18

 もうそろそろ来てもいい頃だと思うんだけどね、とオルジシュカが呟いたのは、いまを盛りと茂る膝丈ほどの草原が見渡せる小高い丘の上だった。オルジシュカとエリシュカを隠す木陰や岩陰はあたりになく、遠く隣の丘を越えたあたりからでもふたりの姿を容易に見つけることができるような場所だった。

 草原を抜ける風に紅い髪をたなびかせ、まっすぐに前を見つめているオルジシュカは誰かを待ってでもいるのか、先ほどから言葉を発しない。紅い瞳には彼女にしか見えない風景が広がってでもいるのだろうか、エリシュカのことなど見向きもしなかった。

 いったい何者なんだろう、とエリシュカはひそかな不安を胸に、オルジシュカをそっと見遣った。こんなところまでついてきて、何者だろう、もないのだが、そんなことはいまさらである。

 長い旅の途上にあるというオルジシュカは、云われなければそうとはわからぬほどの軽装である。エルゼオの魔の手から助けてくれたときにエリシュカの身体を隠してくれた軽い外套の下は、簡素なシャツに太腿の半ばほどまでも露わにするような短いパンツ、脹脛の中ほどまでの長靴ブーツ。腰には小さな革袋と短刀がふた振り括り付けられている。長く豊かな髪はとくに結われることもなく、化粧っ気もほとんどなかった。

 女といえば、できるかぎり肌を見せることのない衣装を身に纏い、髪を結い上げ、美しく化粧している者たちしか知らぬエリシュカの目に、オルジシュカの姿はひどく鮮やかなものに映った。

 オルジシュカの口のきき方は乱暴といえるほどにぞんざいで、到底高い身分にあるとは思えない。しかし、暮らしに困窮した者に特有の荒れた雰囲気は微塵もなく、おそらくなにがしかの職をもって暮らしを立てているのであろうが、髪も結わずにできる仕事など、エリシュカには想像もつかなかった。

「……来たな」

 不意にオルジシュカが呟いた。

 オルジシュカと同じ方向へ視線を向ければ、隣の丘の麓あたりを全力で駆けてくる一騎がある。白に近い月毛に跨った小柄な人影はふた呼吸ほどのあいだに、すぐ傍まで迫ってきた。

「オルジシュカ!」

 変声期を迎えた年ごろに特有の通りの悪い声を上げた少年は、褐色の肌と幾重にも布を巻いた頭とがひどく特徴的で、エリシュカの目を引いた。

「フェリシアーノ」

 少年はオルジシュカとその隣に申し訳なさそうに佇むエリシュカとを交互に眺め、誰、と短く尋ねた。

「あたしの連れさ。来る途中で拾ったんだよ」

 オルジシュカの言葉に、フェリシアーノは暗赤色の瞳を細く眇めてエリシュカを無遠慮に眺め回した。そうするうちにエリシュカという存在を無害なものと――あるいは無力なものと――判断したのか、つまらなさそうに鼻を鳴らし、わかった、とまた短く答えた。

「こっち」

 ついて来い、と云うでもなく、フェリシアーノはいきなり馬の腹を蹴った。彼が駆る月毛は驚いたように走り出し、あっというまに遠ざかっていく。エリシュカはあっけにとられ、オルジシュカに向かって大きく瞳を見開いてみせた。

「ぼやっとしてないで。あたしたちも行くよ」

 オルジシュカが手綱を引くのを見て、エリシュカも慌ててそれに倣う。遥か先を行くフェリシアーノの背を追って、ふたりはそれぞれに馬の腹を蹴った。

 オルジシュカとの出会いによって大きく変わったエリシュカの旅は、いよいよその行く先さえもわからぬものとなってしまった。にもかかわらず、いまのエリシュカには不安というものがほとんどない。

 エルゼオやシルヴェリオに騙されたばかりだというのに、その教訓が活かされていないのか、と自分にあきれながら、しかし、エリシュカにはただそればかりではないような気がしていた。

 上手く云うことはできないのだが、オルジシュカからは邪な気配がしない。冷酷なシルヴェリオの振る舞いを知っても彼を咎めたりはしなかったことから、オルジシュカ自身、そうした冷たさと無縁ではないことが容易に知れる。

