57
エヴラール殿下という人もよくわからんな、とガスパール・ソランが云ったのは、トレイユ追跡の旅もいよいよ大詰めとなった、ある日の夕暮れのことだった。モルガーヌは、はあ、となにやら気の抜けた返事をして、それ以上は上司にかまうことなく視線を前方へと投げかけた。
トレイユらの一行――彼らを追うソランとモルガーヌもまた必然的に――が人通りの多い街道へと足を踏み入れてから、すでに二日が経過している。王都へと続く道はいくつもあるが、いずれの街道もそのあたりからは整備が行き届き、また行き交う者の数も格段に多くなってくる。
人目を避けて進むことは不可能だと悟ったのか、トレイユはどこかで馬車を調達し、そのせいもあって彼らの旅の歩みは順調すぎるほど順調だった。ひどく急いでいる、そういった印象を抱きかねないほど、それまでとは打って変わって先へ先へと馬車を駆るトレイユは、自身の命の終わりをはっきりと見据えているのかもしれない、とモルガーヌは思う。
ソランとモルガーヌはともに馬上に腰を据え、一定の距離を保ったままトレイユらの姿をその視界に捉えていた。
しかし、こうも長いこと後をつけられていてまったく気づかない、などということがあるのだろうか、とここのところのモルガーヌは疑問を隠せないでいる。その疑念はもちろんソランにも伝えてあるが、そのときの上司の返事は、ふん、というとうてい返答とは呼べぬ鼻息であった。
あるいはすべてがやつの計算のうえかもしれんぞ、と続いた言葉がただの揶揄であったのか、そうと見せかけた本音であったのかはいまだによくわからない。ただ、もしこちらの思惑がトレイユの把握するところとなっており、いまいる場所が彼の掌の上であったとしても、転んでもただでは起きぬソランは、敵の思惑に合わせて舞うその足で、彼らの腹積もりなど軽々と蹴り飛ばすつもりでいるのかもしれない。
「エヴラール殿下がどうかなさったのですか」
「王太子殿下の無事がわかった途端に、尋ねてもないことにまで答えるようになったとジュヴェが云って寄越した。王位継承者としての自身の価値を吊り上げる気でいるのか、あるいは誤魔化せぬ相手が戻る前にと焦っているのか」
いずれにしても、腹の中が読みづらいことはたしかだ、とソランはなにやら可笑しそうな笑い声を立てた。
ソランに宛てた王城からの連絡は日々欠かさず届けられており、そのおかげでモルガーヌもまた、東国の中枢部の動きをある程度把握することができている。
神ノ峰で遭難し、行方不明になっていたヴァレリーが、神ツ国から無事でいるとの知らせを寄越したことで、城内はおそらく騒然としていることだろう、とモルガーヌはもはやどこか遠くなってしまった場所を思った。
側近であるルクリュさまも、侍従であるマルケさまも、もちろんデジレさまも殿下のお姿を自らの目で確認するまでは、と彼のお方の無事だけを祈って日々を過ごされていることだろう。同時に、殿下の行方不明によって芽吹いたであろう政敵の萌しを摘み取ることにもお忙しくしていらっしゃるはずだ。
そして、それはきっと、エヴラール殿下も同じこと――。
エヴラール・ジェルマン・ラ・フォルジュという男の心に、ヴァレリーに対する敵愾心がないことは、モルガーヌのよく知るところである。エヴラールの侍女であったアニエス――彼女の姿はいつのまにか見かけなくなった――に近づき、彼の行動を逐一探らせていたことは記憶に新しい。
彼女の言によれば、エヴラール殿下は王太子殿下を敬愛し、またゆくゆくはその治世を支える意思も持っていたという。その言葉を疑う理由はどこにもなかった。
アニエスは器用な嘘をつけるような浅知恵の回る者ではなかったし、なにより彼女はモルガーヌのことを親切で頼りになるたったひとりの友人だと思っていた。あまり賢くもなく美しくもなかったアニエスは、実家の家格が高いばかりに王城勤めを余儀なくされた気の毒な貴族の娘で、容量の悪さゆえに親しい友もいなかったのである。
王太子殿下のご無事が明らかになったことによって、とモルガーヌは思考をエヴラールへと戻す。彼の殿下のお立場はふたたび微妙なものとなった。
