そのものであるかのような熱い塊が喉を塞ぎ、想いそのものであるかのようなうねりが身の裡に湧きあがった。さっきまでたしかにあったはずの不安は、その熱に焼かれ、そのうねりに飲まれ、もうどこにも見つけることはできない。

「エリシュカ」

 ヴァレリーの腕がエリシュカの身体を、まるで壊れ物を抱くようにそっと引き寄せた。深々と冷える冬の森、寄り添う体温だけが、これからを生きるためのたったひとつの道しるべのように思える。

「はい、アランさま」

 エリシュカは目蓋を閉じたまま、囁くような声で答えた。あなたの想い、あなたへの想い、もう二度と、もう決して、――忘れません。

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