 女のひとり旅をそれなりに安全に行くには、ある種のずる賢さとも無縁ではいられない。エリシュカはそのことに気づきはじめていたし、だからだろうか、とくに不愉快にも思わなかった。

 そうか、とエリシュカははたと気づく。オルジシュカは似ているのだ。ろくな思い出のないあの東国王城で、わたしに親切にしてくれたジスランやソフィに。最後の最後までなんの見返りも求めずに手を貸してくれた彼らに。

 ジスランやソフィは、ことさらにやさしい言葉をくれたりはしなかった。分を超えた親切を施すこともしなかった。仕事には厳しく、そこに甘えは許さなかった。

 それでも。――それでも。

 彼らはとても、やさしかった。

 エリシュカをエリシュカとして認め、未熟な彼女をいつでも助けてくれた。

 神ツ国からともにやってきたシュテファーニア付の侍女たちにエリシュカが虐げられていたとき、真っ先に手を差し伸べてくれたのはソフィだった。

 読み書きのできなかったエリシュカに、最初にそれを学ぶ場所を提供してくれようとしたのはジスランだった。

 城から逃げ出すための滅茶苦茶な頼みをなにも訊かずに引き受けてくれたのも、最後までエリシュカの身を案じてくれたのも、彼らだ。

 ジスランやソフィからは、誰かを傷つけるために傷つけるような邪な気配がしなかった。

 オルジシュカは彼らに似ている。

 エリシュカは、二馬身ほども先行するオルジシュカの背中をじっと見据えた。

 信じる、というのとも違う。好ましく思う、というのとも違う。それでも、オルジシュカについて行くことに間違いはないはずだ、とエリシュカは思った。


 緩い起伏が続く草原を、オルジシュカと彼女がフェリシアーノと呼ぶ少年の背を追って走ること、小一時間ほども過ぎた頃だろうか。フェリシアーノとオルジシュカが馬の手綱を引き締めた。遅れていたエリシュカは、テネブラエの脚を徐々に緩めさせながら、やがてふたりに並んだ。

「ほんとにいいの、オルジシュカ」

 フェリシアーノの問いかけが、自分についてのものだと察したエリシュカは、わずかに身を硬くしてオルジシュカの言葉を待った。オルジシュカは笑った。

「いいも悪いも、ここまで来たら同じだろう」

 そうでもない、とフェリシアーノは答えた。

「こっから先に進むってことは、うちの親分の、海猫旅団の客分になるってことだから」

「アルトゥロはそんな小うるさいことは云わないだろう?」

 オルジシュカの言葉にフェリシアーノは鋭いひと睨みで応じる。オルジシュカは肩を竦め、わかったよ、と答えた。

「エリィ」

 呼びかけられたエリシュカは、オルジシュカの紅い瞳をまっすぐに見返した。オルジシュカはかすかな苦笑いを浮かべてから続けた。

「この先で見聞きしたことは他言無用だよ」

 はい、とエリシュカは迷わずに頷いた。

「ここまでの道も」

 口を挟んだフェリシアーノにも、はい、と素直に応じる。

 もっとも、これから先どんな秘密を見せられようともエリシュカにはそれを云い触らすような相手などいないし、ここまでひたすらにオルジシュカの背を追って来ただけなので、道順などろくに覚えておらず、誰に問われても答えられるはずがない。

 だが、フェリシアーノが聞きたいのは理屈などではないのだろう、とエリシュカは思った。彼はただ、秘密は守る、という言質を取りたいだけだ。

「誰にも云いません」

 ふん、とフェリシアーノは鼻を鳴らした。オルジシュカが妙なものを拾ってくることは珍しくないけれど、この娘はまた格別だ、と彼は思った。可憐に過ぎる容姿や素直に過ぎる言動を見れば、いかにも世間知らずなお嬢さまにしか思えないが、このオレの顔を無遠慮にじろじろと眺めたり、云いたいことがありながら静かに肚に溜めたりしているさまを見ると、ただやわなばかりではないやつのようにも思える。