ヴァレリーが行方不明であるあいだ、王位に最も近い存在であったエヴラールは、監察官の取調べを受ける身でありながら、同時に手厚く保護されなくてはならない立場にあった。
彼の罪はいまだ確定しておらず、その身分は第二位の王位継承権を保持する王族である。万にひとつも彼の身が害されるようなことがあれば、東国に国家としての危機を招きかねない。監察府はソランの指示のもと、王城警護騎士も顔負けの第一級の警備態勢でエヴラールの安全を保護していたと聞く。
だが、ヴァレリーの無事が判明したいま、エヴラールの立場はふたたび第二位の王位継承権者――つまり補欠――へと戻ったということになる。彼の身になにかがあったとしても、代替の効く身であれば、さほど大きな問題となることはない。つまりそれは、エヴラールの存在を疎ましく思う者――彼の証言によって窮地に陥ることとなるアドリアン・トレイユ――による刺客の接近を容易くする可能性がある、という意味でもあった。
「エヴラール殿下は、ご自身の身に危険が迫る可能性があることをご存知なのではないでしょうか」
「トレイユが刺客を放つと?」
ええ、とモルガーヌは頷いた。
「長官がおっしゃっておられたことですよ」
そうだったか、とソランはじつにすっとぼけたことを云った。
「そうだったか、ではありませんよ。エヴラール殿下の取調べの許可を得るにあたって、ルクリュさまをそう説得されたのだと、おっしゃっておられたではありませんか」
「そうだったかな」
ソランの顔は苦虫を噛み潰しでもしたかのように歪められた。なにかまずいことを云ったかしら、とモルガーヌはわずかに首を竦めた。
「当時はまだ、トレイユの真意には気づけていなかったからな」
云い訳でもするかのようにぼやくソランに、はあ、とモルガーヌは気の抜けた返事をする。
「エヴラール殿下の身にはさしたる危機など迫りはしない。彼がいらんことまでべらべら喋るようになったのは、それとは別の意味での保身を考えてのことだろう」
ご自身の価値を一番よくご存知なのはエヴラール殿下だということだ、とソランは皮肉げに云う。つまり、とモルガーヌは首を傾げた。
「エヴラール殿下はどなたからもお命を狙われてなどおらず、さらに云えば、醜聞に落ちた身を救うために悪足掻きをしていると」
悪足掻き、とソランは愉快そうに笑った。
「おまえも云うようになったな、カスタニエ」
そうだ、とソランは真顔になって続ける。
「悪足掻きだ。クザンとはえらい違いだな」
エヴラールと同じように囚われの身であるリオネル・クザンは、連日に渡る長時間の取調べや拷問まがいの詰問にもいっさい応じることなく、いまだに沈黙の中にいる。ソランの忠実なる腹心ジュヴェをもってしても、その口を開かせることは容易ではないらしい。
「なにかの役に立つかと泳がせておいた、例のジアンを城の地下牢にわざと忍び込ませたりもしてみたが、決して乗ってはこなかったそうだ。まったくたいした男だ、クザンというのは」
傲岸不遜が服を着て歩いているかのような監察府長官にここまで云わせるとは、クザンという男はやはり只者ではないのかもしれない、とモルガーヌは思った。
「あれがいまのいまにいたるまで口を割らずにいたために、トレイユを捕縛することもできなかった。だが、それももう終わりだ」
終わり、とモルガーヌは首を傾げた。
「では、クザンを?」
違う、とソランは部下の言葉を遮った。
「トレイユを泳がせておくのも、今日が最後だ」
長官、とモルガーヌは大きく目を見開いて息を飲む。
「では、いよいよ彼を捕らえると……」
そうだ、とソランは頷いた。
「ここへ来てようやく、風向きが変わったようだからな」
ありがたいことだ、と彼はどこか虚ろに呟いて、遠く空の果てでも探るような眼差しで前方を眺めやった。
監察府長官であるガスパール・ソランにとって、これほどの長きにわたりトレイユを追跡することとなったのは、完全なる誤算であった。
その要因はいくつかある。