「ならいい」

 フェリシアーノは短く云い捨て、馬から降りた。ここから先は徒歩で進むらしい。フェリシアーノに倣ったオルジシュカの真似をしてテネブラエの背から降りたエリシュカは、未知の場所へ進む不安を覗かせるテネブラエの首筋をそっと撫でてやりながら、大丈夫よ、と囁いた。

 フェリシアーノと呼ばれる彼は、わたしに害をなしたりはしないはずだ、とエリシュカは思う。害をなすほど、彼はわたしに関心を持ってはいない。

 オルジシュカやフェリシアーノの態度に触れたエリシュカは、出会った当初からエルゼオらに感じていたささやかな違和感の正体に気づきはじめていた。――やはり、彼らは親切すぎたのだ。

 ジーノが声をかけてきた時機タイミングがあまりにも絶妙だったために、深く考えることなくつい流されてしまったが、そもそもあれだっておかしな話なのだ。

 露店の女主人に粗悪な食べ物を売りつけられそうになっているまぬけな女が目の前にいたとしても、普通は見て見ぬふりをするものだ。並べられていた見本とは似ても似つかぬものであったとしても、女主人はなにも傷んだものを売りつけようとしていたわけではない。彼女はそこまで悪辣ではなかった。

 あの露店の近くに店を構えていた者たちも、あの市場をよく利用する者たちも、彼女の商いはよく心得ていたはずだ。悪質と云えば悪質だが、それで人死にが出るわけではない。騙されるやつが悪いのさ、そう云って笑ってすませてしまえる程度の悪行でしかなかったはずだ。だから決して手を出さずに、見て見ぬふりをしていた。彼女が誰かを騙すことにも口を出さず、さりとて彼女に騙される者を助けるでもなく――。

 あの露店で食べ物を求めるのは、なにも知らぬ旅人ばかり。しかも二度めはない。女主人はいつか商いに行き詰まり、食い扶持を失うだろう。それは、あの市場における暗黙の了解であり、そして同時に露店の女主人自身が弁えている道理でもあったのだ。

 旅慣れたエルゼオに連れられて街々を巡っていたジーノは、たとえあの市場を訪れること自体がはじめてだったとしても、悪質な露店を見破ることくらい簡単だったはずだ。そして、よほどのことがない限り――それこそ自身が被害にでも遭わない限り――他人の商いに口を出すことがご法度であることも承知していたはずなのだ。

 ジーノはそれを破った。

 だからあの露店の女主人は怒り狂っていたのだ。エリシュカひとりから金をもらいはぐれたことだけが理由ではない。ジーノが商人同士の不文律を犯したからこそ、金切声を上げて憤った。

 そんなふうに他者の激しい怒りを買ってまで、見ず知らずの誰かを助けてやる義理などあるはずがない。――なにがしかの見返りを期待しない限りは。

 そうやって手を差し伸べ、食事を供し、宿の面倒までみてやることの不自然を見せつけられていながら、彼らの目的を疑いもしなかった自分はなんだったのだろう、とエリシュカはここではじめて自分の愚かさを恥じた。

 旅の道連れとなってからのこともそうだ。

 彼らはなにかとエリシュカのことを気遣ってくれた。街門を抜けるときも宿に部屋を取るときも、エリシュカに不便を感じさせなかった。彼らと道行をともにすることの便利を単純に喜んだエリシュカは深く考えることもしなかったけれど、それだっておかしな話だったのだ。

 衛士の前を通るたびに身体を強張らせるエリシュカを、彼らが不審に思わなかったはずはない。まるで旅に慣れていないエリシュカは、彼らに面倒をかけることも多かった。彼女を連れて旅をすることが自分たちにとって不利になりこそすれ、決して有利にはならないと知りながら、エリシュカとの同道にこだわったのは彼らのほうだった。

 そうやって考えればおかしなことばかりだった、とエリシュカはオルジシュカとフェリシアーノの背中を追って歩を進めながら唇を噛んだ。

 そして、なによりもジーノの言葉。

 なんで気づかなかったの、とエリシュカは悔しくてたまらなくなる。

 その日の寝床としようとしていた宿に、賊が押し入ったことを知っていて動揺したエリシュカを前にして、ジーノはこう云ったのだ。――エリィなんかいい鴨だぜ。ひとりで宿に駆け込む可愛い顔した若い女、健康そうで、清潔そうで、おまけにいい脚まで持ってる。

 その、いい脚、がテネブラエを示すのだということくらい、エリシュカにだってすぐにわかった。だけど、それこそがおかしな話だったのだ。市場でジーノと出会ったときのエリシュカは、テネブラエを連れていなかった。すでに街が営む公共の厩に繋いだあとだったからだ。

 街門をくぐってすぐに目をつけられていたと知ったいまならば、ジーノのあの言葉が大層な失言だったということはすぐにわかる。だが、そうと知らなかったあのときにも、エリシュカは不審に思うべきだったのだ。――市場で偶然知り合ったはずのあなたが、なんでわたしがよい馬を連れていると知っているの、と。

 考えてみればおかしなことばかりだった。騙されるおまえが悪い、と罵るシルヴェリオに返す言葉もない。

 知らなかったのだ。

 そう云えば許されるだろうか、とエリシュカは、さきほどのフェリシアーノの暗赤色の瞳を思い出しながら、そんなことを考えた。

 ――わたしはなにも知らなかった。

 この世のほとんどの人たちは、わたしに関心など持ってはいない。それは粗末に扱われることとも、悪意を向けられることとも違う。

 ただ、どうでもいいのだ。わたしの喜怒哀楽も、運も不運も、災いも幸いも、どうでもいい。無関係なのだから。すれ違っても互いを振り返るでもない縁もなき他人同士、あるいは、ただ一度きり金と物とをやりとりするだけの他人同士、互いに向ける深い関心などあるはずもない。

 わたしはそんなことさえ知らずにいた。だって、これまでそうではなかったから。

 神ツ国にいたときにも東国にいたときにも、その形は違ったが、エリシュカはいつでも他人から関心を寄せられる存在だった。神ツ国にいたときには珍しい女の厩番として、東国にいたときには王太子ヴァレリーの情人として。

 旅に出たエリシュカは、ただのエリシュカだった。誰からもなんの関心も寄せられることのない、ひとりの女。

 そうだ、とエリシュカは思う。先ほどのフェリシアーノの目が正しい。一瞬でエリシュカを値踏みした彼は、彼女を無害なもの、無力なものと判じた。そうしていっさいの関心を失くしたのだ。

 フェリシアーノが云うところの海猫旅団がなにを指すのか、エリシュカにはわからないが、それはきっと彼が属するところの何某かなのであろう。フェリシアーノはそこの遣いとして、オルジシュカを迎えに来たのだ。

 もしもエリシュカに、フェリシアーノに危機感を抱かせるほどのなにかがあったのなら――才覚でも武力でも、あるいは魅力でも――彼はきっとエリシュカを排除にかかったであろう。決して、こんなふうに無防備にエリシュカを導いたりはしなかったはずだ。オルジシュカのとりなしがあったとしても、いまよりももっとずっと警戒したことだろう。

 フェリシアーノはこう考えたのだ。もしもこの得体の知れない女が自分に刃向かってきたところで、簡単に返り討ちにすることができる、と。

 だからフェリシアーノはエリシュカから関心を逸らした。

 それこそがわたしに対する正しい認識だ、とエリシュカは思う。わたしはなにもできない。誰かの悪意を見抜くこともできず、悪意を向けてくる誰かと戦うこともできない。わたしをおそれる者など誰もいない。

 云い方を換えるならば、それはつまり、わたしは取るに足らぬ存在だということだ。

 わたしはそのことを知らなかった、とエリシュカは思う。エルゼオたちから与えられた過剰な親切を警戒することもできなかったのは、そのせいだ。

 わたしは莫迦だ、とエリシュカは思った。

 自分の力ではなにひとつできもしないくせに、人の親切に縋るばかりの愚か者だとシルヴェリオに罵られたときは、あまりの屈辱に泣きたくなった。神ツ国にいたときでさえ、あれほど悪しざまに云われることは稀だった。

 けれど、シルヴェリオの指摘は紛れもない真実だったのだ。

 フェリシアーノの態度が、これまでのわたしの愚かさを、シルヴェリオの言葉の正しさを教えてくれた。

 わたしは莫迦だ、とエリシュカはまた思った。こんな簡単なことにいまごろになって気づくなんて。

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