まずひとつは、トレイユの真意が王家の転覆にはなかったということ。旅の途上、モルガーヌとともに導き出した結論に間違いはない――トレイユは彼自身の忠誠を果たすべく、王都に向かって歩んでいる――と、ソランは考えている。
いまひとつは、トレイユがユベール・シャニョン率いる叛乱勢力に加担したという証拠を、一向につかめずにいること。叛乱の首謀者がひとりリオネル・クザンにすべてを自供させ、その証言をもとにトレイユを捕らえるつもりだったのだが、クザンは思いのほか強情だった。
思い立ってジュヴェに調べさせてみれば、クザンには過去に投獄歴があり、当時も相当な強情で取り調べに当たった官吏を悩ませたと記録されていた。ひどい拷問にも屈することがなかったというから、これは手強い相手です、と日ごろは頼りになる秘書官は、そのときばかりは余計なことを云っていた。
誤算の要因の最後のひとつは、捕縛されたいまひとり、エヴラール・ジェルマン・ラ・フォルジュまでもが、当初、聴取に素直に応じなかったことである。
王城を出立する間際、王太子の側近であるオリヴィエのもとを訪れ、エヴラールの身柄を監察府で引き受けたのは、彼の身の安全を確保するためだけではなく、彼の口からトレイユが叛乱に加担していたとの証言を得るためでもあった。
どんな手を使ってもいいとジュヴェに命じ、クザンとエヴラールのふたりからなんとしてもトレイユの名を引き出し、それを根拠に彼の老将軍を捕縛する。
それがソランの思い描いていた、このたびの騒乱を治めるための青写真だったのだ。
だが、クザンもエヴラールも強情だった。それだけではなく、トレイユは王家に対する叛意など持ち合わせてはおらず、ソランの思惑は完全に外れた形となってしまった。
明確な証言あるいは証拠を得る前に王城を出てきた自身の行動は、いささか軽率に過ぎたかもしれない、と彼は珍しく内心で後悔しはじめていた。
だが、トレイユの相手を新人監察官であるカスタニエひとりに任せるわけにはいかなかったし、地位も名誉も立場もある大将軍を捕縛するのに彼女ひとりでは、あまりにも役者が不足している。エヴラールあるいはクザンのいずれかは早いうちに落ちるだろう、とそう見込んでソランは旅路に就いたのだが、なかなかうまくはいかなかった。
旅が長引くにつれ、理由としてはやや心許なくはあるが、オリヴィエから聞いたエヴラールの話――その話はさらにオリヴィエが王太子から伝聞したことであり、信憑性という意味ではあまりにも脆弱だ――をもとに、トレイユに縄をかけてしまうか、と迷ったことも一度や二度ではない。
いや、とそのたびにソランは自信を戒めた。――いまは耐えろ。耐えるときなのだ。
クザンには、ジアン――と、その背後にいるはずのユベール・シャニョン――を使って揺さぶりをかけている。
エヴラールとその周囲には、厳重な身辺警護と多少の自由を与えて懐柔を図った。
王城に残してきた部下はセレスタン・ジュヴェをはじめ、みな優秀な者たちばかりだ。彼らの腕と自分の目を信じて耐えるのだ。
それに、ソランにはトレイユの捕縛のための最後の手段が、まだこの期に及んでも残されていた。
トレイユが叛乱勢力に加担していた証拠は見つかっていない。
しかし、国の最北を守るべき北部守備隊将軍が王命もなしに登城することは、決して褒められたことではない。おまけにトレイユは三十名からの手勢を率いており、彼らはみな重武装している。その意図を――あえて――曲解し、罪に問うことは、そうむずかしい芸当ではない。
ソランは、少しばかり先を行くトレイユの乗った馬車を睨むようにして、双眸を眇めた。
そうはいっても、いかにもとってつけたような理由で、国の重臣たる北部守備隊将軍を捕縛することは避けたいところだ、とソランは考える。トレイユの真意はいまだ明確になったわけではない。
モルガーヌとともに組み立てた推測におよそ間違いはないと思ってはいるが、しかし、推測はあくまでも推測にすぎない。身柄を押さえ、その口に語らせてはじめて、真実は明らかになる。
王太子殿下の生存が明らかになり、帰国の時期もおおよそ知らされている。それはまさに僥倖であった、と本来とは異なる意味で、ソランは喜んだ。
むろん、ヴァレリーの無事に安堵する気持ちがないではない。だが、それよりもなによりも、ソランにとっては、膠着状態であった事態が一気に動き出したことに対する喜びのほうが大きかったのだ。
「今日の午後、応援を率いたジュヴェと合流する」
ソランはモルガーヌを見ることなく、ごく短く告げた。
「応援?」
「三十人からを一網打尽にしようというのに、おまえとふたりではいかにも心許ないからな」
いよいよトレイユに縄をかけるのだとソランは云っている。
「罪状は?」
「王家に対する叛逆の罪。国家を騒乱に陥れた罪」
言葉を失ったかのように声ひとつ上げないモルガーヌをちらりと見遣ったソランは、迷うか、と問いかけた。
「トレイユの真意が別のところにあるのではないか、と最初に気づいたのはおまえだ。彼を捕縛してよいものかと、そう迷うか」
モルガーヌはなおも答えない。
「どうだ、カスタニエ。答えろ」
返答によってはおまえを人員から外さねばならん、とソランは続けた。モルガーヌは弾かれたような勢いで顔を上げた。
「迷います」
モルガーヌの声は震えている。ソランは薄灰色の瞳に酷薄な光を乗せ、彼女をじっと見据えた。
「よく考えろ」
「迷います」
モルガーヌはきっぱりとした口調で答え、そして続ける。
「迷いますが、命令には従います。トレイユを捕らえよというのであれば縄をかけ、殺せというのであれば剣を抜きます。躊躇いはしません。絶対に」
ソランはしばし瞠目してモルガーヌの顔を見つめた。
「それが差し当たっての私の正義です」
己の正義を持て、と長官はおっしゃいました、とモルガーヌは云った。
「命令には従う。それが私の正義だと決めました」
「自ら考えることを放棄すると?」
長官のこの揶揄するような口調と表情は不満の表れなのだろう、とモルガーヌは思った。高圧的な態度を得意とするくせに、それに屈する者を莫迦にするところが、いかにも長官らしい。
モルガーヌとて、なにも云われたことにただ従うだけの官吏になどなりたくはない。けれど、云われたことすら実行できないような役立たずでいることはもっと悪い。
トレイユの身柄を捕縛することに忸怩たる思いはある。できることなら彼の云い分を聞き、国王との和解を図ることができれば――。
だが、それは己の領分ではない、とモルガーヌは気づいたのだ。
自分に見えなかったものが多くあるように、国王やトレイユにも見えないものはある。それゆえの判断の誤りも。
でもそれは、本当に誤りなのだろうか、とモルガーヌは思った。
侍女には侍女の、監察官には監察官の正義があるように、国王には国王の、トレイユにはトレイユの正義がある。
どちらが間違いということはない。ただ立場が異なるだけだ。
いがみあうことは悲しい。争い、憎みあい、陥れあうことも。互いに相和し、手を差し伸べあうことができれば、それがなによりではないか。
けれど、そうすることができないときもある。それぞれに背負うものがあり、使命がある。なにがあっても失い、損なうわけにはいかないものだ。
陛下は国王であることをやめるわけにはいかず、トレイユが自らの忠誠を正しいと信ずる限り、ふたりが手を取り合うことはないだろう。
互いの手は取らないと決めた。
それが、陛下とトレイユの正義なのだ。
争うことはよくないと、どちらかの正義から目を背けて形ばかりの宥和を押し付けたところでどうなるのだ。
たとえば国王に過ちを説き、トレイユの諫言を受け入れてはどうか、と。
たとえばトレイユに傲慢を教え、国王に絶対の従順を誓わせてはどうか、と。
そんなことはできない。誰にも。
私にも――。
己と異なるものを前に、それは違う、と云わずにいられる者は少ない。なにかを受け入れることが己の否定になると考えるとき、受け入れることそのものを、そしてその相手を拒むのは、生きる者の本能のようなものだ。
私もずっとそうだったではないか、とモルガーヌは思う。
納得することのできない意見は受け入れられなかった。どうしてもなにかを飲み込まねばならないときは、無理やりにでも理屈をつけて飲み込んだ。
その理屈こそが――、忠誠。
いまもなおモルガーヌの中で揺らがぬ王家に対する絶対の忠誠は、理不尽と思われる命令を飲み下すための、後付けの理屈にすぎなかった。
哀れなエリシュカをヴァレリーの寝所に押し込んだときも。
彼女の必死の抵抗を冷たい言葉ひとつで封じ込めたときも。
逃げたエリシュカを追うために侍女の地位を辞したときも。
実家で父と兄に相対し、監察官となったことを咎められたときも。
自分はなにもかもに納得しているのだと、いままさになそうとしていることは王家への忠誠を示す証だと、そして、その忠義に生きることこそが己が望みだと、モルガーヌはずっとそう思ってきた。――そう思わねばやってこられなかった。
王家に対する忠誠に嘘はない。
モルガーヌはエリシュカのことをたしかに敬愛していた。なにごとにつけ気弱な態度であった彼女が城から逃げ出すなど、よほどのことだとわかっていたし、できればあのまま自由にしてやってもいいのではないかとも考えた。
それに侍女の職を誇りに思ってもいた。監察官となるためにその地位を諦めなければならなかったことには、いまだに忸怩たる思いがある。実家の父に泣きつき、兄に甘えて、実家に引きこもってしまいたいと思ったことがないといえば、それは嘘だ。
だが、忠誠とは異なるそうした自身の想いを封じたのは、いつも命令だった。王太子ヴァレリーの、あるいは監察府長官ソランの、絶対の命令。
はい、と肯い、かしこまりました、と従いながら、しかし心のどこかにはいつもかすかなひっかかりがあった。――いいの、本当に。これでいいの。
それを言葉や態度に表すことはできなかった。命令があったから。
自分ですべてを選び取ってきたような顔をしながら、私はただ云われたことに従ってきただけなのだ。これまでずっと。自ら考えることを放棄する、というのなら、これまでの私こそそうだったのだ。
「答えろ、カスタニエ」
ソランは焦れたような声を上げた。モルガーヌは怯えも焦りもない、穏やかな表情で上司を見上げる。
「いずれにしても同じことではないのですか」
「なにがだ」
「私がなにを考えようと、考えなかろうと、長官は私をご自身の思いどおりに動かす。ならば、そこに私の意志など不要なのではないのですか」
「俺は傀儡になど興味はない」
でも、とモルガーヌは肩を竦めた。
「いまの私は傀儡以下です」
「なに?」
「云われたことにすら、理屈をつけねば従うことができなかった」
そして半端な真似をして、結局は大事なものを守ることができなかったのです、とモルガーヌは云った。――侍女の職。古い貴族の娘としての誇り。ヴァレリーやデジレの信頼。エリシュカ。ほかにももっとたくさんのなにか。
「こんな私のままでは、命を賭けて王家への忠誠を示そうとしている将軍に対し、縄をかけたり取調べをしたりすることなど、到底できない。ですが、私は監察官です。これからも監察官であり続けたい。どんな非難を受けようと、自分自身の感情と相反しようと、一度従うと決めた命令には従う。その命令の是非を考えるのは、少なくともいまの私の仕事ではない。そう考えました」
不条理も理不尽も一度は飲み込むと決めた。
監察官としての正義、官吏としての正義、モルガーヌ・カスタニエとしての正義。そうした数多の正義の狭間で、私はこれから心をすり減らしていくのだろう、とモルガーヌは思う。
けれど、そうして心を押し潰され、大事なものを叩き壊され、絆を切り裂かれたその果てにこそ、本当の望みが見えてくるのではないか、とも思う。
決して手放したくない、――なにかが。
「いまの、おまえね……」
ソランの双眸がすうと細められる。モルガーヌはたじろぐことなく頷いた。そんな彼女のしばらく見つめていたソランは、やがて笑みの形に唇を歪め、せいぜい楽しみにすることにしよう、と云った。
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